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ニートとカテゴライズされた彼の独白 (男性/ニート/失業/失恋)
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目が覚めると陽の光がカーテンの隙間から差し込んできていた。どうやら、カーテンがきちんと閉まっていなかったらしい。眩しい乱暴な朝の陽射しが顔を直撃し、そのせいでおれの眠りは妨げられることになったようだ。
目を開けたついでに壁掛け時計で時刻を確認する。午前9時。眠りについてから3時間しか経っていない。カーテンの隙間をなくしてから、自分の体温で温まった布団に潜り込む。やはり、遮光カーテンが必要だ。
おれが再び目を覚ましたのは8時間後の夕方5時。日が短い冬の空はすでに薄暗い。
小腹が空いたので、とりあえずマンションの一階にあるコンビニに食料調達に向かうことにする。買う物はいつも同じ。ポテトチップスとコーラ。買ってすぐに食べられてて、それなりに腹が膨れてくれる。本格的な晩飯は、買い置きのカップラーメンがある。腹が膨れて暖が取れる食事は冷え込む晩に残しておくべきなのだ。夜は長い。
メインの生活時間帯が夜になってから、かれこれ数ヶ月。学生でもなく、働いてもおらず、職業訓練も受けていない。そして、30歳のおれは社会的には若年とされる。つまりは、立派なニートである。
だが、よく考えてみて欲しい。30歳は本当に若いのだろうか。世間的には、そろそろ結婚だとかあれこれ言われる年齢なのではないだろうか。実際、結婚して子供ができ、立派に家族を養って一家の大黒柱をやってる奴もたくさんいるだろう。会社では、そろそろ一人前扱いされる頃のはずだ。そんな年齢が若年に分類されることに、違和感を拭えない。とは言え、おれひとりがどれだけ違和感を覚えたところで世の中は何も変わらない。今の時代では、おれはニートに分類されるのだ。
だが、おれが働いて稼いだ金をどう食い潰そうがおれの勝手だ。ジャンクフードを飯にしようが、夜ごとゲームに明け暮れようが、誰に文句を言われる筋合いもない。筋合いがあるとすれば、嫁か結婚前提の彼女だけだろう。
ポテトチップスの油で汚れた指先を着ていたスウェットで拭い、おれは立ち上げっぱなしのパソコンでゲームのログイン画面を表示させる。
余計なことを考えてはいけない。仕事を辞めると決めたおれを捨てた女のことなんて、思い出してはいけない。
ゲームが好きかと聞かれればもちろん好きだが、それなりでしかない。無課金でしか遊ばないし、楽しむというよりも義務になっている気がする。
僅かな蓄えが生活費として消えていくニート生活では、時間だけは有り余るほどある。それでも、何をする気もなく何もしたくない毎日は、余計な思考で頭がいっぱいになる。それらを追い出すためには、現実とは違う世界観に没頭するしかない。小説や漫画は金が掛かる。だから、おれの毎日は、無課金のゲームと無料のWEB漫画で占められている。
おれは確かにニートだが、引きこもりではない。だから、金が尽きればまた朝から晩まで働く生活に戻らなければならない。
今は、完全に夜が明けてから眠りにつき、起きている間のほとんどの時間をネットに費やしている。それが、明け方前には眠りにつくようになり、午前中に起きて就職活動をするようになるのだろう。
楽しいことがないわけではないが、楽しいばかりではない仕事に忙殺される毎日。人格をどこかに忘れてきたかのように次から次に回される仕事を片付けて、季節の移ろいに気付かなくなる。それが普通なのだと言われればそうなのだが、おれは普通ではいられなかった。
当たり前のように仕事をして、3年付き合った女と結婚して、子供を作って、ローンを組んで家を買って、そんな普通の人生を歩むものだと思っていた。何の疑問もなく、そう信じていた。
だが、新卒で入社した会社を10年経つ前に辞めることになった。同時に、付き合っていた女も去っていった。将来を考えられないという捨て台詞を残して。
自分が思い描いていた人生からドロップアウトしてしまったが、それでも世の中は便利なもので、はぐれてしまえばしまったなりのカテゴライズがある。ニートでも失業者でも負け犬でも、好きなように呼べばいい。それはある意味では事実だと思うから、おれには何の反論もできない。
目の前のゲーム画面の向こうには、おれと同じように操作する人間がいる。男なのか女なのかもわからない。仕事をしているのかどうかも。ひょっとしたら、専業主婦なのかもしれない。いや、さすがにそれはないか。昼間ならまだしも、おれは夕方から明け方にかけてしかログインしないから、主婦とは時間がかぶりようがない。まぁ、中には専業主婦の普通から外れたやつがいるかもしれないが。
はっきり言うとおれは専業主婦が嫌いだ。
ひとり暮らしだが、おれだって家事はやっている。必要最低限でしかないが。それでも、専業主婦は世の中に認められているのに、ニートは社会の落伍者のような目で見られるのは納得がいかない。生産性がないのは専業主婦だって一緒だろうと思う。
家事や育児を分担しろだの、旦那の稼ぎに依存する立場で甘ったれんな。働かないなら家事は全てやれ。知り合いに専業主婦がいるわけではないのに、おれは時折そう腹の中でそう毒付く。
男であるおれは、家族を養うだけの稼ぎを求められる。誰に、というわけではない。世間の目に、世論に、普通そうだろうという思い込みに、だ。それらは、おれをニートとカテゴライズする傍らで専業主婦は素敵だと世の中に囁き続ける。
実際、旦那の稼ぎだけで生活費が賄えて専業主婦でいられるなら、それはさぞかし素敵なことだろうと思う。専業主婦なんて、恵まれた結婚生活の代名詞に過ぎない。心底羨ましいと思う。だからおれは専業主婦が嫌い。
目の前のゲーム画面に【GAME OVER】の文字が表示されている。少しぼんやりとしすぎたようだ。おれが操っていたキャラクターは、無惨にも地に突っ伏している。
「そんなんじゃ、子供、産めないじゃん」
あの女が最後に投げ掛けた言葉に打たれたおれも、こんな風にしゃがみ込んで頭を抱えた。どうしようもない現実と、どうにかしたいという足掻きと、どうにもならないという諦めと、それが頭の中でぐるぐる回って言葉が出なかった。何を言えばいいのかわからないでいる内に、全てが相殺されて頭が真っ白になった。ただ黙って、女が出て行く足音を聞いた。
今になって、あの時の自分の気持ちがなんとなくわかるようになってきた。おれは多分、戸惑っていたんだと思う。
3年付き合った相手と結婚して子供を作ってという普通を、おれと同じように彼女も信じていたんだろうと思う。プロポーズしたわけではなかったが、お互いにそうなるんだろうと信じていたし、諦めてもいた。今日と変わらない明日が来るんだと、何の不幸もないと根拠もなく信じ、何の幸福もないと根拠もなく諦めているように。
会社を辞めたおれは、彼女の描いてた普通という消極的な希望から外れたわけだ。だから、おれを切った。それは仕方のないことだと思う。おれが良かったわけじゃないんだ、おれじゃなくてもいいんだ、なんて泣き言は言わない。負け惜しみじゃなく。だって、おれも同じだから。彼女じゃないとダメな理由なんてなかった。理由があるとしたら、3年という惰性だけ。
……いや、ちょっとは負け惜しみかもしれない。好きじゃなければ、3年も一緒にはいられない。
けれど、彼女はあまりにもキレイにおれをノックアウトしてくれた。最後の日、これでもかってくらいにおれは傷付き、いまだに不貞腐れてる。
好きだったからこそ、同じ普通を共有できてなかったことや、全ておれが悪いとされたことに傷付いた。
「妊娠したら、わたし働けないんだよ? 仕事辞めて、その間、どうやって食べていくつもりなの?」
彼女は、結婚しても子供が生まれても、ずっと仕事をしたいと言っていた。ふたりで頑張って稼ごうと話していたのに、おれが仕事を辞めたことは子供を産めないこととイコールにされた。
彼女は小さな制作会社でWEBデザイナーとして仕事をしていた。小さいだけあって仕事は幅広く、時にはおれより遅くまで残業していた。時折、もう仕事したくないと泣き喚くくらいには疲弊していたが、概ね楽しそうだった。仕事にやりがいを感じてるんだと思っていた。
給料も悪くなかったはずだ。嫁と子供を養うために最低限これだけは稼がないといけないと世の中の男が思う金額。少なくともそれと同等、下手したらそれ以上の稼ぎがあった。おれが専業主夫になっても十分に生活していける。
小さな会社だったから産休の前例なんてない。短期スパンの仕事を日々必死にこなしながら、長期スパンの仕事を同時に進める。そんな状態だから、出産のために一度現場を離れたら、もう彼女が戻る場所はないだろう。
それはわかる。理解している。
けれど、おれが会社を辞めることを責められるなら、安心して産休、育休を取って職場復帰できる会社を選ばなかった彼女も責められるべきではないのか。
男が稼ぐことを当たり前だとして、男が稼げなくなるかもしれないことを考慮しなかった女に罪はないのか。
個人的にどうしても続けられない理由があって会社を辞めたおれは、今の状態のまま働くことを希望しながらも、そのための働き掛けを一切しない彼女より罪深いのか。将来設計や覚悟が足りないのはお互い様じゃないのかと思う。
そこまで考えたところで、おれは再度パソコンの中で冒険の世界に出る。
足りないのは覚悟ではなく愛情だったのかもしれない。ここ数ヶ月、何度も考えたその事実に目を向けると、このまま命を投げ出したくなるくらいの感情がおれを塗り潰してしまう。
そんなことを考えたくないから、おれはゲームの世界に逃避する。いつまでもここにいられないことはわかっているが、逃避だという自覚があるうちは大丈夫だとも思っている。
ゲームの世界で役目を与えられ、世界を救ったりモンスターを倒すことに没頭する。それは擬似的なもので、おれの現実になんの影響も与えないけど、現実に向かうためのリハビリにはなる。
何かを成すためには経験値を積む必要があり、そのためには退屈なルーティンを繰り返し続ける必要がある。やめてしまうのは簡単だけど、そうするとゲームは止まったままだ。 手にれられるはずの宝も、立ち向かうはずの強大な敵も、救うはずだった世界も、その世界の中で息づくゲーム内キャラクターも、何も知らないまま、何も変わらないまま止まってしまう。だから、ゲームを進める。それは単なる惰性なのかもしれないけど、そんなの現実世界も同じだ。感情や理屈を抜きにしても、惰性であれこれできてしまうのが人間なのだ。
けれど、意志の力で変えることもできる。
おれはもうしばらくしたらいわゆる「普通」の生活に戻るだろう。社会復帰して、社会のコマとしてあくせく働くだろう。乾いた笑いを浮かべて愚痴を吐きながらも、小さな幸せを大切にしてそれなりに楽しく生きていく。
自堕落に生きながらも、戻れなくなるところまでは堕ちていかない。そんな自分をつまらない人間と思いながらも、少し誇りに思っている。
結局は、「普通」のことを普通にできるやつが一番偉いんだと思う。
わかっているから、今は落ちる。それが必要なときもある。
今日は、このステージが終わるまで眠らない。そう決めた。
目を開けたついでに壁掛け時計で時刻を確認する。午前9時。眠りについてから3時間しか経っていない。カーテンの隙間をなくしてから、自分の体温で温まった布団に潜り込む。やはり、遮光カーテンが必要だ。
おれが再び目を覚ましたのは8時間後の夕方5時。日が短い冬の空はすでに薄暗い。
小腹が空いたので、とりあえずマンションの一階にあるコンビニに食料調達に向かうことにする。買う物はいつも同じ。ポテトチップスとコーラ。買ってすぐに食べられてて、それなりに腹が膨れてくれる。本格的な晩飯は、買い置きのカップラーメンがある。腹が膨れて暖が取れる食事は冷え込む晩に残しておくべきなのだ。夜は長い。
メインの生活時間帯が夜になってから、かれこれ数ヶ月。学生でもなく、働いてもおらず、職業訓練も受けていない。そして、30歳のおれは社会的には若年とされる。つまりは、立派なニートである。
だが、よく考えてみて欲しい。30歳は本当に若いのだろうか。世間的には、そろそろ結婚だとかあれこれ言われる年齢なのではないだろうか。実際、結婚して子供ができ、立派に家族を養って一家の大黒柱をやってる奴もたくさんいるだろう。会社では、そろそろ一人前扱いされる頃のはずだ。そんな年齢が若年に分類されることに、違和感を拭えない。とは言え、おれひとりがどれだけ違和感を覚えたところで世の中は何も変わらない。今の時代では、おれはニートに分類されるのだ。
だが、おれが働いて稼いだ金をどう食い潰そうがおれの勝手だ。ジャンクフードを飯にしようが、夜ごとゲームに明け暮れようが、誰に文句を言われる筋合いもない。筋合いがあるとすれば、嫁か結婚前提の彼女だけだろう。
ポテトチップスの油で汚れた指先を着ていたスウェットで拭い、おれは立ち上げっぱなしのパソコンでゲームのログイン画面を表示させる。
余計なことを考えてはいけない。仕事を辞めると決めたおれを捨てた女のことなんて、思い出してはいけない。
ゲームが好きかと聞かれればもちろん好きだが、それなりでしかない。無課金でしか遊ばないし、楽しむというよりも義務になっている気がする。
僅かな蓄えが生活費として消えていくニート生活では、時間だけは有り余るほどある。それでも、何をする気もなく何もしたくない毎日は、余計な思考で頭がいっぱいになる。それらを追い出すためには、現実とは違う世界観に没頭するしかない。小説や漫画は金が掛かる。だから、おれの毎日は、無課金のゲームと無料のWEB漫画で占められている。
おれは確かにニートだが、引きこもりではない。だから、金が尽きればまた朝から晩まで働く生活に戻らなければならない。
今は、完全に夜が明けてから眠りにつき、起きている間のほとんどの時間をネットに費やしている。それが、明け方前には眠りにつくようになり、午前中に起きて就職活動をするようになるのだろう。
楽しいことがないわけではないが、楽しいばかりではない仕事に忙殺される毎日。人格をどこかに忘れてきたかのように次から次に回される仕事を片付けて、季節の移ろいに気付かなくなる。それが普通なのだと言われればそうなのだが、おれは普通ではいられなかった。
当たり前のように仕事をして、3年付き合った女と結婚して、子供を作って、ローンを組んで家を買って、そんな普通の人生を歩むものだと思っていた。何の疑問もなく、そう信じていた。
だが、新卒で入社した会社を10年経つ前に辞めることになった。同時に、付き合っていた女も去っていった。将来を考えられないという捨て台詞を残して。
自分が思い描いていた人生からドロップアウトしてしまったが、それでも世の中は便利なもので、はぐれてしまえばしまったなりのカテゴライズがある。ニートでも失業者でも負け犬でも、好きなように呼べばいい。それはある意味では事実だと思うから、おれには何の反論もできない。
目の前のゲーム画面の向こうには、おれと同じように操作する人間がいる。男なのか女なのかもわからない。仕事をしているのかどうかも。ひょっとしたら、専業主婦なのかもしれない。いや、さすがにそれはないか。昼間ならまだしも、おれは夕方から明け方にかけてしかログインしないから、主婦とは時間がかぶりようがない。まぁ、中には専業主婦の普通から外れたやつがいるかもしれないが。
はっきり言うとおれは専業主婦が嫌いだ。
ひとり暮らしだが、おれだって家事はやっている。必要最低限でしかないが。それでも、専業主婦は世の中に認められているのに、ニートは社会の落伍者のような目で見られるのは納得がいかない。生産性がないのは専業主婦だって一緒だろうと思う。
家事や育児を分担しろだの、旦那の稼ぎに依存する立場で甘ったれんな。働かないなら家事は全てやれ。知り合いに専業主婦がいるわけではないのに、おれは時折そう腹の中でそう毒付く。
男であるおれは、家族を養うだけの稼ぎを求められる。誰に、というわけではない。世間の目に、世論に、普通そうだろうという思い込みに、だ。それらは、おれをニートとカテゴライズする傍らで専業主婦は素敵だと世の中に囁き続ける。
実際、旦那の稼ぎだけで生活費が賄えて専業主婦でいられるなら、それはさぞかし素敵なことだろうと思う。専業主婦なんて、恵まれた結婚生活の代名詞に過ぎない。心底羨ましいと思う。だからおれは専業主婦が嫌い。
目の前のゲーム画面に【GAME OVER】の文字が表示されている。少しぼんやりとしすぎたようだ。おれが操っていたキャラクターは、無惨にも地に突っ伏している。
「そんなんじゃ、子供、産めないじゃん」
あの女が最後に投げ掛けた言葉に打たれたおれも、こんな風にしゃがみ込んで頭を抱えた。どうしようもない現実と、どうにかしたいという足掻きと、どうにもならないという諦めと、それが頭の中でぐるぐる回って言葉が出なかった。何を言えばいいのかわからないでいる内に、全てが相殺されて頭が真っ白になった。ただ黙って、女が出て行く足音を聞いた。
今になって、あの時の自分の気持ちがなんとなくわかるようになってきた。おれは多分、戸惑っていたんだと思う。
3年付き合った相手と結婚して子供を作ってという普通を、おれと同じように彼女も信じていたんだろうと思う。プロポーズしたわけではなかったが、お互いにそうなるんだろうと信じていたし、諦めてもいた。今日と変わらない明日が来るんだと、何の不幸もないと根拠もなく信じ、何の幸福もないと根拠もなく諦めているように。
会社を辞めたおれは、彼女の描いてた普通という消極的な希望から外れたわけだ。だから、おれを切った。それは仕方のないことだと思う。おれが良かったわけじゃないんだ、おれじゃなくてもいいんだ、なんて泣き言は言わない。負け惜しみじゃなく。だって、おれも同じだから。彼女じゃないとダメな理由なんてなかった。理由があるとしたら、3年という惰性だけ。
……いや、ちょっとは負け惜しみかもしれない。好きじゃなければ、3年も一緒にはいられない。
けれど、彼女はあまりにもキレイにおれをノックアウトしてくれた。最後の日、これでもかってくらいにおれは傷付き、いまだに不貞腐れてる。
好きだったからこそ、同じ普通を共有できてなかったことや、全ておれが悪いとされたことに傷付いた。
「妊娠したら、わたし働けないんだよ? 仕事辞めて、その間、どうやって食べていくつもりなの?」
彼女は、結婚しても子供が生まれても、ずっと仕事をしたいと言っていた。ふたりで頑張って稼ごうと話していたのに、おれが仕事を辞めたことは子供を産めないこととイコールにされた。
彼女は小さな制作会社でWEBデザイナーとして仕事をしていた。小さいだけあって仕事は幅広く、時にはおれより遅くまで残業していた。時折、もう仕事したくないと泣き喚くくらいには疲弊していたが、概ね楽しそうだった。仕事にやりがいを感じてるんだと思っていた。
給料も悪くなかったはずだ。嫁と子供を養うために最低限これだけは稼がないといけないと世の中の男が思う金額。少なくともそれと同等、下手したらそれ以上の稼ぎがあった。おれが専業主夫になっても十分に生活していける。
小さな会社だったから産休の前例なんてない。短期スパンの仕事を日々必死にこなしながら、長期スパンの仕事を同時に進める。そんな状態だから、出産のために一度現場を離れたら、もう彼女が戻る場所はないだろう。
それはわかる。理解している。
けれど、おれが会社を辞めることを責められるなら、安心して産休、育休を取って職場復帰できる会社を選ばなかった彼女も責められるべきではないのか。
男が稼ぐことを当たり前だとして、男が稼げなくなるかもしれないことを考慮しなかった女に罪はないのか。
個人的にどうしても続けられない理由があって会社を辞めたおれは、今の状態のまま働くことを希望しながらも、そのための働き掛けを一切しない彼女より罪深いのか。将来設計や覚悟が足りないのはお互い様じゃないのかと思う。
そこまで考えたところで、おれは再度パソコンの中で冒険の世界に出る。
足りないのは覚悟ではなく愛情だったのかもしれない。ここ数ヶ月、何度も考えたその事実に目を向けると、このまま命を投げ出したくなるくらいの感情がおれを塗り潰してしまう。
そんなことを考えたくないから、おれはゲームの世界に逃避する。いつまでもここにいられないことはわかっているが、逃避だという自覚があるうちは大丈夫だとも思っている。
ゲームの世界で役目を与えられ、世界を救ったりモンスターを倒すことに没頭する。それは擬似的なもので、おれの現実になんの影響も与えないけど、現実に向かうためのリハビリにはなる。
何かを成すためには経験値を積む必要があり、そのためには退屈なルーティンを繰り返し続ける必要がある。やめてしまうのは簡単だけど、そうするとゲームは止まったままだ。 手にれられるはずの宝も、立ち向かうはずの強大な敵も、救うはずだった世界も、その世界の中で息づくゲーム内キャラクターも、何も知らないまま、何も変わらないまま止まってしまう。だから、ゲームを進める。それは単なる惰性なのかもしれないけど、そんなの現実世界も同じだ。感情や理屈を抜きにしても、惰性であれこれできてしまうのが人間なのだ。
けれど、意志の力で変えることもできる。
おれはもうしばらくしたらいわゆる「普通」の生活に戻るだろう。社会復帰して、社会のコマとしてあくせく働くだろう。乾いた笑いを浮かべて愚痴を吐きながらも、小さな幸せを大切にしてそれなりに楽しく生きていく。
自堕落に生きながらも、戻れなくなるところまでは堕ちていかない。そんな自分をつまらない人間と思いながらも、少し誇りに思っている。
結局は、「普通」のことを普通にできるやつが一番偉いんだと思う。
わかっているから、今は落ちる。それが必要なときもある。
今日は、このステージが終わるまで眠らない。そう決めた。
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自分でもよく分からない感情の揺れ。
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この作品。