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1 妖しいクラブでなんか叫ぶ

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 その紫煙が鼻先を掠めた瞬間、頭の中がぼうっとして、まるでコマ送りのようなゆっくりとした映像が目の前に流れる。
 
 仮面をつけた紳士がアビゲイルの手を取って誘導していく。まるで姫君をエスコートする王子様のように、優雅に、ゆっくりと赤いカーペットの上を。
 
 ああ、レッドカーペットの上をエスコートされるなんて。
 やっぱりあのヒロイン役にオーディションで受かったのは夢じゃなかったんだ。
 
 売れない劇団の女優業をやっていて、セリフのない傍役ばかりの日々でも、親の経営する居酒屋でアルバイトしながら、頑張ってオーディションを受けた日々。
 何度もオーディションを受けては落選して、バイトの後に両親と弟に絡み酒をしていた。
 
 ある日、昔から大好きなミュージカルのヒロイン役のオーディションを受けてみるかと、上から言われたときは本当に驚いた。傍役ばかりの私でもちゃんと見てくれている人がいたんだと本気で思ったものだ。
 
 もちろん、二つ返事でオーケーした。
 有名女優の人にも現役アイドルにもライバルはいて、倍率がすごすぎるので友人に「やめたほうがいい」と言われていたけど、本気で取り組んで頑張った。
 
 そしてオーディションの発表の連絡がきた。
 
 長年の夢が叶って、ヒロイン役に合格したのだ。
 現役女優やアイドルにもない、素朴さとその中に含まれる情熱的な目が良かったと評価されて、ヒロイン役にぴったりだと演出家に言われたのだ。
 
 それを両親と弟に話したら、物凄くよろこんでくれたっけ。
 ちゃんとした会社に就職して、地味でも人並みの生活と、平凡でも優しい人と結婚するという、真っ当な生活をしなかった、演劇好きの放蕩娘なのに、理解してちゃんと応援してくれてた家族には本当に感謝してもしきれなかった。
 その日は店で一番高い日本酒を出してお祝いしてくれたっけ。
 
 そして、制作発表の日、発表会の会場に、両親がちょっと奮発してブランドものの清楚なワンピースを買ってくれて、それを着て意気揚々と、劇団の付け人さんと一緒に向かった。
 タクシーを降りて、会場のホテルに着いた時、担当してくれたベルボーイに荷物を手渡そうとした。
 
 その瞬間、手首をぐいっと引かれ、次にお腹あたりにじわりと熱を感じた。
 
 なにかと思ってお腹を見たら、銀色のナイフが刺さっていた。多分ナイフだと思った。そのままぐりんとナイフを回されたので、痛みを通り越してなにも感じられなくなる。
 
 視界がぐらりと揺れて、自分が倒れたのがわかった。
 周りが何か叫んでいるのが遠く聞こえる。ぼやけた視界の中で、目の前のベルボーイが酷薄そうな、それでいて青ざめたみたいな表情で何かを言っている。
 
 色んな演技とか必死で覚えるために、英語とかフランス語とか、手話とか点字も覚えたし、唇の動きで何を喋っているのかを理解するという読唇術も覚えたんだっけ。
 我ながら演技に対するすごい執念だったと思うけども、そのおかげでベルボーイが何を言っているのか、聞こえなくても唇の動きで分かった。
 
 ――お前が悪いんだ。○○がやりたがっていたヒロイン役を、お前が奪ったんだ。
 
 それは、ライバルだった現役アイドルの愛称だった気がする。
 そうか、彼はその子のファンなのね。
 『私』は彼女のファンに刺された。そのまま意識が混濁して、真っ白な闇に包まれた。それが最期の記憶。
 
 最期?
 
 『私』は、女優で。名前は。
 あれ。あれれ……? 
 
 居酒屋を経営する両親がいて、ちょっとひねくれているけど優しい弟もいて。
 
 って、違う、あたしの名はアビゲイル。
 アビゲイル・ステラ・フォックスといって、ロズ・フォギアリア帝国に属するフォックス侯爵家の長女だ。
 フォックス侯爵と侯爵夫人の両親と、後継ぎでちょっととっつきにくくて固い弟がいて。
 
 の、筈だ。
 
 じゃあこの女優だという女の記憶って。
 女優? 女優なんて産まれてこの方目指したこともない。
 
 筈、なのに。
 
 死んだ、女優の記憶?
 でも今はアビゲイルで。女優じゃなくて。
 ヒロイン役に抜擢されて。今こうしてレッドカーペットを。
 
 いや、違う。今日はシズ侯爵のパーティーに呼ばれていて、いつもの通りに軽くワインを頂いたあと、シズ侯爵に面白い物があると言われて、それを見せてもらいに行く途中だった。
 
 あのホテルのフロントじゃない。
 レッドカーペットは私の血の色じゃない。
 女優の『私』は死んだ。でもあたしは生きている。
 
 薄ぼんやりした視界の中、酩酊するような不思議な紫煙が蔓延する部屋に通されて。
 壁際に複数のソファーセット、そこで寛ぐ男女が見える。そのフロアの中央に、妖しくうごめく肌色の複数の何かが見えた。周りの人々はそれを紫煙をくゆらせながら眺めているのだ。
 中央の肌色のものは、可笑しな声を上げる裸の、男女……?
 
 エスコートしてくれるシズ侯爵の表情が、なんだかあのベルボーイの顔に見える。酷薄そうな、青ざめたような顔をして。
 
 『私』、この人に、刺されなかった?
 それ、いつの話?
 
 ……前世、の、話?
 
 シズ侯爵が、目を開いて瞬きもしない表情で前方を見ているアビゲイルを怪訝そうに見て問いかける。
 
「アビー姫?」
「……だ」
「『だ』?」

 すぅーっと大きく息を吸い込んだ。
 
 
 
 
「大事なこと思い出したーーーーーーーーー!」



 あれ、今日の発声、すごく調子いいんじゃない? オーディション、受かるかな。


 その後のことはほとんど右から左にと流れていくようで、アビゲイルはあまり覚えていなかった。
 
 気が付けばどこから出てきたのか騎士団の人々が一斉に入ってきて、何やら喚いていたシズ侯爵を拘束してどこかへ連れて行ってしまったし、その向こうで今までソファーセットで寛いでいた紳士淑女の皆が、わーわーきゃーきゃーと大慌てで部屋から出て行こうとして騎士団に拘束されてるしで、何が何やらさっぱりわからなかった。
 
 騎士の誰かが、ぼうっと突っ立っているだけのアビゲイルに、
 
「何もされてませんね?」
「今来たばかりで何も見てないのですよね?」

 などとと確認してきて、うんうんととっさに頷いて見せると、上から下まで眺められてから、

「貴方は確か……まあよろしいでしょう。後ほどお話を聞かせてください。後日改めてご挨拶に伺います。今日は侍女がおられるはずですよね、フォックス侯爵令嬢」

 と言い残して、アビゲイルの「はあ」という情けない声での返事もろくに聞かずに、まだ大騒ぎしているフロアの向こう側へと行ってしまった。
 
 エスコートはしない。勝手に帰れ。暗にそう言われてしまい、仕方なしに一人でこの場を出なければならない。
 
 まあ、取込み中の騎士をつかまえて、エスコートして送れというのは酷だろうし、令嬢としては駄目なのだろうが、今は一人になりたい気分だ。
 
 というか、以前の自分なら平気でそういうことをやってきた気がするけれど、何か、先ほど可笑しな記憶を思い出してから、自分の今までの我儘さにうんざりする。
 
 あの騎士も、じろじろ見ていたから素性が分かったのだろう。フォックス侯爵家の放蕩娘、アビゲイルだということを。
 だからあの騎士らはエスコートを申し出てくれなかったのだ。
 
 アビゲイル・ステラ・フォックスは、帝都でも名高い美姫で、社交界の蝶とか傾国の美女とか、後ろ指を刺されるほどに、数多の貴族の子息たちや騎士たち、あげくは同性の令嬢にいたるまで、呆れるほど散々噂の的になっていた。
 多少あばずれた行動をしてそのことを暴露されても、

「あの清楚で淑やかなアビー姫がそんなことするわけがない」

 と、恋に盲目な人々に一蹴されるほどにカリスマ性と演技力が高くトラブルメーカーだった。
 
「清楚で淑やかなって、どこの誰のことよ……」
 
 今までの自分の行動とはいえ、前世の記憶らしきものを思い出してからは、自己嫌悪しかない。アビゲイルの記憶から言うに、まだ生娘であることは間違いはないのだけれど、結構あやうい交友関係があったようで、だからシズ侯爵にあんな場所へと誘われてホイホイ付いて行ってしまったんだろう。
 記憶を思い出す前までの自分は、尻が軽すぎる。
 
「……帰ろ」
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