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2 貴族の邸でに熊さんに出会った

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 アビゲイルは踵を返してフロアを出た。シズ侯爵のエスコートでぼんやりしながら連れてこられたので、どうやって戻るのかわからないが、一度パーティー会場へ戻らないとならない。
 
 気が付いたら侍女のルイカがいない。ということは自分はシズ侯爵に、侍女に気付かれぬように連れ出されたに違いなかった。
 
 はぐれたこと、ルイカに泣かれるなあと思いつつ、今頃パーティー会場で泣きながら捜索しているだろう侍女に申し訳ないと思いつつ、とぼとぼと帰りの道をエスコートも無しに辿る。
 
 と、後ろから何やらどすどすという貴族の邸にありえないような足音が響いてきて、何事かと振り返れば、山のような熊のような大きな影がアビゲイルに向かって突進してくるのが見えた。
 
 あ、これあかんやつや。
 
 咄嗟にそう思ってハイヒールをすっ飛ばしながら、ドレスの裾を持ち上げると、廊下を令嬢らしからぬスピードで走って逃げた。
 アビゲイルの逃げ足は誰より早かった。この神から与えられた俊足(自称)で、今までのトラブルを回避してきた実績がある。
 もちろん令嬢が走るなんて、言語道断だとわかっているが、トラブルの多い貴族の人生ともなると、逃げるということは非常に大事なので鍛えたのだ。
 
 向こうで「姫」とか「お待ちを」とか「早っ」とか聞こえるけれども、熊に追いつかれたら多分死ぬ。

 あれだけ走ったのに息も乱れていないアビゲイルはなんとかパーティ会場へたどり着いて、侍女のルイカを見つけて号泣する彼女をなだめやった。
 
「おひいさま! 今までどこにいらしたんですかあ~!」
「ごめんね、あたしにもよくわからなくて」
「って、ひぃっ! なんで、靴をどこへ……むぐむぐ」

 裸足のアビゲイルを見て悲鳴を上げそうなところを、なんとかルイカの口元を手で押さえて止めた。
 自分ですっ飛ばして来てしまったのだが、靴を脱ぐような行為をする場所にでも行っていたのかと思われたら大事だ。
 一応そっと歩けば靴なんかよく見えないだろうほどにドレスの裾はマキシ丈だから、バレないんじゃないかと提案しようとして、ルイカの顔を見たら、彼女は目を見開いてこっちを見ていた。
 
「ルイカ。どうしたの、その面白い顔」
「あ、あわ、あわわわ」

 今にも泡を吹いて倒れそうな面白い顔をしているルイカを見ていると、不意に目の前に影が下りた。
 
 背後で、ふっ、ふっ、と息を吐く何者かの気配を感じて、ああ、ルイカはこれに対しても面白い顔をしているのかと思ってそろりそろりと振り返る。多分今自分もルイカと同じ面白い顔をしていると思った。
 
 そこには山のように大きな体の男が立っていて、その手に白いハイヒールを持っていた。

「ひ、姫は足がお速い。お、落とし物です」

 ちなみに、姫というのは国の王女とか言う意味ではなく、貴族の令嬢のことを言う。アビゲイルはアビー姫、とか、使用人にはおひい様とか呼ばれている。
 
 山のような男は熊のような大きな手でアビゲイルの華奢な作りのハイヒールをそっと差し出した。

「あ、これはどうも……」

 厳つい顔をした切れ長の目の大男だった。山かと思ったのはこの上背と夜会服の上からでもわかるほどの筋肉の盛り上がりのせいだろう。きっと騎士だ。
 
「先ほど、姫のお陰で我に返ることができました。あのまま、あそこに居続けたら、きっと私は廃人になっていました」
「(綺麗な目の色だなあ)」
 
 ウルトラマリンブルーの切れ長の瞳がなんとも印象的で少々見とれてしまった。
 所謂コワモテと称される、一般の女性にはあまりウケないタイプだと思われるが、どちらかというとちゃらちゃらしたイケメンよりはこういう騎士風の男のほうがアビゲイルは好みだ。
 
 ハイヒールを受け取ってそれをルイカに手渡して履かせてもらおうとしたら、ルイカが愕然としていた。
 
「なっ……なんで、受け取ったんですか、おひい様……?」
「え? ……あ」

 ふと見回すと、周りの人々が目を見開いてこちらを見ている。
 大男のほうはきょとんとしていて、何が起こったのかさっぱりわかっていないらしい。
 
 今、この大男から靴を返されたということは、この男と一緒に靴を脱がないといけない場所へ行っていたという風に見えてもしょうがないだろう。
 
『先ほど、姫のお陰で我に返ることができました。あのまま、あそこに居続けたら、きっと私は廃人になっていました』

 さっきうっかり聞き流した男の言葉も、聞きようによってはそういう部屋に二人で入って、すんでのところでやめてよかったね、とでも言っているかのように聞こえる。
 
 また一つ、アビゲイルのダメな噂を作ってしまった。

 きっと両親は呆れるだろう。そして固い性格の弟は今まで以上に自分を嫌うことだろう。
 ああ、あの前世での家族は、『私』が刺されたあと、一体どうしただろう。同じ家族構成だったから今とかぶってなんだか物悲しい。
 あんなにお祝いしてくれたのにね。ヒロイン役、頑張ってねって、一番高いお酒でお祝いしてくれたのに。
 前世でも家族を不幸にして、現世でも同じ家族構成なのに、また迷惑をかけているなんて。

 いやいや、それよりも。今何してるんだっけ。
 そうそう、今は靴を受け取ってしまって、この男と如何わしい場所にいたんじゃないかという噂を作ってしまったんだっけ。
 あのシズ伯爵に連れて行かれた場所は確かに妖しい場所だったけれども、この人いたの? というか「姫のお陰で我に返れた」と言っていたけれど、私、何かしただろうか?

 叫んだ記憶しかアビゲイルにはない。
 
 こういう時はどうしたらいいんだっけ。取り乱さないのが一番。女の武器は涙という人もいるだろうけれど、本当の女の武器は冷静さだと思う。
 
 アビゲイルは優雅な動きでルイカに靴を履かせてもらうと、振り返って満面の笑みで大男に向き直る。
 演技なら、いくらでもできる。自分は女優だからだ。

「……貴方にそんなつもりはなかったというのに、勝手に盛り上がって迫ってしまってごめんなさい。ああ、お優しい方。こんな悪い子のあたしを送ってくださるというのね」
「え?」
「参りましょう」

 そう言って、何が起こっているのかわからず戸惑う大男の腕に自分の腕を絡めて一緒にパーティ会場の外に出る。
 これで、彼は気の多い放蕩娘アビゲイルに勝手に迫られて迷惑した紳士で被害者なのだという認識がされるだろう。全部アビゲイルが自分で悪者になればいいだけの話。

 悪者を演じるのも慣れているから。

 慌てて追う侍女のルイカ。その三人の姿を見た人々は、また新たに作られたフォックス侯爵令嬢の噂話を始めた。
 
 アビー姫の新しい想い人は、あのヘーゼルダイン辺境伯爵だと。
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