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海の章
参、黒龍の切なる願い(前)
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参、「黒龍の切なる願い」(前)
――水が一滴、落ちる。
ロンは暗闇の中で、ぼんやりと立って水滴の音に耳を澄ます。また一滴落ちた。
規則正しく聞こえる水滴の音は、誰かの涙なのだとロンは自覚した。
地を打つ涙と――遠い風の唸る声。
(……ああ、これは咆哮か。哀しい……俺も哀しかった……)
ロンは唸り声の方向に歩いて行った。歩けども、歩けども、天地もない闇の中をひたすらに歩いた。
やがて、とぐろを巻いた龍が一匹で泣いているのが見えてきた。
ロンは駆けた。
「あれ?」
自分も泣いていることに気が付いても、ロンは走り続けた。疲れは感じない。潰れているはずの左眼からも涙が溢れていることも無視して、今はあの龍に伝えなければならないと走った。
次第に龍が近くなる。必然的に咆哮も大きくなり、鼓膜が痛む。痛みなら、胸の痛みの方が強い。そう思って、ロンは己の十倍以上の身体を持つ龍の黒い鱗にそっと触れた。
途端に泣いていた龍が、振り向いた。突風が起こる。ロンは脚に力を入れて飛ばされぬように踏ん張った。
『――……誰だ……――?』
腹の底から震わされるほど低い、喉が潰れたようながらがらの声だった。
「お前の声を聞いた者だ。なあ、なぜ泣いているのだ?」
ロンの問いかけに、龍はゆっくりと答えた。
『孤独ゆえ』
「孤独?」
『ああ、我は孤独だ。何千年、何万年呼び続けても誰も傍には居てくれぬ。死もなく、悠遠なる孤独の時間を、ただ無為に過ごすのみ……――貴様にこの孤独がわかるか――!?』
ロンが口を開こうとすると、龍は『……寂しい……』と呟いた。
『――……寂しい。哀しい。この孤独に終止符を打ってくれるならばなんでもしよう。我が犯した罪を抱えて目覚めのない眠りに導いてくれ。誰か、誰か……誰か……――』
――我も輪廻の輪の中へ入れてくれるなら、喜んでなんでも差し出そう……――!!
やがて、龍は同じ言葉を繰り返し始めた。
『――……世を恨み、我が身を恨んで幾星霜。真昼に陽を追えば夕べに消え、月を追えば朝日となる……春立つ空は旅衣。蒼穹と対なる雲は変幻自在の霧隠れ。夏の夜に胡蝶を探せば姿見せるは無数の蛍。秋の紅葉に願い候 韓紅に我が身を包んでくれと。孤峰の雪は心も冷やす解けて透明な水の汚れ知らずに羨望す…――』
黒い龍は涙々と孤独を歌った。ロンは黙って龍の歌を聴いていた。
やがて、どれほど時間が過ぎたのかも解らなくなった頃、龍はぽつりと零した。
『我はここでしか泣けぬのだ』
「なぜだ?」
『世界で泣けば、海が荒れ狂い、地上の河が氾濫し、罪なき命を奪ったからだ。この黒い鱗は我が罪の証。我は其方の左眼に潜んで、世界と我が身を呪い続ける邪神となった』
「だから、泣いているのか。ずっと……ここでも一人で」
『そうとも』
「お前を、一人にはできないな……俺がここに居れば、お前は一人じゃなくなるぞ?」
『そうだ。ゆえに其方を待っていた――』
ロンはくすりと笑って「それもいいかもしれないな」と龍の身体にもたれて座った。ロンは夢うつつに龍と会話を続ける。
『心残りはないのか?』
「大いにあるさ。たった一人だった俺の手を初めて握ってくれた人を泣かせてしまう……見ていただろう? あの左眼に口づけてくれた無垢なる姫を」
『ああ、其方のつがいだ』
目を閉じれば浮かんで消える、走馬灯。数多の人々が流れていく。最後にたどり着いたのは、幻想的なわだつみの森で出逢った少女――麗しく成長した彼女が、泣いていた。
『ここに居たら、つがいが泣くのだろう? 其方は、一人ではない』
「だが、生まれてきた時から、俺の左眼を通して世を見ていたお前を一人にもできまい。お前の孤独は……哀しすぎる。なにか方法はないだろうか?」
龍は沈黙する。ロンも考えてはみたが、やたらと眠くて頭はふわふわと考えが纏まらない。
「お前が望むなら、ずっと俺の中に居ればいい」
『――……頼みがある……――』
「なんだ?」
『其方が取り込んだ三龍の秘宝を取り出そうと龍達が動いている』
「そうだな。秘宝だけは返してやってくれないか? そうでなくば各界の柱が無くなってしまう。柱が無くなって世界が消えたら、お前がもっと黒くなるから」
龍は黒い鱗をさすってやると、ぐるぐると喉を鳴らした。ロンは「猫のようだなあ」と笑う。
『頼みとは、其方の子として、我を産んで欲しいのだ』
「……そんなことが可能なのか?」
『解らない。しかし、賭けてみたい。もしもお前のつがいさえ許してくれれば、我を其方らの子として産んで、始祖の龍ではなく、水だけを操れるただの海底龍神の子になってみたいのだ』
「そして海底龍神として生きて、誰かと恋をして、子孫を残していくのか」
『そうだ』
「寿命で死ぬぞ。いや、病かもしれん」
龍はロンが提案するすべての問いに『構わぬ』と答えた。
「豪胆だな。いいだろう。好きにすればいい。ああ、しかし、これだけは約束してくれ」
『なんだ』
「俺は子種を与えることはできても、お前を産むのは俺の命よりも大切な女性だ。彼女を、哀しませないと。哀しみとはどんなにつらいかはお前が一番よく知っているだろう? だから、彼女を哀しませないで欲しい――また寂しくなれば、またこうして俺と二人、語り合えばいい。いつでも待っていてやる。お前が俺の子として生まれてくるのならば、俺はありったけの愛情を注ごう――」
『委細承知した。まずは三龍の秘宝を返そう。ああ、こんなにも誰かと話すのは創世以来だ――ロン・ツーエン、お前は優しい男だなあ……――』
龍の身体から、黒い鱗がぽろぽろと剥がれ落ちる。龍も、ロンも、それに気づいていない。
始祖の龍はまた涙を流した――『ありがとう』と何度も呟きながら流れるこれは随喜の涙。
ロンはまた声に出して笑った。
「ははっ、きっとそうやって泣きながら産まれてくるのだろうなあ。お前の産声は、元気な証拠ゆえ、楽しみだ――」
ロンに巨大な顔を近づけた龍に、ロンも頬を当てる。緑の鱗は緑青石にも、大地の緑にも見えた。ロンの腕に抱かれて、赤子をあやすように規則正しく叩かれると、龍は涙声で呟いた。
『其方に出逢えてよかった――』と。
続...
――水が一滴、落ちる。
ロンは暗闇の中で、ぼんやりと立って水滴の音に耳を澄ます。また一滴落ちた。
規則正しく聞こえる水滴の音は、誰かの涙なのだとロンは自覚した。
地を打つ涙と――遠い風の唸る声。
(……ああ、これは咆哮か。哀しい……俺も哀しかった……)
ロンは唸り声の方向に歩いて行った。歩けども、歩けども、天地もない闇の中をひたすらに歩いた。
やがて、とぐろを巻いた龍が一匹で泣いているのが見えてきた。
ロンは駆けた。
「あれ?」
自分も泣いていることに気が付いても、ロンは走り続けた。疲れは感じない。潰れているはずの左眼からも涙が溢れていることも無視して、今はあの龍に伝えなければならないと走った。
次第に龍が近くなる。必然的に咆哮も大きくなり、鼓膜が痛む。痛みなら、胸の痛みの方が強い。そう思って、ロンは己の十倍以上の身体を持つ龍の黒い鱗にそっと触れた。
途端に泣いていた龍が、振り向いた。突風が起こる。ロンは脚に力を入れて飛ばされぬように踏ん張った。
『――……誰だ……――?』
腹の底から震わされるほど低い、喉が潰れたようながらがらの声だった。
「お前の声を聞いた者だ。なあ、なぜ泣いているのだ?」
ロンの問いかけに、龍はゆっくりと答えた。
『孤独ゆえ』
「孤独?」
『ああ、我は孤独だ。何千年、何万年呼び続けても誰も傍には居てくれぬ。死もなく、悠遠なる孤独の時間を、ただ無為に過ごすのみ……――貴様にこの孤独がわかるか――!?』
ロンが口を開こうとすると、龍は『……寂しい……』と呟いた。
『――……寂しい。哀しい。この孤独に終止符を打ってくれるならばなんでもしよう。我が犯した罪を抱えて目覚めのない眠りに導いてくれ。誰か、誰か……誰か……――』
――我も輪廻の輪の中へ入れてくれるなら、喜んでなんでも差し出そう……――!!
やがて、龍は同じ言葉を繰り返し始めた。
『――……世を恨み、我が身を恨んで幾星霜。真昼に陽を追えば夕べに消え、月を追えば朝日となる……春立つ空は旅衣。蒼穹と対なる雲は変幻自在の霧隠れ。夏の夜に胡蝶を探せば姿見せるは無数の蛍。秋の紅葉に願い候 韓紅に我が身を包んでくれと。孤峰の雪は心も冷やす解けて透明な水の汚れ知らずに羨望す…――』
黒い龍は涙々と孤独を歌った。ロンは黙って龍の歌を聴いていた。
やがて、どれほど時間が過ぎたのかも解らなくなった頃、龍はぽつりと零した。
『我はここでしか泣けぬのだ』
「なぜだ?」
『世界で泣けば、海が荒れ狂い、地上の河が氾濫し、罪なき命を奪ったからだ。この黒い鱗は我が罪の証。我は其方の左眼に潜んで、世界と我が身を呪い続ける邪神となった』
「だから、泣いているのか。ずっと……ここでも一人で」
『そうとも』
「お前を、一人にはできないな……俺がここに居れば、お前は一人じゃなくなるぞ?」
『そうだ。ゆえに其方を待っていた――』
ロンはくすりと笑って「それもいいかもしれないな」と龍の身体にもたれて座った。ロンは夢うつつに龍と会話を続ける。
『心残りはないのか?』
「大いにあるさ。たった一人だった俺の手を初めて握ってくれた人を泣かせてしまう……見ていただろう? あの左眼に口づけてくれた無垢なる姫を」
『ああ、其方のつがいだ』
目を閉じれば浮かんで消える、走馬灯。数多の人々が流れていく。最後にたどり着いたのは、幻想的なわだつみの森で出逢った少女――麗しく成長した彼女が、泣いていた。
『ここに居たら、つがいが泣くのだろう? 其方は、一人ではない』
「だが、生まれてきた時から、俺の左眼を通して世を見ていたお前を一人にもできまい。お前の孤独は……哀しすぎる。なにか方法はないだろうか?」
龍は沈黙する。ロンも考えてはみたが、やたらと眠くて頭はふわふわと考えが纏まらない。
「お前が望むなら、ずっと俺の中に居ればいい」
『――……頼みがある……――』
「なんだ?」
『其方が取り込んだ三龍の秘宝を取り出そうと龍達が動いている』
「そうだな。秘宝だけは返してやってくれないか? そうでなくば各界の柱が無くなってしまう。柱が無くなって世界が消えたら、お前がもっと黒くなるから」
龍は黒い鱗をさすってやると、ぐるぐると喉を鳴らした。ロンは「猫のようだなあ」と笑う。
『頼みとは、其方の子として、我を産んで欲しいのだ』
「……そんなことが可能なのか?」
『解らない。しかし、賭けてみたい。もしもお前のつがいさえ許してくれれば、我を其方らの子として産んで、始祖の龍ではなく、水だけを操れるただの海底龍神の子になってみたいのだ』
「そして海底龍神として生きて、誰かと恋をして、子孫を残していくのか」
『そうだ』
「寿命で死ぬぞ。いや、病かもしれん」
龍はロンが提案するすべての問いに『構わぬ』と答えた。
「豪胆だな。いいだろう。好きにすればいい。ああ、しかし、これだけは約束してくれ」
『なんだ』
「俺は子種を与えることはできても、お前を産むのは俺の命よりも大切な女性だ。彼女を、哀しませないと。哀しみとはどんなにつらいかはお前が一番よく知っているだろう? だから、彼女を哀しませないで欲しい――また寂しくなれば、またこうして俺と二人、語り合えばいい。いつでも待っていてやる。お前が俺の子として生まれてくるのならば、俺はありったけの愛情を注ごう――」
『委細承知した。まずは三龍の秘宝を返そう。ああ、こんなにも誰かと話すのは創世以来だ――ロン・ツーエン、お前は優しい男だなあ……――』
龍の身体から、黒い鱗がぽろぽろと剥がれ落ちる。龍も、ロンも、それに気づいていない。
始祖の龍はまた涙を流した――『ありがとう』と何度も呟きながら流れるこれは随喜の涙。
ロンはまた声に出して笑った。
「ははっ、きっとそうやって泣きながら産まれてくるのだろうなあ。お前の産声は、元気な証拠ゆえ、楽しみだ――」
ロンに巨大な顔を近づけた龍に、ロンも頬を当てる。緑の鱗は緑青石にも、大地の緑にも見えた。ロンの腕に抱かれて、赤子をあやすように規則正しく叩かれると、龍は涙声で呟いた。
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