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1巻

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   プロローグ


 北方の山岳地帯にあるローゼンブルグ王国。地母神コルドゥーラをまつる神殿により、指名制で選ばれた女王が代々治めてきた女系国家だ。女王は十代から二十代前半の未婚女性より選出され、四十代になると交代する定年制で、これまで代々行ってきた。
 この国の人々は皆地母神コルドゥーラの末裔まつえいと言われており、特に女性は女神の加護を持って生まれて来るという。彼女らをめとると女神の加護の恩恵を得られるなどとまことしやかに語り継がれてきた。
 そのせいか、大昔にはローゼンブルグを欲しがる近隣諸国から幾度も戦争を仕掛けられた。だがその相手国の王族が急死したり、未曾有みぞうの災害が国を襲ったりなど、相次いで不幸が訪れたため、「地母神コルドゥーラの天罰が下ったのだ」と恐れ慄いたものだ。
 一時は男性の入国を制限し、子供に男児が生まれれば他国へ養子に出すなど男性排除の政策を行っていたせいで、過去には人口がそれまでの五割を切るなどの大問題が起こったという歴史もあった。
 女性だけですべてをまかなおうなどというのは無理があるのだから仕方ない。それでは人口が増えないのだ。
 そういった風習が撤廃されて、男性の移民や労働者、旅行者なども歓迎するようになってからは、周辺諸国の男性陣から「うるわしの国」と呼ばれるようになっている。
 健康体の男性というだけでこの国では希少であるため、ローゼンブルグの女性陣に比較的好かれるのだが、最初のうちこそ遊び目的の旅行で訪れた男性がそのうち移住してローゼンブルグ女性と結婚する、もしくはローゼンブルグの女性をめとって自分の国に連れて行くケースも増えているらしい。
 一時の関係を永遠のものとしたくてたまらなくなるほどに、ローゼンブルグの女性は各国の男性を魅了してやまない不思議な魅力があるのだ。
 ――女神の魅力には敵わない。
 ローゼンブルグの女性に魅入られた他国の男性らは、彼女らをそう称して白旗を上げざるを得ないのであった。


 ロミ・リフキンド侯爵はローゼンブルグの女性騎士であった。
 大陸の北方、厳しい山岳地帯にあり古くから女王が統治し、この地で信仰されている地母神コルドゥーラの末裔たちが暮らす女系国家ローゼンブルグ王国で、女王の最側近である薔薇騎士隊と呼ばれる近衛騎士であり、二十一歳という若さで今年から隊長に任じられていた。
 騎士家系で元・薔薇騎士隊長であるノエミ・リフキンド前侯爵の一人娘で、最近爵位を譲られて、現在はリフキンド侯爵の地位についている。
 緑の大きな目に非常に整った顔立ち、赤みがかった明るい色の長い髪を後ろで高く結び、薔薇騎士隊の隊服もすっかり板についてきた今日この頃である。
 子供の頃などは女騎士の娘にしては病弱で性格もおとなしく、体の大きな男性を怖がってすぐ泣くようなはかなげな少女だった。

「騎士の家の子が怖いと泣いていてどうします。男が怖いのなら男より強くなればいいのです。そもそもローゼンブルグの女は強くなければなりません。それがこの地に生まれた者の務めですよ」

 母ノエミにそう言われ、ありとあらゆる体術や剣術を叩き込まれて、今ではそんな幼少期などなかったかのように自信がついてあまり臆さない性格に育ったのである。
 ――私は強くなる。母上のようにこの国のみんなを守る強い騎士になるんだ。
 そう悟ったロミは薔薇騎士隊に入隊するとめきめきと頭角を現し、ついに歴代最年少で薔薇騎士隊長となったのであった。
 引退した前隊長だった母ノエミの後を継いだ形だが、親の七光りと揶揄されても屈さず、隊長選任試験で心技体ともに満場一致で皆を認めさせたほどの、実力の持ち主であった。
 壮年でありながらも絶世の美を誇るローゼンブルグ王国の冷徹な女王ハリエット・マレリオナ・ローゼンブルグ一世は、薔薇騎士隊長をこのような若者に任せられるのかと最初はいぶかしんでいた。しかしロミの正義感が強く真面目で明るい性格にすぐに心を許した。
 齢三十九歳の女王ハリエットはもともと聖職者希望の女性だ。コルドゥーラ神殿の指名により十八歳で女王となったのだが、もともと幼少から聖職者としての修行をしていたせいか自分にも他人にも氷のごとく厳しい。だがその厳しさには愛情があり、女王は騎士や貴族らに留まらず、国民にも大変尊敬されている。
 ローゼンブルグ女王は四十代になれば代替わりして、神殿の指名により新たな女王が誕生する。ハリエット女王はもうそろそろ引退時期を迎える。彼女の若い頃からの要望から、おそらく引退後は神殿で聖職者としての道を選ぶことになるそうだ。
 そのためか、女王はあまり護衛任務に就く薔薇騎士たちに危険なことはするなと口酸っぱく言うことが多かった。

「私を守るためとはいえ、危険なことはしないでいただきたいわ。次世代の女王陛下にボロボロな薔薇騎士隊を譲るわけにはまいりませんもの」

 などと冷淡に言い放ってはよく薔薇騎士隊員を苦笑させている。自分の娘ぐらいの年齢の騎士たちを母のような目線で心配しているのだ。
 ――これが世に言うツンデレというやつなのだろうか?
 そんなことをロミは薔薇騎士隊の部下たちと話したことがある。皆同じように思っていたらしく、ひとしきり笑いを交えて同意しながら、それでも自分たちの大切な女王陛下に忠誠を捧げ、守り続けると誓い合った思い出が蘇る。
 そんな男性との出会いもほぼなかったこれまでの人生で、まさに「心を奪われる」「焦がれる」――つまり「恋」を知ることがあるなんて、ロミはこれまで想像したこともなかった。
 男神もかくやという、絵画や彫刻のような美貌と肉体を持つ、隣国の一人の男性との出会いがまさにそれだったのである。




   第一章 一期一会の情熱


 初夏のとある日のこと、休日を利用してロミはリフレッシュ旅行と称して隣国のイーグルトン帝国の帝都アルタイルを訪れていた。
 イーグルトン帝国は、第十二代皇帝ナサニエル一世が治める、ローゼンブルグの友好国である。
 時のイーグルトン帝国皇帝、ナサニエル・アンタレス・イーグルトン一世は今年五十五歳になる偉丈夫で、十年前に流行り病で他界した皇后との間に儲けた息子が三人いる。
 第一皇子マクシミリアン二十三歳。第二皇子マリエル十三歳。第三皇子レオニード十一歳。
 子供は男児ばかりのこの三人で、まだ立太子はしていない。だが、皇太子の有力候補は第一皇子マクシミリアンと言われていた。
 この度、ナサニエル帝の在位三十周年記念式典が行われることとなり、友好国であるローゼンブルグの女王ハリエットも招待されていた。女王の護衛として薔薇騎士隊も供をすることになっている。
 ロミのリフレッシュ休暇の行き先として、どうせなら下見をしようと旅行先をこの国にしたのだった。
 ロミは貴族女性だが騎士でもあるので、食事以外の身の回りの世話は自分でする。だから、使用人もつけない気ままな一人旅だ。
 宿を取って旅装束から動きやすい服装に改めると、宿の主人に元気に挨拶をして観光に出かけた。

「ん~~~~気持ちいいなあ」

 宿を出て青天の日差しを浴びながら伸びをすると、観光マップを頭に描きながら旅行前から目星をつけていた美術館へと歩き出す。
 無骨なイメージの騎士という職業だが、実は以前より芸術に興味があり、イーグルトンの帝都美術館に一度行ってみたかったのだ。
 目的地に着くとすぐにパンフレットを購入し、ワクワクしながら会場を回った。
 絵画や彫刻を様々な角度から鑑賞し、脇の紹介文を読み、また改めて数歩離れて鑑賞する。その熱心な鑑賞ぶりによほどの芸術好きかと思ったらしく、美術館の学芸員が話しかけてきたので、しばしその作品の超絶技巧などを教えてもらった。
 中でも筋骨逞しい引き締まった裸の上半身を惜しげもなく晒して、手に槍を掲げ、軍馬を駆る雄々しい戦神の彫刻は、息を飲むほどの美しさを感じて何度も眺め倒してしまった。
 結果、夕方の閉館まで堪能し、ロミはほくほく顔で美術館を出た。
 商店街に戻ってくると、かぐわしい香りが鼻をくすぐり空腹を知らせてくる。
 そのうちの一軒「酔いどれエルフ亭」にたどり着いたのは午後六時を指した頃だ。
 虫を鳴かす腹具合と店から漂ってくる肉料理の匂いに我慢できず、ロミは店の中に入った。
 ガヤガヤと騒がしくも盛況な店内に入ると、恰幅の良い女将おかみが大ジョッキの麦酒ビールを豪快に両手に三個ずつ運びながら、ロミを見つけて声をかけてくれた。

「あら、いらっしゃい別嬪べっぴんさん!」

 ローゼンブルグでは滅多にこんなこと言われない。こうして別嬪べっぴんさんなんて呼ばれるとちょっと嬉しかったりもする。

「御一人様カウンターにどうぞ~!」

 まずは麦酒ビールを注文し、メニュー表と壁に貼られているお勧めメニューを見ながら酒のつまみを決める。
 ――別嬪べっぴんさん、なんて言われてしまったのでたくさん食べていかないと。
 野菜サラダとサイコロステーキを注文して、それをつまみに麦酒ビールを飲む。料理の美味しさに酒が進んであっという間にジョッキが空になる。まだ飲み足りないので先ほど別嬪べっぴんさんと言ってくれた女将に追加注文をした。

「いい飲みっぷりだな、姉ちゃん」

 カウンターにどかっと肘を突いた男に話しかけられた。無精髭ぶしょうひげを生やした大柄な男だった。とりあえず話しかけられたには返事をしなければ失礼にあたると思ったロミは、ジョッキを持ち上げてニカッと笑った。

「はい! お酒もお料理も大変美味しいです」
「ここらじゃ見ねえ顔だな。観光客かい」
「はい! ローゼンブルグから参りました」
「へえ。あのうるわしの国。どうりでいい女だと思ったぜ」
「あ、ははは……。いい女などと、とんでもありません。でも、ありがとうございます。しかしそれを言うならこの国の芸術こそ素晴らしいです! 実は今日は美術館で芸術を堪能して参りましたが、さすがは芸術の都イーグルトン帝国ですね。特にあの戦神の彫刻における超絶技巧が素晴らしくて、その余韻をさかなにお酒が飲めてしまいます」
「そ、そうか。良かったな」

 どう見ても芸術には縁のなさそうないかつい男にそんな話を力説してしまい、男は若干引いている。
 ――やってしまった。興奮して一方的にまくし立てるなんて、会話を楽しむ場で浮いているじゃないか。
 男性と接したことなどほとんどないので、こういう場で相手の興味を誘うような話題が何も出てこない。
 しかし男は気を取り直したのか、やや強引にロミに身を寄せてきた。酒臭い息を吐きながら熱に浮かされたかのような声でロミに話しかける。

「昼間は楽しんだようだが、これから暇なら俺と遊ばねえか?」
「いえ、誘っていただいて恐縮なのですが、遊ぶにはもう遅い時間ですし、食事を終えたら宿に戻ろうと思います」

 誘いを馬鹿正直に断るロミ。男は一瞬眉根を寄せたのち、今度はロミの肩をグイッと抱き寄せた。

「そう言うなって。な?」
「な、何をなさるんですか!」
「そうカリカリすんなよ。戦神が好きなんだろう? 要は俺みたいながっちりした体型の男が好きってことだよなあ」

 舌なめずりをする男の言葉に一瞬呆けたロミだったが、ようやく自分の置かれた立場に気付いた。
 ――こ、これは、世にいうナンパというやつではないか?
 彼が言う「遊び」の誘いはいわゆる夜の誘い。つまり今ロミはこのいかつい男に身体を求められているということになる。
 ――いやいやいや、そういうつもりは全くない。ここは丁重にお断りしなければ。

「あの、すみません。貴方は戦神ではないですし、私の好みではありませんので、申し訳ありませんがお断りさせていただきたい」

 穏便に断るつもりがついはっきりと言ってしまった。
 しかも二人の様子を見ていたらしい他の客たちから、フラれた男に対してクスクス笑う声が聞こえてきた。
 酒が入って気が大きくなっているらしいその男は、みるみる怒りで真っ赤になった。

「このアマっ……恥かかせやがって!」
「うっ!」

 胸ぐらをつかまれて男が平手を振り上げた。殴られると思った瞬間、背後でパンパンと手を叩く音と、クスクスと笑い声がした。そちらを見ると、一人の若い男が壁に寄りかかりながら手を叩いてこちらを見ていた。
 見事な金髪に夜空のような瑠璃色の瞳をした、まれに見る美形の男。その美貌にして大柄体型に服の上からでも分かる筋肉で覆われた、戦うために鍛えられた鋼のような肉体を持った、まさに美術館で見た戦神の彫刻そっくりな男だった。
 胸元が大きくはだけた生成きなりのシャツに暗い茶系のトラウザーズと革のブーツという姿に、カラフルな腰帯と、その上に道具入れの付いた革ベルト、使い込まれた長剣を帯びている。
 ラフな格好であるのに気品と妙な色気を感じさせる絶世の美貌を持つ美青年で、ロミは思わず目を奪われてしまった。ナンパ男のほうも毒気を抜かれて固まっている。

「いいねえお嬢さん。嫌なもんは嫌ってはっきり言える女ってのは好ましい。最近のイーグルトン男ははっきり言わないとわからない残念な頭の野郎が多いからな」
「……」

 その金髪の男はロミが先ほど馬鹿正直に断ったことに感心しているらしい。若干笑われているのは否めないが、どうやらナンパ男の味方ではないらしい。

「な、何だ、てめえは!」
「何だ、はこっちのセリフだ。女相手に手ぇ上げる野郎なんて男じゃねえ。その手をとっとと放し、なっ!」

 金髪の男が一瞬でロミの胸ぐらを掴んでいた男の手を手刀で振りほどいた。

「うぐっ!」

 その衝撃に男はよろけてカウンターにぶつかった。手刀の一撃を受けて痺れた手をさすりながら恨めし気に金髪男を見る。
 金髪男はすぐさまロミをかばうようにその男との間を遮った。

「てめえ……!」
「どうした、もっと恥をかきたいのか? きっぱりフラれたんだ、男ならいさぎよく諦めな。それともこの場で俺にのされて衛兵に突き出されたいか?」
「いいぞ、いいぞ」
「未練がましくみっともねえフラれ男なんか、ぶっ飛ばしちまえ、なあ兄ちゃん」

 男同士の睨み合いが続く中、金髪男に味方したらしい他の酔客も面白がってはやし立て始めてしまった。
 困り顔をしているのは店員のほうだ。先ほどの女将も店の中で乱闘でもされたらと心配しているのがありありとわかる。
 いたたまれなくなったロミは、申し訳ないとは思ったけれど食べかけ飲みかけの食器をそのままに、代金に色をつけた金貨を置いて席を立つ。

「おやめください。もういいです! 原因の私がいなくなればいいことですよね!」

 もっともらしいことを言っているが、ロミは少々後ろめたかった。
 衛兵が来て根掘り葉掘り聞かれたら、ローゼンブルグの薔薇騎士隊長がイーグルトンで問題を起こしたと言われるかもしれない。こっちは被害者のつもりだけれど、女王陛下がこれを知ったら何と言うか……。卑怯かもしれないがとりあえずここは逃げようと考えてしまった。

「あっ……ちょ、おい」

 ロミが金髪男の横を通り過ぎて店の出入り口に向かう際、彼が声をかけたがロミは振り返らなかった。ロミの背後で先ほどのナンパ男が激高げっこうして金髪男に掴みかかったような怒号と物音が聞こえてきたけれど、ロミは振り返らずに店を出て足早に宿へと歩き出した。
 ふと見ると、あのナンパ男に捕まれたシャツの胸の辺りのボタンが取れかかっている。
 ――やはりいくら騎士として鍛えても、男性の力にはなかなか勝てない。女騎士は力ではなく技量を磨けと、見習い騎士時代に教官が言っていたっけ。
 強くならなければと騎士の修業をして、成人してようやく強くなったと思っていたのに、まだ修業が足りないのかもしれないと自己嫌悪する。
 それに、あの金髪の男性に助けてもらったというのに、お礼の一言もないまま出てきてしまった。
 歩き出して途中でふと考えて立ち止まる。店の人にも店内で迷惑をかけたことを謝っていない。一応詫びの気持ちを込めて金貨を置いてきたけれど、でもいたたまれなくて突発的に出て来てしまったため、今更戻れるわけがない。
 隣国で問題を起こして素直に謝ることもできないなど、何が一人前の騎士だ。何が最年少薔薇騎士隊長だ。肩書だけ立派で、人間として未熟な自分が恥ずかしくなってしまった。
 昼間あれだけ趣味を堪能して、幸せな気分になっていたのに、そこから一転して最悪な気分、最悪な旅行となってしまったと、ロミは大きくため息を吐いた。

「おーい、そこのアンタ! ちょっと待ってくれ」

 と、ロミが一人で落ち込んでいたところに、背後から聞き覚えのある声で呼びかけられて、思わず振り向いた。手を振りながらこちらに駆けてくるその姿は、先ほどの美貌の金髪男だった。
 ロミはギョッとして思わず後退あとずさったが、先ほどの後悔が逃げたい自分を押しとどめる。
 金髪男はロミの目の前で立ち止まると、ふう、と大きく息を吐いてから顔を上げた。

「ああ、良かった。すぐ近くにいてくれて」
「は、はあ」
「悪かった。絡まれてるから助けたつもりだったんだが、余計な世話だったみたいだよな」
「えっ」
「その腰の剣。あんたどっかの女性剣士かなんかだろう? 自分で何とかできるみたいだったのに、俺が介入したせいでややこしくなっちまって……申し訳なかった」

 男がガバッと頭を下げたので、ロミは慌てて弁解する。

「や、やめてください。こちらこそ、せっかく助けて頂いたのにお礼もしないで……すみません。本当は事態収拾まであの場にいなきゃいけないでしょうに、いたたまれなくてつい飛び出してしまいました」
「あー、まあ、気持ちはわかる」
「あの後どうなりました?」
「ああ、心配すんな。少々痛めつけたら逃げて行ったから。あの店じゃ日常なんだ」
「そうでしたか……」

 ――彼は一体どんなことしたのかな。そうだ、言い訳ばかり並べていないでお礼を言わないと。
 ロミはその男に深々と頭を下げた。

「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」

 ――あとで先ほどの「酔いどれエルフ亭」にも謝りにいこう。
 そう考え、先ほど残してきてしまったせっかくの料理と酒を思い出して非常に残念な気持ちになる。騎士という職業柄、ロミは結構な量を食べるのだが、先ほど食べた量では実は全然足りていなかった。
 そのため、頭を下げて男性に礼を言った瞬間にぐ~~~~っと腹の虫が悲鳴を上げてしまったのである。
 腹の音と一緒に礼を言ってしまったため、恥ずかしくて顔を上げられない。
 ブフッと吹き出す声が頭上から聞こえてきた。
 ――いやもう旅の恥はかき捨て。どうでも好きなように笑っていいよ……!
 そんなやけくそな気持ちで真っ赤になりながら思い切って顔を上げると、男性はさも可笑しそうに口元に手をあてて笑っている。
 ――男神の微笑み! その美貌で! 弾けるような笑顔で! これはまずい。こんな神々しいものを目の前で見てしまうなんて、私は明日死ぬのだろうか。私の腹の音が男神の笑顔を引き出してしまったのか。
 男性の絶世の美貌に完全に心をズキュンと射抜かれてそんなことを思ってしまうロミは、自他ともに認める面食いであった。先ほどナンパしてきた男の顔などもうどこに目と鼻と口があったのかさえ忘れている。

「まずは飯だな」

 男性はひとしきり笑ったあと、ロミの目の前に手を出した。

「お詫びと言っちゃなんだが、向こうになかなか旨い物を出す屋台があるんだ。良かったら一緒に行かないか? 奢ってやるよ」
「は、はあ。ありがとうございます」
「俺はジュリアンだ。アンタは?」
「ロミと申します」
「固いな。敬語やめねえ?」
「は、はあ。じゃあ、あの……私はロミ。よろしくジュリアン」
「ああ。よろしくな、ロミ」

 差し出された手を思わず掴んでしまうほど、ロミはこのジュリアンという男の美貌に圧倒されていた。


「よう、ジュリ坊。今日は珍しいタイプの別嬪べっぴんを連れてんじゃねえか」

 ロミはジュリアンに食べ物屋の屋台が立ち並ぶ場所に連れて来られ、そこでジュリアンは数々の屋台の店主らしき人から声を掛けられていた。
 ジュリ坊、なんて呼ばれているところからして、きっと彼らとジュリアンは昔からの知り合いなのだろう。

「大将、彼女の前でジュリ坊はやめてくれ。もう子供じゃねえんだ」
「うーるせえよ。鼻たれ小僧の頃から知ってる俺からしたら、ジュリ坊で十分だろが。彼女の前でやめてくれだぁ? 一丁前に色気付きやがってこの」

 店主の言葉に周りで立ち飲みをしていた酔客たちが爆笑した。この客らもジュリアンと知り合いのようだった。
 また、ジュリアンの姿を見かけて、酔客らの酌をしていた女性が悩まし気に話しかけてくる。身なりから娼婦のような女性だ。

「あら、ジュリアン。すっかりご無沙汰じゃなぁい? うちの店の子たちが寂しがっているわよ」
「悪いな。今日は女連れなんだ。邪魔するなよ?」
「へえ? せいぜいフラれないように媚びでも売ることね」
「おい、不吉なこと言うなよ」
「あはは。フラれたら慰めてあげるわあ。頑張ってね~」

 娼婦の冗談に酔客らも何がそんなに可笑しいのか爆笑していた。苦笑しながら反論するでもない感じのジュリアンは、こうして屋台の店主や酔客にからかわれても特段気分を害したわけではなさそうだった。彼にとってはこの雰囲気こそが日常なのだ。
 ――何だか素敵だな。彼は市井の皆にこんなに人気があるんだ。
 これだけ市井の民たちに慕われているとは、このジュリアンという男はそれほど有名な人物なのだろうか。さすがにローゼンブルグにはイーグルトンの傭兵の話まで流れてこないので、ロミはこれほどの人物がいるなんてと驚きを隠せなかった。
 ロミが感心していると、ジュリアンが店主たちのからかいに軽く悪態をついたあとにロミに話しかけてきた。


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