逢魔ヶ刻の連れ人-神世百鬼夜行-

紺坂紫乃

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漆、魔女の襲来

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 その日は、ひどい天気だった。窓を打つ雨の音は激しく、猛獣の唸り声のような風も吹き荒れている。昨晩は小雨だったのに、朝起きたらこれだ。戒真が時計を確認すると朝の八時を過ぎていた。
 学校で咲き誇っている紫陽花は散ってしまったに違いない。

「あー……はい、助かります。はい。じゃあ、よろしくお願いします」

 戒真がのそのそと起床すると、リビングでは龍久が内容の解らない電話をしていた。戒真は邪魔にならないように洗面所で歯を磨き、顔を洗って、またリビングに戻る。

「おはよう、今日は出勤せずとも良いのか?」

「おはよ。本当は出勤だとも。警報が出てるのを確認しないお馬鹿な生徒が学校に来ちゃうし、保護者が本当に休みか電話かけてくるし。ま、俺は休みになった。今年に入って有休を一回も使ってないのがバレちった」

「よく解らぬが休暇か」

「そ。朝飯は豪華にしようぜ。パンケーキにでもしますかねえ。お前の好きな分厚いふわっふわのやつ」

「生クリーム……」

「はいはい、三段重ねでエベレスト並みの山を作ってやるよ。その分、手伝え」

「了解した」

 キッチンに立つのは稀な戒真だが、手伝いをするのは嫌いじゃない。龍久の作るパンケーキは辞書並みに分厚く、果物も生クリームもてんこ盛りなので、気分が浮上する。

『クリームが飛ぶので私は避難します』

「すまない、朝霧」

 手際のよい龍久が生地の準備をしている間、戒真は渡されたガラスボウルに入った生クリームをひたすら泡立てる。
 これはなかなか苦行なのだが、美味いものを口にする為の労働に戒真は文句を言わない。龍久は鼻歌を歌いながらホットプレートの用意をする。

「聞いたことのない真言だな」

「ものすごい遠回しに音痴って言われんのが一番傷つく」

 生クリームに角が立つ頃には戒真の顔はクリームの飛沫だらけだ。
 顔を拭われながらも戒真が首を傾げると、朝霧が『戒真、歌ですよ』とフォローしてくる。

「生クリーム・エベレストを減らされたいか」

「嫌だ」

「悪気がないのって厄介だよなあ。ほれ、焼くから座ってろ」

 テーブルの上は準備万端整っている。朝霧も戒真の膝にのって、じりじりと焼けるのを待つ。ホットプレートは一気に焼けるから楽だ。みるみるうちに膨らむ生地を、龍久が裏返すとそれは綺麗なきつね色になってた。

「何度見ても腹が鳴る」

「お前はいつでも腹が鳴ってるだろ。ほら、焼けたから皿を貸せ」

 約束通り、戒真には三つが皿に積まれて程よく解凍されたマンゴー、ブルーベリー、ラズベリーが彩る。その上から惜しみなく生クリームを積まれたら、もう口の中は大洪水だ。

「頂きます」

「どーぞ」

 反対に龍久はシンプルにハニーコームバターと少しの生クリームだけ。その代わり、どこから出してきたのか黒蜜をかけて食べ始めた。

「生地は簡単なんだけど、トッピングの用意が面倒なんだよなあ」

『ほとんど冷凍じゃないですか』

 口の中が常に満杯の戒真に代わって、朝霧が生クリームを舐めながら龍久につっこむ。暴風雨の音など聞こえないかのようにだらりとした空気の朝食。しかし、龍久が第二弾を焼こうと身構えると、突如インターフォンが鳴った。

「こんな日に来客か?」

「んな物好きいるかよ。宗教勧誘と新聞ならお断りだっつーの」

 龍久がややいらつきながら大股で、ちかちかと赤いランプが光る室内マイクの通話ボタンを押した――思えば、この時、暴風雨で視界が悪かったとはいえ、カメラの映像をちゃんと確認しておくべきだったのだ。

『龍久ー、あ・た・しー!! 新幹線が止まっちゃったから入れてー』

「……この家は空き家です……」

『嘘でももう少しマシな嘘つきなさいよ!!』

「空き家だっつってんだろ!! 帰れ、妖怪!!」

『なんですってえ!?』

 龍久はぶちりと通話を終えると、何事もなかったかのようにパンケーキの生地を焼き始める。
 気を遣ったのは戒真と朝霧の方だ。

「龍久」

「俺はなにも見てない」

「現実逃避はよくない」

『そうですよ。あなたには終わった恋愛でも、あの方には』

「朝霧、違う!! 盛大な誤解だ!! あれは元カノなんかじゃねえ!!」

 龍久の言い訳を遮るように、玄関からバタンという音と「やだ、下着までびちょびちょだわ」と先ほどの女の声が聞こえてくる。

「戒真、スマホよこせ。不法侵入者。警察、呼ぶ」

「片言になっておるぞ。私達なら気にするな。パンケーキが焦げるゆえ、話し合ってこい」

「だから違うって!!」

「なにが違うのよお。電話も着信拒否にしてるし、どういうつもり?」

「……どうやって入ってきた、不審者」

 女はヘアピンを掲げてぺろりと下を出す。
 堂々と部屋の中に入ってきたのは真っ赤な口紅を引いた女優のような女だった。しっとりと濡れた茶髪は背中まで綺麗に手入れされており、下着が透けているシャツは胸元がはち切れそうだ。
 龍久が理想にしている「フジコちゃん」が目の前にいる――なぜ別れたのだろうと戒真と朝霧は顔を見合わせた。

「帰れ!!」

「だから帰ろうにも新幹線も飛行機も止まったんだってば――あら?」

 女と戒真の視線がばちりと合った。

「……龍久あ、隠し子と優雅に朝ご飯って、お母さん、感心しないわよ? 教師になったんでしょ? 学校にチクられたらどうすんの?」

「誰が隠し子か。あんた、本当にじいさんからなにも聞いてないんだな」

「龍久、気のせいか? 今『お母さん』と聞こえたのだが……」

「気のせいだ。この女、妄想癖あるから」

「ナチュラルに大嘘吐くんじゃないわよ……!! 似なくていいところまで熱田のお父さんにそっくりなんだから!! はじめましてー、龍久の実の母の倭子しずこですー」

 戒真と朝霧は凍り付いたまま動かない。キャパシティーの飽和によるスリープモードだ。

「……ったく、戒真も朝霧まで固まっちまったじゃねえか。とりあえず家の中を濡れたストッキングで歩くな。風呂で着替えたら出ていけ」 

 「塩対応!!」と叫ぶ倭子をリビングから蹴り出して、龍久はまた席に座り、「管理会社に言って二重ロックにしてもらお」などとぶつぶつ言いながら焦げずに済んだパンケーキ第二弾を戒真の皿に盛りつけた。

「あれ、勘当された俺の母親。とっくに再婚してるから苗字も違うし、じいさんには縁を切られてるからもう他人なの」

『お姉さまの間違いでは? 年齢が……』

「俺は十八の時の子だからな。化粧品会社の社長だとかで若く見えるだけ。五十はとっくに超えてる」

 唖然とする戒真や朝霧に淡々と答え、龍久は心底嫌そうにパンケーキを口に運ぶ。食事の手を止めた戒真に「お前が気にすることじゃない」と生絞りのリンゴジュースが入ったコップを戒真に渡してきた。

「本当に母親なのか? 私に気を遣わずともよいのだぞ?」

「信じろ!! 実の母親だってば!! なんならじいさんに電話してみろよ」

「やーね、広蛇ちゃんに電話なんかしたらもっと塩対応よ」

「下着だけで歩くな!! 教育に悪い!!」

 朝霧が小さな前足で戒真の目を塞ぐ。ぎゃいぎゃいと叫ぶ龍久もなんのその。倭子はまたリビングから追い出された。
 やっと戻ってきた時にはなんとかロングTシャツとジャージを穿いて「口うるさい息子でごめんねえ」と戒真の前に腰かける。

「いえ、はじめまして。熱田の中野家にお世話になっております戒真と申します。こっちの猫は朝霧です。倭子様」

「可愛いわねえ。戒真ちゃん、歳はいくつ?」

「十六です」

 げっそりとしている龍久に「私のパンケーキも早く」とねだる。化粧を落としても、倭子は華やかな美しさが感じられる。朝霧が擬態した人間の姿のようだと戒真はさらに追加されたパンケーキにナイフを入れる。

「あんた、旦那はどうした?」

「えー、んなもんとっくに別れたわよ。聞いてよ、あいつ、あたしの秘書と浮気してたのよ!? もう、股の一物切り落としてやろうかと思ったわ」

「……食卓での話題を選べ。戒真の悪影響にしかならねえな……離婚だかなんだか知らねえけど俺はとっくに他人だ。今日は泊めねえぞ。それ食い終わったら一番近いホテルまでタクシーで行け」

「……たっちゃん、冷たい……!! 昔はママがいないって泣いて」

「無かっただろ。泣かないのをじいさんとばあちゃんに心配されたくらいだもんね」

「知ってるー……」

 さめざめと泣く倭子と眉間に皺が寄りっぱなしの龍久はテンポの良い会話をする。戒真と朝霧は無言で奇妙な遺伝子の繋がりを観察していた。 

 そこへ倭子が「ところで」と戒真に突如笑いかけるので、身体と心臓が跳ねる。

「顔の隈取といい、随分不思議な『オーラ』を持ってるわね。一目見た時から思ってたんだけど、十二のほのおと、なにかしら、青紫――や、瑠璃色の神気持ち。変わってるわねえ」

「瑠璃色の神気?」

 龍久がぴくりと反応すると、倭子はパンケーキを嚥下すると「見えないの?」と首を傾げた。

「あんた、草薙剣なんて物騒なもんが使えるのに、『神眼』は無いのね」

「ちょ、ちょっと来い……!! 戒真、食い終わったら皿だけはシンクに置いておいてくれ」

「わかった」

 「まだ食べてるのに!!」とごねる倭子の首根っこを掴んで、龍久と倭子はリビングから出て行った。

「母と子とは、あれほど慌ただしいものなのだな」

『違いますよ……倭子様は特殊です。それにしても寂しい食卓になってしまいましたね』

「朝霧が居るから私は別段なにも感じぬが」

 戒真はボウルに残っていた生クリームを丼の汁を飲むように口に流し込むと、両手を合わせて一礼する。朝霧は機嫌がよく戒真にずっと身体を擦りつけていた。





「なによ、ママを寝室に連れ込むなんて……あたし、そういうプレイには非対応だからね」

「鳥肌が立つような想像してんじゃねえよ……!! ただ質問があるだけだ。あんた、『逢魔ヶ刻の連れ人』ってどう思う?」

 龍久の表情から戒真が絡んでいるのを察知した倭子はしばし考え込む。

「言葉通りに受け取るなら、何かしらの縁が合って必然的に出逢った人物でしょうね。でも、あの子の場合、十二の焔を覆うように『神気』があるのよ。こう、ふわふわした感じ。すっごく淡い膜みたい。持ち主は一般人か、ただの無自覚か。けど、あの業炎を抑えてるっていうか、包んでいるからにはかんなぎの素養はあるんでしょうね」

 龍久は尻ポケットからスマホを取り出し、一枚の写真を倭子に見せた。

「こいつか?」

 糸蔵女学院の制服を着せられた戒真と並ぶ、ショートボブの少女――瑠璃である。

「うん、この子。戒真ちゃんの友達? やっぱり女の子っていいわねえ。この写真、私にも送って」

「断る。さりげなく俺の連絡先も手に入れようって魂胆が見え見えなんだよ。まあ、いいや。『逢魔ヶ刻の連れ人』ってワードがずっと引っかかってたんだが、やっぱりなにかしら意味がありそうだな」

 すげなくされた倭子は唇を尖らせる。

「――ねえ、龍久。あんた、戒真ちゃんをどうしたいの?」

 にたりと妖艶に笑んだ倭子は、ごみでも見るように見下ろしてくる龍久に負けじと上目遣いで視線をぶつけ合う。

「あんたに関係ない」

「あるわよ。だって――やっぱりやめとく。あたし、野暮はしたくないのよねえ」

 龍久にひらひらと手を振って倭子は寝室を後にした。龍久からは大きな舌打ちが漏れる。

「これだから確信犯ってのは嫌いなんだ」

 龍久は苦々しくそう言うと、リビングの戒真に手を振っていた倭子の後ろでタクシー会社に電話を済ませる。

「十分ほどで来るとよ」

「ありがと。じゃあねー、戒真ちゃん、朝霧ちゃん、また遊んで」

「なにもお構いできませなんだ。すみませぬ」

「うちの娘になってくれればいいわ」

 倭子が最後に言い残した言葉に、戒真は首を傾ける。龍久に尋ねようにも、顔が不機嫌極まりない。倭子の香水と化粧の匂いがする部屋に匂い消しのスプレーを振りかけまくった後で、龍久はソファに倒れこんだ。
 思わぬ収穫があったにせよ、せっかくの休日が台無しだ。

「……疲れた」

「洗い物は私がやっておく。しばし休め」

 龍久の頭を軽く叩く戒真の隈取を龍久はするりと撫でた。

「なんだ?」

「いや、なんでもない。お言葉に甘えて、洗い物は任せる。昼と夜も買い物に行けそうにないから、冷蔵庫を見てリクエストを考えといて」

「わかった」

 龍久は戒真が去った後、うとうととし始める。ホットプレートの片づけも、なにもかも後でいいと夢の中に入りかけた瞬間――朝霧が歌うように囁く。

『母君はお見通しでしたね』

 なにも言い返す気もできず、意識を手放した。


 ――あんた、戒真ちゃんをどうしたいの?


 そんなもの、答えはとうの昔から胸の奥にしまいこんでいるっつーの。


続...
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