日常のひとコマ

繰奈 -Crina-

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釣りをしながら思考の海で溺れる (男性/趣味/リフレッシュ)

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どこまでも広がる海と空。
ずっと向こうで、その境目は1本の線となる。
どこまでも横に伸びる水平線。


「にぃちゃん、竿ひいとるで」
「えっ? あっ!」
水平線よりずっと手前、数m先にさっきまであった浮きがない。
慌てて竿を上げリールを巻く。
一瞬の手応えの後、すぐにふっと重さが消えた。
「っあー! バラしたぁ!」

逃がした魚ほど大きいと感じるのは世の常だが、あの手応えは確かに大物の感触だった。
ひょっとしたら石鯛だったかもしれない。
狙いはグレだが。

「にぃちゃん、ぼーっとしとったらあかんわぁ」
地元の老人の温かな笑い声に、素直に、そうですよねと笑って返した。


餌となるオキアミを針につけながら、先ほど投げた場所にもう一度検討をつける。


かご釣りを始めたのは会社の先輩に誘われた10年ほど前。
釣りとゴルフはおっさんの趣味だと決めて掛かっていたが、始めてみると先輩の思惑通りまんまとハマった。
休みができると先輩を誘い、良さげな磯を探して必死で岩場を降りた。
先輩が会社を辞め、三十後半にさしかかる頃になった今、滅多に釣りには行かなくなった。
釣りをしているときはともかく、行き帰りの車で話す相手がいないことが辛かったのだ。
仕事に忙殺される日常の中、ひとりで長距離ドライブをする気力も体力もない。
先輩の他に釣果を喜び合う相手もおらず、釣りの楽しさよりひとり道程の不安と面倒が先に立った。


うまく先程と同じ位置に飛んだ浮きの様子をうかがいながら、波の音と岩場を通る風を肌に感じる。


今日、久し振りに釣りに来たのに理由はない。
ただ、先週末に竿を発見したからだ。
竿はずっと物置代わりの和室に置いてあったから、発見したというのは間違っているのかもしれない。
だが、意識が向かない内はないのと同じで、要は久々に竿、ひいては釣りを意識したのだ。
会社を辞めた先輩のその後を聞いたからかもしれない。
釣りを思い出すと行きたくなった。ただそれだけだった。


先程は、バラしたものの手応えがあった。
それまでは餌喰いの小魚の気配しか感じられなかったので、少し気合いが入る。
背後からは老人の話し声と笑い声が聞こえる。
温かい、と思う。
何度か通う内に顔馴染みとなった地元の老人たちは、数年振りにも関わらず、まるで昨日も会ったように「最近、調子はどうや?」と声を掛けてくる。
ここでは、時間の流れがゆっくりなのかもしれない。


癒やし、だなんて言うつもりはない。
癒されもしない。
海風と直射日光は体力を削る。
冬の海風と波しぶきの冷たさは尋常じゃない。
重い荷物を抱えながら磯に行き着くまでに降りる岩場は、足を滑らせたら骨折はまぬがれないだろう高さと急斜面だ。
かと言って、魚を含めた大自然に挑んでいるつもりもない。
自然とちっぽけな自分を対比して、己を省みる気も前向きになることもない。

ただ、釣り自体も含めてここは居心地が良い。
地元の釣り人、海、釣れた魚、岩場、釣れなかった魚、磯だまり、程良い疲れ、震える脚、とにかく全てが何故か心地良い。


浮きは沈まない。
最近、かご釣りが減ってどこの磯場もイカ釣りばかりだ。
アジが釣れたらイカ釣りをしようと思う。
周りのイカ狙いはエギングばかりのようだが、無理もない。
生き餌は高くつくがルアーはなくならない限り使える。
イカ釣りは専門ではないが、アジが釣れたらいつでもシフトできるように仕掛けは用意してある。


この臨機応変さを釣りから学んで仕事に活かしたのか、仕事から学んで釣りに活かしたのかはもう覚えていない。
だが、釣りという趣味にハマるために仕事の段取りをつけるのはうまくなった。
週末の息抜きで、体力的には辛くとも気力は充実して仕事に臨めた。
釣れた魚は逃がすことも食べることもある。
狙う魚を変えることもあるし、そのための仕掛けの準備もある。
臨機応変、だ。
釣りで人生を学んだなんて大層なことは言わないが、そういう側面もある。


たまには、釣りに出よう。
ひとりで来ても、釣り人は他にもいるし海もある。
釣りをしながら思考の海で溺れるのも楽しいもんだ。
自分にとっての必要を見極める訓練が釣りなのかもしれない。


「にぃちゃん、竿、竿!」

本日二度目の大きな引きが来た。

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