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87 前世の母の格言

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 しばらくアレキサンダーの肩に顔を埋めて涙が止まるのを待って、ようやく止まって落ち着いた頃には、気持ち的にすっきりしていた。
 もうすっかり化粧も取れてしまっているし涙で目元がカピカピだ。

 きっとここの使用人たちは、お騒がせな主人とその婚約者に呆れているだろうなあと思うと顔から火が出そうになるが、もう開き直るしかない。劣等感というのは本当に恐ろしい物だ。

「……大丈夫かアビー?」
「……はい。でもきっと今すごいみっともない顔してます」
「そんなことはない。音に聞く宝石の姫だろう?」
「その異名恥ずかしいんですよね……」
「傾国とか社交界の蝶とかよりは随分ましじゃないか」
「あー、その言葉久しぶりですねえ」

 ふとリビングの隅にあるアンティークの柱時計を見ると、もう既に夜の十一時を過ぎている。人の家にお邪魔するにしてもいい加減に帰らないといけない時間だ。
 アビゲイルはアレキサンダーと抱き合ったまま、時計を見て溜息をついた。

「もうこんな時間……」
「そうだな……」
「……帰りたくないなあ」
「…………泊まるか?」
「え、でも……」

 アレキサンダーの言葉に、思わず手を緩めて彼に向き直る。

「いくら馬車とはいえ、こんな時間になってしまっては危険だ。それくらいフォックス侯爵も許してくれるだろう。一応、使いの者をやる」
「あはは、お説教確実かも~」
「何を面白そうに」

 まあ、正式に婚約者と決められた人の家に泊まるなんて、貴族令嬢でもよくやっていることだ。アビゲイルがやったことがないだけで。そこで婚約者同士がどう過ごすかは、成人済の男女であればその人らの自己責任だ。
 父や弟が何と言うかはわからないが、母ならきっと許してくれそうだ。最近の母はすっかりアビゲイルの恋心を応援してくれているから。

「でも、アレク様はもう領地にお帰りになるのでしょ? 皇太子殿下のお祝いの夜会は終わったわけですし」
「いや、今回はあと十日は滞在するつもりだ。帝都の商業ギルドとの取引もあるし」
「え、それ聞いてない」
「すまない、忘れていた」
「じゃあまだ一緒に居られるのですか。嬉しい!」
「俺も嬉しい」

 今一度飛びついて抱きしめてから、おもむろに向き合って、どちらともなくキスをした。
 ちゅ、ちゅ、と触れては離す軽いキスは、仲直りのキスみたいなものだ。何度か触れあってから、おもむろに顔を向い合せて、お互いにクスクスと笑いあう。

「ごめんね、アレク様」
「いや、俺もすまなかった」
「変な喧嘩しちゃいましたね」
「喧嘩にもなってなかったけれどな。お互い明後日の方向の話をしていただけで」
「アイタタタ」
「ははは」
「……ねえアレク様。昔ね、聞いたことがあるんですけど」
「うん?」
「相手の良い所だけを見てあげるのが恋愛で、相手の悪いところも見てあげるのが結婚なんですって」

 それは前世で父の大音量かつ大悪臭の放屁を見て「やだお父さん! もうお母さんも何とか言ってよ!」と母に苦情を言ったら、母は慌てず騒がず換気扇のスイッチを入れて、そんなことを言っていたのを思い出して、今話してみる。

「ほう、何だか良い言葉だな」
「あたしもうアレク様にしょうもないところ見せちゃいましたよ」
「それは……俺も同じだよ」
「あたし本当にしょうもない子ですけど、それでもアレク様、あたしなんかでいいの?」
「アビーじゃなきゃ駄目だろうな。この先俺の醜態を見ても好きだと言ってくれる女性は現れない気がするよ。逆にアビーは俺などでいいのか? 君なら引く手数多だろうに」
「あたしもアレク様じゃないと駄目だなあ~……だって、あーんなことされちゃいましたし?」
「うっ……それは、その」

 それを言われると自己嫌悪に陥ってしまうらしいアレキサンダーがそのウルトラマリンブルーの瞳をアビゲイルから逸らした。それを逃がさないとばかりに、アビゲイルのほうから抱き着いて口づける。
 最初、目を見開いていたアレキサンダーも、アビゲイルの唇の感触にふにふにと彼女の唇を啄み始める。そして自然に口をそろりと開けて、アビゲイルの舌を誘導していく。

「ん、ふ、……っ」

 アビゲイルの甘い舌を堪能して、彼女の剥き出しの背中をさわさわと撫でまわし始めるアレキサンダーの手。アビゲイルは彼と舌を交わせながら「ん、ん」と反応し始めた。
 
 ぷは、と唾液の糸を引きながら口を離したころには、アビゲイルの涙目になったアメジスト色の瞳はもうすっかりとろんと情欲に蕩けだしていて、その表情にアレキサンダーの脳の一点がぐいぐい刺激を受け始める。
 
「はあ……アビー」
「ん、何、アレク様」
「……ベッドに行こう」
「はぁん……っ」

 アレキサンダーの男の色香を纏ったやや掠れた声に、惚れた弱みで腰砕けになってしまうアビゲイルは、膝をもじもじとさせながら彼の首に腕を回して抱き着いた。
 
「……連れて行ってくださいまし。早く……もう待てません」
「ああ、可愛い、アビー……!」

 濃厚なキスによって火照り始めたアビゲイルの身体を抱き上げると、アレキサンダーはリビングを出て寝室へと向かう。途中、廊下で待機していたジェフに、アビゲイルが本日タウンハウスに泊まる旨と、呼ぶまで寝室に近づかないようにと言い置いて、邸の階段を上り始めた。
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