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本編
77 それじゃバイバイ
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メノルカ神殿の片隅のベンチで、謎の白装束に黒髪の女性と中堅の聖人の男性が座っていて、女性は茫然としていて男性の方がボロッボロ涙を零している姿は一種異様とも思えた。
道行く参拝客の壮年の女性が涙を流す聖人を見て「綺麗な涙やね」とひとこと言って去っていったけども。
まあ、見た目だけは綺麗な涙かもしれない。セドルこと蜂谷悟は若い頃はそりゃあもうカッコいいというより可愛い見た目をしていたのだ。
今はすっかりしょぼくれたおっさんになってしまったけれども。
近くを通り際に、事情をよく知りもしない参拝者の中年男性が、「何があったか知らんけど、姉ちゃんもう許したれよ」とお節介なことを言って去っていったけど、本当にスイが悪いみたいになってて居心地が悪くて仕方ない。
泣いている間はろくに会話にもならないので、しばし気が済むまで泣かせておいて、ようやく悟が泣き止んだところではあとため息をついたスイ。
スイが特に追及もしてこないので、悟はポツリポツリと勝手に話し始める。
あの時の女とはあれから一切連絡を取ってもいないし連絡もしていなかった。浮気をしたのは翡翠の仕事が忙しくて寂しかった、それで心が弱くなりついほかの女性に走った。翡翠は仕事を辞めてくれると言っていたのに、それを信じることができなくてずるずるとあの女性との関係を続けてしまった。
俺より仕事を優先する翡翠に対する当てつけのような気持ちさえあって、あのときは本当に欲望でしか生きていなかった。
翡翠のことを、失って初めて大事だったことに気づいても、もう遅いのに。
そしてあの地震から丸一年経った後、罪悪感から鬱状態が続き、仕事も続けられなくなって実家に帰る途中、このパブロ王国に転移してメノルカ様と出会い……それから二十五年。
聖人としての修行をしながら、玩具のプロデュースを担当し、あの着せ替え人形バビちゃんシリーズを立ち上げた。その中のジェイディ人形は、悟の思い出の中にいる真中翡翠という女性の具現化だった。
「一日たりともひす……真中さんのこと、忘れたことは無かった」
チャラい性格だった悟の口からこんな情熱的な言葉が出るとは思わなかった。二人でいるときは常にふざけてて、真剣に向き合ってんだかどうだかさっぱりわからない軽い性格をしていたのに、二十五年という月日はチャラ男をこうも更生させるものなのだなあと、スイは悟の言葉を耳から耳に聞き流しながらそんなことを思った。理解しているけど聞いていない、今のスイはそんな感じだった。
「……そっか」
「ごめん、本当に。自分が我儘のバカ野郎だったのをようやく気付いた……」
「いいよ、もう。謝罪を受け入れます」
「……真中さん……本当に……?」
スイの言葉に泣き腫らした悟の瞳に少し光が宿った。顔を上げてこちらをやや期待するみたいな表情で見ている。哀れで、痛々しい、しょぼくれたおっさんの嘆いた顔。
普通の人なら、きっと同情して泣かないで、と優しく抱きしめてあげたくなるんだろう。普通の人なら。
「あたし全然気にしてないから。むしろ……」
「……?」
「どうでもいいの、もう」
スイは全く凪いだ表情に口元だけ少し笑いの形にして、横にいる悟のほうを向いてそうきっぱりと言い放った。
「言葉を飾らずに言うと心の底からどうでもいい。蜂谷さんのこと」
当時は色々言いたいことはあった。信じてたのに、愛してたのに。結婚だって考えてお金も貯めてた。セックスレスの問題だって、なんとかしようと努力したりもした。
確かに仕事が忙しくて悟には迷惑をかけた。でもそれを浮気で返されるなんて。
悟との時間を削ってまで貯め込んだ結婚資金が虚しくなった。
やっとのことでもぎ取った定時あがりの時間が虚しくなった。
あの時、自宅でやけ酒をしながらつぶやいた言葉は一体なんだったっけ?
『ふふふ、バイバイ悟ぅ~、うへへへ』
そうだ。あの時から悟に対しての気持ちはとっくに雲散霧消した。そう、文字通りバイバイしたのだ。それと同時に現代日本からもバイバイするとは思っていなかったけれども。
思い出は残っても、想いは残らなかった。
「は……はは、はははは……そう、だよな……」
心の底からどうでもいい、スイの淡々とした言葉に気の抜けたような笑い声をして、悟は背もたれにぽすんと凭れかかった。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。男は別名保存、女は上書きとも誰かが言っていた気がする。悟はあわよくばスイとやり直しを期待していたのかもしれない。年齢の隔たりはできてしまったが、それでも一度は愛を交わした相手だったから。
しかし悟を必死で繋ぎとめようとしていたスイの持っていた悟に繋がったロープは、あえなく悟本人の手で、浮気という手段で派手にぶっ千切られてしまった。
一年前だったら、スイがこちらにやってきてすぐに、こちらの悟と出会っていたら、やり直せただろうか。
答えは、ノーだ。
「あたし、今すっごく幸せよ」
色々言いたいことはあったけれど、スイはそれだけ言って、凪いだ口元だけの笑顔を、ふと満面の笑みにして悟をしっかり見つめた。そして立ち上がる。
数メートル離れたところのベンチでこちらを心配そうに伺っていたエミリオ、シュクラ、メノルカとほかの聖人たちの元へ速足でとことこと歩いていくスイ。悟も思わずあとを追ったけれど、スイはこちらに気づいて立ち上がろうとしたエミリオの頬を両手で挟んだ。
驚きに目を見開くエミリオをよそに、その何か言わんとしていた彼の唇を思いっきり自身の唇で塞いでしまった。
「んっ……!」
「ん、ふ……」
ちゅ、ちゅ、と触れて離れてを繰り返す、あの大好きなエミリオとのキス。
ここが王都のメノルカ神殿で、大勢の参拝客が行き交うロビーの中であることも気にせず、慌ててスイの両肩に手を置いてどうにかしようとするエミリオも無視して、彼に愛おしそうに口づけた。
「スイ……ん、んぅ……」
突然のスイからのキスに翻弄されながらも、次第にとろんと酩酊したような表情に変わるエミリオが可愛かった。あまりの可愛さに舌までは入れなかったけれど唇を思う存分はむはむしてやった。
久々のエミリオの唇を堪能したあと、ぷは、と顔を上げて一息つくと、真っ赤になってとろんとした表情のエミリオがこちらを見ているのがますます可愛い。
「エミさん、大好きよ」
「え、う、うん。俺も」
「んー、可愛い~」
「わわっ……」
感極まって抱き着くと、エミリオは思わずスイを受け止めて抱きしめながら半分浮き上がった腰を再びベンチに降ろして背を凭れた。
やってしまってから急に恥ずかしさがこみ上げて、スイはエミリオの首に腕を回して肩口に顔を埋めてしまった。やばい、なんだかんだ言って、何気にちょっと頭に血がのぼったらしい。恥ずかしくて顔を上げられなかった。
エミリオはふと前方を見ると聖人セドル・アーチャーがこちらを目を見開いてみているのに気づく。
「あ……」
「…………」
スイは抱き着いたままだし、何か声をかけるにも、何も言葉が出てこないため、とりあえずバツの悪さからぺこりと会釈してみた。
すると、茫然としていたセドルはふと寂しげな笑顔になって、一歩下がってから深々を腰を折って一礼した。
「……ご婚約、おめでとうございます」
「あ、あり、がとう、ございます……?」
「真中さんを……どうか幸せにして差し上げてくださいませ。お二人の幸せを心からお祈り申し上げます」
セドル……蜂谷悟の静かな祝福の声が後ろから聞こえてきたが、スイは恥ずかしくて振り向けなかった。悟が立ち去るまで、エミリオに苦しいと言われるほどに、スイは彼に抱き着いたまま顔を上げられなかった。
『バイバイ、悟。……今度こそ本当に』
道行く参拝客の壮年の女性が涙を流す聖人を見て「綺麗な涙やね」とひとこと言って去っていったけども。
まあ、見た目だけは綺麗な涙かもしれない。セドルこと蜂谷悟は若い頃はそりゃあもうカッコいいというより可愛い見た目をしていたのだ。
今はすっかりしょぼくれたおっさんになってしまったけれども。
近くを通り際に、事情をよく知りもしない参拝者の中年男性が、「何があったか知らんけど、姉ちゃんもう許したれよ」とお節介なことを言って去っていったけど、本当にスイが悪いみたいになってて居心地が悪くて仕方ない。
泣いている間はろくに会話にもならないので、しばし気が済むまで泣かせておいて、ようやく悟が泣き止んだところではあとため息をついたスイ。
スイが特に追及もしてこないので、悟はポツリポツリと勝手に話し始める。
あの時の女とはあれから一切連絡を取ってもいないし連絡もしていなかった。浮気をしたのは翡翠の仕事が忙しくて寂しかった、それで心が弱くなりついほかの女性に走った。翡翠は仕事を辞めてくれると言っていたのに、それを信じることができなくてずるずるとあの女性との関係を続けてしまった。
俺より仕事を優先する翡翠に対する当てつけのような気持ちさえあって、あのときは本当に欲望でしか生きていなかった。
翡翠のことを、失って初めて大事だったことに気づいても、もう遅いのに。
そしてあの地震から丸一年経った後、罪悪感から鬱状態が続き、仕事も続けられなくなって実家に帰る途中、このパブロ王国に転移してメノルカ様と出会い……それから二十五年。
聖人としての修行をしながら、玩具のプロデュースを担当し、あの着せ替え人形バビちゃんシリーズを立ち上げた。その中のジェイディ人形は、悟の思い出の中にいる真中翡翠という女性の具現化だった。
「一日たりともひす……真中さんのこと、忘れたことは無かった」
チャラい性格だった悟の口からこんな情熱的な言葉が出るとは思わなかった。二人でいるときは常にふざけてて、真剣に向き合ってんだかどうだかさっぱりわからない軽い性格をしていたのに、二十五年という月日はチャラ男をこうも更生させるものなのだなあと、スイは悟の言葉を耳から耳に聞き流しながらそんなことを思った。理解しているけど聞いていない、今のスイはそんな感じだった。
「……そっか」
「ごめん、本当に。自分が我儘のバカ野郎だったのをようやく気付いた……」
「いいよ、もう。謝罪を受け入れます」
「……真中さん……本当に……?」
スイの言葉に泣き腫らした悟の瞳に少し光が宿った。顔を上げてこちらをやや期待するみたいな表情で見ている。哀れで、痛々しい、しょぼくれたおっさんの嘆いた顔。
普通の人なら、きっと同情して泣かないで、と優しく抱きしめてあげたくなるんだろう。普通の人なら。
「あたし全然気にしてないから。むしろ……」
「……?」
「どうでもいいの、もう」
スイは全く凪いだ表情に口元だけ少し笑いの形にして、横にいる悟のほうを向いてそうきっぱりと言い放った。
「言葉を飾らずに言うと心の底からどうでもいい。蜂谷さんのこと」
当時は色々言いたいことはあった。信じてたのに、愛してたのに。結婚だって考えてお金も貯めてた。セックスレスの問題だって、なんとかしようと努力したりもした。
確かに仕事が忙しくて悟には迷惑をかけた。でもそれを浮気で返されるなんて。
悟との時間を削ってまで貯め込んだ結婚資金が虚しくなった。
やっとのことでもぎ取った定時あがりの時間が虚しくなった。
あの時、自宅でやけ酒をしながらつぶやいた言葉は一体なんだったっけ?
『ふふふ、バイバイ悟ぅ~、うへへへ』
そうだ。あの時から悟に対しての気持ちはとっくに雲散霧消した。そう、文字通りバイバイしたのだ。それと同時に現代日本からもバイバイするとは思っていなかったけれども。
思い出は残っても、想いは残らなかった。
「は……はは、はははは……そう、だよな……」
心の底からどうでもいい、スイの淡々とした言葉に気の抜けたような笑い声をして、悟は背もたれにぽすんと凭れかかった。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。男は別名保存、女は上書きとも誰かが言っていた気がする。悟はあわよくばスイとやり直しを期待していたのかもしれない。年齢の隔たりはできてしまったが、それでも一度は愛を交わした相手だったから。
しかし悟を必死で繋ぎとめようとしていたスイの持っていた悟に繋がったロープは、あえなく悟本人の手で、浮気という手段で派手にぶっ千切られてしまった。
一年前だったら、スイがこちらにやってきてすぐに、こちらの悟と出会っていたら、やり直せただろうか。
答えは、ノーだ。
「あたし、今すっごく幸せよ」
色々言いたいことはあったけれど、スイはそれだけ言って、凪いだ口元だけの笑顔を、ふと満面の笑みにして悟をしっかり見つめた。そして立ち上がる。
数メートル離れたところのベンチでこちらを心配そうに伺っていたエミリオ、シュクラ、メノルカとほかの聖人たちの元へ速足でとことこと歩いていくスイ。悟も思わずあとを追ったけれど、スイはこちらに気づいて立ち上がろうとしたエミリオの頬を両手で挟んだ。
驚きに目を見開くエミリオをよそに、その何か言わんとしていた彼の唇を思いっきり自身の唇で塞いでしまった。
「んっ……!」
「ん、ふ……」
ちゅ、ちゅ、と触れて離れてを繰り返す、あの大好きなエミリオとのキス。
ここが王都のメノルカ神殿で、大勢の参拝客が行き交うロビーの中であることも気にせず、慌ててスイの両肩に手を置いてどうにかしようとするエミリオも無視して、彼に愛おしそうに口づけた。
「スイ……ん、んぅ……」
突然のスイからのキスに翻弄されながらも、次第にとろんと酩酊したような表情に変わるエミリオが可愛かった。あまりの可愛さに舌までは入れなかったけれど唇を思う存分はむはむしてやった。
久々のエミリオの唇を堪能したあと、ぷは、と顔を上げて一息つくと、真っ赤になってとろんとした表情のエミリオがこちらを見ているのがますます可愛い。
「エミさん、大好きよ」
「え、う、うん。俺も」
「んー、可愛い~」
「わわっ……」
感極まって抱き着くと、エミリオは思わずスイを受け止めて抱きしめながら半分浮き上がった腰を再びベンチに降ろして背を凭れた。
やってしまってから急に恥ずかしさがこみ上げて、スイはエミリオの首に腕を回して肩口に顔を埋めてしまった。やばい、なんだかんだ言って、何気にちょっと頭に血がのぼったらしい。恥ずかしくて顔を上げられなかった。
エミリオはふと前方を見ると聖人セドル・アーチャーがこちらを目を見開いてみているのに気づく。
「あ……」
「…………」
スイは抱き着いたままだし、何か声をかけるにも、何も言葉が出てこないため、とりあえずバツの悪さからぺこりと会釈してみた。
すると、茫然としていたセドルはふと寂しげな笑顔になって、一歩下がってから深々を腰を折って一礼した。
「……ご婚約、おめでとうございます」
「あ、あり、がとう、ございます……?」
「真中さんを……どうか幸せにして差し上げてくださいませ。お二人の幸せを心からお祈り申し上げます」
セドル……蜂谷悟の静かな祝福の声が後ろから聞こえてきたが、スイは恥ずかしくて振り向けなかった。悟が立ち去るまで、エミリオに苦しいと言われるほどに、スイは彼に抱き着いたまま顔を上げられなかった。
『バイバイ、悟。……今度こそ本当に』
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