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雨歌恋歌
2話
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土曜日は雨だった。昨夜の夕方から怪しい雲の流れを見せていたが、夜中から本格的に降りだした。
「雨は空の涙」だと言った人間は詩人だ、と美桜は窓にくっついて止みそうにない雨をぼんやりと眺めていた。布団を干したかったのだが残念ながらこの雨では不可能だ。キッチンタイマーに呼ばれて、美桜はIHコンロにかけた圧力鍋の火を止めた。粗熱が取れたらタッパーに移して持って行こう。そう考えながら、美桜はそろりとスマートフォンを覗いた。
『こっちも雨。そろそろアイツ帰国するから止んでくれないと五月蠅そう』
彼の呆れ果てた顔が目に浮かぶ。たったこれだけのメッセージでも繋がっていると感じるだけで表情が希薄な美桜の胸も高鳴る。しかし、同時に軋む。十年以上捨てきれない想いは色んな形に変質してしまって、もはや原型が解らない。彼の心には絶対に住めないと何度も思い知らされてきた。この一文からも彼が案じるのは美桜ではないとありありと伝わってくる。
「……ごめんなさい」
聞こえるはずがないのを良いことに、美桜は小さく懺悔する。雨はまだ止まない。休日は何をして過ごそうか。買い物も億劫だが、行かなければとゆったりと着替えを始めた。
インターフォンが鳴ったので扉を開いてみれば、今日はちゃんと傘を持った美桜が立っていた。珍しく、と言うほど顔を合わせてはいないが白いロングスカートが眩かった。
「こんにちは。これ、豚の角煮……作ったので良かったら食べてください」
「あー……ありがとうございます。律儀ですね。じゃあありがたく頂きます」
「お口に合うことを願ってます。――じゃあ」
渡すだけ渡すと踵を返した彼女を圭輔は急いで呼び止めた。
「はい」
「今から買い物ですか?」
「そうです」
「……その、もし予定が無いなら、帰りにうちで飯食いませんか? 一人で食うのは寂しいと言いますか……」
言葉尻がはっきりとしない圭輔は照れ隠しなのか、きまりが悪いのか、視線を逸らして頬を掻いた。
「私で良ければご相伴に預からせて頂きます。じゃあ家に荷物を置いたらまた伺いますね。なにかご入用な物があれば一緒に買ってきますよ」
「そうっすね。じゃあ、酒。うちにはビールか発泡酒しかないので、神崎さんがお好きな酒を選んできてください」
「わかりました」
短く答えると、美桜は白いスカートを靡かせて深い青の傘をさして行ってしまった。その背を見送ってから呟く。
「何やってんだ、俺」
圭輔はなぜ彼女を酒盛りに誘ったのかと自問自答を繰り返していた。
誘った側のくせに彼女が来ることをそわそわと落ち着かずに待っていたら、一時間後に再びインターフォンが鳴った。おそるおそる顔を出すと、彼女は無表情ながらどこか勝ち誇ったように大吟醸の大瓶を示してみせた。
「酒屋のおじさんが、お客さんが少ないからって大サービスしてくれました。大量生産しない蔵元の希少な日本酒がなんと三千円ぽっきりです」
「……神崎さん、酒強いんすね」
表情はまったく動いていないが、彼女が嬉しそうなのはとても伝わってくる。酒瓶をさも大切に抱いて「お邪魔します」と敷居を跨ぐ。
「酒乱……じゃないですよね?」
「どちらかというとザルです。酔っても赤くなるだけなのでご心配なく」
今度はキリッと表情が引き締まるのを感じた。見た目はやはり変わりないが、神崎美桜は空気で感情を語るのかと圭輔は、彼女の新たな一面を発見した。
「熱燗にします?」
「いえ。もったいないので、冷で頂きます」
気が利くことに美桜は圭輔が角煮を皿に移していると、買い物袋から取り出した材料で簡単なつまみを手早く作ってくれた。「こういうところは素早く動けるのか」と口には出さすに感心してしまう。
「揚げ出し豆腐だけは御惣菜ですよ。作ると時間がかかるので……申し訳ないです」
「いや、五品も作ってくれたら充分す。俺、柿ピーとか出すつもりだったから」
「せっかくですから、柿ピーは置いておいてください。今度、それを使って唐揚げ作ってきます」
「え!? これ、お菓子っすよ? どうやったら唐揚げになんの!?」
「砕いて衣にするんです。美味しいですよ。ピーナッツも粗く砕いてディップソースにしたり……使い道は某料理アプリを見れば無限大です」
「俺のお袋よりも神崎さんの方が料理上手っす。今、彼氏はいないんですか?」
さりげなく核心を突く。まるで誘導尋問だな、と圭輔は自嘲する。美桜の答えは明確だった。
「いませんよ。大家さんは……訊くまでも無いですか?」
「ええ、ご覧の通りです。長続きしないんですよね、俺」
美桜の作ったつまみを並べ、舌鼓を打ちながら自動的にそんな話題に入って行った。つまみはどれも美味かった。圭輔としてはメイン料理だった豚の角煮も脂がクセも無くとろとろと溶け甘味が残る。胃袋掴まれそうだと頭の中で警戒警報が明滅する程度には美味い。
肝心の美桜も大吟醸のおかげで少々赤くなりながら、時折箸を動かしていた。
「これ、いい肉なんじゃないすか? めっちゃ美味しいですよ」
「普通の商店街のお肉屋さんで買ったお肉ですけど、たぶん新鮮だからじゃないですかね。綺麗なピンク色だったもの」
「神崎さんは料理で男を落とせそう」
「残念ながら本命は絶対に落ちてはくれない人を選んじゃうんですよね、私」
「どういう意味?」
「もう十年片想いです。しかも親友の彼氏。もうすぐ旦那様になる先輩なんです」
「せ、切ない……。その間に彼氏は?」
「二人ほど居ましたけど……大家さん同様長続きしませんでした。示し合わせたかのように『何を考えているか解らない』って去って行きましたね。何を考えてるかって、正直に言うと何も考えていないのがほとんどなんですけど」
笑ってはいけないとは思ったが、アルコールのせいか圭輔は必死で笑いを噛み殺した。「肩が揺れるので丸わかりです」と少しいつもよりも目をすわらせた美桜が圭輔に噛みつく。
「ごめん、ここまでストレートに話せるのって悪友以外にあまりいなくてさ。――俺も似たような感じ。『大事にされている感じがしない』って言われてフラれんの。まあ、女の人があんまり好きじゃないから、大事にできなくて当たり前だよなあ」
「大家さんは男性の方がお好きな性癖とか」
「断じて違う。これは名誉の為に覚えておいて欲しいんだけど、俺は女の子が恋愛対象」
「でも女性苦手だと。……お互い複雑ですね」
やや前のめりになりながら力説する圭輔に、大吟醸を口にしながら美桜が纏める。そう、複雑なのだ。すっかり食べつくしたテーブルに雪崩れるように圭輔は頭を置いた。
「俺の場合は姉貴が三人も居て、しかも全員男勝りで、子供の頃から奴隷にされてきたから彼女にも夢を抱けないっつーか……ところで訊き忘れてた。――神崎さんっていくつ?」
「二十九です。三十路へのカウントダウンが始まっております」
「一つ上かあ。気がついたら敬語取れてました。すみません」
「お気になさらず。年齢なんてただの数字ですよ」
彼女が凛々しく言い放つポイントがよく解らないなあ、などと考えながら圭輔は少々眠気を感じてきた。顔は火照っているので顔をテーブルにくっつけている部分がぬるくなってきている。
「……恋愛って、難しいっすね。なんで皆、とんとん拍子に結婚できるんだあ?」
これに対する美桜の答えを聞かずに圭輔は寝息を立て始めた。せめて答えを聞いてから寝るんだったと眠りながらも脳だけは動いている気がした。
◇
翌朝、圭輔が目を覚ますとテーブルの上はすっかり綺麗に片付けられ、圭輔にも薄手のタオルケットが掛けられていた。急いで時刻を確認すると九時を周ろうとしている。
「あちゃー……寝落ちたか」
二日酔いにはなっていないが、テーブルの上にまた視線を戻すとあの和歌のような文字でメモが一枚とコップに入った水が鎮座していた。
『キッチン、勝手にお借りしました。二日酔いにはお気をつけて。楽しかったです』
彼女らしい簡素な内容だったが、さりげない気遣いに圭輔の脳内警報は本格的に警鐘を鳴らし始めている。
「でもなあ……十年の片想いに勝てる気しねえって……」
さっき顔を上げたばかりだというのに、圭輔はまたぬるいテーブルに頬を当てた。
今日も生憎の雨だ。しかし、昨日よりは幾分か小雨である。
to be continued...
「雨は空の涙」だと言った人間は詩人だ、と美桜は窓にくっついて止みそうにない雨をぼんやりと眺めていた。布団を干したかったのだが残念ながらこの雨では不可能だ。キッチンタイマーに呼ばれて、美桜はIHコンロにかけた圧力鍋の火を止めた。粗熱が取れたらタッパーに移して持って行こう。そう考えながら、美桜はそろりとスマートフォンを覗いた。
『こっちも雨。そろそろアイツ帰国するから止んでくれないと五月蠅そう』
彼の呆れ果てた顔が目に浮かぶ。たったこれだけのメッセージでも繋がっていると感じるだけで表情が希薄な美桜の胸も高鳴る。しかし、同時に軋む。十年以上捨てきれない想いは色んな形に変質してしまって、もはや原型が解らない。彼の心には絶対に住めないと何度も思い知らされてきた。この一文からも彼が案じるのは美桜ではないとありありと伝わってくる。
「……ごめんなさい」
聞こえるはずがないのを良いことに、美桜は小さく懺悔する。雨はまだ止まない。休日は何をして過ごそうか。買い物も億劫だが、行かなければとゆったりと着替えを始めた。
インターフォンが鳴ったので扉を開いてみれば、今日はちゃんと傘を持った美桜が立っていた。珍しく、と言うほど顔を合わせてはいないが白いロングスカートが眩かった。
「こんにちは。これ、豚の角煮……作ったので良かったら食べてください」
「あー……ありがとうございます。律儀ですね。じゃあありがたく頂きます」
「お口に合うことを願ってます。――じゃあ」
渡すだけ渡すと踵を返した彼女を圭輔は急いで呼び止めた。
「はい」
「今から買い物ですか?」
「そうです」
「……その、もし予定が無いなら、帰りにうちで飯食いませんか? 一人で食うのは寂しいと言いますか……」
言葉尻がはっきりとしない圭輔は照れ隠しなのか、きまりが悪いのか、視線を逸らして頬を掻いた。
「私で良ければご相伴に預からせて頂きます。じゃあ家に荷物を置いたらまた伺いますね。なにかご入用な物があれば一緒に買ってきますよ」
「そうっすね。じゃあ、酒。うちにはビールか発泡酒しかないので、神崎さんがお好きな酒を選んできてください」
「わかりました」
短く答えると、美桜は白いスカートを靡かせて深い青の傘をさして行ってしまった。その背を見送ってから呟く。
「何やってんだ、俺」
圭輔はなぜ彼女を酒盛りに誘ったのかと自問自答を繰り返していた。
誘った側のくせに彼女が来ることをそわそわと落ち着かずに待っていたら、一時間後に再びインターフォンが鳴った。おそるおそる顔を出すと、彼女は無表情ながらどこか勝ち誇ったように大吟醸の大瓶を示してみせた。
「酒屋のおじさんが、お客さんが少ないからって大サービスしてくれました。大量生産しない蔵元の希少な日本酒がなんと三千円ぽっきりです」
「……神崎さん、酒強いんすね」
表情はまったく動いていないが、彼女が嬉しそうなのはとても伝わってくる。酒瓶をさも大切に抱いて「お邪魔します」と敷居を跨ぐ。
「酒乱……じゃないですよね?」
「どちらかというとザルです。酔っても赤くなるだけなのでご心配なく」
今度はキリッと表情が引き締まるのを感じた。見た目はやはり変わりないが、神崎美桜は空気で感情を語るのかと圭輔は、彼女の新たな一面を発見した。
「熱燗にします?」
「いえ。もったいないので、冷で頂きます」
気が利くことに美桜は圭輔が角煮を皿に移していると、買い物袋から取り出した材料で簡単なつまみを手早く作ってくれた。「こういうところは素早く動けるのか」と口には出さすに感心してしまう。
「揚げ出し豆腐だけは御惣菜ですよ。作ると時間がかかるので……申し訳ないです」
「いや、五品も作ってくれたら充分す。俺、柿ピーとか出すつもりだったから」
「せっかくですから、柿ピーは置いておいてください。今度、それを使って唐揚げ作ってきます」
「え!? これ、お菓子っすよ? どうやったら唐揚げになんの!?」
「砕いて衣にするんです。美味しいですよ。ピーナッツも粗く砕いてディップソースにしたり……使い道は某料理アプリを見れば無限大です」
「俺のお袋よりも神崎さんの方が料理上手っす。今、彼氏はいないんですか?」
さりげなく核心を突く。まるで誘導尋問だな、と圭輔は自嘲する。美桜の答えは明確だった。
「いませんよ。大家さんは……訊くまでも無いですか?」
「ええ、ご覧の通りです。長続きしないんですよね、俺」
美桜の作ったつまみを並べ、舌鼓を打ちながら自動的にそんな話題に入って行った。つまみはどれも美味かった。圭輔としてはメイン料理だった豚の角煮も脂がクセも無くとろとろと溶け甘味が残る。胃袋掴まれそうだと頭の中で警戒警報が明滅する程度には美味い。
肝心の美桜も大吟醸のおかげで少々赤くなりながら、時折箸を動かしていた。
「これ、いい肉なんじゃないすか? めっちゃ美味しいですよ」
「普通の商店街のお肉屋さんで買ったお肉ですけど、たぶん新鮮だからじゃないですかね。綺麗なピンク色だったもの」
「神崎さんは料理で男を落とせそう」
「残念ながら本命は絶対に落ちてはくれない人を選んじゃうんですよね、私」
「どういう意味?」
「もう十年片想いです。しかも親友の彼氏。もうすぐ旦那様になる先輩なんです」
「せ、切ない……。その間に彼氏は?」
「二人ほど居ましたけど……大家さん同様長続きしませんでした。示し合わせたかのように『何を考えているか解らない』って去って行きましたね。何を考えてるかって、正直に言うと何も考えていないのがほとんどなんですけど」
笑ってはいけないとは思ったが、アルコールのせいか圭輔は必死で笑いを噛み殺した。「肩が揺れるので丸わかりです」と少しいつもよりも目をすわらせた美桜が圭輔に噛みつく。
「ごめん、ここまでストレートに話せるのって悪友以外にあまりいなくてさ。――俺も似たような感じ。『大事にされている感じがしない』って言われてフラれんの。まあ、女の人があんまり好きじゃないから、大事にできなくて当たり前だよなあ」
「大家さんは男性の方がお好きな性癖とか」
「断じて違う。これは名誉の為に覚えておいて欲しいんだけど、俺は女の子が恋愛対象」
「でも女性苦手だと。……お互い複雑ですね」
やや前のめりになりながら力説する圭輔に、大吟醸を口にしながら美桜が纏める。そう、複雑なのだ。すっかり食べつくしたテーブルに雪崩れるように圭輔は頭を置いた。
「俺の場合は姉貴が三人も居て、しかも全員男勝りで、子供の頃から奴隷にされてきたから彼女にも夢を抱けないっつーか……ところで訊き忘れてた。――神崎さんっていくつ?」
「二十九です。三十路へのカウントダウンが始まっております」
「一つ上かあ。気がついたら敬語取れてました。すみません」
「お気になさらず。年齢なんてただの数字ですよ」
彼女が凛々しく言い放つポイントがよく解らないなあ、などと考えながら圭輔は少々眠気を感じてきた。顔は火照っているので顔をテーブルにくっつけている部分がぬるくなってきている。
「……恋愛って、難しいっすね。なんで皆、とんとん拍子に結婚できるんだあ?」
これに対する美桜の答えを聞かずに圭輔は寝息を立て始めた。せめて答えを聞いてから寝るんだったと眠りながらも脳だけは動いている気がした。
◇
翌朝、圭輔が目を覚ますとテーブルの上はすっかり綺麗に片付けられ、圭輔にも薄手のタオルケットが掛けられていた。急いで時刻を確認すると九時を周ろうとしている。
「あちゃー……寝落ちたか」
二日酔いにはなっていないが、テーブルの上にまた視線を戻すとあの和歌のような文字でメモが一枚とコップに入った水が鎮座していた。
『キッチン、勝手にお借りしました。二日酔いにはお気をつけて。楽しかったです』
彼女らしい簡素な内容だったが、さりげない気遣いに圭輔の脳内警報は本格的に警鐘を鳴らし始めている。
「でもなあ……十年の片想いに勝てる気しねえって……」
さっき顔を上げたばかりだというのに、圭輔はまたぬるいテーブルに頬を当てた。
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