La campanella

紺坂紫乃

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-after days-

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 それはある冬の昼下がりのこと。
 ランスロットは黒無地のVネックシャツにインディゴブルーのジーンズというラフな姿で、微睡みを呼ぶ窓辺で読書をしていた。
 生まれ変わって居を構えたこのロッジ風の家は中古物件であったが、それゆえに使い込まれた木材が醸し出すアンティークな雰囲気がとても落ち着く。
 窓の外には子供のはしゃぎ声。
 思わずくすりと笑みが漏れる。
 外の様子から、視線を本に戻すとリビングに隣接しているキッチンから、なにやら不穏な空気を感じた。

「わあ!」

「カリヨン!?」

 急いでキッチンに駆けつけると、オーブンから少し焦げた匂いがした。そして、長い黒髪を三つ編みに結ったカリヨンが、尻餅をついていた。

「お怪我はありませんか? ああ、スコーンを焼こうとしてくれていたのですね」

「うむ。……じゃが、少し焦げてしまった……すまぬ、ランスロット……」

 叱られた犬のように、眉を下げるカリヨンが着用している真っ白なレースのエプロンには、ところどころに汚れが付いていた。このエプロンはランスロットが買ってきた、彼女が気に入っている薄いピンク色のワンピースドレスを汚さないように、と彼女自身が買ってきたものだ。
 ランスロットは、申し訳なさそうな表情をするカリヨンの手を取って、立ち上がらせる。

「貴女に怪我がないに越したことはありませんよ。それに、私の為にスコーンを焼いてくれたのでしょう? せっかくですから、焼き立てのうちにお茶にしましょう」

「し、しかし、美味しくはないぞ……きっと。情けないことじゃ……料理も碌にできぬとは……」

「私の喜ぶ顔を見たい、と貴女が毎日慣れない家事に励んで下さっているだけでも充分に私は幸せ者ですよ。……それどころか、不自由ない妖精の姿を捨ててまで、私の元に駆けてきて下さった。あの時、私はどれほど神に感謝をしたことか……」

「……むう……そなたは優しいゆえ……」

 まだ納得のいかない様子のカリヨンを抱きしめれば、彼女も背中に手を回してくれる。ランスロットからしてみれば、これほどの至福は無いのだ。それは嘘ではない。こうしていると、彼女と再会した日を思い出す。




 あれは、真冬のまだ冷え切っていた頃のことだ。
 義母よりもう一度、人間として生きることを冥界の神から許しを得たと報を受け、宣言通り、彼は新しい肉体で、新しい世界で再び生活を始めた。しかし、あの可憐な黒髪の妖精の面影が忘れられず、未練がましくもネス湖近郊のこのロッジで新たな生を始めた。
 だが、やはり生まれ変わったところで彼女は妖精、己は人間である。決して交わらぬ運命の糸に焦燥と虚無を感じていた。
 そんな思いの中でも、仕事を見つけ、生活の基盤だけはできていた。近所の老夫婦が営む小さな飲食店での力仕事や雑務がランスロットの主な仕事だった。容姿も買われた点は否めないが、ちゃんと定期的に休日をくれる人の好いオーナー夫婦には、ランスロットも感謝していた。しかし、客や市場ですれ違う黒髪の女性を見かけると、彼女を探してしまう自身の諦めの悪さには焦れていた。

 それが一転したのは、ある休日だった。
 ランスロットの家は鍵などかけていないが、呼び鈴も鳴らさず、乱雑に家の扉が開け放たれた。

「……ランスロット……!」

 暖炉に薪をくべていた彼は、目を見開いて茫然自失となる。
 見慣れた白いパイルドレス、店や市場で探し求めたあの波打つ黒髪、足は真冬だというのに裸足の上に
泥で汚れている。息も荒く、うっすらと汗をかいている姿がどれ程必死にここまで来たのかを物語っていた。それでも、夢にまで見た彼女の姿に変わりはない。涙の膜が張った翠の双眸の美しさは、紛れもなく――。

 どちらが引き寄せたのかは解らない。
 二人同時だったのかもしれない。
 息を飲んでいる刻すら惜しく、ただ――抱き合った。

「ランスロット……ランスロット……!!」

「……カリヨン殿。本当に、貴女様なのですね? 私はまた夢を見ているのではありませんか……?」

 啜り泣くカリヨンの黒髪に顔を埋めると、甘い匂いがする。冷たい彼女の身体が、逆に生きている彼女を抱いているのだと実感させてくれた。冷たい両の頬に手を当てて、唇を重ねれば、熱を移すように一心不乱にそれに没頭した。

 あれから数か月、彼女は人間としてランスロットの傍に居てくれる。共同生活にも、漸く慣れてきたのか、積極的にキッチンに立ち、ランスロットが仕事に出ている間は甲斐甲斐しく掃除に精を出しているらしい。

「ふむ……“料理”を考え出す人間は称賛に値するな。……奥が深いのぉ……」

 少し焦げたかぼちゃのスコーンに、近所から分けてもらった林檎ジャムとクロテッドクリームを塗りながら、カリヨンは真剣な表情でそんな言葉を口にする。
 あまりに本気の口振りで言うものだから、ランスロットは飲んでいた紅茶を吹き出しかけた。

「そうですね。私も料理は過去でも経験が無いので、職場で教わるのですがなかなか難しい。苦手なら無理をする必要はないのですよ?」

「嫌いではないぞ! ただ、まだ時間が足りぬだけじゃ。それに近所の奥方達も丁寧に教えてくれるゆえ、自己研鑽は大事なことじゃ」

 ランスロットも生真面目すぎるきらいがあるが、カリヨンもそうかもしれない、とランスロットはくすくすと笑った。

「ランスロット、かぼちゃと小麦粉を使い切ってしまったゆえ、これを食べ終わったら市場へ買い出しに行こうと思うのじゃが……」

「ええ、行きましょう。私も市場に予定がありましたから」

「そうか。何か欲しい物でもあったのか?」

「欲しい物……そうですね、そういった類の物です」

 ランスロットは、首を傾げるカリヨンを見つめながら、碧眼を細める。すると、カリヨンは少し頬を赤らめて、顔を横に逸らす。この仕草をランスロットはとても気に入っている。気丈に見えて、彼女はどこまでも初々しい。そこが堪らないのだ。

「そ、そうか。では、急いで出かける用意をしてくる……!」

 ランスロットの視線に耐えかねたのか、残っていたスコーンを紅茶で流し込み、カリヨンは慌ただしく二階に走って行った。


 午後の市場は人が多い。はぐれてしまわないように、カリヨンとランスロットは身を寄せ合って、買い物を進める。以前、カリヨンが一人で市場に出た時は、妙な男達に囲まれたので、それ以来、買い物はランスロットが付き添う決まりになった。
一通りの買い物が終わって、二人で籠いっぱいの食材を手に往来を歩いていた時、カリヨンがふと呟いた。

「のう、ランスロット……ずっと、訊きたいことがあった……」

「なんです?」

「……その、もう過去の事じゃとは……何度も己に言い聞かせたし、そなたを疑っておる訳でもない。……じゃが、ギネヴィアのことは、もう忘れたのか?」

 あまりにも唐突な質問に、ランスロットは意表を突かれた顔になった。
 ギネヴィアとは、ランスロットの前世の主・アーサー王の妻で、ランスロットとは不倫関係にあった王妃である。そのせいで、アーサー王の子・モルドレッドは不義の子なのではという疑惑さえ上がったほどだ。アーサー王の死後も、ギネヴィアは出家したランスロットに手紙を寄こしてきたが、ランスロットはそれに耳を貸さなかったとされている。
 ランスロットが、アーサー王に対して不義を働き、カリヨンとの旅の中でもそれに苛まれている様子から、カリヨンは今でも懸念しているのだろう。

「カリヨン……家に帰る前に、一か所だけ寄り道をしてもかまいませんか? そこでお答えします」

「わ、わかった」

 日も傾き始めた時刻、二人で手を繋いで、ランスロットが立ち寄ったのは貴金属の細工をしている工房だった。

「こんばんは。頼んだものを取りに来たのですが……」

 ランスロットが恰幅の良い店の女房に声をかけると、女性は微笑んで、店の奥に入って行った。しばらくして、彼女が戻ってくると、ランスロットがカリヨンに左手を出すように言った。
 怪訝に思いながらも、カリヨンは言われるがまま、左手を差し出す。すると、その手をランスロットは恭しく取ると、薬指にカリヨンの眼の色と同じ色の小さなエメラルドが嵌め込まれた細い金の指輪が輝いていた。

「私には貴女から嵌めてくれますか?」

 カリヨンは震える手で、彼女の物よりは一回りは大きなそれをランスロットの薬指に嵌める。

「いやぁ、めでたいね。若い夫婦にはよくお似合いだよ!」

 店の女性は高らかに笑って、二人を祝福してくれた。なにがなんだか解らないカリヨンは、ランスロットを見上げる。彼はまたあの碧眼を細める笑顔を向け、女性に礼を言って店を出た。支払いは注文時に終えてあったらしい。
 夕暮れの家路を、また手を繋いで歩きながら、ランスロットは優しい声音で語り出した。

「……本当は家でお伝えしたかったのですが……貴女からあのような質問が出たので。もう、ギネヴィア様のことは私の過去の汚点でしかありません。確かに情を交わした仲なのは確かです。ですが、今は――カリヨン、貴女しか見えない。転生して、貴女と再会するまでの私はまるで生きた屍のようだった。しかし、今は貴女が居てくれる――愛しています、カリヨン。私の妻として、これからも傍にいてくれますか?」

 真っ直ぐにカリヨンを見つめるランスロットの上からは、烏の鳴き声が木霊する。空は茜の向こうに、群青が見えて、不思議な色合いをしていたが、カリヨンの両の眼からは涙が溢れてよく見えない。
声帯が引き絞られたようでうまく返事もできなくて、ただひたすらに頷いた。
 家に入るなり抱き付いてくるカリヨンの涙を、ランスロットがそっと拭ってくれる。

「そなたの方には、石は入っておらぬのじゃな」

「ええ。マリッジリングはシンプルな物だ、と工房の女将に伺ったものですから」
 
 暖炉の傍のソファに二人で腰掛けて、二人は指輪の嵌った左手を検分し合う。本当は、指輪の裏側には、互いの名と共にあるメッセージが彫り込まれているのだが、カリヨンがそれを知るのは――もう間もなく――。


end...
★ここまでのお付き合いありがとうございました。
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