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本編
閑話休題 稀人の黄昏 ~或いは現代日本における一人の男の嘆き~ その2
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久しぶりに翡翠が、立て込んでいた業務に区切りがつき、あとは後輩らだけでもなんとか回るようになったと言って、これからはなるべく定時で上がれるようにすると言ってきた。
そう言われると、久々に翡翠のことが恋しくなってきた。なんだかんだと言って自分は翡翠がやっぱり本命なのだなあと思った。
浮気していた後ろめたさはあったけれど、翡翠がレイナのことを気づきもしていないことに安堵し、それでもまた翡翠の仕事が忙しくなって会えない日が続いたときの寂しさをもう味わいたくないために、レイナとの関係はなんだかんだ自分に言い訳をして切れずにいた。
週半ばに翡翠から会いたいというメッセージが来た。それまでも毎日挨拶のメッセージをくれていた翡翠だったが、彼女から具体的に「会いたい」「会えそう」というメッセージは久々だった。
週末の金曜日なら絶対に定時で上がれる! という翡翠の嬉しそうなメッセージを受け取り、その時は久しぶりに悟の部屋で一杯やろうか、と約束をして、悟もそれなりに楽しみにしていたのだ。
翡翠の会社の帰り道は有名デパートが多いので、手っ取り早く飲めるようにデパ地下グルメをたくさん買ってお邪魔するね、と言っていた翡翠のことを、その時はしっかり覚えていたのだ。
これまでのことで、少し素っ気ないかなと思いつつも、「気をつけて来いよ」とだけメッセージを送ったのを覚えている。もう少し「楽しみにしている」とか「待ってるから」とか付け加えればよかったと思ったが、変なプライドが邪魔してそれ以上書けなかった。
しかし前日になってレイナから営業の連絡が来て、その日は翡翠との約束もなく、今日も残業だと言っていたのを思い出し、レイナに会いにキャバクラへ行った。
酒も入って盛り上がり、結局次の日は休みだというレイナの希望によりラブホテルでレイナと過ごしたのだ。
相変わらずレイナの体は悟にとって具合が良かった。悟を喜んで受け入れてくれるレイナに一晩中溺れた。
週末に休みを取ったというレイナからの「週末も一緒に過ごしたい」というおねだりに、悟は喜んで了承してしまった。
すっかり翡翠との約束を忘れてしまっていたのだ。忙しい翡翠の会社のことだから、きっとまた残業で約束をつぶされる可能性があるとどこかで高をくくっていたところもあったのかもしれない。
会社を早退して、レイナと待ち合わせて自宅アパートに帰り、途中で買ったピザと発泡酒で腹を満たしたあと、どちらからともなく求めあってベッドに雪崩れ込んだ。
昼過ぎから夕方までの連続行為ですっかり快楽堕ちしたレイナにますます興奮し、寝室の外でガタリと音がしたことにも意に介さず、何度目かの絶頂を迎えた。
気持ちよかった、最高だったと褒め合いながら、再び行為に及ぼうとしたとき、ベッドの傍らに置いてあったスマホがピロリンと鳴ったのに気づいた。けれどもレイナとの行為に没頭しすぎて後回しにしてしまった。
行為後に何気なくスマホを手に取った瞬間、飛び込んできたメッセージに、事後の酩酊感が一気に覚醒して現実に戻される。
『別れる。彼女とお幸せに』
そんなたった数文字のメッセージだった。それが誰からの物かなど考えるまでもなかった。
今日だったっけ? そんなことを思ってスケジュールを見て見ると、今日の日付に翡翠との約束がしっかり記してあったのを発見した。
翡翠が来ていたのだ。そして悟の浮気真っ最中の現場を見て、何も言わずに出ていった。先ほど寝室の外でガタリと音がしたのは、翡翠が立てた音だったのだろう。
「……どうしたのぉ?」
先ほどまで愛し合っていたレイナの声がやたらと煩わしくなる。彼女を無視してベッドから降り、慌てて翡翠に電話をかけるも、電源が入っていないらしく、つながらなかった。
慌ただしく脱ぎ散らかした服を着なおして、スマホ片手に慌てて外に出てアパート周りを探したけれど、翡翠の姿はどこにも見当たらなかった。改めてよく見てみれば、メッセージを受信した時間からもう三十分以上経っている。いるわけがない。
電話がつながらないので慌ててメッセージを送る。
約束忘れててごめん。
あの女はただの遊びで、本命は翡翠だ。
反省している。
今どこにいる?
会いたい。謝らせて。
そんな自分勝手なメッセージを何度も送ったが、返信どころか一向に既読にならなかった。
翡翠の自宅に行こうかとも思ったが、悟のアパートから翡翠のマンションまでは結構な距離があるし、今悟のアパートには浮気相手のレイナがまだいる。彼女を追いだすまでは家を空けることができなかった。
とりあえず、一度落ち着こうと、アパートに戻って、丸められた広告の入った悟の郵便受けを一応チェックすると、合鍵が入っていた。翡翠に渡していたトラ猫のキーカバーのついた合鍵だった。
相当怒っている。これを返してきたということはもうここへは来ないつもりで、本気で別れる気でいるんだろうと思って絶望する。
いや、しかし何を絶望することがあるんだと思い返す。翡翠こそ仕事仕事で俺を構ってくれなかったじゃないかと。
そう考えると、なんだか対等な気がしてきて、ようやく安堵する。どちらもお互いを傷つけあったのだからこれでお相子だろうと考えることにして、部屋に戻った。
大体、頭に血が上った状態で話し合ったところで、泥沼になるだけだと思い、一晩冷却期間を開けることにした。そのほうが絶対に普通に話し合えるはずだ。
部屋に戻った瞬間に一糸纏わぬレイナが抱き着いてきて、その豊満な肉体を押し付けて誘惑してきたので、それまで翡翠に対して申し訳ないと思っていた気持ちを一瞬で忘れた。
そうだ、俺は俺をないがしろにしていた翡翠に仕返ししてやったんだという優越感さえ湧いてきて、再びベッドに戻ってレイナと体力の限界になるまで行為に没頭した。
気怠い身体で抱き合いながら眠りについた未明、急に下から突き上げるような激しい揺れに目を覚ます。
明らかに激しい地震だと思い、寝室の中はそれほど物を置いていないので比較的無事であるが、ガタリガタリと寝室の外で物が落ちる音、棚が倒れる音がしていた。
自室だけではない。家の外でも何か遠くでドーンという激しい重い音が聞こえてきた。
耳元ではレイナの悲鳴がうるさい。しがみついてくる女がやたらとうっとおしかった。
揺れが一度収まって、まだ未明だというのに外から人のざわめきが聞こえ始める。
寝室を出ると、リビングの中は棚が倒れて大変なことになっていた。
顔面蒼白になりながら、とりあえず服を着て、怯えるレイナを叱咤激励してから片付け始める。
やっと片付け終わったのはもう朝になっていて、そのころには二人そろって脱力状態だった。自宅がどうなっているのか心配だからと、レイナは悟に別れの挨拶もせずにふらつく足取りで帰っていった。
ぼろいアパートではあるが意外に丈夫な建物であったらしく、数少ない家具が倒れただけで、怪我もないしそれほど被害はなかった。なので、朝になって実家の母からかかってきた電話で無事を知らせておいた。
そのあとレイナとも連絡を取ったが、彼女の自宅もそれほどの被害はなかったらしい。お気に入りのフルートグラスが割れたと嘆いてはいたけれど。
何気なくニュースを見ると、未明の地震により、悟らの住む地域より少し離れたところはひどい有様になっていた。一番被害があったという場所が映し出されたとき、そこがどこか見覚えのある風景だった。
見覚えのある路地の向こう、瓦礫の山と化した場所が見えた。あれは、たしか四階建てのマンションが建っていた場所じゃなかったか、と思った瞬間、悟の脳裏に浮かんだ人物があった。
思わず、取る物もとりあえず外に飛び出して、その見覚えのある場所へと走った。普段は電車で行かないとならない場所だったが、地震の影響で電車は止まっているので徒歩で行くしかなかった。
三十分も走っただろうか。汗だくになりながらその場所にたどり着いたとき、そのマンションの前は黄色いテープが張られて立ち入り禁止となっていた。消防車と救急車、パトカーが何台も止まっているのが見える。
人だかりのむこう、現場から見えたのは、レスキュー隊に運び出される何か、ブルーシートに覆われて見えない何かだった。
人だかりから話し声がわんわんと木霊して聞こえてくる。
あれは人だと。心肺停止の人々が何人も運び出されているらしいと。
生存者は今のところ発見されていないらしいと。
「……そん、な……翡翠……! 嘘だろ……?」
そう言われると、久々に翡翠のことが恋しくなってきた。なんだかんだと言って自分は翡翠がやっぱり本命なのだなあと思った。
浮気していた後ろめたさはあったけれど、翡翠がレイナのことを気づきもしていないことに安堵し、それでもまた翡翠の仕事が忙しくなって会えない日が続いたときの寂しさをもう味わいたくないために、レイナとの関係はなんだかんだ自分に言い訳をして切れずにいた。
週半ばに翡翠から会いたいというメッセージが来た。それまでも毎日挨拶のメッセージをくれていた翡翠だったが、彼女から具体的に「会いたい」「会えそう」というメッセージは久々だった。
週末の金曜日なら絶対に定時で上がれる! という翡翠の嬉しそうなメッセージを受け取り、その時は久しぶりに悟の部屋で一杯やろうか、と約束をして、悟もそれなりに楽しみにしていたのだ。
翡翠の会社の帰り道は有名デパートが多いので、手っ取り早く飲めるようにデパ地下グルメをたくさん買ってお邪魔するね、と言っていた翡翠のことを、その時はしっかり覚えていたのだ。
これまでのことで、少し素っ気ないかなと思いつつも、「気をつけて来いよ」とだけメッセージを送ったのを覚えている。もう少し「楽しみにしている」とか「待ってるから」とか付け加えればよかったと思ったが、変なプライドが邪魔してそれ以上書けなかった。
しかし前日になってレイナから営業の連絡が来て、その日は翡翠との約束もなく、今日も残業だと言っていたのを思い出し、レイナに会いにキャバクラへ行った。
酒も入って盛り上がり、結局次の日は休みだというレイナの希望によりラブホテルでレイナと過ごしたのだ。
相変わらずレイナの体は悟にとって具合が良かった。悟を喜んで受け入れてくれるレイナに一晩中溺れた。
週末に休みを取ったというレイナからの「週末も一緒に過ごしたい」というおねだりに、悟は喜んで了承してしまった。
すっかり翡翠との約束を忘れてしまっていたのだ。忙しい翡翠の会社のことだから、きっとまた残業で約束をつぶされる可能性があるとどこかで高をくくっていたところもあったのかもしれない。
会社を早退して、レイナと待ち合わせて自宅アパートに帰り、途中で買ったピザと発泡酒で腹を満たしたあと、どちらからともなく求めあってベッドに雪崩れ込んだ。
昼過ぎから夕方までの連続行為ですっかり快楽堕ちしたレイナにますます興奮し、寝室の外でガタリと音がしたことにも意に介さず、何度目かの絶頂を迎えた。
気持ちよかった、最高だったと褒め合いながら、再び行為に及ぼうとしたとき、ベッドの傍らに置いてあったスマホがピロリンと鳴ったのに気づいた。けれどもレイナとの行為に没頭しすぎて後回しにしてしまった。
行為後に何気なくスマホを手に取った瞬間、飛び込んできたメッセージに、事後の酩酊感が一気に覚醒して現実に戻される。
『別れる。彼女とお幸せに』
そんなたった数文字のメッセージだった。それが誰からの物かなど考えるまでもなかった。
今日だったっけ? そんなことを思ってスケジュールを見て見ると、今日の日付に翡翠との約束がしっかり記してあったのを発見した。
翡翠が来ていたのだ。そして悟の浮気真っ最中の現場を見て、何も言わずに出ていった。先ほど寝室の外でガタリと音がしたのは、翡翠が立てた音だったのだろう。
「……どうしたのぉ?」
先ほどまで愛し合っていたレイナの声がやたらと煩わしくなる。彼女を無視してベッドから降り、慌てて翡翠に電話をかけるも、電源が入っていないらしく、つながらなかった。
慌ただしく脱ぎ散らかした服を着なおして、スマホ片手に慌てて外に出てアパート周りを探したけれど、翡翠の姿はどこにも見当たらなかった。改めてよく見てみれば、メッセージを受信した時間からもう三十分以上経っている。いるわけがない。
電話がつながらないので慌ててメッセージを送る。
約束忘れててごめん。
あの女はただの遊びで、本命は翡翠だ。
反省している。
今どこにいる?
会いたい。謝らせて。
そんな自分勝手なメッセージを何度も送ったが、返信どころか一向に既読にならなかった。
翡翠の自宅に行こうかとも思ったが、悟のアパートから翡翠のマンションまでは結構な距離があるし、今悟のアパートには浮気相手のレイナがまだいる。彼女を追いだすまでは家を空けることができなかった。
とりあえず、一度落ち着こうと、アパートに戻って、丸められた広告の入った悟の郵便受けを一応チェックすると、合鍵が入っていた。翡翠に渡していたトラ猫のキーカバーのついた合鍵だった。
相当怒っている。これを返してきたということはもうここへは来ないつもりで、本気で別れる気でいるんだろうと思って絶望する。
いや、しかし何を絶望することがあるんだと思い返す。翡翠こそ仕事仕事で俺を構ってくれなかったじゃないかと。
そう考えると、なんだか対等な気がしてきて、ようやく安堵する。どちらもお互いを傷つけあったのだからこれでお相子だろうと考えることにして、部屋に戻った。
大体、頭に血が上った状態で話し合ったところで、泥沼になるだけだと思い、一晩冷却期間を開けることにした。そのほうが絶対に普通に話し合えるはずだ。
部屋に戻った瞬間に一糸纏わぬレイナが抱き着いてきて、その豊満な肉体を押し付けて誘惑してきたので、それまで翡翠に対して申し訳ないと思っていた気持ちを一瞬で忘れた。
そうだ、俺は俺をないがしろにしていた翡翠に仕返ししてやったんだという優越感さえ湧いてきて、再びベッドに戻ってレイナと体力の限界になるまで行為に没頭した。
気怠い身体で抱き合いながら眠りについた未明、急に下から突き上げるような激しい揺れに目を覚ます。
明らかに激しい地震だと思い、寝室の中はそれほど物を置いていないので比較的無事であるが、ガタリガタリと寝室の外で物が落ちる音、棚が倒れる音がしていた。
自室だけではない。家の外でも何か遠くでドーンという激しい重い音が聞こえてきた。
耳元ではレイナの悲鳴がうるさい。しがみついてくる女がやたらとうっとおしかった。
揺れが一度収まって、まだ未明だというのに外から人のざわめきが聞こえ始める。
寝室を出ると、リビングの中は棚が倒れて大変なことになっていた。
顔面蒼白になりながら、とりあえず服を着て、怯えるレイナを叱咤激励してから片付け始める。
やっと片付け終わったのはもう朝になっていて、そのころには二人そろって脱力状態だった。自宅がどうなっているのか心配だからと、レイナは悟に別れの挨拶もせずにふらつく足取りで帰っていった。
ぼろいアパートではあるが意外に丈夫な建物であったらしく、数少ない家具が倒れただけで、怪我もないしそれほど被害はなかった。なので、朝になって実家の母からかかってきた電話で無事を知らせておいた。
そのあとレイナとも連絡を取ったが、彼女の自宅もそれほどの被害はなかったらしい。お気に入りのフルートグラスが割れたと嘆いてはいたけれど。
何気なくニュースを見ると、未明の地震により、悟らの住む地域より少し離れたところはひどい有様になっていた。一番被害があったという場所が映し出されたとき、そこがどこか見覚えのある風景だった。
見覚えのある路地の向こう、瓦礫の山と化した場所が見えた。あれは、たしか四階建てのマンションが建っていた場所じゃなかったか、と思った瞬間、悟の脳裏に浮かんだ人物があった。
思わず、取る物もとりあえず外に飛び出して、その見覚えのある場所へと走った。普段は電車で行かないとならない場所だったが、地震の影響で電車は止まっているので徒歩で行くしかなかった。
三十分も走っただろうか。汗だくになりながらその場所にたどり着いたとき、そのマンションの前は黄色いテープが張られて立ち入り禁止となっていた。消防車と救急車、パトカーが何台も止まっているのが見える。
人だかりのむこう、現場から見えたのは、レスキュー隊に運び出される何か、ブルーシートに覆われて見えない何かだった。
人だかりから話し声がわんわんと木霊して聞こえてくる。
あれは人だと。心肺停止の人々が何人も運び出されているらしいと。
生存者は今のところ発見されていないらしいと。
「……そん、な……翡翠……! 嘘だろ……?」
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