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終章

月の裏側へ(1)

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翌日、陸翔が独り暮らし先から家にやってきた。

「咲良、体調はどうだ」

陸翔が部屋を訪ねてくると、私は思わず身を固くした。

陸翔の表情には、なにか不安な翳りがあった。

「…なにか思い出したのか」

陸翔の顔が、緊張でひきつった。以前私たちの間で起きた出来事を思い出されるのを、恐れているのだろうか。

私は慌ててかぶりを振ったけど、目の色に脅えが浮かんでしまっているのを自分自身抑えることができなかった。

「思い出したんだな」

体が震えてしまう。

「何かのはずみだとか、そういうんじゃないんだ。俺はお前のことを…」

そこまで聞いて、跳ねのけるように叫んだ。

「思い出さない。何も」

固い動きで首を横に振った。



陸翔は悲し気に微笑んだ。

「そうか」

陸翔が背中をむけ、一瞬私の方を振り返ると、部屋を出ていった。

その背中は、女に拒絶された男のそれだった。

「俺ではダメで、あいつとならいいなんて」

陸翔はそう言い捨てて立ち去っていった。なんのことかと訪ねようとしたけど、一刻も早く立ち去ってほしかった。

───あの出来事は、思い出してはいけない。

心の奥に閉じ込められた過去の自分が、そう叫んでいる気がした。あれは陸翔が一方的にした事で、私が望んでいたことではなかった。

そのことが、今の私にもありありとわかった。


私には多分、心に決めた男性がいる。その人のことを、思い出したい。

でもその人は、私のもとへ来てくれることはなかった。




沖縄諸島の島の外れに、木々の間を縫うようにしてオーシャンの施設は建てられていた。


部屋を出るとすぐ砂浜に出られるほど海が近いオーシャンフロント棟、テラスのジャグジーでくつろぎながら水平線を眺めることができるオーシャンビュー棟、静かな休日を満喫できる、鬱蒼としたジャングルのような緑に包まれるグリーンヒル棟。

広大な敷地の中を、宿泊客たちはゴルフコースで使用するカートを使って移動する。

整備された道路を走ればお土産屋さんの並ぶショッピングストリートが広がり、海沿いに伸びる、エステやマッサージ施設が立ち並ぶビューティーストリートも魅力的だ。




オーシャンに移る前に、陸翔の書いてくれた家系図を睨み、しばしの間私は悩んだ。


柳ケ瀬や、私の産みの母である「明夜以舞」、その息子で、私とは父親違いの弟である「昴」。彼らに連絡するべきなのだろうか。

───「君にはいま、育てのご両親がいる。俺は君の父親だと堂々と言えるようなことは、何もしていない。君にとって一番の存在は、今のご両親だ。それだけは、言っておきたい」

柳ケ瀬の言葉を思い出した。おそらく産みの両親にはすでに今の生活があるのだろう。私は育ての両親と陸翔にだけ挨拶をして、沖縄に発った。


両親は不安げでもあり、どこかホッとしているようにも見えた。他人のようになってしまった娘との息が詰まるような生活に、疲れ始めていたのかもしれなかった。

正直なところ、一人で知らない土地に行くことができて、私はほっとしていた。

両親とも陸翔とも、これで決定的な距離ができてしまうだろう。それは申し訳なく思ったけど、私は私自身を、しっかり保つこと。それが先決だと思った。記憶が戻った暁には、また家族としての絆を取り戻す努力をすればいい。


オーシャンの屋外プールは、泳いで楽しむゲストもいれば、水面の揺らめく景色を楽しむゲストも多い。

デッキチェアでくつろぎ、複雑な形をしたいくつものプールの中央に配置された小さなバーで、お酒を楽しむのだ。

私はこのガーデンプールに囲まれたバー「Kokomo」での勤務を始めた。私はもっぱらプールサイドでくつろぐゲストのためにアルコールを運び、注文を取る。

当分の間は他店から呼び寄せたバーテンダーがカクテルを作ってくれるが、レシピを学んでゆくゆくはバー全体を取り仕切ることが私の目標だ。

私はもともとレストランで勤務していたらしいので、オーダーを取ったりサーブしたりするのはすぐに慣れ、仕事は楽しかった。


恵は社長とともに国内の鳥居リゾートの施設を転々と回っているから、ここには私のことを知る人は誰一人としていない。それが私を気楽にさせた。


相手はよく自分のことを知っているのに、自分はその人が誰だかもわからず、むしろ私自身の経歴を相手のほうが知っていると言うのは、耐えがたい状況だ。
知人に会うということに、恐怖にすら感じてしまう。

その点、「初めまして」とあいさつを交わす人たちと触れ合うことは、本当に気持ちが楽だった。私が過去を失っていても、誰ひとりとして、何も困ることがないのだ。



───ここにいる人々は誰も、今までの私を見たことがない。まるで月の裏側に来たような気分だ。

仕事を終えた夜、砂浜に座って月を見上げ、そんなことを思っていた。

濃紺の空には星々が輝いている。近くの星と遠くの星が区別できるくらいに、空には深い奥行きがあり、じっとみていると吸い込まれてしまいそうだ。

私は星空を見上げるのがとても好きなようだった。以前もこうして夜の煌めきに心を奪われていたのだろうか。フォレストのあたりの夜空も、とても美しいと聞く。


何か、星々の瞬きの中に、いい記憶があるのかもしれない。

───それはどんな記憶?

聞く相手は、どこにもいない。もちろん誰も、答えてくれるはずもない。大好きな人と見ていたのだろうか。そんな相手がいたような気がする。


だとしたらその人は今、どこで何をしているのだろう。





「咲良」

背後で私の名前を呼ぶ声がした。振り返ると、そこに男の子が立っていた。

「咲良」

名前を呼ばれ、胸が早鐘を打つ。自分を知っている人がこの土地にいることが驚きだった。

ただ、胸の鼓動の原因は、それだけではないようだった。

私を呼ぶその声が、私の胸を突き上げるようにたかぶらせたのだ。懐かしいような、甘く蕩かされるような、胸の奥の柔らかい場所にまで響いて来る声だった。


「昴だよ」

少し疲れた様子の金髪の男の子は、照れ臭そうに言った。家系図にあったその名前を思い出し、私は砂浜から立ち上がった。

「弟の、昴くん?」


「そう」

昴は形のいい唇を引き上げて微笑んだ。直後、その唇をゆがめて、拳を両目にあてがった。肩が上下に揺れている。昴は泣いていた。


なぜだか私も、涙が止まらなくなってしまった。


彼ははるばる、姉の私に会いに来てくれた。そして記憶を失ってしまった哀れな姉を見て、胸が張り裂ける思いに襲われているのだ。

波の音が、声を打ち消してくれるのをいいことに、私と昴は向かい合ったまま互いを見ずにしばらくすすり泣き続けた。

涙のわけは、よくわからないのに、滴はとめどなくこぼれ出る。なんとかせき止めて顔をあげると、昴もTシャツの袖で涙をぬぐって微笑んだ。私は尋ねた。


「いつ、ここへ来たの」

「一時間前、飛行機で島に着いた」

「一人で来たの?」

昴は唇を噛んでうなずいた。

私を追いかけてここまで来てくれたと思うと嬉しさで再び涙がこみ上げてしまいそうだった。

家族の誰と触れ合っても、心は揺れ動かなかったのに、昴だけは、私の情動を激しく揺さぶってくる。

───私はこの弟をとても大切に思っていたのだろうか。両親や、陸翔以上に。


「一人で来た」

昴はぽつりと言った。言葉数の少ない昴からは、彼の思いを推し量ることができなかった。


私は閉店したバーに再び忍び込み、スミノフアイスを二本持ちだして昴をデッキチェアに座らせた。

「どこから来たの」

「T県」

「遠くから来たのね。ここにはしばらくいるの?」

「二泊くらい」

「・・・一緒に来る彼女さんとかはいないの?」

昴は答えず、細い瓶を傾けて飲み干し、ため息をついた。

「大好きな人はいるよ。でもその人も今、長い旅に出ちゃってる」

「そうなんだ。自由な人なのね」

「優しくて、強い人だよ」

「そう」

昴は星を見上げて、ゆったりとほほ笑んでいる。

「本当に好きなんだね。私はその人に会ったことあるのかな」

私が尋ねると

「よく知ってるはずだよ」

昴が答えた。

「いずれ思い出すかな」

空を見上げる。


「俺とその人のこと、聞きたい?」

昴が背もたれから起き上がって言った。

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