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海の章
肆、エイルとべっこう飴 (後)
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肆、「エイルとべっこう飴」(後)
ミュウリンに逢ってから竜宮に戻るまでエイルは、べっこう飴を持ったままため息ばかり吐く。
温室育ちの王子は、存外惚れっぽかった。今はロンの部屋で、ひたすらべっこう飴を眺めていた。
ヤンジンはもう飴を食べ終わった口で、ロンに「なあ」と尋ねる。
「ミュウリンだったか? 長老衆の孫なら許嫁がいるんじゃねえか?」
「さて、俺もそこまでは把握していません」
「じゃあ、なんでお前はあの子と親しいんだ?」
「長老衆の警護を何度もしていますから、自然とご家族も顔見知りになっただけです。名家至上主義の長老衆でも、ハク老師だけは庶民出の俺をやたらと気に入ってくれてまして、何度か酒を頂戴したこともあります」
「ふうん……まあ、許嫁がいるかどうかはロンが探るとして、エリンはまず会話ができるようになれ!!」
ヤンジンが呆けているエイルの背中を叩いて喝を入れる。だが、エイルはしばらく険しい顔をした後で「ロン!!」と叫ぶ。
「どうした?」
「あ、あの子には……自分で聞くから、お二人はなにもしないでください……!! その、飴の御礼もしたいし、明日も学校があるのかだけ教えてくれ」
「学校は基本的に四日行って、三日休みだ。今日は十六夜か。ならば明日はあるはず。その前にハク老師に許嫁がいるかどうかを聞いて来い。老師が捉まらなかったら姫様でもいいはずだ」
エイルは「わかった」と頷いて、慌ただしく部屋を出て行った。
「……あの器量だぜ? もう将来は決まってるだろう。仙界秘蔵の葡萄酒を賭ける」
「それ、また東方王様の蔵からくすねてきたものでしょう。俺は、いないと思いますよ。ハク老師は二十人近くいるお孫さんの中でも、ミュウリン殿は秘蔵っ子だとおっしゃっていました……エリンの縁談話を掘った方が早い気がします」
「おい、やめろよ。またお前の勝ちになるじゃねえか!!」
「もしもまた俺が勝ったら百三十連勝ですね」
師弟が碌でもない賭けをしているが、結果であるエイルが一向に帰ってこない。早々に飽きたヤンジンがさっさと帰ってしまい、ロンも湯殿に向かった。
湯から帰ってくると、セツカがべっこう飴をいじっていた。
「あら、おかえりなさい。今日、エリンもこれを持っていたわ。ハクの孫娘のミュウリンから貰ったから御礼をしたいって……あなたと真君、なにかなさった?」
微妙に剣呑な視線を送ってくるセツカに負けて、ロンは今日の出来事を包み隠さず話した。セツカは、寝台に腰かけていたロンの隣に座って「困ったわね」と頬に手を当てる。
「ミュウリン殿に問題でも?」
「そうじゃないの。ハクが孫の中でも特に彼女を可愛がっているのをご存知?」
「知っている。秘蔵っ子だと紹介された」
「ハクもミュウリンの両親も、エリンの花嫁候補に考えているようなのだけれど……」
「ミュウリン殿はそうではない、か」
「ええ、政略結婚が嫌で一度駆け落ちしてるのよ。失敗したそうだけど、わたくしが眠る前の話。駆け落ちした相手は大戦で死んでしまったそうよ。まだ彼のことを想っているならエリンにはつらいわね」
セツカの口調から察するに、まだエイルは真相を知らないはずだ。初恋の駒を進めるか否かはエイル次第だが、面倒ごとになりそうなのでヤンジンには黙っておこうとロンは内心で思った。
◇
翌日の八つ時、エイルは昨日ミュウリンと逢った通りに立っていた。幸い、王子だとは気づかれていない。学生たちの流れを注意深く見ていると、彼女を見つけた。
「あ、あの……!!」
「あら、昨日将軍とご一緒だった……ごめんなさい。お名前を伺うのをすっかり忘れていました。私はミュウリン・ハクと申します」
今日は萌黄の曲裙を着たミュウリンは、片手を口に当てた後で軽い会釈をした。エイルは身分を明かしたものか迷ったが、隠したところでいずれは判明するので正直に名乗る。
「俺は、エイル・ランです。仙界で遊学していたのは本当だけど、ツーエン将軍とは義兄弟にあたります」
「エイル……? まあ、では……皇太子さまですか!?」
目を丸くして、また片手で口を覆うミュウリンに居心地が悪そうにエイルは「はい」と答えた。
「今日は、昨日貰った飴の御礼をしたくて、待っていました。俺は宮中から出たことがなかったので『べっこう』って歩揺とかの鼈甲かと思ってたんですが、あの飴、すごく美味しかったです。ありがとう。あの、これ、ささやかだけど御礼です」
赤い顔のエイルが差し出したのは、薄い和紙にくるまれた白地に梅がちりばめられた縮緬風呂敷だった。
「まあ、とても可愛い……!!」
「学校に持っていく書物を包むのにいいかな、って。勉強頑張ってね。もし、よかったらまた話してください――じゃあ」
「あ、エイル様」
「エリンでいいよ。親しい人は、みんなそう呼んでくれて、俺も気に入ってる」
「ではエリン様、素敵な御礼をわざわざありがとうございます。大切に使わせて頂きますね。急がれますか? もしよろしければ少しだけお話しをしたいのですが……」
「う、うん。時間は大丈夫」
ミュウリンは「こちらへ」とエイルを案内する。二人が行きついたのは運河にかかる石橋の上だった。
「もしかしたら、宮中の御方からお聞きしたかもしれませんけれど……大戦前、おじい様が勝手に私を王子様の花嫁候補にするって言いだして」
「え……!? ごめん、まったく知らない……。その手の話は手をつけていないんだ」
「そうですか。少しほっとしました。政略結婚が嫌で、おじい様に反発して、当時こっそりお付き合いしていた方と駆け落ちしたんです。失敗しましたが……」
駆け落ち、という言葉は的確にエイルの胸を抉った。つきりと痛む胸を堪えながら、ミュウリンの話に耳を傾ける。
「見つかって、引き離されて、彼は大戦で死んでしまいました」
「え……防衛戦だった海の死者は少なかったはずなのに?」
「死ぬために戦争に行ったと、葬儀で聞きました。そこには、私以外にも彼とお付き合いしていた綺麗な女性が何人もいて……遊ばれてたことに気づいてからは、少しだけ男性不信でした」
「……そっか。腹が立つのもあるけど、もう逢えないのはやっぱり哀しいかな」
「エリン様は、不思議な方ですね……そんな風に言ってくれたのは、あなたが初めてです」
「そう? 俺は普通のことだと思うけどなあ」
ミュウリンはエイルの横顔を横目で観察する。勝手に王室育ちのわがままで傲慢な印象を持っていたが、ひっくり返せば誰よりも純粋で世間知らずゆえの優しい王子だ。父親は『海の賢者』と名高い名君、義姉は大戦に於いて一人で二国を相手にした魔力甚大なお姫様――そして、あのロン・ツーエン将軍の弟分ならば、エイルの気性も納得がいく。
ミュウリンは「そろそろ帰らなくて大丈夫?」と尋ねるエイルに「はい、長話をして申し訳ございませんでした」と微笑む。
帰り道はミュウリンの歩調で少しだけゆっくりと帰路を辿った。
「家は竜宮の方角だよね? 俺もそっちだから途中まで行くよ。今日はたくさん話せて楽しかった」
「私もです。誤解も解けましたし、これからもまたお話ししてくれますか?」
「うん、俺、同じ年ごろの友達がいないから、ミュウリンが学校のこととか教えてくれるかな。知りたいんだ」
「私でよろしければ。では、毎月十五日に学校があっても無くても、あの橋の上で待ち合わせるのはどうでしょうか?」
「解った。もうすぐロンと義姉上の結婚式だから、その時も逢えるよ」
「姫様のお衣装、綺麗でしょうね」
「着飾るのが嫌いな義姉上の一番の晴れ舞台だから、貴重だよ」
他愛もない話に花が咲く。気が付けば、二人は手を振って別れた。
エイルは鼻歌を歌いながら帰ってきたが、二人の様子を円形の手鏡で出歯亀していたヤンジンは「ああー!! じれってえなあ!!」とロンの寝台に大の字で倒れる。
婚礼関係の手紙や書をしたためていたロンは非常に迷惑である。うるさいことこの上ない。
「まだ精神面が子供なエリンにはちょうどいいですよ。特に汚い大人の模範であるあなたと行動した後だから、余計に新鮮なんじゃないですか」
「……俺も優しい弟子が欲しい……」
「弟子が多いと道府を持たないといけない。管理が面倒くさいから嫌だと散々ごねたのはどなたでしたっけ?」
ロンの容赦のない攻撃にぐうの音もでないヤンジン。
半年後、ハク家から正式にエイルとミュウリンの縁談が纏まったが、これはまだ少し先のお話し――。
続...
ミュウリンに逢ってから竜宮に戻るまでエイルは、べっこう飴を持ったままため息ばかり吐く。
温室育ちの王子は、存外惚れっぽかった。今はロンの部屋で、ひたすらべっこう飴を眺めていた。
ヤンジンはもう飴を食べ終わった口で、ロンに「なあ」と尋ねる。
「ミュウリンだったか? 長老衆の孫なら許嫁がいるんじゃねえか?」
「さて、俺もそこまでは把握していません」
「じゃあ、なんでお前はあの子と親しいんだ?」
「長老衆の警護を何度もしていますから、自然とご家族も顔見知りになっただけです。名家至上主義の長老衆でも、ハク老師だけは庶民出の俺をやたらと気に入ってくれてまして、何度か酒を頂戴したこともあります」
「ふうん……まあ、許嫁がいるかどうかはロンが探るとして、エリンはまず会話ができるようになれ!!」
ヤンジンが呆けているエイルの背中を叩いて喝を入れる。だが、エイルはしばらく険しい顔をした後で「ロン!!」と叫ぶ。
「どうした?」
「あ、あの子には……自分で聞くから、お二人はなにもしないでください……!! その、飴の御礼もしたいし、明日も学校があるのかだけ教えてくれ」
「学校は基本的に四日行って、三日休みだ。今日は十六夜か。ならば明日はあるはず。その前にハク老師に許嫁がいるかどうかを聞いて来い。老師が捉まらなかったら姫様でもいいはずだ」
エイルは「わかった」と頷いて、慌ただしく部屋を出て行った。
「……あの器量だぜ? もう将来は決まってるだろう。仙界秘蔵の葡萄酒を賭ける」
「それ、また東方王様の蔵からくすねてきたものでしょう。俺は、いないと思いますよ。ハク老師は二十人近くいるお孫さんの中でも、ミュウリン殿は秘蔵っ子だとおっしゃっていました……エリンの縁談話を掘った方が早い気がします」
「おい、やめろよ。またお前の勝ちになるじゃねえか!!」
「もしもまた俺が勝ったら百三十連勝ですね」
師弟が碌でもない賭けをしているが、結果であるエイルが一向に帰ってこない。早々に飽きたヤンジンがさっさと帰ってしまい、ロンも湯殿に向かった。
湯から帰ってくると、セツカがべっこう飴をいじっていた。
「あら、おかえりなさい。今日、エリンもこれを持っていたわ。ハクの孫娘のミュウリンから貰ったから御礼をしたいって……あなたと真君、なにかなさった?」
微妙に剣呑な視線を送ってくるセツカに負けて、ロンは今日の出来事を包み隠さず話した。セツカは、寝台に腰かけていたロンの隣に座って「困ったわね」と頬に手を当てる。
「ミュウリン殿に問題でも?」
「そうじゃないの。ハクが孫の中でも特に彼女を可愛がっているのをご存知?」
「知っている。秘蔵っ子だと紹介された」
「ハクもミュウリンの両親も、エリンの花嫁候補に考えているようなのだけれど……」
「ミュウリン殿はそうではない、か」
「ええ、政略結婚が嫌で一度駆け落ちしてるのよ。失敗したそうだけど、わたくしが眠る前の話。駆け落ちした相手は大戦で死んでしまったそうよ。まだ彼のことを想っているならエリンにはつらいわね」
セツカの口調から察するに、まだエイルは真相を知らないはずだ。初恋の駒を進めるか否かはエイル次第だが、面倒ごとになりそうなのでヤンジンには黙っておこうとロンは内心で思った。
◇
翌日の八つ時、エイルは昨日ミュウリンと逢った通りに立っていた。幸い、王子だとは気づかれていない。学生たちの流れを注意深く見ていると、彼女を見つけた。
「あ、あの……!!」
「あら、昨日将軍とご一緒だった……ごめんなさい。お名前を伺うのをすっかり忘れていました。私はミュウリン・ハクと申します」
今日は萌黄の曲裙を着たミュウリンは、片手を口に当てた後で軽い会釈をした。エイルは身分を明かしたものか迷ったが、隠したところでいずれは判明するので正直に名乗る。
「俺は、エイル・ランです。仙界で遊学していたのは本当だけど、ツーエン将軍とは義兄弟にあたります」
「エイル……? まあ、では……皇太子さまですか!?」
目を丸くして、また片手で口を覆うミュウリンに居心地が悪そうにエイルは「はい」と答えた。
「今日は、昨日貰った飴の御礼をしたくて、待っていました。俺は宮中から出たことがなかったので『べっこう』って歩揺とかの鼈甲かと思ってたんですが、あの飴、すごく美味しかったです。ありがとう。あの、これ、ささやかだけど御礼です」
赤い顔のエイルが差し出したのは、薄い和紙にくるまれた白地に梅がちりばめられた縮緬風呂敷だった。
「まあ、とても可愛い……!!」
「学校に持っていく書物を包むのにいいかな、って。勉強頑張ってね。もし、よかったらまた話してください――じゃあ」
「あ、エイル様」
「エリンでいいよ。親しい人は、みんなそう呼んでくれて、俺も気に入ってる」
「ではエリン様、素敵な御礼をわざわざありがとうございます。大切に使わせて頂きますね。急がれますか? もしよろしければ少しだけお話しをしたいのですが……」
「う、うん。時間は大丈夫」
ミュウリンは「こちらへ」とエイルを案内する。二人が行きついたのは運河にかかる石橋の上だった。
「もしかしたら、宮中の御方からお聞きしたかもしれませんけれど……大戦前、おじい様が勝手に私を王子様の花嫁候補にするって言いだして」
「え……!? ごめん、まったく知らない……。その手の話は手をつけていないんだ」
「そうですか。少しほっとしました。政略結婚が嫌で、おじい様に反発して、当時こっそりお付き合いしていた方と駆け落ちしたんです。失敗しましたが……」
駆け落ち、という言葉は的確にエイルの胸を抉った。つきりと痛む胸を堪えながら、ミュウリンの話に耳を傾ける。
「見つかって、引き離されて、彼は大戦で死んでしまいました」
「え……防衛戦だった海の死者は少なかったはずなのに?」
「死ぬために戦争に行ったと、葬儀で聞きました。そこには、私以外にも彼とお付き合いしていた綺麗な女性が何人もいて……遊ばれてたことに気づいてからは、少しだけ男性不信でした」
「……そっか。腹が立つのもあるけど、もう逢えないのはやっぱり哀しいかな」
「エリン様は、不思議な方ですね……そんな風に言ってくれたのは、あなたが初めてです」
「そう? 俺は普通のことだと思うけどなあ」
ミュウリンはエイルの横顔を横目で観察する。勝手に王室育ちのわがままで傲慢な印象を持っていたが、ひっくり返せば誰よりも純粋で世間知らずゆえの優しい王子だ。父親は『海の賢者』と名高い名君、義姉は大戦に於いて一人で二国を相手にした魔力甚大なお姫様――そして、あのロン・ツーエン将軍の弟分ならば、エイルの気性も納得がいく。
ミュウリンは「そろそろ帰らなくて大丈夫?」と尋ねるエイルに「はい、長話をして申し訳ございませんでした」と微笑む。
帰り道はミュウリンの歩調で少しだけゆっくりと帰路を辿った。
「家は竜宮の方角だよね? 俺もそっちだから途中まで行くよ。今日はたくさん話せて楽しかった」
「私もです。誤解も解けましたし、これからもまたお話ししてくれますか?」
「うん、俺、同じ年ごろの友達がいないから、ミュウリンが学校のこととか教えてくれるかな。知りたいんだ」
「私でよろしければ。では、毎月十五日に学校があっても無くても、あの橋の上で待ち合わせるのはどうでしょうか?」
「解った。もうすぐロンと義姉上の結婚式だから、その時も逢えるよ」
「姫様のお衣装、綺麗でしょうね」
「着飾るのが嫌いな義姉上の一番の晴れ舞台だから、貴重だよ」
他愛もない話に花が咲く。気が付けば、二人は手を振って別れた。
エイルは鼻歌を歌いながら帰ってきたが、二人の様子を円形の手鏡で出歯亀していたヤンジンは「ああー!! じれってえなあ!!」とロンの寝台に大の字で倒れる。
婚礼関係の手紙や書をしたためていたロンは非常に迷惑である。うるさいことこの上ない。
「まだ精神面が子供なエリンにはちょうどいいですよ。特に汚い大人の模範であるあなたと行動した後だから、余計に新鮮なんじゃないですか」
「……俺も優しい弟子が欲しい……」
「弟子が多いと道府を持たないといけない。管理が面倒くさいから嫌だと散々ごねたのはどなたでしたっけ?」
ロンの容赦のない攻撃にぐうの音もでないヤンジン。
半年後、ハク家から正式にエイルとミュウリンの縁談が纏まったが、これはまだ少し先のお話し――。
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