愛を探す

山田太郎

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愛を探すα ①

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 相馬と初めて話したときの印象は、なんだか変なやつ、だった。

「ねえ日比谷くん、俺もう行くからね」
 久々に訪れた気持ちの良い微睡の中、優しく揺り起こす誰かの声がする。その声は何度か俺の名前を呼んだが、やがて諦めたのかそっと去っていった。温かい温もりが離れていくとともに、ひびやくん、と呼ぶ優しい声がこだまする。
(違う、あいつはそんな風に俺を呼ばない)
 そう思った瞬間、柔らかな微睡はガラガラと崩れていき、代わりに暗い底知れぬ闇が俺の体を掴んだ。半身が捥がれるように痛み、自分の体が崩れていくのがわかる。経験したことのない人間には到底わからないであろう、魂を引き裂かれる痛みだ。俺はその闇でもがいてもがいてーーもがき疲れて、ようやく目を覚ました。
 目を開けると、見慣れた自分の部屋とは違う天井が目に入る。相馬の家の天井だ、と鈍る頭で考え、瞬くと目尻に残った涙がつうと流れて枕に吸い込まれていった。身を起こすと隣のローテーブルに朝食らしき盆と、相馬らしいきっちりした字で鍵の場所を記したメモが置いてある。随分前に出ていったのだろう、布団にはとうに温もりはなく、時刻はもう、昼前を指していた。
 俺はのろのろと布団から這い出て、朝食にかけられたラップをベリっと剥がした。食欲はほとんどなかったが、相馬がせっかく用意してくれたものを無駄にするのは気が引けた。あの変わり者の友人が、自分を心配しているのだということはわかっていたし、無理にでも腹に詰めなければそのうち限界が来るというのは目に見えていた。
 綾人がいなくなってから、眠るたびに俺は何度も何度も夢の中であの現象と痛みを繰り返していた。体が崩れるたび、自分が擦り切れて小さくなっていっているのがわかる。それとともに、現実世界でも心が動くことが少なくなっているのを感じる。番契約を行ったαとΩが、片割れを失くして病んでいくというのはよく聞く話だが、その理由が今の俺には痛いほど理解できた。こんな痛みをずっと味わっていれば、そう遠くないうちに自分を見失ってしまうだろう。
「…味がしねえなあ…」
 相馬が用意してくれた朝食は味噌汁と白飯と目玉焼きだったが、半分も食べないうちに嫌になってため息をついた。昨夜のカレーは美味かったから、特別相馬が料理上手なのかと思っていたが、どうやらそういうことではないらしい。昨日までと同じく、味がしない砂のような白飯を噛みしめ、俺は昨夜腕に閉じ込めた相馬の温もりを思い出していた。
 まさか、断られるとは思っていなかった。相馬は友人だが、彼が自分に向ける目が、友人を見るそれではないことにはとうに気がついていた。それでも相馬は友人の態度を崩さなかったし、綾人について何か偏見や嫉妬などに満ちた意見を言うこともなかったから、ただの気の合う友達として付き合いを続けていた。綾人を失って、番を亡くした喪失感を埋めるため、誰でもいいからその温もりを分けて欲しくて、近くにいた相馬に手を出そうと思った。魔が刺したとも言う。相馬が俺のことを好いているのはわかっていたし、誘いをかければ嫌な顔はしないだろうとたかを括っていた。
『そんなことしなくても、一緒に寝てあげるからさ』
 相馬の困ったような声が思い出される。相馬を抱いて眠っていた時だけは、あの悪夢を見ずにすんだ。それが誰かの温もりを感じていたからなのか、相馬だからなのかは、わからなかったし、わかりたくもないと思った。
 その日からたまに、俺は相馬の家に上がり込むようになった。相馬は最初、戸惑ったような顔をしていたが、そのうち慣れたのか何も言わずに出迎えてくれるようになった。自分の家に帰れば嫌でも綾人のことを思い出し、悪夢を見る。それでもその荷物を整理するのは、綾人のことを忘れてしまうようでどうしても嫌だった。
「日比谷くん、そんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
 優しく揺り起こされて目を覚ますと、相馬が俺の膝にブランケットを乗せて、食器を洗おうとシンクに向かうところだった。俺はそのブランケットを握ったまま、ずりずりと自分の寝床にしている客用の布団に移動し、シンクで洗い物をする相馬の後ろ姿を眺める。
 相馬は特別料理が上手いわけではなく、どちらかというと苦手なようで、出てくるメニューはいつも代わり映えしなかったが、相馬と食べる食事は一人で取る食事と違って何故か味がするのだった。ただそれは、一緒にいるのが相馬だからではなく、誰かと一緒に食べているからなのだろうと俺はそう考えていた。もともと誰かと食事をするのは好きではなく、交友関係をほとんど絶っている今では相馬としか食事を取ることがないので、本当のところはわからないし、知らない方がいい。もし相馬と食べる食事にしか味がしないのであれば、それはなんだか相馬を特別に思っているみたいで、それは綾人に対する裏切りのように思えた。
「相馬」
「うん? 日比谷くん、眠かったら先に寝てなよ」
「いい…早く、寝ろ」
 シンクに向かっている相馬が少し動きを止めたのが、後ろ姿から伝わってきた。喜び、戸惑い、そして悲しみ。相馬を振り回している自覚はあった。俺が今でも愛しているのは綾人だけだ。でも相馬の温もりを感じている間だけは、俺はあの悪夢を見ないですんだ。






 相馬は余計なことは何も言わなかった。ただただ優しく、俺に何も求めることなく、友人として接し続けてくれた。俺はその相馬の優しさに付け込んだまま、ずるずると彼に甘えていた。そして、三ヶ月が過ぎた。
 俺は相変わらず相馬の家に通っていて、たまに夕食を一緒に食べ、相馬を抱きしめて眠っていた。大学にもちゃんと行くようになったし、交友を絶っていた友人たちともちょくちょく連絡を取るようになった。一人でとる食事は相変わらず砂のようで、削げてしまった肉はなかなか元には戻らなかった。
 先週家に行った時、相馬は今週の金曜日が誕生日だと語った。テレビの話の流れで誕生日を聞いたのだが、驚く俺に相馬は歯切れ悪く、聞かれなかったから、と語った。何か他の理由がありそうな言い方だったが、その時はそれがなぜなのかはわからなかった。
 相馬には食費としては十分な額を渡している。野菜と米は実家から送られてくるからいらないと最初は固辞されたが、結局押し付けるようにして渡している。そのせいか、相馬の家に行っても料理の準備や皿洗いをさせてもらえたことはない。俺も一人暮らしをしている身なので一通りの家事はできるのだが、相馬がいいというのでそれに甘えている。相馬は大した手間ではないというが、二人分の家事はやはり負担ではあるだろう。誕生日と言うのだから、普段の礼も兼ねて少しいいところの晩飯を奢ってもいい。自分の家に帰って、予定を開けようとスケジュール帳を確認して、俺はなんで相馬が歯切れ悪く自分の誕生日について語ったのか、その時ようやくその理由を理解した。クーラーのついた涼しい室内で、背中に冷たい汗が流れ落ちた。
 相馬の誕生日は、綾人の月命日だった。スケジュール帳を持った手が、無意識のうちにかたかたと小刻みに震えていた。綾人を失ってから、まだ、たった三ヶ月しかたっていないのだ。それなのに、俺は。
 最初の月命日は、綾人の実家に線香をあげに行った。綾人の好きだった白い花を買って、墓に供えに行った。月命日が来る一週間前から悪夢がひどくなって、耐えがたい苦しみに襲われた。それが三ヶ月たった今、相馬に今週の金曜日と言われてもそれが綾人の月命日だと気が付かなかった。
 綾人の荷物は未だに手をつけず、自室にそのままにしている。でもその荷物を見て、胸を裂かれるような痛みを覚えることが少なくなったのはいつからだろう。何を見ても心の底から笑えることなどなかったのに、相馬の顔を見ると穏やかな気持ちになるようになったのは、いつからだろう。毎日、見ない日はなかった悪夢を、ほとんど見なくなったのはいつからだろう。俺が運命だと思ったのは、たったそれだけの存在だったのか。人生を捧げてもいいと思ったのは、狂おしいほど愛おしいと思ったのは、半身をもがれたような痛みは、たったこれだけ、たった三ヶ月で心変わりするようなものだったのか。
 俺は冷や汗をかいて唇を抑えた。胃の腑がひっくり返りそうに気持ち悪く、目の前がチカチカと白んだ。俺の中のαが、運命を忘れようとする薄情な男に猛然と牙を剥いていた。
 相馬と離れなければならない、と思った。それは恐怖に似た感情だった。相馬の隣は居心地が良すぎる。彼は俺の運命でただ一人の番の存在を脅かす存在だ。たとえ綾人がもうこの世に存在しなくても、俺の運命はただ一人、あいつしかいないのだ。







 突然自分を避け始めた俺に、相馬は始め不思議そうな顔で何度か理由を尋ねてきた。あまりに身勝手な理由など答えられるはずもなく、何度も邪険に対応するうちに、相馬は何も尋ねて来なくなった。ただ離れたところから、澄んだ瞳が俺を見つめているのは、ずっと気がついていた。その視線に耐えられず、俺は相馬の目を見ることができないままだった。
「日比谷じゃん、ひさしぶり~」
 相馬と会わなくなって一番堪えたのは、また眠れなくなったことだ。隣にあの温かな体温がないだけで、眠るまでにかなりの時間を要し、明け方ようやくうとうとしてまたあの悪夢を見て飛び起きる。夢で感じる痛みは自分が綾人を忘れていない証のようでそれは構わなかったが、眠れないのは生活にも影響を及ぼしていた。日中怠くてたまらなく、講義をまともに聞くこともままならない。流石にこれは良くないと思って、温もりを求めて久々にクラブに顔を出したのだった。
 久しぶりに顔を出した俺に対して、周りの反応は様々だった。綾人が死んだのを知っていて、軽く挨拶するだけに済ませるやつや、番がいなくなったのだからとあからさまに媚を売ってくるやつ。俺の名前や顔だけ知っていて、これを機にお近づきになろうとやってくるやつ。俺はその中から適当なやつを選んで、ホテルに連れ込んだ。相馬でなければ誰でもよかった。誰の温もりでも良いのだと、証明できればよかったのだ。
 もちろん相手は関係を迫ってきて、俺は請われるままにその体を抱いた。綾人が死んで以来、はじめてのセックスだった。身体は刺激に忠実で、中折れすることもなければ普通に気持ちが良かったが、精を吐き出して残ったのは、ただ抱きしめるだけでは得られない深い充足感と、どうしようもない虚しさだった。シクシクと痛みを訴える魂の叫びを押し殺して、俺は相手の体を抱きしめ、久々に泥のような眠りに落ちた。
 その夜、俺は朝まで一度も目覚めることはなかった。その間、俺を捕らえた闇はずっと俺を離すことなく、俺は一晩中、半身をもがれる痛みと、自分を失っていく恐怖を味わい続けたのだった。
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