明日、君は僕を愛さない

山田太郎

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2019年12月23日

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 目覚めは最悪だった。
 昨日片付けずに眠ったせいで床には割れた食器の破片やカピカピに乾ききったパスタの残骸が散乱していて、見るも無残な状態になっていた。純平はフリーのウェブデザイナーをしていて、基本は在宅で仕事をしているが、今日は10時からクライアントと打ち合わせの予定だった。時間はなかったがそのままにしておくわけにもいかず、床に散らばったゴミを拾い集め、こびりついたソースを濡れた布巾でゴシゴシと擦る。跪いてなかなか取れない汚れを磨いていると、昨日散々流したはずの涙がまたじんわりと滲み出してきた。
「なんだよ、美味い飯って…パスタだって美味しいだろ、英介のやつっ」
 悔し紛れにそんな言葉を吐き出したが、純平だってそんなことを言っているのではないということはわかっていた。茹でたパスタにインスタントのソースをかけただけの夕飯ではなく、英介が普段作ってくれていたような、いわゆる家庭料理を彼が求めているのだということは。
 純平は両親が共働きで、父も母も料理をしている姿を一度も見たことがなかった。その代わり裕福ではあったので、晩ご飯はデパートで買った惣菜だったし、お弁当はきちんとした料理屋に頼んで作ってもらったものだった。卵すら割ったことがないという純平に英介は料理を教えてくれようとしたが、持ち前の短気さと飽きっぽさが災いして、6年間で覚えた料理は湯さえ沸かせば作れるパスタとインスタントラーメンだけだった。
 英介は純平に好きだとよく言ってくれたが、純平が英介に好きだと伝えたことはなかった。恥ずかしかったからとか照れくさかったからとかではなく、単に甘えていただけだった。純平は英介に好きでいてもらうための努力をしてこなかった。それが今回の結果に繋がったのは、何よりも明らかだった。




 泣きはらした顔で打ち合わせに行ったため、依頼人の目は冷ややかだった。持って行った仮デザインはボツになったし、弱った心にトゲのある指摘はいつもより深々と刺さってチクチクと痛んだ。それでも顧客相手に癇癪を起こすわけにもいかず、純平はひたすらに頭を下げて「ご指摘いただきましたところは次回までに必ず直しますので…」と型どおりの謝罪文を繰り返した。形ばかりの謝罪は相手にも伝わるのか、流石に聞き飽きてきたのか、担当者は面倒そうな顔をしてかぶりを振った。
「あー、もう、もういいです。とにかく今日言ったところはウチとしては最低限のつもりなので、今後もこのクオリティなんだとしたら今後のお付き合いは考えさせていただきますから」
 露骨にお前じゃなくてもいいんだぞと嫌味を言われても、純平の立場で言い返すわけにはいかない。拳を握りしめて頭を下げ、会社を出たが、そこが我慢の限界だった。
「っせえんだよクソジジイ!」
 ガコンッと自販機の横に置いてあったゴミ箱を蹴り飛ばす。通行人の何人かが驚いたように純平の方を振り向いたが、蹴り飛ばされたゴミ箱を見て慌てたように目を逸らした。その視線にはっと我に帰り、純平は耳を赤くして足速にそこから立ち去った。
 頭が冷えてくるとこみ上げてくるのは「またやってしまった」という後悔の念だった。ここ数年、家の外で癇癪を起こしたことはなかった。それは純平が大人になったというだけではなく、英介がうまく純平のガス抜きをしてくれていたからだった。振られた後になってようやくそのことに思い至って、己の情けなさにまた涙がこみ上げた。
「なんで俺ばっかりこんな思いをしなきゃなんないんだ…」
「すいませーん! そこいいですか!」
 往来の真ん中で涙を堪えて立ち止まっていると、サンタクロースの人形を乗せた台車を引いた男性に声をかけられ、純平は慌てて涙を拭って道端に飛び退いた。クリスマスイブ前日の浮かれた雰囲気は、感傷に浸る隙間さえ与えてくれないらしい。純平は酷く惨めな気持ちでとぼとぼと帰路についた。
 家に帰ると破片の散乱した室内が純平を出迎えた。行きしにきちんと片付けていかなかったため、室内はまだ嵐が通り過ぎたような惨状のままで、到底座って休めるような状態ではなかった。とはいえ時刻は14時を回っていて、朝から何も食べていなかった純平は酷く空腹だった。正直なところ気持ちは悲劇のヒロインで食欲なんてないと言いたいところだったが、気持ちとは裏腹に何も入っていない腹はぐうぐうと不満を訴えた。
「掃除は後にしよう…」
 冷蔵庫を開けると、英介が作り置きをしていた肉じゃがと白菜の和え物が目についた。ちょうど一食分だけ残っていて、タイミングの良さに思わず苦笑いがこぼれる。レンジで温めて口に入れると、肉じゃがの甘辛い味が口いっぱいに広がり、箸が止まらなくなった。もともと純平は濃い目の味付けが好きで、英介は薄味が好みだった。一緒に暮らしていくうちにお互いに歩み寄って行ったが、肉じゃがはそのうちの一つで、純平の好みに合わせられた味付けだった。
 机の上にぽたり、と落ちた滴に自分が泣いていることに気がついた。今日は本当に涙ばかりで、自分が情けなくて嫌になる。皿の中が空になってもぼたぼたと落ちる涙は止まらず、純平は鼻水を啜り上げながら箸を握りしめた。




 玄関扉がガチャガチャとなる音に純平ははっと我に帰った。いつのまにか時計は17時を回っていて、辺りはもう真っ暗になっていた。そうだった、今日荷物を取りに来ると言っていたのだ、と思い至った時にはもう遅く、ギイと扉が開く音がした。
「ただいまー」
 昨日の今日で妙に明るい声に違和感を覚えたが、酷く狼狽していた純平はそのことを深くは考えなかった。寝室に引っ込もうか、それともこのままリビングで待っていようかーーそんな風に迷っているうちにリビングの扉がバタンと開いた。思わず背を向けて立ちすくんだ純平の背中に、いっそ能天気と言えそうな栄介の声がかかる。
「あれ、電気もつけないでどうしたの? うわっ、なになにこれ、食器割れてる? え、何ほんとにどうしたの?」
 昨日のことなどすっかり忘れたと言わんばかりの台詞に、純平は思わず怒りのあまり目眩を覚えた。栄介の中であれはなかったことなのか。こんなにも一日思い悩んで泣いてボロボロになった自分がまるで道化ではないか。「誰のせいでこんなことになってるんだよっ」と文句の一つでも言ってやろうと振り返って英介を見て、純平は怒鳴ることさえ忘れて青ざめた。
「お前その格好どうしたんだよ⁉︎」
 英介は全身ズタボロで、スーツの膝は破けて膝から血が滲んでいたし、コートも全体的に埃っぽくて肘や背中はひどく汚れていた。顔や手のあちこちにすりむいた跡があって、手に持った鞄や紙袋もぐしゃぐしゃになっている。
 英介は照れたように笑って自分の格好を見下ろした。
「帰りに転んじゃって…って、今はそれどころじゃないだろ。純平、泣いてた? なんか嫌なことでもあった?」
「そんなのどうだっていい! そんなになって、どこか大きい怪我してるんじゃないのかっ。骨は? どっか酷く痛むような場所はないのか?」
 純平の剣幕に気圧されたように後ずさった英介は、質問を聞いて何故だか嬉しそうな顔をして首を振った。
「大丈夫だよ。頭にでっかいタンコブはできたけど、意識ははっきりしてるし、すりむいたところ以外に怪我はしてないよ」
「何笑ってんだよっ!」
 半泣きになって食ってかかる純平に、英介はニコニコと笑いながらタンコブができたという後頭部をさらりと撫でた。
「いや、こんなに純平に心配してもらえるだなんてサンタも粋なことをするなと思ってさ。あ、これ、汚れちゃったけどクリスマスプレゼント」
 差し出された紙袋に純平は目を瞬かせた。昨日あんなことを言い捨てて出て行った相手にクリスマスプレゼントというのも解せないが、何より今日はクリスマスイブですらない。
「クリスマスは、明日だろ?」
「何言ってんのさ、今日が24日でしょ。なんだか様子がおかしいし、夢でも見てたの?」
「夢…」
 呆然と呟く純平に、英介は「しっかりしてよ」と純平の肩を叩いた。夢、全部悪い夢だった? 昨日振られたことも、純平に新しい恋人がいることも、今日出ていくと言っていたことも?
「今日は同棲し始めて5年目の記念日でもあるし、純平にぴったりのプレゼントを選んだんだ。開けて見てよ」
 5年目、というフレーズに純平の胸がざわつく。本当なら今年は6年目の記念日のはずで、まさかそれも純平の勘違いなのだろうか。請われるままに紙袋を開け、ラッピングを取ると、見覚えのある小さな黒い箱が転がり出てきた。
 とてつもなく悪いことが起きているような、そんな予感に胸が波打った。だってこれは去年純平がもらったペアリングと全く同じブランドでデザインで、だけど石の色だけが違うのだ。純平が胸に下げているそれは炎のように赤いルビーで、裏には『to Jyunpe from Esuke』と刻印してあった。だけどこれはーー。

『to Seri from Esuke』

 台座に嵌った青い宝石がまるで涙のようだと思った。にこにこと嬉しそうに笑う英介を前に、これが何かの悪い冗談ならいいのに、と純平は呆然と立ちすくんだ。
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