逢魔ヶ刻の連れ人-神世百鬼夜行-

紺坂紫乃

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壱、戒真と朝霧

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 朝霧あさぎり、と戒真かいまは唯一の友に擦り寄った。ぐるる、と喉を鳴らす友もまた長い尾で戒真を優しく包み込む。

「行こうぞ。――黄昏時が近い」

 シャンと手にした錫杖が高い音で鳴いた。


 壱ノ丸町は海抜六メートルの長い湾曲した坂の上にある閑静な住宅街だ。
 吉岡よしおか瑠璃るりの家は坂の下にある駅から、十分ほど坂を登りきった壱ノ丸町一丁目内にある。今日も昨日と同じく、部活でへとへとになりながらもその坂を登って行く。

「うう……今日は先生が出張だから、早上がりできて良かったあ。夕陽を拝みながら帰れるなんて、一カ月ぶりだよ」

 連れ立つ者もいないのに、瑠璃は思わず愚痴を零した。
 高校の入学祝いに両親から貰ったスクエア型の腕時計を見ると、時刻は午後六時を指そうとしていた。瑠璃は肩の弓袋と矢筒を背負い直す。
 すっかり葉桜になってしまった桜の樹を、黄色に染める夕陽を高台の上から眺めた。
 瑠璃はこの街から快速列車で二駅の糸蔵いとくら町にある高校に推薦で入学した。中学校の頃から弓道部に入っていた瑠璃は、中学校時代にそこそこの成績を残せた為、県下でもっとも弓道の強豪校である糸蔵女学院に入った。
 糸蔵女学院は弓道や剣道の強豪校でもあるが、実は制服もとても清楚で可愛らしい。そんな理由だけで入学してくる同級生も少なくない。
 今はまだ白いワンピースに紺のカーディガンとソックス、そして黒のローファーを装っているが、梅雨が過ぎれば淡い水色の夏用ワンピースと白のソックスに変わるだろう。瑠璃は衣替えをとても楽しみにしている。
 衣替えのことを考えると、先ほどの疲れはどこへやら、瑠璃は鼻歌を口ずさみながら、壱ノ丸に入る四つ角にさしかかろうとしていた。

「あれ?」

 狭い四つ角は今朝となにも変わらない、はずだった。
 ところが、今は黒い袈裟けさ姿の人が立っている。その横顔から察するに、まだ十二、三くらいの少年だろうか。左手には彼の身長を優に超す長い錫杖を手にしている。

「お坊さん……にしては、若すぎるよね。ズボンとブーツ履いてるし」

 瑠璃には振り向きもせず、彼は真剣な眼差しで正面を睨みつけている。だが、突如、はっと弾かれたように瑠璃の方を見た。
 先ほどは右半分しか見えなかったせいで、彼の顔の全貌が明らかになる。しかも、唐突に瑠璃の方を見るものだから、瑠璃も吃驚する。

「おい、馬鹿か!? 早く逃げろ!!」

 顔の右半分に朱色の隈取を施してある白髪の少年は、少年期特有の高い声で瑠璃にそう叫んだ。

「え? へ……!?」

 瑠璃は状況が判断できなかった。
 いったい何から逃げろというのか。瑠璃の家は、もう目と鼻の先なのだ。逃げるもなにも、彼が立っている四つ角を曲がらなければ、家には帰れない。
 そんなことを考えていると、彼は急に空へと飛び退った。
 同時に響く轟音と舞い散る灰燼かいじんに、瑠璃はますます混乱を極める。

 ――少年の立っていた場所が、いきなり陥没したのだ。

「聞いているのか!? ここは危険だと言っている!!」

「で、でも……だって、私の家、すぐそこ……!!」

 身軽にも、少年は滞空しながら体勢を立て直した。錫杖の高い音が鳴る。

「くそ……これじゃあ、碌に戦えやしない。口惜しいが一旦退こう。――朝霧!!」

 少年が歯噛みして、そう叫ぶと瑠璃の身体はふわりと浮き上がった。混乱が極限に達しようとした時、自分は巨大な黒猫の背に乗せられていることを知る。
 さきほどの少年も共に背に乗せたまま、猫は当たり前のように空を走り、瑠璃は自身の家の屋根を空から見下ろしていた。

「は、離して!! 私の家、あの焦げ茶色の屋根のところなの!!」

 白髪の少年に向かって叫んでも、彼は瑠璃の言葉には耳も貸さず、猫の走ってきた足跡をじっと見つめていた。

「……お前、あれが見えないのか? お前が家だと言ったところをよく見てみろ。――憑かれているぞ」

「なにを……」

 言っているのか、と家を見下ろすと黒い影の塊のようなものにすっぽりと覆われていた。

「な、なに……あれ……?」

「お前の家族構成は?」

 瑠璃の問いに答えず、逆に問い返してくる。堪忍袋の緒が切れた瑠璃はぎっと少年を睨んだ。

「そんな事、今は関係ないでしょ!? 本当になんなのよ、あんた!!」

「良いから大人しく答えろ。大いに関係があるから、聞いているのだ。逢魔が刻に、お前は私の仕事を邪魔した。家族の命が惜しければ話せ」

 少年の冷静な声で「家族の命」と言われ、家を覆っているどろどろとした影を再度目にして、瑠璃は震える唇を漸う開いた。

「……父と、母。それと姉が二人と弟が一人、です」

「では、父親の仕事は?」

「だから!! なんの関係が!!」

「同じことを何度も言わせるな。これでも気長に待ってやっているんだ」

 いらついているのか、どんどんと少年の視線は鋭さを増していく。
 今度は瑠璃が歯噛みしていると、猫ががくんと大きく揺れた。

「朝霧!! 小娘、早く答えろ!! 我々も危ういのだぞ!!」

 瑠璃の家を覆った影は、気がつけばこちらに何本もの触手を伸ばしてきていた。それを盾にした錫杖で少年が守ってくれている。

「良いか、あれはお前の家族――おそらく一家の大黒柱である父親への怨念だ。大人は子供には仕事の内容は話さないかもしれんが、あれは相当な恨みを買っているぞ……」

「パパが? ……そんな、だって……普通のサラリーマンだよ? 建設関係の役員で、どこにでもいるような、寡黙な……」

「建設関係か。ならば部下に命じて、どこぞの土地神の住処を荒らしたのだろう。だから、あれはお前達を恨んでいる。……足場が不安定だが、気にしていられないな。仮にも神祓いだ――衝撃を覚悟しておけ、と……お前、弓が使えるのか?」

「え、う、うん。弓道部だから……」

 少年は愕然としている瑠璃を庇うように、猫の上に立ち、懐から長い数珠を取り出した。

「な、なにをするの!?」

「黙っていろ。舌を噛むぞ。矢を一本だけ貸せ。……ふむ、方角はうし。なればこの御方にお願い致そう」

 瑠璃の矢筒から無理やり一本の矢を、取り出し、抗議する瑠璃を黙らせると少年は、数珠と錫杖を手にして、柏手を打つ。

『――我が身にします、いと貴き御方おんかたかしこみ畏み申す。激しい大いなるすがたと豪炎にてさわりを除き給え!! 今、我が身を糧とし、顕現けんげんし給え――招杜羅しょうとら大将!!』


 呪言と共に錫杖を数珠から、火炎放射器の如き勢いで業火が影を焼き尽くしていく。あまりの熱風に思わず瑠璃は両手で顔を庇った。

「土地神よ、貴方の地に塚を築き、その御霊みたまをお祀りします。心安らかに……鎮まり給え」

 錫杖を弓の代わりにして、少年は矢を影に放つ。矢は吸い込まれるように、影の中心部を射るときらきらと光の帯となり、瑠璃の家から離れ、消失した。

「消えた……」

「祟り神となりかけていたのを焔で浄化したのだ。連れ回して悪かったな。家まで送ろう」

 少年は「朝霧」と猫に一言囁くと、黒猫は音もなく瑠璃の家の前に着地した。

「ではな」

「あ、ま、待って。貴方、何者? よく解らないけど……一応、うちを助けてくれたのよね。さっきは乱暴な言い方してごめんね。――ありがとう」

 瑠璃の言葉に、少年はこれでもかと言う程、目を見開いた。

「ちょっと?」

 放心している少年の眼の前でひらひらと手を振ると、はっと気が付いて頬を染めてもごもごと小声で話す。

「すまない。……この力で、誰かに礼を言われたのは初めてなのだ。お前の名を聞いても?」

「瑠璃よ。吉岡瑠璃。貴方は?」

「戒真だ。真実を戒める、と書く。瑠璃……か。美しい名だ。では、瑠璃、いずれまた逢おう」

 また、とはどういう意味かを尋ねかけたが、戒真は文字通り烈風と共に去ってしまった。空には、戒真が祓った神の光の残滓が未だ残って、暮れ行く空で天の川のように輝いていた。





 翌日、朝練は集中できたものの、昨日の衝撃が忘れられない瑠璃は、午前の授業が散々だった。特に三限の日本史では、当てられる日であったことも忘れていて、先生から軽いお叱りを受けてしまった。

「瑠璃さん、どうしましたの? 目の下に真っ黒な隈ができていますよ?」

「あ、由美子ちゃん……ちょっと、昨日ショッキングなことがあってね……。眠れなかっただけ」

 入学当初から仲良くしてくれている松野由美子は、ごく普通の家の生まれなのにとても上品な話し方をする。本人は「大好きな漫画の影響ですの」と、一歩間違えればオタクだと捉えられそうな発言をあっけらかんと話すので、これについては誰も言及はしない。
 今は由美子の優しさがありがたかった。

「叱られたのも、中野先生の日本史で良かったですね。きっと英語の渡辺先生だと、ねちねちとしつこく言ってくるに決まってます」

「うん……そうだね。――あのね、由美ちゃんは神様って信じる?」

「信じるもなにも……私の祖父は神主ですし、お正月には私も巫女のバイトを手伝っていますのよ? 信じないとは言えませんわ」

「え!? そうだったの!? ご、ごめん……知らなかった」

 瑠璃が改まって、苦笑する由美子に謝ると「だって話していませんもの」と朗らかに笑って彼女は瑠璃の隈をそっと撫でた。由美子は背中まである長い黒髪を毎日変わるシュシュでふんわりと結っている。温和な性格も相まって、共学校に進学していたらさぞモテたことだろう。
 対して、弓道にしか目が無かった瑠璃はいつも味気の無いショートボブだ。髪の染色は校則で禁じられているので染められないが、由美子のような軽いメイク程度なら許されている。

 ――瑠璃、か。美しい名だ。

 突然、昨日の去り際に戒真が残して行った言葉がリフレインする。名前をあんな風に褒められたのは初めてだ。

「……由美ちゃん、あの、今度で良いから私にもメイクの仕方を教えてくれる? こんな隈とか隠したい時に、役立つんじゃないかと思ってね!!」

「まあ、喜んで!! 明日にでも簡単なメイクセットと雑誌をお持ちしますわ!!」

 瑠璃の苦しい言い訳もなんのその、由美子は微塵も疑わず、快諾してくれた。
 戒真とは次に逢えるのかは定かではない。それでも、少々女の子らしくしても罰は当たらないはず、と瑠璃は己に言い聞かせた。





 猛烈な眠気と闘いつつも、部活を終えた瑠璃は部活終了の号令と共に崩れ落ちた。

「お、終わった……!!」

 開放感に喜んでいる瑠璃を見て、先輩らや同輩に「大袈裟」と笑い者にされてしまったが気にしている余裕もない。
 今日は時刻も遅いので、帰ったら夕食と風呂を済ませてすぐにベッド行きだと意気込んでいたら、無情にも日本史の教諭である中野から呼び出しを受けてしまった。打ちひしがれる瑠璃を、部員達に慰めてくれた。

「うう……中野先生は、授業態度とかに厳しくないと思ってたのにぃ……!!」

 泣き言を漏らしながら、昨日と同様、弓と矢筒を携えて指定された準備室の扉をノックする。

「どーぞー」

 覇気のない声は、とてもやる気のなさを感じる。

「失礼します」

 だが、一歩準備室に入って、校内であるにも拘わらず、堂々と煙草を吸っている中野の前に立つ小柄な人物を発見して瑠璃は思わず声を大にした。

「か、戒真!? どうしてここに居るの!?」

「え、なに。お前ら、知り合い?」

 銜え煙草のまま問いかける中野に、戒真の表情が険しくなる。

「昨日、祓魔ふつまの時に居た娘だ。お前が名前に心当たりがあるといったのではないか、タツヒサ」

「まあ、そうなんだけどね。吉岡、とりあえず入って。説明すっから」

 中野龍久は、灰皿に煙草を押し当ててもみ消した。瑠璃は躊躇いつつも入室し、戒真の前に立った。その肩には普通の猫のサイズになった朝霧が乗っていた。よくよく見ると、朝霧も額から鼻筋にかけて朱色の隈取があった。

「これ、俺が面倒みてる戒真っての。昨日、秘密がバレたって言うから、口止めに来てもらっちゃった。悪いね」

「あの……戒真は中野先生のご親戚かなにかですか?」

「いや、欠片も関係ない。隠し子でもないから、誤解の無いように。俺、フジコちゃんみたいな彼女を絶賛募集中だから、こんなちんちくりんには興味ないの」

「龍久、戯れはその辺にしておけ。燃やされたくないのならばな」

「なに、怒ったの? 安心しろよ。まな板でも貧乳はステータスだぜ、戒真」

 いよいよ戒真のこめかみに青筋が立った頃、瑠璃が話に割って入った。

「ちょ、ちょーっと待ってください!! 戒真……女の、子……?」

「ああ、瑠璃も男だと思っていたのか。別段性別にこだわりはないが、その反応はいささか傷つくな」

「だからー、いつも言ってんだろ? ここで生きるなら十六歳らしくしろって。今ならまだボーイッシュで許されるから」

「しかも同い年!?」

 昨日の今日で衝撃が多すぎる。きっと今日も安眠は不可能だと瑠璃は覚った。

「ショックを受けているところを悪いんだけどさ、こいつの正体がバレちゃった上で色々説明したいから、明日の昼休みにまた来てちょ。今日はもう遅いから明日ね」

 頭を抱えて唸っている瑠璃に龍久は遠慮なく話を進めていく。そして言いたいだけ言い終えると、瑠璃を準備室から放り出した。

 ――いずれ、また。
 
 戒真の言葉が、昨日の今日で果たされるとは予想外にも程がある。猫背になった瑠璃の背中に戒真が「気をつけて帰れ」と案じてくれたことだけが心をほんの少し軽くしてくれた。

「うん、また明日ね」

続...
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