傾国とか社交界の蝶とか普通に悪口

樹 史桜(いつき・ふみお)

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101 あ~ら、お久しぶり

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 メイドの悲鳴が聞こえた方を見た瞬間、急に背後からぶわりと何かが真横を通り過ぎるのを感じた。
 アビゲイルの真横を通り過ぎて、空中を黒い豆粒のようなものがぶんぶんと無数に飛び交っているのを見て、その羽音と飛び方を見て、アビゲイルは背筋に怖気が走って立ち竦む。
 
「はちさん、へん」

 ジオ少年の声がやたら冷静に聞こえる。そしてすぐ四阿にいるメイドたちの悲鳴が大きくなる。
 
「きゃあああっ!」
「蜂よ!」
「落ち着いて、刺激してはだめよ!」

 そうだ。蜂に遭遇したら払ったり叩き落そうとしたりしてはいけない。じっと動かずに通り過ぎるのを待つしかない。
 アビゲイルはそんなことを思ったけれど、実際はあえて動かないのではなくて、足がすくんで動けなかった。
 恐怖が蘇る。あのフォックス家を代々見守ってきた妖精たちを食べてしまった、あの巨大な化け物蜂。あれに半裸に剥かれて尻から串刺しにされそうになったことを思い出してしまった。
 
 怖い、怖い、怖い! またあのような恐ろしい目に遭うのかと思ったら心臓が爆発するんじゃないかと思うほど早鐘を打つ。
 歯はガチガチ鳴っているし、背筋が震えて気を失いそうになるけれど、ここで倒れたりしたらお腹の子に障る。まだ胎内に来てくれたばかりで落ち着いてもいない小さな命を、ここで危険な目に合わせてはいけないのだ。
 そう思ったら恐怖は冷静さに変わる。
 
 落ち着け。これはただの蜜蜂だ。花畑に蜜を取りに飛んできたただの働き蜂で害虫ではなく、むしろ花から花へ渡りゆくうちに花の受粉を手伝う益虫だ。こちらが危害を加えなければ何もしないはずなのだ。
 
「へん」

 ジオがアビゲイルのスカートにしがみつきながら、その蜂たちを指差して言う。アビゲイルはジオを抱きしめながら動かずに蜂が行き過ぎるのを待つ。
 
 だがジオの言う「へん」の言葉通り、あの蜂たちはアビゲイルたちとメイドたちがじっと動かないにも関わらず、一向に去る気配がない。それどころかどんどん集まって数分前よりもずっと数を増やしている。
 
「……姫様!」
「……!」
 
 こちらを見て侍女たちが悲鳴を上げる。そして彼女らの周りに煙が立ち込めているのが見え、次の瞬間に彼女らはばたばたと倒れてしまった。
 煙の匂いがする。煙草の紫煙の匂いだ。それはどこかで嗅いだ覚えのあるものによく似ている。
 そんなバカな。あれは、完全に摘発されたものだろうに。
 
 エンジェル・アイズ。強い酩酊状態に陥らせる、新種の麻薬。
 咄嗟に両手で口と鼻を覆う。この香りを嗅いではいけない。
 
「ジオ、この匂い、嗅いじゃダメ……!」

 聞き分けの良いジオは、すぐに肘で顔を覆った。

「おねえちゃま、あれ」
「え……なに、これ」

 ジオが指さした先が明らかにおかしいとわかったのは、蜂がアビゲイルの前方に密集してきたことだ。空中でホバリングをして、隙間を縮めていき、何万居るのかと思うほど集まったと思えば、空中で何かを形作っていた。
 
 顔であった。空中に大顔面を形作る蜂の群れ。その顔面の口を何かを喋るように動かして、羽音で音階を作り人の声色を真似るようにそれは喋る。芸が細かい。
 
「お久しぶりです、アビー姫」
「……!」

 聞き覚えのある声だった。少し男の色を含んだテノールボイスだ。最後にこの声を聞いたのはいつだったか。
 
『面白い物があるのです。一緒に見に行きませんか?』

 過去、漂う紫煙の香りに、それ以降のセリフを覚えていないが、その時の声によく似ていないだろうか?
 そう言っていたのは誰だったか。ああ、蜂達の形作るその顔、見覚えがある。
 
 そうだ。アビゲイルが前世を思い出すきっかけとなった、あの夜会において、摘発された秘密の麻薬乱交クラブに、仮面をつけて誘ってきた男。
 放蕩時代のアビゲイルの知り合いということで、チヤホヤしてくれるという理由で上辺だけの付き合いであった男。
 エンジェル・アイズの使用及び所持、さらに売買に携わっていた罪により一時投獄され、裁判で有罪。侯爵家は爵位降格によりかろうじて一代限りでない男爵位となったシズ家の元当主。平民とまではいかないが、異母兄弟にその当主の座を譲らされ、老いた母親の嘆願によりかろうじてシズ家に在することを許されている筈の男。
 
「ウォルター・ベイル・シズ……殿」

 蜂の群れが形作るその大顔面は、かつてのその優男風のシズ元侯爵、ウォルター・ベイル・シズ氏―ここではただのウォルターだが―の顔そのものだった。
 そして、その大顔面はぶわりと散って解けたかと思うと、再び密集して蜂球をつくり、今度は等身大の人型を模してゆく。空中に旋回していた蜂も徐々に集まって更に密集した。それが次に形作ったものは、どう見ても蜂の集団とも思えぬまごう事なき一人の人であった。
 
 結びもせずにだらりと下ろした長髪は白いものが混じって煤けており、整えられていない無精髭がもみあげと繋がって乱雑に絡まっている。
 やや頬のこけたその表情はかつての優男風の紳士然としたものをまるで感じさせず、そのボロボロの外套や薄汚れた服や煤けたブーツなどから、その落ちぶれ加減を彷彿とさせた。
 
 警戒してじりじりと後退するアビゲイルを見て、破顔し大げさな身振り手振りで喜びを表すウォルター。
 
「会いたかったですよ。私のアビー姫」
「……あ、あ~ら、お、お久しぶり、ほほ……」

 人物そのものにも驚いたけれども、それ以前に、この能力は一体なんなのだろう。蜂の群れから姿を現すその力。まるで、魔法。この世界において、人間に魔法を使うことはできない。いや、これが実体でないにしても、蜂が擬態してリアルなこの姿を表現する能力なんて、まるで……魔物じゃないか。
 
「驚かせて申し訳ありません姫。あれから姫にお目にかかることがなかなかできなくて……」
「……あら、ほほほ……でしょうね……」

 怖さからそんな乾いた笑いが出るアビゲイル。
 同じ侯爵位だったからこそ、ウォルターはあの夜会で親密にアビゲイルの手を取ることができた。男爵位まで降格したシズ家のさらに居候となった限りなく平民に近い存在のウォルターが、侯爵令嬢であるアビゲイルに会うどころか近づくことすら許されなくなった。
 
 それが、どうしてこのヘーゼルダイン領に居るのだろう。そして、辺境騎士団に鉄壁で守られているはずのこの場所に、このような異質な者が居る違和感。
 いくら今日は祭りのように砦が一部開放されているからといって、この居住区の庭園までは解放していないし、門番だっているはずなのだ。
 
 それなのにどうして……と思ったが、鍵となる物を思い出してアビゲイルは戦慄する。
 蜜蜂だ。いくら騎士団が怪しい物を取り締まったとて、益虫であり、ヘーゼルダイン特産の蜂蜜をつくるために養蜂家が飼う蜜蜂の行方まで取り締まっているはずもない。
 
 飼われているとはいえ、半野生の蜜蜂を使役して、魔法のように姿を現したり攻撃したりするなんて、普通の人間にできることじゃない。
 出来るとすれば、魔法国ルビ・グロリオーサ魔王国の魔族と呼ばれる人々、そして魔物たちだろう。
 しかし、ウォルターは人間だ。そのような力があるなんて誰も知らないし、少なくとも社交界に居たころそんな能力などなかったはずである。もしそんな能力を持っていたら、社交界どころかこのロズ・フォギアリア帝国において危険要素とみなされて隣国ルビ・グロリオーサ魔王国の預かりとなっているだろう。
 
 だとすると、この数か月の間に、彼に何があってこうなったというのか。
 
 そんなことを頭の中でぐるぐると考え巡らせているアビゲイルをよそに、至極ご機嫌な様子のウォルターが意気揚々と語り掛けてくる。
 
「さあ、このような場所から、姫を救い出して差し上げよう。熊もかくやというあの西辺境伯の傍になど、もういる必要はないのです。貴方は自由だ、アビー姫」
「……何を、仰っているのか」
「テルバ・リリ・アルヴォリトゥルム」
「え……」

 謎の呪文がウォルターの口から唱えられた。次の瞬間にアビゲイルの足元に赤い光を放つ魔法陣が出現する。
 何処かで見た魔法陣であり、それにどこかで聞いたような呪文であった。
 
「それ……妖精の……!」
「フォックス家に巣食った妖精は私に素晴らしい力を与えてくれましたよ」
「……みんな、起きてぇーっ!」
 
 咄嗟に出たアビゲイルのファルセットの呼び声が届いた、四阿で倒れていた侍女たちが見たものは、何者かの男性の形がぶわりとはじけて無数の蜜蜂となって飛び去る様子と、突如出現していた赤い魔法陣の光の中、叫ぶアビゲイルの姿があっという間に消えてしまう様子であった。
 
 アビゲイルの姿はどこにも見えなかった。そして、彼女の横にいたジオの姿も。
 
「ジェフ様に、ジェフ様に知らせて! 殿様にご連絡を! 姫様が誘拐されたわ!」
「殿様は今はベラルーカの森の中ですわ!」
「ジオもいないわリサ!」
「……っ、とにかくジェフ様に知らせてお知恵を!」

 蜂の姿が一匹たりとも居なくなった庭園で、リサら侍女たちは大慌てでジェフに知らせに行った。
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