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本編

閑話休題 稀人の黄昏 ~或いは現代日本における一人の男の嘆き~ その1

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 蜂谷悟には一年前まで真中翡翠という恋人がいた。三年前に合コンで知り合って、同じロックバンドのファンということで意気投合してから付き合うようになった。

 今時、一度もカラーリングをしたことがないというサラサラストレートの艶々とした長い黒髪に、色白な肌、やや釣り目の大きな黒い瞳がまるで一匹の美しい黒猫を思わせる、一風変わった綺麗系の女性だ。決して絶世の美女というわけでもないけれど、愛嬌があって清楚でかなり好みだった。

 料理上手で綺麗好きであり、自立していてしっかり者。多少「来るもの拒まず去る者追わず」な性格だけれど、そこがなぜか惹かれる。本当に自由な猫のような女性だった。
 
 その上、セックスも非常に具合が良かった。マグロになりがちな女性が多い中、きちんと応えて楽しませてくれる、攻守ともに楽しんでくれる。
 胸が大きいのに腰は細くて尻も垂れていない、男にとっては極上の体つきをしていておまけに床上手なんて、悟の歴代の彼女の中ではナンバーワンだと思ったものだ。その時は。

 それで付き合い始めて二年。建築会社のCADオペレーターとしてバリバリ働く彼女の勤める会社が、ブラック企業とまではいかないまでもダークグレーくらいの企業じゃないかと思い始めるほど、彼女と休みの日が合わなくなってきた。好きなロックバンドのライブにも一緒にいけないことが多くなって不満はつのるばかり。

 悟は一人っ子なうえに子供のころから両親は共働きで放任主義の鍵っ子だったこともあって、もともと寂しがり屋だ。責任感があって面倒見が良い翡翠は、恋人にして、姉のような、母のような、甘えたがりな悟をしょうがない奴と愛しんでくれる存在だったというのに。

 たまに会えてデートをしていた休日であっても、どうしても彼女じゃないとだめだという理由で呼び出されてはデートのキャンセルが続き、いろいろ不満がたまりにたまったところで口論となることしばしば。
 そんなブラック企業辞めてしまえばいいのに、と文句を言ったときも、後輩がまだ育ってないからそう簡単に辞められないと、責任感の強い彼女は言った。
 正直、俺と仕事とどっちが大事なんだと、よくある女々しい言葉が出そうになったのを何度こらえたかわからない。

 それでも結婚資金を貯めているから仕事をしないといけない、と疲れた顔をして言われたときは、一応自分との結婚を考えていてくれたということで、それ以上は何も言えなくなってしまった。本当に男女逆なんじゃないかと自分が情けなくなったりもした。

 埋め合わせのつもりなのか、悟が仕事の時に合鍵で部屋に来て、掃除や洗濯をしてくれて、作り置きのおかずなどを冷蔵庫に保管してくれていたが、それでも直接会えないもやもやは募る。
 この寂しさをなんとか紛らわせようと、大学のサークル時代からの友人たちのパーティなどに顔を出すようになった。翡翠と付き合い始めては全くと言っていいほど行かなかったのに、とりあえず愚痴でも聞いてもらいたいという軽い気持ちで参加したのが始まりだった。

 悟は昔から容姿に恵まれていた。色素の薄い茶色がかった猫っ毛の癖毛で、とくに外国人の先祖がいるわけでもないのに彫りの深い顔立ちは、子供のころから女の子によくモテたほうだ。

 当然、大学のサークルでもよくモテたし、特定の彼女をつくらず、セックスを含めた親しい関係になった女性はたくさんいたのだ。
 そのころを思い出すように、久々に集まった元サークルの仲間たちの中でも、フリーだった女性陣にふたたびモテ始めて、最初こそ彼女持ちだと身持ちを硬くしていたものの、翡翠とのすれ違いが続くたびに、こちらでちやほやされるのが楽しくなってしまった。

 このことは、自宅のアパートに帰ってから、綺麗に掃除されて整理整頓された部屋や、冷蔵庫の手作り惣菜の入った保存容器の数々を見て、罪悪感を覚えたものだった。

 もう行くのはやめよう。そう思いつつも、翡翠に会えない日々の中、一人の時に誘われれば人恋しさに出かけてしまう。
 そのうち仲間を家に呼んで、翡翠の作っておいた惣菜を肴に皆で酒盛りをするようにもなった。自分では全く手をつけなくなったその惣菜を仲間にアテとして振る舞うことで、翡翠が「ああ、食べてくれたんだ、嬉しい」と思うだろうと思っていたし、捨てるよりはいいと思った。

 そして酒のかなり入った状態で、翡翠への愚痴がバンバン出てくる。しまいには悪口になって、そこまで来ると仲間もかなり引いていた。
 仲間たちは、それまで自分たちが酒のアテとしてさんざん食べていたその美味しい惣菜が、悟の彼女である翡翠の作ったものだと知ると、それ以上悟に同調できなくなってしまったらしい。
 だんだん翡翠をフォローし始める仲間たちに腹が立って、どうして俺の気持ちになってくれないんだとぶすくれたところで、まあまあとなだめる女友達の采配で、その集まりはお開きとなったわけだが。

 ぐだぐだに酔っぱらった状態で、気が付けばもう朝。休日の朝に二日酔い状態で、宴のあとが残るテーブルをうんざりしながら簡単に片づけていると、片隅のほうに一枚の名刺が置いてあることに気づいた。
 キャバクラで働いているという女友達の名刺だった。本名は麗子だが源氏名はレイナというらしい彼女のきゃぴきゃぴした名刺には、個人の携帯番号のほかに「いつでも相談に乗るから連絡してね」とハートマークが満載のメッセージがひとこと書いてあった。

 彼女も顧客が欲しいのだろうし、友人のよしみで、一度くらい店に行ってもいいかと思い、大体社会人の男が夜の店に行くことなんて、既婚者の会社の先輩だってやっていることだと開き直った悟は、気軽にレイナに連絡した。
 それがきっかけで、泥沼にハマるということにも一向に気づかずに。

 さすがに二十代半ばのキャバ嬢であるレイナは、嬢としては古株にあたるため、話し上手聞き上手なお姉さん系で、寂しがり屋の悟にとって翡翠の代わりに甘えさせてくれる相手だった。
 最初は一般客としてレイナを指名し、何度も通ううちに彼女の固定客となって同伴出勤、アフターにも行くようになるのも早かった。

 それでも、翡翠と別れることはその時は考えてもいなかった。自分から別れを切り出すには、翡翠は悟にはまだまだ魅力的過ぎたのだ。

 久々に翡翠と休日デートだった日。
 なかなか会えない日々が続いてストレスが溜まっていた悟が、さあこれから翡翠とどこに行こうかとワクワクしながら考えていたときに、無常にも翡翠のスマホが鳴る。
 仕事の電話だった。その日は二人とも平日にとれた休みであったので、会社は普通に営業している時間帯、翡翠がせっかくもぎ取った有給だったというのに、翡翠の後輩のミスで回らなくなった業務を休日を押してなんとかしてくれと泣きつかれてしまったらしい。

「……ごめん、悟。会社に行かないとなんなくなっちゃった……」
「ええっ!? これから? 何でだよ、後輩のミスなら後輩にやらせればいいだろ。いつまで翡翠が面倒みないとなんないわけ?」
「ごめん、もう泣いて泣いてしょうがないらしいし、これじゃ営業さんも取引先にまわれないみたいだから……」
「翡翠の仕事カバーできる人間ほかにいないわけ? どんだけ翡翠におんぶにだっこ状態の会社だよ! そんな会社もう辞めちまえよ!」

 半泣き状態の悟が地団駄踏むようにして言い放った言葉に、翡翠は一瞬はっとした表情を見せた。さすがに悟の言う通りだと思ったのだろう。自分がどれだけ会社に搾取されていたかにようやく気付いてくれたらしく、「……そうだね」と言ったあと、泣き笑い状態の表情で翡翠は言ってくれた。

「……わかった、もう辞めるよ。近いうちに辞表出す。けど最後にするから今回は許して。こういうたった一つの業務でもたくさんの人が関わってるんだし、それが回らないだけで会社にも、ほかの社員にもすごいダメージがあるでしょ。お願い、なるべく早く戻れるようにするから」
「…………」

 それは悟も営業職に就いているのでわかっているつもりだ。CADオペである翡翠の立場はいわば職人であり、職人の仕事が回らなければ営業だって回らないのだ。
 まして後輩を育成する立場になっている翡翠は中間管理職にもあたり、仕事ができるぶん上からも下からも頼られていて、彼女がいなければ会社自体がダメージを受けるというのは痛いくらいにわかる。
 わかるけれど、つらい。

「ごめんね、悟。連絡するから」
「……わかった。もう行けよ。お前の大事な後輩が待ってるんだろ」
「うん……ごめんね」

 限界だった。これで休日をつぶされるのはもう数えきれないくらいだった。
 辞めるとは言っていたけれど、翡翠が有能な社員なのは悟にもわかるし、会社が彼女をそう簡単に手放すとは思えなかった。きっとこんな日々は延々と続くだろう。彼女と付き合っているうちは絶対に。
 後輩思いの責任感が強い翡翠は決して悪くないと思いつつも、部外者である悟が翡翠の会社に文句を言えるわけがなく、翡翠に対して怒りの感情を芽生えさせるほかにどうしようもなかった。

 もんもんとした気持ちで行くところといえばレイナのキャバクラしか思いつかない。
 優しいレイナに愚痴を聞いてもらい、さんざん甘えさせてもらった。それから翡翠に会えない日は毎日レイナに会いに行き続けた。

 アフター時に嬢と客という立場を超えるのもなんら抵抗がなかったのが今でも不思議に思う。それだけ翡翠とは隔たりができていた。

 ラブホテルに入るのも久々で、後ろめたい気持ちなんてほぼ無かったし、逆にその場で嫌に盛り上がってしまった気持ちを早くレイナの身体に納めたくて仕方がなかった。

 シャワーも浴びないうちからレイナを抱きしめ、もたつく彼女の服を一枚一枚脱がしていき、身体をまさぐりながらベッドに押し倒した。
 彼女をストレスのはけ口にしている罪悪感もあったし、レイナ自身もそれを「わかってるよ」と言ってくれたのを免罪符として、彼女の柔らかな身体を貪った。
 
 最初は翡翠への怒りと寂しさを紛らわすためのはけ口としてだったものが、次第にレイナとするということに嬉しさを感じ始め、もう翡翠との行為を思い出せないくらい、この浮気が本気になってしまっていた。

 レイナと肉体関係を持ったその日から、悟の翡翠に対する肉体的な欲望はすっかりなりを潜めていった。
 翡翠と会ってもお前も仕事で疲れているだろうし、実は俺も疲れているから、と言い、彼女との夜をやんわりと拒んだ。最初は自分の寂しさを翡翠にもわかってもらいたくて意趣返しのつもりだったのだ。

 それが一週間、二週間、次第に一か月、三か月と続いて、もう半年を過ぎるころには完全なセックスレスとなってしまっていた。

 だというのにその間にも翡翠に隠れてレイナとは会い続けていた。
 翡翠がセックスレスに悩んでいて、いろいろと誘ってきたこともあったけれど、レイナに溺れている間はそちらに体力を取られて、翡翠を抱く気力さえなくなっていた。
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