幽々として誘う

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第十四夜 憧憬と喪失

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 アパートの一室に辿り着くと、緑は気絶したかのようにベッドに倒れ込んだ。毛布の上で寝苦しそうに上着を脱ぎ、肩にかけていたバッグを床に放り投げる。うつ伏せになりながら、ベッドにあったリモコンでクーラーをつけた。

 蓮司は呆れながら彼女の上着をハンガーにかけ、床のバッグを部屋の端に置いた。そのあと床に腰を下ろそうとして、座る場所がないことに気づき、改めて思った。

 相変わらず、女の一人暮らしとしては散らかりすぎだろ、と。

 ビニール袋がそこらに散らばり、宅配で送られてきたであろうダンボール箱は空のまま起きっ放し。服が脱ぎ捨てられたままなのは当然どころか、下着まで放りっぱなしの惨状だ。

 健全な高校男児の幻想をぶち壊すには、余りある威力の部屋だった。

 喫茶店でアルバイトをしていた当時、彼女のバンド仲間とともにこの部屋に連れて来られたときは、あまりのカルチャーショックに眼を潰したくなったものだ。 

 蓮司はビニール袋をゴミ箱に捨て、ダンボールを畳んで自分の座れる場所を作り出した。座りながらも、そこらのゴミをゴミ箱に投げ捨てながら緑に愚痴る。 

「先輩、あんた一応女なんだから部屋綺麗にしましょうよ」

「うーん今度ー。それより水、水ちょうだーい。まだ頭クラクラしてさー」

 ため息をついて立ち上がり、蓮司は台所へと向かった。その途中、壁の端にエレキギターが置かれていることに気付いた。長く使われていないのか、ギターの弦は錆び付いている。

 それが彼女の情熱の衰退のように思えて、もの哀しさを感じた。

 冷蔵庫を開くと、なかには五百ミリリットルの緑茶が入っていた。コップに緑茶を注ぎながら、蓮司は緑へ視線を向けた。

 緑は頭を重そうに枕の上に置きながら、携帯の画面を見ている。その様子は普段の彼女とそう変わらない。直接、生き返るところを見た今でさえ、彼女が死んだとは信じられなかった。

 だが腹部には、明確に彼女の死因が見え、これ以上ない説得力で彼女の死を主張していた。

 そして緑の存在は、同時に、蓮司の兄がすでに死者だということを証明していた。

 悔しさで、ペットボトルを掴む手に力が籠る。

 無駄だったのだ。家を出てからのすべてが。

 これから先、例え偽物の彩が消えたとしても、啓は必ず死ぬ。

 そうなれば、啓も彩もいない家の空気は、きっと前以上に重苦しいものになる筈だ。

 落胆がどうしようもない重みになって、心に伸し掛かった。

 このまま膝をついて、ずっと動かずにいられたら、どれほど楽だろう。

「ちょっ、蓮司! こぼれてるこぼれてる! 緑茶こぼれてるよぉ!」

 ベッドに寝転がる緑の言葉で、コップから緑茶が溢れていることに気付いた。蓮司は慌てて台所にコップを置き、冷蔵庫に緑茶を仕舞うと、雑巾で床を拭いた。床を拭ききり簡単に手を洗ったあと、緑に緑茶を持っていく。緑は喉を鳴らして、美味しそうに緑茶を呑んだ。

「くぅー生き返ったぁ! よぉし、蓮司、今度は冷蔵庫からビール持ってきて。あ、台所にお菓子入れた袋があるから、それも忘れずに」

「いや、あんた酔い覚ましに茶飲んだんだろ。なんでこれ以上飲むことになってんだ」

「なによぉ。別に良いでしょ。アタシの家なんだから。それともぉ、いまからぁ、お家帰るぅ? 出来ないよねー。家出してるんだもん。ほら、あんたの家出手伝ってやるっつってんだから、酒をつげぇい。酒を」

 痛い所を突かれ、蓮司は仕方なく台所から缶ビールと摘みのスナック菓子を持って来た。緑につられて蓮司も酒を呑もうとしたが、それは未成年だから駄目と言われてしまった。

「先輩って、酒飲むの付き合わせるくせに、全然俺に酒呑ませないっすよね」

「高校時代、酒飲んだのバレて、停学させられた奴がいたからねー。未成年の奴がいる時は、居酒屋でも呑ませないようにしてんのよ」

「いや、それ居酒屋行かなきゃいい話じゃないっすか」

 そんな感じにぐだぐだと話をしていると、やがて話題はなくなり、お互い、呑むかスナックを摘むだけになってしまった。会話がなくなるのは嫌だった。気を紛らわせる言葉がないと、どうしても彼女の腹部の傷痕が目についてしまう。彼女に纏わり付く死の影がちらちらと思考の端を掠めるのだ。

 それが表に出ていたのか、緑はちびちびと酒を呑みながら言った。

「ねぇあんたさー今日妙に……あぁいや、やっぱ良いわ。あたしが聞くことじゃないし」

 緑の長所は、相手の雰囲気が暗くても、その人物が言い出さない限りは何があったのか聞こうとしないことだ。無闇に事情を聞かれるのが不快なこともある、というのをわかってる。そのやり方を曲げかけたということは、自分はよほど酷い面構えをしていたのだろう。

 話は聞いてもらいたい。この数日間の悩みを吐き出してしまいたいという欲求があった。だ
が、それは出来ないことだった。その悩みには、緑の死も含まれているからだ。

 だが、そんな事情は関係なしに、相談したいこともあった。

 蓮司はポテトチップスを摘みながら、ぽつぽつと話し出した。

「前に、妹が死んだ話しましたよね。お袋の胎んなかにいた子ですけど」

「死んだ? え、前に生まれたって話してなかったっけ?」

 どうやら記憶の書き換えは、彼女にも行われていたらしい。しかし、もうそんな理由で話さずにいるのは限界だった。多少強引でも、信じてもらいたかった。

 彼女の記憶を適当な理由で訂正したあと、蓮司は自分の家族について話した。もしかしたら兄がいなくなるかもしれないこと、そして兄がいなくなったあと、きっと息が詰まりそうな家のなかで、父と母を支えていかなくてはならないことを。

 怪異については話せないので細部は脚色することになったが、それでも充分伝わったと思う。話をしている間、緑は黙って話を聞いてくれた。

 一通り話し終えると、彼女は缶ビールを一口呑んで感想を口にした。

「あーごめん。話聞いといてなんだけど、なんもアドバイス出来そうにないわ。アタシにとっては、まだ未知の体験すぎる」すまんね、と緑は和尚のように片合唱をしながら言った。

「良いっすよ。俺が勝手に話しただけですし。つか、これに対して的確なアドバイス出来たら、逆に先輩何者かと」

「そだねー。アタシ見ての通り、ただの飲んだくれだしねぇ。ただまぁ、それを踏まえたうえでひとつ言わせてもらうとだ」緑は体を起こし、ベッドの上で胡座をかいた。

「あんた、自分のこと卑下しすぎ。ちょっと鬱陶しかったわよ」

「え、全然したつもりないですけど」

「言ってるっての。兄貴は俺より優秀だったからーとか、親父は兄貴に期待してたからーとか、そんな小言を端々に。ってか、これまで会ったときも、何度か出てきたわよねー。あんたどんだけ兄貴に劣等感抱いてんのよ。このブラコン」

 薄々は自覚していたが、緑から見ても自分の啓へのコンプレックスは見え見えらしい。今までも無自覚に彼女に愚痴っていたことを蓮司は恥ずかしく感じた。

「酒の肴にするにもネタが暗いからアタシ好みじゃない。だからやめなさい。歳、三つ上なんでしょ。だったら、いまのアンタより出来て当たり前じゃない。相手はあんたが将来経験する三年分の経験をしてるんだから。あんた自身の問題か、周囲に比較されたからなのかはわからないけど、そこまで気にしなくて良いと思うわよ」

 けど、と否定しようとすると、緑は頭にチョップを食らわせてきた。

「だからやめろって言ってんでしょーが。相手が出来ることを、自分にも求めるからそんな風にぐちぐち悩むの。自分に出来ないことより、自分に出来ることを数えなさい。あんたにはそっちの方が良いわよ。それでも気にするならこう思え。俺は、酔っぱらいの介抱だけは、兄貴に負けてないんだぜ、と。さすがの兄貴も、あんたと同じ歳のときにアタシみたいなのに絡まれたりはしてないだろうからね」

 だから気にするな。そう言って、緑はポンポンと蓮司の頭に手を置いた。

 言っていることがわりと無茶苦茶でつい笑いがこぼれた。彼女のお陰か、話す前よりもだいぶ悩みは軽くなっていた。

 酒も摘みも話題もなくなり、あとは寝るだけとなった。

 床に寝転がると、一日の疲れが溢れたかのように体に怠さを感じた。今日も昨日もずっと歩きっぱなしだった。今頃になって体がその疲れを思い出したらしい。重くなった目蓋を閉じ、微睡みのなかに沈もうとすると、ベッドの上からぼやくような緑の声が聞こえた。 

「あんたがバイト止めてから新しい子が入ったんだけどさ、その子、音楽やってるんだって。髪を短く切り揃えたクールな感じの娘なんだけど、意外と茶目っ気があって面白い娘なんだ。四月までは四人でバンドを組んでたんだけど、ちょっとしたいざこざでひとり止めちゃってバンドに空きが出来たんだって」

「誘われたんですか」

「うん。けど、迷ってるんだよね」

 単純に新しいバンドに打ち解けるか、前のようなことがないかだけでなく、他の悩みもあるのだろう。大学三年の彼女は、青春を卒業し、社会に出る時期が近づいている。

 だが、やりたいことで迷うのは緑らしくないと思った。

「壁のギター。弦が錆び付いてましたよ」

「そうだね。可哀想なことした。やっぱ、そろそろ使ってあげた方が良いのかな」

 そうなってくれたら良いと思った。また緑が音楽をやり、たまのライブで昔のバイト仲間や彼女の大学の友人たちとそれを見に行く。そういうことを、もう一度したかった。

 だが、頭のなかには、彼女が怪異に殺されたときの記憶がこびりついていた。

 この記憶がただの悪夢で、目覚めたらただの日常に戻っていれば良いのに。

 そう思いながら、蓮司は眠りについた。

 意識が頭の奥底に沈むなか、ふと、側をなにかが通り過ぎるのを錯覚した。

 その錯覚に呼び起こされ、蓮司はつい目を開けてしまった。もう一度眠りにつこうと目蓋を閉じるが、いまので頭
が覚醒してしまったのか、どうしても眠れなかった。

 仕方なく一度体を起こすが、そのときベッドの上に誰もいないことに気付いた。

 緑の名前を呼ぶが、返事がない。部屋を出たのだと気づき、慌てて起き上がる。電気をつけるのも面倒で、床に散らばった物を蹴散らしながら玄関へと向かう。

 靴を履き、扉を開けて外を出た。生暖かい空気が体を包み込む。

 深夜の四時、街は眠りにつき、街灯かコンビニくらいしか夜道を照らす光はない。

 こんな時間に何処へ行ったというのか。とにかく、思いつく所を片っ端から捜すしかない。

 付近のコンビニや小さな公園を巡る。こんな時間だ。行く場所など限られている。蓮司は彼女が行きそうな場所から場所へと走り続けた。

 死相を持つものは二週間以内に必ず死ぬ。物心ついた頃から、蓮司にはその死相が視えるようになっていた。事故死や自殺、たいていは気をつけていれば回避出来る筈の死。それを防ぐために、何度か彼らに関わりを持とうとしたこともあった。だがなにをやっても、結局彼らは死に、やがて蓮司も定められた死は防げないのだと諦めるようになった。

 だがそれでも緑は死なせたくない。彼女にはまだ生きていて欲しかった。例えすでに死んでいるのだとしても、何かに利用されてもう一度死ぬなど、認められることではなかった。

 息を切らせて走り続ける。緑の姿を捜して、周囲を隈無く捜す。

 やがて、交差点の向こう側に立っている彼女を見つけた。夜の散歩のあと、コンビニにでも寄ったのか片手にはビニール袋が握られていた。

 蓮司はほっと息をつき、その場で呼吸を整えようと肩を落とした。

 こちらに気付いたのか、緑は道路の向こう側で一瞬驚いた顔をしたあとに手を振った。

「あんたも散歩? 奇遇だねー」

 そんないつも通りの呑気な言葉のあと、緑は道路に足を踏み出した。

 こんな深夜に信号など意味はない。そう考えての行動だろう。赤信号にも構わず、彼女は道路を走って、こちらへと来ようとする。

 だが、それがいけなかった。安堵したはずの蓮司の心は、一気に焦燥に駆られた。

「駄目だ先輩! 戻って!」

 視界の端に光が見えた。車のヘッドライトだ。人などいないと思っているのか、その光は猛スピードで道路を駆け抜けようとする。

 緑は驚いた顔で、横合いから迫る車へと顔を向けた。

 次の瞬間、鈍い衝突音とともに、彼女の体がはね飛ばされた。

 車は走り去り、蓮司は急いで緑のもとへと走った。衝撃を与えないよう緑を抱き起こす。

 彼女の体には所々擦り傷や痣があり、口からは血が流れ出していた。

「先輩っ! 先輩っ!」 

 何度も緑を呼ぶが、彼女は閉じた眼を開けようとしない。呼吸の音すら聞こえない。

 絶望感に体が重くなるのを感じた。恐る恐る、彼女の左胸に耳をやる。

 鼓動は、聞こえなかった。

 信じられなかった。彼女の死を見るのは二度目だが、それでも信じられない思いだった。

 最初の死はあまりに現実感がなく傍目には生き返ったため、死んだという実感が湧かなかった。だが今度のは違う。彼女はごくありふえれた現実的な方法で死んだのだ。

 腕のなかの緑の重みは、どうしようもなく彼女が死んだ現実を突き付けるものだった。

「嘘だ。嘘だ。こんなの、絶対嘘だ」

 それを否定したくて、口で緑の死を否定し続ける。自分の眼で見たものを信じたくなくて、携帯を出し、病院へ電話をかけようとする。

 その行為を笑う声があった。

 戸惑いながら、蓮司はその声の主を捜す。周囲には誰もいない。

 にもかかわらず、嘲笑う声だけが続いているのが不気味だった。

 いや、確かにひとはいない。しかし、自分を取り囲むものがいることに蓮司は気付いた。

 道路には、あの怪異が現れていた。

 鼠ではなく、ミミズのような細い筋繊維の姿で。それが道路を埋め尽くすように近づいてくる。あまりの気持ち悪さに鳥肌が立った。逃げようにもすでに周囲を囲まれ、腕のなかには緑がいる。逃げ場は、すでに封じられていた。

 数え切れないほどの筋繊維は服を編むように絡み合い、やがて人の形になっていく。

 それが終わったとき、目の前にはあの赤児がいた。蓮司の家に取り憑く赤児が。

 周囲の筋繊維はさらに集まり、幾つもの腕の形になって赤児を持ち上げた。

 蓮司の目線ほどの高さになると、その赤ん坊は口の端をにやりと歪め、嗤った。

「無駄、無駄、無駄。そいつは死んだのに、これ以上何をしようというの?」

 子供の体と、大人の知性ある瞳。

 そのちぐはぐした存在に、蓮司は嫌悪感にも似た恐怖を感じた。

「迎えに来たわ、兄さん。一緒に帰りましょう」

 生まれなかった妹を騙る怪異は、嘲るような口調で笑みを浮かべた。
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