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39 不穏な噂とつまらない嫉妬

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 ウォルター・ベイル・シズ元侯爵は例の麻薬の事業と乱交サロンの経営による後ろ暗い連中との関わりがあったことで、シズ家は今、皇帝の裁判によりその侯爵の地位は男爵にまで落とされている。多くの貴族を混乱させたとして爵位その物を剥奪されても仕方がなかっただろうのに、皇帝オーガスタの寛大なる判決により、かろうじて一代限りでない爵位を残してもらえた。
 
 そのかろうじて残った男爵位すらも彼の腹違いの弟に譲り渡されたので、今は家から勘当さえされていないものの、面汚しとしてただのシズ家の居候である。
 
 あの摘発の夜、アビゲイルの声、ラリマール曰く『七色の声』により、彼もまた後ろ暗い思いから覚めて、これまでのことを取り調べで悔いていたという。
 
 そんな彼を、家族が、特に彼の老いた母たっての頼みで保釈金を出して出獄したらしいと、使い魔を使って得た情報をラリマールが提供してきた。
 
「ご家族は大変そうですね……。紳士録にはたしか、弟さんには妻子がいらしたけれど、元侯爵……ウォルター殿には妻子はいらっしゃらないはずでしたね」
「高級娼婦たち数人と愛人関係にあったらしいけどね。羽振りの良いところが気に入られていたんだろうけど、それもあの麻薬密売で得た金だし、それが原因であんな事件を起こしたから、罰金やら裁判費用などで経済的に落ち込んだらしいよ。だから彼女らの高級娼館から完全に縁を切られたんだって」
「……金の切れ目が縁の切れ目というが、ある意味娼館というものはビジネスライクなものだな……」
「娼婦の方たちも例の『エンジェル・アイズ』という麻薬に犯された者もいたでしょうから、娼館としては売り物に傷をつけられたと思っているに違いないでしょうね」
「これからそういった恨み辛みが彼の犯罪に関係のない家族に向かないことを祈るばかりだ」
「馬鹿な男だよねえ」
 
 ウォルター自身に正式な妻はおらず、これからも彼に嫁の来手はないだろう。これ以上の遺恨を残すことがないように、正式な子供がいないことが幸いだと言われている。認知していない子供がいるかどうかは詳しくはわからないが、もしいたとして、そのような父親を持ちたい子供はいないだろう。
 
「怖がらせてごめんね、アビゲイルちゃん」
「いえ、あの……だ、大丈夫ですよ。何でかわかりませんけど、反省していたんでしょうし。心配することなんてないですよね、アレク様」
「そうだな……。社会に出たところで、元犯罪者として世間の風当たりは強かろうし、家族も醜聞を恐れておいそれと外に出さない気がする」

 爵位が降格して代替わりしたシズ家も馬鹿ではないから、いくら母の頼みであろうと保釈金だって相当払っただろうし、そのまま醜聞まみれの穀潰しを養う義理はないだろう。
 考えられる彼の処遇、それは良くて家を勘当されて平民になるか、地方の危険な強制労働、悪くて秘密裏に暗殺……などなど考えられることはあるが、それをアビゲイルの前で言うほどアレキサンダーもラリマールも無粋ではなかった。
 
 まあ、アビゲイルも前世の記憶を思い出してからは勉強もしたし、前世からの知識があるため彼らの言わんとしていることはわかっていたので、気を使わなくてもいいのにとは思ったのだが。
 
「多分彼は今のシズ家が外に出さないだろうから、帝都でどっかの夜会とかお茶会なんかにも呼ばれることはないと思う。アビゲイルちゃんに接触することはないと思うけど、一応耳に入れておこうと思ってさ」
「ありがとうございます。念のために出なきゃ駄目という夜会以外はなるべくお断りしようかしら」

 放蕩時代の振舞いを払拭して、両親と弟の評判に響かないようにと、軽々しくない程度に夜会にはまた出席をはじめていたけれど、落ち着くまでは控えた方がよさそうだ。
 ラリマールの情報の件の「ゆりり」であるラクリマ姫には話をしたいけれども、落ち着くまでは……それこそシズ元侯爵の処遇がきちんと決まるまでは、大人しくしているか、両親や弟から離れないほうがいい。
 
 アレキサンダーがパートナーとして出席してくれるのが一番いいのだが、まだ非公式に恋仲となっただけであり、婚約どころか両親への説得を先に行わなければならないので、それはまだ夢である。

「アレックスも、一度彼にカモられてるから、もうそんなことはないと思うけど、帝都に行く際は気を付けたほうがいい」
「ああ……次の帝都に行かなければならない式典や夜会などは何があったかな」

 アレキサンダーの呟きにジェフが懐から手帳を取り出して調べる。
 
「再来月に皇太子殿下の生誕祭がございます、殿」
「再来月か……」
「アビゲイルちゃんも出るんでしょ? アレックスに会えるじゃん、良かったね」
「え、あ……」

 その話を聞いて、アビゲイルは今さっきの心配をすっかり忘れ、再来月にはまたアレキサンダーと夜会で会うことができるという喜びに胸が熱くなってしまった。

 皇太子殿下の生誕祭とあらば、アビゲイルも参加しないわけにはいかない。しばらくご無沙汰していたおしゃれにも力を入れようかなとワクワクしてきた。
 まだ婚約していないため、エスコートは無理だが、会場でまたダンスを踊ったりして一緒にいられるかもしれないと思うと顔がにやけるのを止められない。

「か、可愛いドレス、選んじゃおうかな、アレク様はセクシー系のほうがいいかな……」

 一人熱くなった頬を押さえて、そんな心の声が出てしまったアビゲイルの表情と、目を白黒させているアレキサンダーの顔を交互に見て、ラリマールはわっるい笑みを浮かべた。そしてすすす、とアレキサンダーの方に寄ると、その肩をぽん、と叩いてニヤニヤしながら話しかける。
 
「もう骨抜きじゃないか彼女。守備は上々だったんだな? やればできるじゃないかこのむっつり助平」
「誰がむっつり助平だ。それにやってない」
「一発もか」
「下品なことを言うな。……というか、すまんラリマール。俺は君に対してアビーと仲が良すぎるのではないかといういらぬ嫉妬を向けてしまった。申し訳ない、君は色々と我らのことを心配してくれていたのに……」
「あー、なるほどね。さっき近づいてくるときの殺しそうな目はそういうことだったか」

 ラリマールはアビゲイルを自宅に帰す役割があり、そのためにアビゲイルに会いに、近所とはいえど国境を跨いでヘーゼルダイン領まで来ているのだから、何も問題はないのだが、アレキサンダーは何故か心の底から湧き上がる焦りのような物を感じてしまったのである。こんな感情は初めてだった。
 
 帝都レクサールと西辺境ヘーゼルダインの距離はあまりにも遠い。行って行けない場所でもないが、馬車を飛ばして五日は、今のアレキサンダーには辛すぎた。
 知ってしまったからだ。愛し愛される喜びと、アレキサンダーにとってこの世で最も美しい、アビゲイルの切ないあたたかさを。
 
 彼女を帰したくない。けれどそれはできないことだというのはわかっているし、彼女が自宅に戻る理由は、二人のことを認めてもらうためだから、ラリマールに対してこんなことを思ってしまうのはいけないとわかっていたというのに。
 
 この二人は、自分のあずかり知らぬうちに、親密になっている気がした。
 あの手紙のやりとりや魔石の通信も、アビゲイルは自分とよりもラリマールとを中心に行っていたのではないか?
 アビゲイルはラリマールに心を移しているのではないか?
 アビゲイルは過去に社交界の蝶と呼ばれて男性の間を行き来していたことがあるから、改心したと言っていたけれど、本当はそうではないのでは?
 などとしなくてもよい焦りが沸き起こってしまった。
 
 自分に対して本当に自信がないため、親友であるラリマールに嫉妬してしまった。アビゲイルを愛していながら、彼女のことを疑ってしまった。ラリマールという素晴らしい男に、アビゲイルを取られてしまったら、もう二度と彼女は戻ってこない気がしたから。
 
 そんなことはないというのにだ。

「……気付いてたのか。本当にすまない」
「まずお前が心配する必要はないって話をしようか。そもそも僕は彼女を女として見れないわけ。せいぜいかわいい妹かそんなところ」
「あ、ああ……」
「あともう一つ。お前がアビゲイルちゃんとくっついてくれないと、僕が困るわけ。これ以上は聞くなよ? 真実を知ってしまうとおかしなことになるからな」
「……そ、そうなのか。わかった……」
「納得してないだろうけど、そこは素直に飲み込め。いいな」
「……は……はあ」

 そのあとすぐに闘技場内のアレキサンダーの部下である騎士らに、「いつまで話してるんですか団長ー!」と脇を固められて連行されるまで、アレキサンダーは不可思議な顔をしていた。
 
 その後の勝ち抜き決勝戦優勝者との特別戦は、アビゲイルが見ているということもあって柄にもなく張り切ったアレキサンダーの完全勝利だった。
 全力で叩きのめされた勝ち抜き優勝者であった部下の騎士は、アビゲイルには少々気の毒に見えたけれども。
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