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パンドラの箱※※
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あの一件があった日、浩司は亮介の連絡先を全て消した。メッセージアプリも電話も繋がらないように設定して、亮介から絶対に連絡が来ないようにした。万が一があって謝られたとしても、今回ばかりは許せないし、そんなやりとりもしたくはなかったからだ。
幸いにもそのすぐ後からプロジェクトのいくつかが忙しさを増し、あの時のことついて深く考えないで済んだ。日に日に体は回復しており、痕跡はもう薄っすらと残った手首のアザだけになっていた。それも冬で寒いこともあり、袖口に隠れて自分でもほとんど見ることはない。
何もなかった。浩司はそう思おうとしたし、実際ふと、あれは夢だったのではないかと思う瞬間もある。会議で顔を合わせるたび、加賀が気づかわしげな顔で浩司を見ているのには気がついていたが、浩司は極力加賀と二人きりにならないようにして、彼の顔を見ないようにしていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でーす」
三時間ほど残業をして、人影の少なくなったフロアから立ち去る。明日は金曜日だ。後一日仕事をしたら休みだ。帰りの電車の中で、浩司はパソコンの見過ぎで痛む目を閉じ、眉間を揉む。いつもより仕事量が増えているのは確かだが、こんなにも残業をしているのは、今すぐではない仕事にまで手をつけているからだ。家に帰っても亮介や加賀のことばかり考えてしまって、ろくに休んだ気にならない。それならば仕事をしていた方が余程マシだった。
(疲れた……)
自分が何について悩んでいるのか、何だかよくわからなくなっていた。ただ、友人も、好きな人も、どちらとの関係もおかしくなって、どうにもならない。悩みを相談できるような友人も近くにはいなかった。失恋には新しい恋が一番とは聞くが、亮介とあんなことがあった後で、またあのバーに行って俗物的な誘い文句を聞く気にもなれなかった。何も考えたくなくて仕事を増やしたが、その量にしても元来タフな浩司にとって辛いと思うほどではない。それでも確実に疲労は溜まっているのだろう。浩司は帰ったら久々に湯でもはるかと思いながら、家路へと急いだ。
玄関の扉を開けて電気をつけると、荒れた室内が目に入る。ゴミ出しは何とかしているのだが、朝着ていた寝間着や靴下がそこかしこに転がっている。掃除も洗濯もだいぶ疎かにしていた。シンクには使い終わったコップがいくつも転がっている。
浩司は机の上に割引されていた弁当をどさりと置くと、着替えもせずにそのまま蓋を開けて食事を取り始める。冷えたおかずが口に入れるたびモソモソと口の中で妙に主張をして煩わしかった。
食べながらポケットからスマホを取り出し、メールのチェックを行う。大半は登録しているサイトやサービスからのお知らせだが、その中に見慣れぬアドレスからのメールを見つけて、ふとスクロールする指を止めた。
「一月二十四日……?」
普段なら迷惑メールだと思って中身も見ずにゴミ箱に突っ込むところだが、その件名にたったそれだけ書かれた日付が目についた。これは、亮介が飲みに誘ってきたあの日の日付だ。メールアドレスには全く覚えがないのだが、なんとなくこれは亮介からの連絡なような気がした。メールは開かずに画面を閉じ、スマホを机に置いてその小さな四角の箱を眺める。眺めて、やっぱり画面を開いてその一番上にある件名をタップした。
「ああ……なんだ」
本文は一行もなく、ただ一本の動画が添付されているだけだった。しかも画面の感じからすると、ハメ撮りのようである。予想が外れた。ただの悪質な悪戯メールだった。
メールを消そうとして、その画面にちらりと映る紐のようなものの柄が無性に気になった。どこかで見覚えのあるその柄をよく見ようと画面を近づけたところで、どきりと心臓が嫌な跳ねかたをする。
(まさか…まさか、いや、これは…)
心臓が耳の裏で膨れ上がったかのように、ドッドッドッと脈を打つ音が聞こえる。嫌な予感が胸の中に渦を巻き、呼吸が乱れた。
(確かめるだけだ…そう、偶然に決まってる…)
このような動画を押してはいけないということは知っていた。だが、確かめずにはいられなかった。震える指を再生ボタンの上に持っていき、タップをする。もしこれでウイルスに感染してしまったとして、笑い話にして買い換えてしまえばいい話だ。
むしろそうなってしまえばいいと願いさえして、浩司は動画が再生されるのを待った。くるくると待機中の表記が消えた後、聞こえてきたのは大音量の喘ぎ声だった。慌ててボリュームを落とす浩司の手の中で、画面の中から男の笑う声が聞こえる。
(ああ……っ!)
聞き覚えのある、その声に浩司の手が震えた。見ない方がいいと思うのに、画面を持つ手が張り付いたようになって動かない。
『こっち向けってェ、浩司』
ゴソゴソと動く音と、湿った水音が響く。ガタリという音とともに、画面が明るくなり、裸の男が大写しになる。ゆさゆさと映像が揺れているのは、撮影者が動いているせいなのだろう。
『あっ、嫌、嫌だ……、ん、ああっ、離せ…っ、っああ!』
そこにあったのは、酒のせいで明らかに正体をなくし、全身を真っ赤に染め、のけぞって身悶えする自分の姿だった。脚を大きく割り広げられ、あらわになった後孔はヒクヒクと痙攣していて、赤黒い性器が出入りする様子がしっかりと映っている。ぱんぱんと濡れた音を立てて腰がぶつかるたび、半勃ちになった性器がゆらゆらと揺れている。
『ん、やっぱりこんだけ飲ましたら勃たねえなァ。でもめっちゃイってんね、お前。中めちゃめちゃ痙攣して吸い付いてくる』
『っあ、やめ…っ、またっ、あーっ』
『っはは、キモ』
それ以上はもう見ていられなかった。浩司はスマホを握りつぶす勢いで画面を閉じ、投げるようにベッドの上に打ち付ける。わけもわからない震えが体を襲い、奥歯がガチガチと鳴っていた。感情が麻痺してしまったようになっていて、何も感じられない。辛いとか、悲しいとか、きっとそれの許容値を超えてしまったのだ。
わかっていた。何もなかったなんて、そんな都合のいいことはありえないなんてことは。ピンチにヒーローが助けに来るのは物語の中の世界だけだ。裏切られて、犯されて、動画まで撮られて。
信じたかったのだ。亮介がどう思っていようと、浩司にとっては亮介は良い友達だった。許せないと思うことは今までにも何度だってあったが、それでも自分に自信の持てない浩司にとって、自信に満ち溢れて常に余裕のある亮介は憧れであり、友達であることを誇りに思っていた。
「……っ」
浩司はぶるぶると震える手を握りしめた。悔しい、と思った。なぜ自分がこんな風に踏みにじられなければならないのか、その理不尽さに涙が滲んだ。悲しいという感情は、許容値を超えて怒りに変わっていた。
その時、ベッドに投げ置かれたスマホが通知音を鳴らした。明るくなった画面には、先程の動画が送られてきたのと同じアドレスからのメッセージが浮かんでいた。
『明日来い』
浩司はそのメッセージを読んで唇を噛んだ。カラカラの口の中には、濃い血の味がしていた。
浩司は翌日、早めに仕事を上がった。周りの先輩や後輩たちがほっとした顔を向けてくるのを見て、ここ数日自分がいかに周りを見れていなかったのかを痛感した。
いつもと反対側の電車に乗り、閉まったドアに背中を預ける。流れていく景色の中に見慣れたマンションを見つけ、浩司はそっと目を逸らした。加賀の家の最寄駅に着いてわらわらと乗客が降りていくと、電車はプシューと音を立てて発車した。つい一ヶ月前まであんなに頻繁に通っていたというのに、それが遠い昔のことのように思えた。
(何を間違ったんだろう…)
好きだと告白したのが間違いだったのか。そもそも加賀を好きになったのが間違いだったのだろうか。会って好きだと言って終わろうと思ったのに、何もかも中途半端なせいで余計に未練が残るばかりだった。弱っている時にばかり優しくするのは、ずるい。
嫌いだと言ってしまった日から今日まで加賀に会うことはなかったが、浩司ももう加賀が浩司に興味がなくなって距離を置こうとしていたのではないということには気がついていた。何かきっと、浩司の知らない理由がある。そして、それを亮介が知っているのだろうということは簡単に想像がついた。脅すような亮介のメールに応えて彼の家に向かっているのもそのためだ。知ったからと言って何か変わるわけではないのだが、ここまで振り回されたのだ。知る権利くらいはあると思った。
亮介のマンションの下に着き、インターホンを鳴らすとすぐにエントランスの扉が開く。エレベーターに乗り、部屋の前に着いたところで、チャイムを鳴らすまでもなくガチャリと扉が開いた。
「お、ちゃんと来たな。無視するかと思ったのに」
中には亮介がいつものように酷薄な笑みを浮かべて立っていた。浩司は咄嗟にその顔を殴りたい衝動に駆られて、小刻みに息を吸った。こんな所で騒ぎを起こしては、ここまで来た意味がない。握りしめた拳は、力を入れすぎてぶるぶると震えていた。
亮介はそんな浩司を面白そうに見下ろし、顎をしゃくって部屋の中に消えていく。浩司は唇を噛み締め、その背中を追った。
浩司がリビングの戸をくぐった時、亮介はすでにソファに腰掛けていた。動画に映っていたあのソファだ。浩司はその白いカバーを直視できず、思わず視線を逸らした。床にピッタリと固定したかのように、足がすくんで動かない。冬だというのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
亮介は浩司のその様子を、まるで実験動物でも見るような目で眺めていた。その唇の端に浮かぶ笑みも、浩司を見る瞳も、あまりに普段と変わらなかった。
「まあ、座れよ」
入り口に立ち尽くしたままの浩司に向かって、亮介は手のひらで隣のソファを指し示す。浩司は逸らしていた視線を上げ、のろのろと首を振った。ソファの白が目にチカチカと突き刺さる。何もかも、悪い夢のようだった。
「いい。長居するつもりはない」
「つれねェこと言うねえ、俺とお前の仲じゃねェの」
どの口がそんなことを言うのか。浩司は衝動的に怒鳴ろうとして、結局何も言えずに、またただかぶりを振った。何もしていないのに息が上がる。うまく息が据えていない気がした。
呼び出されるまま、のこのこ家までやってきたのは失敗だった。玄関で顔を見た時は大丈夫だと思ったのに、ソファに腰掛ける亮介の、何もなかったかのような態度がひどく恐ろしい。このままここにいては駄目だと、脳が警鐘を鳴らしていた。
「動画を、見た」
浩司は乾き切った唇を舐めた。早めに話をつけて、ここから立ち去るべきだと思った。亮介はニンマリと、猫のような笑みを浮かべた。
「よく撮れてただろォ?」
「消せ」
浩司の要求は端的だった。亮介は途端につまらなさそうな表情を浮かべ、組んだ膝の上に頬杖をつく。
「バカ言うなよ、そんなんしたら、わざわざお前のケツ掘った意味ねェじゃん」
こいつは一体、何を言っているのだろう。
地面がなくなったかのように、足元がおぼつかない。コートの布地が擦れる音で、浩司は自分が震えていることに気づいた。自分の声が、ひどく遠くから聞こえてくるようだった。
「お前は……俺に、何をさせたいんだ」
「何も。言ったろ? あ、お前覚えてないのか」
亮介は憎らしいほどにいつも通りだった。脚を組み直し、指を組んでその上に顎を乗せる。
「俺はね、あの人の人生、めちゃめちゃにしてやりてェんだよ」
幸いにもそのすぐ後からプロジェクトのいくつかが忙しさを増し、あの時のことついて深く考えないで済んだ。日に日に体は回復しており、痕跡はもう薄っすらと残った手首のアザだけになっていた。それも冬で寒いこともあり、袖口に隠れて自分でもほとんど見ることはない。
何もなかった。浩司はそう思おうとしたし、実際ふと、あれは夢だったのではないかと思う瞬間もある。会議で顔を合わせるたび、加賀が気づかわしげな顔で浩司を見ているのには気がついていたが、浩司は極力加賀と二人きりにならないようにして、彼の顔を見ないようにしていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でーす」
三時間ほど残業をして、人影の少なくなったフロアから立ち去る。明日は金曜日だ。後一日仕事をしたら休みだ。帰りの電車の中で、浩司はパソコンの見過ぎで痛む目を閉じ、眉間を揉む。いつもより仕事量が増えているのは確かだが、こんなにも残業をしているのは、今すぐではない仕事にまで手をつけているからだ。家に帰っても亮介や加賀のことばかり考えてしまって、ろくに休んだ気にならない。それならば仕事をしていた方が余程マシだった。
(疲れた……)
自分が何について悩んでいるのか、何だかよくわからなくなっていた。ただ、友人も、好きな人も、どちらとの関係もおかしくなって、どうにもならない。悩みを相談できるような友人も近くにはいなかった。失恋には新しい恋が一番とは聞くが、亮介とあんなことがあった後で、またあのバーに行って俗物的な誘い文句を聞く気にもなれなかった。何も考えたくなくて仕事を増やしたが、その量にしても元来タフな浩司にとって辛いと思うほどではない。それでも確実に疲労は溜まっているのだろう。浩司は帰ったら久々に湯でもはるかと思いながら、家路へと急いだ。
玄関の扉を開けて電気をつけると、荒れた室内が目に入る。ゴミ出しは何とかしているのだが、朝着ていた寝間着や靴下がそこかしこに転がっている。掃除も洗濯もだいぶ疎かにしていた。シンクには使い終わったコップがいくつも転がっている。
浩司は机の上に割引されていた弁当をどさりと置くと、着替えもせずにそのまま蓋を開けて食事を取り始める。冷えたおかずが口に入れるたびモソモソと口の中で妙に主張をして煩わしかった。
食べながらポケットからスマホを取り出し、メールのチェックを行う。大半は登録しているサイトやサービスからのお知らせだが、その中に見慣れぬアドレスからのメールを見つけて、ふとスクロールする指を止めた。
「一月二十四日……?」
普段なら迷惑メールだと思って中身も見ずにゴミ箱に突っ込むところだが、その件名にたったそれだけ書かれた日付が目についた。これは、亮介が飲みに誘ってきたあの日の日付だ。メールアドレスには全く覚えがないのだが、なんとなくこれは亮介からの連絡なような気がした。メールは開かずに画面を閉じ、スマホを机に置いてその小さな四角の箱を眺める。眺めて、やっぱり画面を開いてその一番上にある件名をタップした。
「ああ……なんだ」
本文は一行もなく、ただ一本の動画が添付されているだけだった。しかも画面の感じからすると、ハメ撮りのようである。予想が外れた。ただの悪質な悪戯メールだった。
メールを消そうとして、その画面にちらりと映る紐のようなものの柄が無性に気になった。どこかで見覚えのあるその柄をよく見ようと画面を近づけたところで、どきりと心臓が嫌な跳ねかたをする。
(まさか…まさか、いや、これは…)
心臓が耳の裏で膨れ上がったかのように、ドッドッドッと脈を打つ音が聞こえる。嫌な予感が胸の中に渦を巻き、呼吸が乱れた。
(確かめるだけだ…そう、偶然に決まってる…)
このような動画を押してはいけないということは知っていた。だが、確かめずにはいられなかった。震える指を再生ボタンの上に持っていき、タップをする。もしこれでウイルスに感染してしまったとして、笑い話にして買い換えてしまえばいい話だ。
むしろそうなってしまえばいいと願いさえして、浩司は動画が再生されるのを待った。くるくると待機中の表記が消えた後、聞こえてきたのは大音量の喘ぎ声だった。慌ててボリュームを落とす浩司の手の中で、画面の中から男の笑う声が聞こえる。
(ああ……っ!)
聞き覚えのある、その声に浩司の手が震えた。見ない方がいいと思うのに、画面を持つ手が張り付いたようになって動かない。
『こっち向けってェ、浩司』
ゴソゴソと動く音と、湿った水音が響く。ガタリという音とともに、画面が明るくなり、裸の男が大写しになる。ゆさゆさと映像が揺れているのは、撮影者が動いているせいなのだろう。
『あっ、嫌、嫌だ……、ん、ああっ、離せ…っ、っああ!』
そこにあったのは、酒のせいで明らかに正体をなくし、全身を真っ赤に染め、のけぞって身悶えする自分の姿だった。脚を大きく割り広げられ、あらわになった後孔はヒクヒクと痙攣していて、赤黒い性器が出入りする様子がしっかりと映っている。ぱんぱんと濡れた音を立てて腰がぶつかるたび、半勃ちになった性器がゆらゆらと揺れている。
『ん、やっぱりこんだけ飲ましたら勃たねえなァ。でもめっちゃイってんね、お前。中めちゃめちゃ痙攣して吸い付いてくる』
『っあ、やめ…っ、またっ、あーっ』
『っはは、キモ』
それ以上はもう見ていられなかった。浩司はスマホを握りつぶす勢いで画面を閉じ、投げるようにベッドの上に打ち付ける。わけもわからない震えが体を襲い、奥歯がガチガチと鳴っていた。感情が麻痺してしまったようになっていて、何も感じられない。辛いとか、悲しいとか、きっとそれの許容値を超えてしまったのだ。
わかっていた。何もなかったなんて、そんな都合のいいことはありえないなんてことは。ピンチにヒーローが助けに来るのは物語の中の世界だけだ。裏切られて、犯されて、動画まで撮られて。
信じたかったのだ。亮介がどう思っていようと、浩司にとっては亮介は良い友達だった。許せないと思うことは今までにも何度だってあったが、それでも自分に自信の持てない浩司にとって、自信に満ち溢れて常に余裕のある亮介は憧れであり、友達であることを誇りに思っていた。
「……っ」
浩司はぶるぶると震える手を握りしめた。悔しい、と思った。なぜ自分がこんな風に踏みにじられなければならないのか、その理不尽さに涙が滲んだ。悲しいという感情は、許容値を超えて怒りに変わっていた。
その時、ベッドに投げ置かれたスマホが通知音を鳴らした。明るくなった画面には、先程の動画が送られてきたのと同じアドレスからのメッセージが浮かんでいた。
『明日来い』
浩司はそのメッセージを読んで唇を噛んだ。カラカラの口の中には、濃い血の味がしていた。
浩司は翌日、早めに仕事を上がった。周りの先輩や後輩たちがほっとした顔を向けてくるのを見て、ここ数日自分がいかに周りを見れていなかったのかを痛感した。
いつもと反対側の電車に乗り、閉まったドアに背中を預ける。流れていく景色の中に見慣れたマンションを見つけ、浩司はそっと目を逸らした。加賀の家の最寄駅に着いてわらわらと乗客が降りていくと、電車はプシューと音を立てて発車した。つい一ヶ月前まであんなに頻繁に通っていたというのに、それが遠い昔のことのように思えた。
(何を間違ったんだろう…)
好きだと告白したのが間違いだったのか。そもそも加賀を好きになったのが間違いだったのだろうか。会って好きだと言って終わろうと思ったのに、何もかも中途半端なせいで余計に未練が残るばかりだった。弱っている時にばかり優しくするのは、ずるい。
嫌いだと言ってしまった日から今日まで加賀に会うことはなかったが、浩司ももう加賀が浩司に興味がなくなって距離を置こうとしていたのではないということには気がついていた。何かきっと、浩司の知らない理由がある。そして、それを亮介が知っているのだろうということは簡単に想像がついた。脅すような亮介のメールに応えて彼の家に向かっているのもそのためだ。知ったからと言って何か変わるわけではないのだが、ここまで振り回されたのだ。知る権利くらいはあると思った。
亮介のマンションの下に着き、インターホンを鳴らすとすぐにエントランスの扉が開く。エレベーターに乗り、部屋の前に着いたところで、チャイムを鳴らすまでもなくガチャリと扉が開いた。
「お、ちゃんと来たな。無視するかと思ったのに」
中には亮介がいつものように酷薄な笑みを浮かべて立っていた。浩司は咄嗟にその顔を殴りたい衝動に駆られて、小刻みに息を吸った。こんな所で騒ぎを起こしては、ここまで来た意味がない。握りしめた拳は、力を入れすぎてぶるぶると震えていた。
亮介はそんな浩司を面白そうに見下ろし、顎をしゃくって部屋の中に消えていく。浩司は唇を噛み締め、その背中を追った。
浩司がリビングの戸をくぐった時、亮介はすでにソファに腰掛けていた。動画に映っていたあのソファだ。浩司はその白いカバーを直視できず、思わず視線を逸らした。床にピッタリと固定したかのように、足がすくんで動かない。冬だというのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
亮介は浩司のその様子を、まるで実験動物でも見るような目で眺めていた。その唇の端に浮かぶ笑みも、浩司を見る瞳も、あまりに普段と変わらなかった。
「まあ、座れよ」
入り口に立ち尽くしたままの浩司に向かって、亮介は手のひらで隣のソファを指し示す。浩司は逸らしていた視線を上げ、のろのろと首を振った。ソファの白が目にチカチカと突き刺さる。何もかも、悪い夢のようだった。
「いい。長居するつもりはない」
「つれねェこと言うねえ、俺とお前の仲じゃねェの」
どの口がそんなことを言うのか。浩司は衝動的に怒鳴ろうとして、結局何も言えずに、またただかぶりを振った。何もしていないのに息が上がる。うまく息が据えていない気がした。
呼び出されるまま、のこのこ家までやってきたのは失敗だった。玄関で顔を見た時は大丈夫だと思ったのに、ソファに腰掛ける亮介の、何もなかったかのような態度がひどく恐ろしい。このままここにいては駄目だと、脳が警鐘を鳴らしていた。
「動画を、見た」
浩司は乾き切った唇を舐めた。早めに話をつけて、ここから立ち去るべきだと思った。亮介はニンマリと、猫のような笑みを浮かべた。
「よく撮れてただろォ?」
「消せ」
浩司の要求は端的だった。亮介は途端につまらなさそうな表情を浮かべ、組んだ膝の上に頬杖をつく。
「バカ言うなよ、そんなんしたら、わざわざお前のケツ掘った意味ねェじゃん」
こいつは一体、何を言っているのだろう。
地面がなくなったかのように、足元がおぼつかない。コートの布地が擦れる音で、浩司は自分が震えていることに気づいた。自分の声が、ひどく遠くから聞こえてくるようだった。
「お前は……俺に、何をさせたいんだ」
「何も。言ったろ? あ、お前覚えてないのか」
亮介は憎らしいほどにいつも通りだった。脚を組み直し、指を組んでその上に顎を乗せる。
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めちゃくちゃ面白くて一気に読んでしまいしまた!予想外の展開が続き、続きが気になります!浩司に幸せが訪れるよう、加賀さんに頑張っていただきたいです!
更新待ってました!すごく楽しみにしてました!久しぶりに読むので全部読み返しました!更新ありがとうございます!やっぱり今の浩司の現状が辛くて胸が痛いです。早く幸せになって!それと亮介のクズっぷりに、浩司に何してくれとんねん!と思いました。これからも応援してます!
ハマりました‼︎拗らせてて最高に好きです。お忙しいと思いますが続き楽しみにしております。