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002 路地裏のひと悶着
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森の賢者と呼ばれる魔女メルティーナがオルガナ大森林を出て王都に来ている理由は、この国の大貴族コルヴィナス公爵の娘マグノリア公女の原因不明の体調不良を治療しに来たからだ。
マグノリア公女は現在十三歳で、幼いころからこの国の第一王子の婚約者となっているらしい。
そのため、ここに来ての長期の体調不良は婚約者から転落する可能性があったため、口の堅い専属の医師に治療させていた。
だがいくら医者が適切な治療を施しても、侍女や侍従らが普段の生活を改善に努めても、公女の体調は一向に回復の兆しが見えなかった。
暖かい季節なのに原因不明の熱を出して一時は昏睡状態に陥ったこともある。重い症状は回復してきたが、そのあとも悪夢を見てなかなかぐっすり眠れない。
そのうち暗闇を怖がるようになり、一人で眠ることもできなくなった公女が、侍女に何か得体のしれないものがいるなどと言い出すようになってしまった。
もちろん侍女には何も見えないし、実際警備をしていた騎士たちも公女の言うような得体のしれないものなど発見できなかった。
ここまでくると皆もさすがにおかしいと感じ、何かの呪いではと考えた公爵家の人々は、密かに魔法治療が施せる人物を探した。
しかし王都にいる魔術師に頼めばどこからか公女の体調不良という噂が立つ可能性もあった。そこで白羽の矢が立ったのが、オルガナ大森林にひっそりと暮らし、王都ではあまり面の割れていない魔女のメルティーナだったのだ。
メルティーナが見舞った際のマグノリア公女の症状は、病気によるものではなく、やはり呪いの類であった。
生霊がからむかなり面倒くさい呪いだったので、その解呪と呪い返しに物凄く魔力を使ってしまった。こんな年端もいかぬ公女になんて呪いをかけたのか、貴族の世界はなまじ魔物よりも恐ろしい。
なんとか数日かかって解呪と呪い返しを行ったので、すぐにも相手に何らかの変化があるだろう。
メルティーナには貴族同士の軋轢などよくわからないし、関係ないことなので詳しくは知らない。
だがそんな風にマグノリア公女に生霊を飛ばすような嫉妬や恨みの念を持った人物に、公爵は心当たりがあると言っていたから、そちらは公爵にまかせてとりあえずは一安心だ。
とはいえ、慣れない都会に来て緊張しているのもあり、非常に手の込んだ呪いを数日かけてやっと解いたので、メルティーナは魔力を通常よりもかなり消費してしまった。拠点のオルガナ大森林の家なら安心して身を休めて魔力を少しずつ取り戻せるだろうが、このような都会では落ち着かなくて回復するものも回復しない。
こんなときに、師匠ならどうするんだろうか。メルティーナは魔力枯渇でぼうっとする頭でそんなことを考えた。
実は「森の賢者」は正確にはメルティーナの引退した師匠である魔女で、その愛弟子だったメルティーナはその名を受け継いだ二代目である。
師匠はメルティーナが魔力覚醒を経てマージマスターのギフトを得たのち、「森の賢者」という肩書をメルティーナに譲るという書置きを残して失踪した。
もともと自由奔放な性格の師匠は恋も多き女だったため、常々「お前が一人前になったら引退して好きな男を追いかける」と異国にいるらしき恋焦がれる相手を負って旅に出るとメルティーナに豪語していた。
その書置きを見るまで、それが師匠のいつもの冗談だと思っていたのだが、何時間、何日経っても戻らない師匠に、ようやく一人になったことを実感したのである。魔女は不老であり老衰はないため、殺さなければ死なない。師匠はおそらく今もどこかで好きな男と楽しく暮らしているに違いないので心配はしていない。「便りが無いのが元気な証拠」とはよく言ったものだ。
それからというもの、メルティーナは二代目の「森の賢者」という仰々しすぎる肩書に肩身の狭い思いをしながらも、何とか仕事をこなしてきた。それが約二十年と少し。
ずっとオルガナ大森林の中で薬草を栽培し薬や魔道具を作ったりして細々と暮らし、近隣の街に薬草や魔道具を卸し、生活必需品を買い出しに行くだけしか森の外に出なかったので、こうして依頼とはいえ王都まで出向くのは初めてだった。
だから少し、ほんの少しだけ外の世界に対する憧れがあり、多少おのぼりさんだった自分がいるのは否めない。
だからこんな風に嫌な思いをするのだなと、先ほどの妓楼の楼主らしき男に追い出されたことを思い出す。思い出すだけで羞恥心と怒りが湧いてきて頭が痛い。
呪いに苛まれて困っていた公女は気の毒だったが、依頼とはいえこんな都会まで出てくるのではなかったと、メルティーナは反省した。
あの妓楼を出たあと、魔法街へ行って閉店間際に魔法薬の店に駆け込み、当座の魔力回復薬と解熱剤などを購入し、そのまま公爵邸に戻るつもりだった。
どこの町でもそうだが、魔法街と名の付くところはどういうわけだか入り組んだ造りになっていて、方向感覚が時折狂う。
普段の魔力量で歩いていれば、メルティーナはほぼ迷うことなどない方向感覚を持っているのだが、如何せん今は魔力枯渇状態で頭がぼんやりしていたのだ。
滞在中の公爵邸に戻ろうと歩いていたはずだが、魔法街を抜けた感覚はあっても、出たその場所は見慣れぬ薄暗い裏路地であった。見慣れぬ、とは言うものの、メルティーナにとっては王都などという都会の道は全部見慣れぬものではあるのだが。
――この年で迷子とか笑える。……あ、ダメ。少し休まないと、くらくらしてきた。さっき買った魔法薬も飲んで少し回復しないとダメ……。
メルティーナは路地の片隅に積まれた木箱の陰に蹲って動けなくなってしまった。
回らない頭。めまい、頭痛。吐き気。そんな状態なのに体からこみ上げるのは――何故か性衝動。
生物は命の危機に瀕すると子孫を残そうという本能が出てくると聞いたことがある。体は辛いのにムラムラとした欲求が沸き起こるのが困ってしまう。
よろよろとバッグを漁り、先ほど買った魔法薬を飲んでしばし蹲る。これがメルティーナの体に合えば、ゆっくりとだが確実に魔力は回復し、この症状も落ち着いてくるはずだ。
強い火酒でも摂取したみたいにぽわぽわと体が熱くなるのは、魔法薬の効果か、それとも湧き上がる性衝動のせいかわからない。俯きながら、メルティーナは熱い溜息を吐いた。
こんなことなら、コルヴィナス公爵が出かけるなら護衛をつけると言っていたのを断らなければ良かったと、メルティーナは今頃後悔した。コルヴィナス公爵騎士団は、王都の貴族が固有する騎士団の中でもかなりの精鋭ぞろいと聞くから、そんな騎士にそばについてもらえればこんなことにはなっていなかっただろう。
だが、もともとどうにも騎士というものに苦手意識があるメルティーナは固辞してしまった。プライドなんて捨てて護衛してもらえばよかったのに自業自得だ。今言っても詮無いことだが。
そんな風に動けなくなって蹲るメルティーナだが、このあたりで見かけないような(見た目だけ)少女が蹲る様子を見つめていた者があったことに、彼女は気づくのが遅れる。
「こんなところで身なりのいいお嬢さんが、一体どうしたんだい……? ひひ、具合悪いなら介抱してやろうか……?」
誰かが近づいてくる気配がした。声の様子から男だが、ねばついたような声で話しかけながらよろよろとおぼつかない足取りとはまともな人じゃない様子だ。裏路地を根城にしている不良だろう。
しかしメルティーナは立ち上がって逃げるにも体が重くて動かなかった。
薄暗い路地の片隅に、さらに影が落ちてきた感覚はあったけれど、顔を上げる元気もない。耳鳴りがしてその向こうで誰かが何かぼそぼそと言っている気がしたけれど、相手にする元気もない。
「聞いてんのか!」
無視したくてしているわけではなかったが、返事をしないメルティーナに腹を立てたらしい男はそう怒鳴りつけてきて、彼女の腕をつかんで突然引っ張っり上げた。
その勢いで我に返ったメルティーナは、自分の腕をつかみ上げている男の姿を見た。
薄汚れた身なりをして目は座り、酩酊しているのか顔は赤くて酒臭い息を吐いていて、それだけでこっちが吐き気を覚えた。
「ちょっ……何すんのよ……具合が悪いのよ!」
「へへへ……元気はあるじゃねえか。こんなところで蹲ってるより、ちゃぁんとしたベッドでよしよししてやるからよ~」
「うええ……」
酒臭い息が近づいてきて、吐き気を催したメルティーナだったが、この不良男から酒の匂いに交じって汗の強烈な匂いがした瞬間に心臓がドクンと大きく波打った。
人間の汗の匂いにはフェロモンが含まれているとかなんとかかんとか……。などと色々考えて頭がぐるぐる回っていく。抵抗できないで荷物のように肩に担がれたのもよくわからなくなっていた。
ただ、この不良男に声を掛けられる直前までなんとか理性で抑えていた魔力枯渇による性衝動のようなものが、男の強烈な汗の匂いで理性が完全にぶっ飛んだ気がした。
そのせいか、この不良男で欲求不満状態を解消すればいいんじゃ? などと考えてはいけないことまで脳裏に浮かぶ。
――ああ、どうしよう。まあ、男っちゃ男だもんね、この人だって……。もうなりふり構っていられないところもあるし、魔力が回復さえすれば……あとはどうにでも……。
抵抗もできないまま、男の肩に担がれてぶらぶらと揺れながらぼんやりとそんなことを考えていた。普段の自分からは考えられない思考であるが、何が正しいのかさっぱりわからなくなっていた。
そんなとき、路地裏をメルティーナを担いで歩く男がぴたりと立ち止まる。前方に立ちふさがる人影を見つけたようだ。
「……その人をどこに連れて行こうってんだ?」
メルティーナはその声に聞き覚えがあるとぼんやり思った。
忘れもしない、あの妓楼でメルティーナを追い出した楼主の男のような……。
――今更なんなのよ。もう放っておいてよね。
今にも消えそうな意識の中、彼に対する怒りで心の中で文句を言っているが、実際には何もできないでいたメルティーナだが、突然担いでいた男にずるりと降ろされて床に転がる痛みに目が覚めた。
星が散った焦点がだんだんと合ってきた視界に入ったのは、今しがたメルティーナを放り出した薄汚れた風体の男と、その前方に立つピンクブロンドのあの妓楼の楼主らしき男だった。
「……こいつは俺と同意の女だ。これからこいつとヨロシクやりに行くんだよ、邪魔すんなよ兄ちゃん」
「どこの世界に同意の女を肩に担いで行くバカがいるんだよ。嘘吐くならもっとマシな嘘吐きな」
「……うるせえうるせえ! どけえええっ!」
それからすぐにのとんでもない絶叫のあと、ばたばたと走って襲い掛かる不良男。手には鈍色に光る何か、ナイフのようなものを手にして、楼主の男に突進していく。
「危ない……!」
思った以上にかすれた声だったが、メルティーナは思わずそう叫んだ。楼主のことは超いけ好かない男だしもう会いたくないとは思ったけれど、死んでほしいとまで思ってはいない。最悪の事態を見たくなくて、思わず両手で顔を覆った。
しかし楼主らしき男は、突進してくる不良男が眼前に迫った瞬間にひょいと身を躱し、そのまま足を引っかけて不良男を転ばせた。地べたに無様に転んだ男の手を追い打ちで蹴り、ナイフはカラカラと地面を転がっていく。
「悪いな、俺の長い脚が引っ掛かった」
「くそっ……! てめえっ……」
不良男が起き上がろうとした瞬間、楼主の男は相手のべたついた髪の毛を掴み、一度持ち上げてから地面にガツンと叩きつける。
「おごぉっ!」
「……んー、お前……? あー、なるほどな」
楼主は今一度不良男の髪を掴み上げ、鼻血を流した男の顔をまじまじと見てから、助けを求めるように宙をさまよっていた男の手を革靴でぐりぐりと踏みつけた。
――うわ、痛そう。
手というのは神経の集まっているところだから、顔面強打の上にこれはかなり痛いだろう。メルティーナは自業自得とはいえああして制裁を受けている不良男に一瞬同情してしまった。
「ぐあああああっ……くそっ! 痛えよっ!」
「そりゃ痛いさ。てかお前、どっかで見たと思ったらギルドに張り紙されてた賞金首じゃねえか。はは、とんだ臨時収入だな」
「うっ……くそぉっ」
「とりあえず、一度くたばっとけ」
「へぐぅっ!」
手を踏みつけていた足を振り上げて掴んだ男の顔面に叩きつける。いい感じに男の顔面に一発入ったようだ。不良男は蛙のつぶれたような声を出して昏倒した。気絶した男を、楼主はほどいたネクタイで後ろ手に縛りあげる。妙に手際がいい。
すっかり目が覚めて一部始終を見てしまったメルティーナに、楼主の男はようやく気付いてバツが悪そうに目を逸らしながら尋ねてきた。
「あー、その、大丈夫っすか」
「……ええ」
「立てそうっすか」
「え、ええ……」
楼主の男が手を差し出してきて、メルティーナは思わずその手を掴んでしまったが、そういえばこの男に先ほど手ひどく追い返されたのだったと思い出す。思い切り相手の手をぎゅっと力いっぱい握りしめて立ち上がったのち、ぶんっと振り払ってやった。
マグノリア公女は現在十三歳で、幼いころからこの国の第一王子の婚約者となっているらしい。
そのため、ここに来ての長期の体調不良は婚約者から転落する可能性があったため、口の堅い専属の医師に治療させていた。
だがいくら医者が適切な治療を施しても、侍女や侍従らが普段の生活を改善に努めても、公女の体調は一向に回復の兆しが見えなかった。
暖かい季節なのに原因不明の熱を出して一時は昏睡状態に陥ったこともある。重い症状は回復してきたが、そのあとも悪夢を見てなかなかぐっすり眠れない。
そのうち暗闇を怖がるようになり、一人で眠ることもできなくなった公女が、侍女に何か得体のしれないものがいるなどと言い出すようになってしまった。
もちろん侍女には何も見えないし、実際警備をしていた騎士たちも公女の言うような得体のしれないものなど発見できなかった。
ここまでくると皆もさすがにおかしいと感じ、何かの呪いではと考えた公爵家の人々は、密かに魔法治療が施せる人物を探した。
しかし王都にいる魔術師に頼めばどこからか公女の体調不良という噂が立つ可能性もあった。そこで白羽の矢が立ったのが、オルガナ大森林にひっそりと暮らし、王都ではあまり面の割れていない魔女のメルティーナだったのだ。
メルティーナが見舞った際のマグノリア公女の症状は、病気によるものではなく、やはり呪いの類であった。
生霊がからむかなり面倒くさい呪いだったので、その解呪と呪い返しに物凄く魔力を使ってしまった。こんな年端もいかぬ公女になんて呪いをかけたのか、貴族の世界はなまじ魔物よりも恐ろしい。
なんとか数日かかって解呪と呪い返しを行ったので、すぐにも相手に何らかの変化があるだろう。
メルティーナには貴族同士の軋轢などよくわからないし、関係ないことなので詳しくは知らない。
だがそんな風にマグノリア公女に生霊を飛ばすような嫉妬や恨みの念を持った人物に、公爵は心当たりがあると言っていたから、そちらは公爵にまかせてとりあえずは一安心だ。
とはいえ、慣れない都会に来て緊張しているのもあり、非常に手の込んだ呪いを数日かけてやっと解いたので、メルティーナは魔力を通常よりもかなり消費してしまった。拠点のオルガナ大森林の家なら安心して身を休めて魔力を少しずつ取り戻せるだろうが、このような都会では落ち着かなくて回復するものも回復しない。
こんなときに、師匠ならどうするんだろうか。メルティーナは魔力枯渇でぼうっとする頭でそんなことを考えた。
実は「森の賢者」は正確にはメルティーナの引退した師匠である魔女で、その愛弟子だったメルティーナはその名を受け継いだ二代目である。
師匠はメルティーナが魔力覚醒を経てマージマスターのギフトを得たのち、「森の賢者」という肩書をメルティーナに譲るという書置きを残して失踪した。
もともと自由奔放な性格の師匠は恋も多き女だったため、常々「お前が一人前になったら引退して好きな男を追いかける」と異国にいるらしき恋焦がれる相手を負って旅に出るとメルティーナに豪語していた。
その書置きを見るまで、それが師匠のいつもの冗談だと思っていたのだが、何時間、何日経っても戻らない師匠に、ようやく一人になったことを実感したのである。魔女は不老であり老衰はないため、殺さなければ死なない。師匠はおそらく今もどこかで好きな男と楽しく暮らしているに違いないので心配はしていない。「便りが無いのが元気な証拠」とはよく言ったものだ。
それからというもの、メルティーナは二代目の「森の賢者」という仰々しすぎる肩書に肩身の狭い思いをしながらも、何とか仕事をこなしてきた。それが約二十年と少し。
ずっとオルガナ大森林の中で薬草を栽培し薬や魔道具を作ったりして細々と暮らし、近隣の街に薬草や魔道具を卸し、生活必需品を買い出しに行くだけしか森の外に出なかったので、こうして依頼とはいえ王都まで出向くのは初めてだった。
だから少し、ほんの少しだけ外の世界に対する憧れがあり、多少おのぼりさんだった自分がいるのは否めない。
だからこんな風に嫌な思いをするのだなと、先ほどの妓楼の楼主らしき男に追い出されたことを思い出す。思い出すだけで羞恥心と怒りが湧いてきて頭が痛い。
呪いに苛まれて困っていた公女は気の毒だったが、依頼とはいえこんな都会まで出てくるのではなかったと、メルティーナは反省した。
あの妓楼を出たあと、魔法街へ行って閉店間際に魔法薬の店に駆け込み、当座の魔力回復薬と解熱剤などを購入し、そのまま公爵邸に戻るつもりだった。
どこの町でもそうだが、魔法街と名の付くところはどういうわけだか入り組んだ造りになっていて、方向感覚が時折狂う。
普段の魔力量で歩いていれば、メルティーナはほぼ迷うことなどない方向感覚を持っているのだが、如何せん今は魔力枯渇状態で頭がぼんやりしていたのだ。
滞在中の公爵邸に戻ろうと歩いていたはずだが、魔法街を抜けた感覚はあっても、出たその場所は見慣れぬ薄暗い裏路地であった。見慣れぬ、とは言うものの、メルティーナにとっては王都などという都会の道は全部見慣れぬものではあるのだが。
――この年で迷子とか笑える。……あ、ダメ。少し休まないと、くらくらしてきた。さっき買った魔法薬も飲んで少し回復しないとダメ……。
メルティーナは路地の片隅に積まれた木箱の陰に蹲って動けなくなってしまった。
回らない頭。めまい、頭痛。吐き気。そんな状態なのに体からこみ上げるのは――何故か性衝動。
生物は命の危機に瀕すると子孫を残そうという本能が出てくると聞いたことがある。体は辛いのにムラムラとした欲求が沸き起こるのが困ってしまう。
よろよろとバッグを漁り、先ほど買った魔法薬を飲んでしばし蹲る。これがメルティーナの体に合えば、ゆっくりとだが確実に魔力は回復し、この症状も落ち着いてくるはずだ。
強い火酒でも摂取したみたいにぽわぽわと体が熱くなるのは、魔法薬の効果か、それとも湧き上がる性衝動のせいかわからない。俯きながら、メルティーナは熱い溜息を吐いた。
こんなことなら、コルヴィナス公爵が出かけるなら護衛をつけると言っていたのを断らなければ良かったと、メルティーナは今頃後悔した。コルヴィナス公爵騎士団は、王都の貴族が固有する騎士団の中でもかなりの精鋭ぞろいと聞くから、そんな騎士にそばについてもらえればこんなことにはなっていなかっただろう。
だが、もともとどうにも騎士というものに苦手意識があるメルティーナは固辞してしまった。プライドなんて捨てて護衛してもらえばよかったのに自業自得だ。今言っても詮無いことだが。
そんな風に動けなくなって蹲るメルティーナだが、このあたりで見かけないような(見た目だけ)少女が蹲る様子を見つめていた者があったことに、彼女は気づくのが遅れる。
「こんなところで身なりのいいお嬢さんが、一体どうしたんだい……? ひひ、具合悪いなら介抱してやろうか……?」
誰かが近づいてくる気配がした。声の様子から男だが、ねばついたような声で話しかけながらよろよろとおぼつかない足取りとはまともな人じゃない様子だ。裏路地を根城にしている不良だろう。
しかしメルティーナは立ち上がって逃げるにも体が重くて動かなかった。
薄暗い路地の片隅に、さらに影が落ちてきた感覚はあったけれど、顔を上げる元気もない。耳鳴りがしてその向こうで誰かが何かぼそぼそと言っている気がしたけれど、相手にする元気もない。
「聞いてんのか!」
無視したくてしているわけではなかったが、返事をしないメルティーナに腹を立てたらしい男はそう怒鳴りつけてきて、彼女の腕をつかんで突然引っ張っり上げた。
その勢いで我に返ったメルティーナは、自分の腕をつかみ上げている男の姿を見た。
薄汚れた身なりをして目は座り、酩酊しているのか顔は赤くて酒臭い息を吐いていて、それだけでこっちが吐き気を覚えた。
「ちょっ……何すんのよ……具合が悪いのよ!」
「へへへ……元気はあるじゃねえか。こんなところで蹲ってるより、ちゃぁんとしたベッドでよしよししてやるからよ~」
「うええ……」
酒臭い息が近づいてきて、吐き気を催したメルティーナだったが、この不良男から酒の匂いに交じって汗の強烈な匂いがした瞬間に心臓がドクンと大きく波打った。
人間の汗の匂いにはフェロモンが含まれているとかなんとかかんとか……。などと色々考えて頭がぐるぐる回っていく。抵抗できないで荷物のように肩に担がれたのもよくわからなくなっていた。
ただ、この不良男に声を掛けられる直前までなんとか理性で抑えていた魔力枯渇による性衝動のようなものが、男の強烈な汗の匂いで理性が完全にぶっ飛んだ気がした。
そのせいか、この不良男で欲求不満状態を解消すればいいんじゃ? などと考えてはいけないことまで脳裏に浮かぶ。
――ああ、どうしよう。まあ、男っちゃ男だもんね、この人だって……。もうなりふり構っていられないところもあるし、魔力が回復さえすれば……あとはどうにでも……。
抵抗もできないまま、男の肩に担がれてぶらぶらと揺れながらぼんやりとそんなことを考えていた。普段の自分からは考えられない思考であるが、何が正しいのかさっぱりわからなくなっていた。
そんなとき、路地裏をメルティーナを担いで歩く男がぴたりと立ち止まる。前方に立ちふさがる人影を見つけたようだ。
「……その人をどこに連れて行こうってんだ?」
メルティーナはその声に聞き覚えがあるとぼんやり思った。
忘れもしない、あの妓楼でメルティーナを追い出した楼主の男のような……。
――今更なんなのよ。もう放っておいてよね。
今にも消えそうな意識の中、彼に対する怒りで心の中で文句を言っているが、実際には何もできないでいたメルティーナだが、突然担いでいた男にずるりと降ろされて床に転がる痛みに目が覚めた。
星が散った焦点がだんだんと合ってきた視界に入ったのは、今しがたメルティーナを放り出した薄汚れた風体の男と、その前方に立つピンクブロンドのあの妓楼の楼主らしき男だった。
「……こいつは俺と同意の女だ。これからこいつとヨロシクやりに行くんだよ、邪魔すんなよ兄ちゃん」
「どこの世界に同意の女を肩に担いで行くバカがいるんだよ。嘘吐くならもっとマシな嘘吐きな」
「……うるせえうるせえ! どけえええっ!」
それからすぐにのとんでもない絶叫のあと、ばたばたと走って襲い掛かる不良男。手には鈍色に光る何か、ナイフのようなものを手にして、楼主の男に突進していく。
「危ない……!」
思った以上にかすれた声だったが、メルティーナは思わずそう叫んだ。楼主のことは超いけ好かない男だしもう会いたくないとは思ったけれど、死んでほしいとまで思ってはいない。最悪の事態を見たくなくて、思わず両手で顔を覆った。
しかし楼主らしき男は、突進してくる不良男が眼前に迫った瞬間にひょいと身を躱し、そのまま足を引っかけて不良男を転ばせた。地べたに無様に転んだ男の手を追い打ちで蹴り、ナイフはカラカラと地面を転がっていく。
「悪いな、俺の長い脚が引っ掛かった」
「くそっ……! てめえっ……」
不良男が起き上がろうとした瞬間、楼主の男は相手のべたついた髪の毛を掴み、一度持ち上げてから地面にガツンと叩きつける。
「おごぉっ!」
「……んー、お前……? あー、なるほどな」
楼主は今一度不良男の髪を掴み上げ、鼻血を流した男の顔をまじまじと見てから、助けを求めるように宙をさまよっていた男の手を革靴でぐりぐりと踏みつけた。
――うわ、痛そう。
手というのは神経の集まっているところだから、顔面強打の上にこれはかなり痛いだろう。メルティーナは自業自得とはいえああして制裁を受けている不良男に一瞬同情してしまった。
「ぐあああああっ……くそっ! 痛えよっ!」
「そりゃ痛いさ。てかお前、どっかで見たと思ったらギルドに張り紙されてた賞金首じゃねえか。はは、とんだ臨時収入だな」
「うっ……くそぉっ」
「とりあえず、一度くたばっとけ」
「へぐぅっ!」
手を踏みつけていた足を振り上げて掴んだ男の顔面に叩きつける。いい感じに男の顔面に一発入ったようだ。不良男は蛙のつぶれたような声を出して昏倒した。気絶した男を、楼主はほどいたネクタイで後ろ手に縛りあげる。妙に手際がいい。
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「あー、その、大丈夫っすか」
「……ええ」
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「え、ええ……」
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いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
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