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気がつくと病院にいた。
ぼやけた頭ではしばらく何もわからなくて、ただ白い天井を見上げる。意識と呼べるようなものは、なかったようにも思える。ただ、目を開いているだけ。
やがてそこが病院であると気づき、体を鈍い痛みが襲う。自分の体が、どれだけ傷ついているか。彼は、ここにはいない。それだけ、思い出した。
なんとなく悲しくなって泣いた。少しもうれしくなかった。きっともう、彼には会えないのだと思うと、苦しかった。
声を押し殺して泣き続けた。泣いてどうにかなるわけでも、泣く権利もないとはわかっているのに、止まらない。みっともなく涙は出てきて、このまま死んでしまいたいと思った。
様子を見に来た看護師が、起き上がれないまま手で顔を隠して泣いている私に驚いて、駆け寄ってきた。どうかしましたかと、彼とは違う人の声を聞いた。彼の声とは少しも似ていなくて、体の痛みが増した気がした。
私の意識はとても不安定だった。看護師がナースコールを押し、目が覚めた、医者を呼んでほしい、と言っているのを聞きながら、急に眠たくなってしまった。おとなしくなっていく私にもう一度、彼女がどうかしましたかと問う。答えられず、私はそのまま、眠ってしまった。
それから、目を覚ましてはすぐにまた眠ってしまうような状態が長らく続いた。ある程度、起きていられるようになるまで、それなりの時間が必要だった。
私自身、起きているよりは眠っている方が楽で、逃げてしまっていたのかもしれない。眠っていれば、ここに彼がいないことを、実感せずにいられる。起きていれば、嫌でもそれを感じずにはいられない。たぶん、私は自分で、目覚めきらないことを選んでいた。
それでも、体の回復にともない、起きていられる時間は長くなっていく。
はじめはぼんやりしていた意識も、はっきりしていった。目覚めてすぐは何もわからず、何も覚えておらず、ただ彼がいない、それだけが頭を支配していたけれど、何もかもを思い出してしまった。
「あなたのお名前は?」
今日も、医者が私にそう尋ねた。起きたばかりの頃から毎回かかさずされる質問だ。
私は毎回、それに答えられない。黙って医者の目を見つめるだけ。初老の医者は、五分ほど待ってから、誰かの名前を呼んだ。
「何か喋れますか?」
これもまた、毎回のように言われることだ。そして、私はまた黙ったまま、医者の顔を見る。
頭の中にはたくさんの言葉が浮かんでいるのに、どうしてか、それを声にすることはできなかった。口を開けても、声が出ないのだ。はくはくと開閉を繰り返して、諦める。今日も、私の声は失われたままだ。
医者がまた誰かを呼んだ。私の病室に入ってきたのは背広姿の男性二人で、片方は軽薄な笑みを、もう片方は生真面目そうな顔をしている。
私が目覚めてから、何度か訪ねてきている人たちだ。私と、彼との関係を調べるために。
「こんにちは、今日の調子はどうですか? だいぶ元気そうになってきましたね」
軽薄そうな男性が、へらりと笑ってそう言った。返事ができない代わりに、上体を起こして、会釈をする。
「松田です、こっちは上木。覚えてますか?」
私が控えめに頷くと、軽薄そうな松田さんが満足そうにした。生真面目そうな上木さんは、私を鋭い目で見ている。
きっと一番私の目覚めを待っていた二人は、警察の人だ。あの家にいた、彼と、私について、調べているという。奇妙な事件でした、と言っていた。
まだ力の入りにくい手で、こっそり布団を握りしめる。体力があまりに落ちてしまったから、体を起こしていると少し辛い。顔をしかめた私に、松田さんは慌てて、寝ててください、と言ってくれた。
「くれぐれも無理はしないでください。ゆっくり、楽な体勢で。先生も言っていたでしょう、今は体を休めることが一番重要だって」
そう優しくしてくれるのは、きっとまた眠ってしまったら困るから。私がここに来てから目覚めるまで、ずいぶんと時間がかかったらしい。そのあとも、とても話ができるような状態ではなかった。だから二人は、ちょっとだけ焦っている。
この二人を前にしていると、声が出なくてよかったと思ってしまう。彼のことを頻繁に訊いてくる二人に、いい印象はない。二人とも仕事だから仕方ないのだと思っていても、私を被害者として扱うのなら、その被害者が訊かれたくないことを何度も訊くのは、やめてほしい。
第一、私と彼のこの十年は、事件とは呼んでほしくない。私を被害者として扱うのも、本当は嫌だ。
だって、そうしたら、彼が加害者ということになってしまう。それは間違いで、本当の加害者は私だ。彼が被害者と言ってもいい。
真実を知らない人たちは、好き勝手に推測して、被害者、加害者と札を貼っていく。そこに関係者の気持ちは考えられない。される配慮はむしろ私の心をえぐっていく。正しいのはどれか、わからなくなってしまう。
どろどろした何かがせりあがってきて、首を触った。ここに来て以来、首をつねるのが癖になってしまっている。
松田さんがとりとめもない話をした。この人はたぶん、人と話すのが好きで、コミュニケーション能力も高い。ただ、ちょっと他人の気持ちを考える能力は低いように感じる。私の気持ちを害してばかりだ。
もっとひどいのは、上木さんだ。初めて会ったときからずっと、なんとなく嫌な目を私に向けてくる。鋭くて、私を責めるような目をしている。本人はきっと気づいてなくて、無意識だから余計に悪い。
「今日は、事件の詳細を確認させてもらっていいですか」
「上木! まだそれは」
「もうこんなにはっきり起きてるんです、大丈夫でしょう。そうですよね」
ほとんど睨み付けるように、確認された。逃れられない圧を感じて、首をつねる力を強める。
きっと、この上木さんは、私のことを疑っている。松田さんは私を被害者と決めつけているけれど、上木さんは、私が何かを隠していると疑っているんだろう。
正しい答えを導いてほしいと思っているのに、私はまた、自分が助かることを願ってしまっている。彼が、私を隠したときのように。
「これから、私たちにわかっていることと、私たちの推論を話します。間違いがありましたら言ってください。ああ、手で止めてくだされば」
息が苦しくなる。逃れたい。私の罪を知られたくない。けれど、知ってほしい。暴いてほしい。彼と、私の、この十年を。
すべて私が悪いのだ。彼も悪いことをしたけれど、私の方が悪いことをした。だから私が悪い。
そう自覚しているのに、すべてを彼になすりつけたくなった。きっと彼は、それを望んでいる。
「まず、五か月前。警察に一本の通報がありました。『女の子を監禁している。助けてあげてほしい』。通報した男性は一方的にそういって、住所を伝え、電話を切りました」
何も反応しないように意識して、天井と見つめあう。
上木さんの好きなようにすればいい。私は、ただ、上を向く。
「警官が駆け付けると、玄関先にあなたと――首を吊った男性が。どちらも意識はなく、あなたは病院に運ばれても目を覚まさなかった。体は傷だらけでしたが、それほど致命的なものはなかったというのに」
上木さんは淡々と話す。私が、聞きたくないことも。
この人は私を苦しめたいのだろうかと疑ってしまう。仕事だからとはいえ、私はこの人たちにとって、被害者の立場にあるはずなのに。
罰なのだろうと思った。彼を、死なせてしまった罰。
あの部屋から出て、そこが私の家に組み込まれていると知った。怖くて、外に出なければと走った。逃げたかった。何が起きているのか、理解するのも嫌だった。
そして辿り着いた玄関で――彼が首を吊っていた。
「あの男性が通報したと考えられます。そしてあなたが、監禁されていた女性だということも。あの家の二階は不思議な造りになっていました。あなたは、あの部屋に監禁されていた。そうですね?」
たぶんあれは、監禁ではない。そう思うから、私は否定も肯定もしないでおく。やっぱり、天井を見つめるだけにした。
上木さんを止めるのを諦めて、松田さんも私の様子を注意深く観察している。こうなったら仕方がないとでも思ったんだろう。私の声が出ていたら、この二人を置いて出て行ってしまった医者に泣きついて、精神的ストレスを与えられたと訴えたのに。
「あなたが監禁されたのは、いつ頃からですか。そもそもあなたは――」
なんとなく、次の質問が何かわかった。
私は。
「あなたは、自分から出ようとは、しなかったんですか」
私は、自分から出ようとなんて、思いもしなかった。
出ようとしたのはつい最近のこと。それまで少しも出たいとは思わなかった。
そっちの方が、楽だったから。親を殺した事実から、逃げたかったから。
私が殺したわけではないと気がついても、私が悪いことは変わらない。けれど、彼が。彼が悪いと責められるかもしれない。そう気づいたから、外に出ようとした。
自分から出ようとせず、むしろ協力して隠れていたとなると、発見は難しくなる。彼もそう言っていた。「君が自分から隠れようとしてくれたら、もっと確実に、君を隠せるんだ」と。私はそれを信じて、なるべく外と触れ合わないようにした。
だから十年も見つからなかった。彼もきっと、外で上手く立ち回ってくれていたんだろう。彼にはそれだけの力があった。生まれついた家の仕事をあまりよく思っていなかった彼だけど、私を匿うことになってからは変わったという。笑って、あれほど嫌がっていた家業を継ぐつもりだと、私のためなら構わないと、言ってくれた。
結婚したら、よかったのかもしれない。考えてしまう。彼の願い通りに、結婚したら、私も彼も幸せだったのかもしれない、と。
そう思ったとき、上木さんが、驚くべきことを口にした。
「あなたと共にいた、あなたを監禁していた男性は、あなたの夫で間違いありませんね」
夫。
しばらく言葉の意味がわからなかった。
つまり、私と彼は結婚していたということだろうか。
上木さんは続ける。
入籍は三年前、彼は学生時代の友人に、幸せだともらしていたという。
三年前といえば、彼が私と結婚しようとしていた時期だ。
私が、そんなことは考えられないと返したから、諦めたのだと思っていた。それがプロポーズのようなものだと気づかなかった私が、彼の気持ちを知ったのは今年になってからだけど、知ってからは少し後悔していた。
幸せな想像に、私はいなかった。けれど、そこに私がいてもよかったのだと知ってしまうと、どうしても。
どうしても、後悔してしまう。
彼のことが好きだった。どうしようもなく。私を守ってくれる彼が、私を大切にしてくれる彼が。
ずっと認めないようにしていた。こんな私が、彼を好きでいることは、許されないと思っていた。もしかしたら彼が好きなのも、彼に寄生し、依存しているからなのかもしれない。そんな考えもあって、認めてしまうわけにはいかないと思っていた。
認めてしまえば、彼に甘えてしまう。それはいけない。それだけはあってはならない。
泣いてしまいそうになって、目を閉じた。悲しいのと、うれしいのと。あとは、情けないのとで、目頭が熱い。
いっそ泣いてしまおうかとも思った。そうしたら、上木さんの顔が面白いことになるかもしれない。彼を少し、馬鹿にしているというか、軽蔑しているような上木さんに、ちょっとした仕返しができるかもしれない。
きっと、彼は偽装した。私と、私の了承なく、勝手に結婚した。
それがとてもうれしい。本来なら不気味に思ったり、彼に怒ったりしなければいけないんだろう。でも、とてもうれしくて、彼にそうさせてしまった自分が情けなくて、涙を耐えられそうにない。
そして、現実になり得たはずの幸せな想像が、今、最悪な結末を迎えたことが、とても悲しい。
「……大丈夫ですか」
堪えられず、泣いてしまった私に、上木さんが少し困惑したような声でそう言った。
大丈夫ではないけれど、心配されるほどでもなかった。すべて終わった後に、私が勝手に後悔しているだけ。ただそれだけ、心配されるほどのことではない。
指輪がほしかったな、と思う。
どんな嘘を使ってでも、私に何か、記念になるようなものを残してほしかった。拒絶したのは私なのに、身勝手な願いだということはわかっている。それでも、指輪でも、なんでもいいから、結婚した証になるものがほしかった。
今ここに、彼がいないから。幸せではない。うれしいけれど、幸せではない。
彼がいなければ、私が生きている意味は、ない。
「――以上が、あのことの真実です。私にとっての」
しばらくぶりに会った上木さんは、少し老けたように見える。私の話を、あのときと変わらず生真面目そうな顔で聞いていた。
あの家から、病院に連れていかれて、目を覚まして、上木さんと松田さんと話したのも、もうずいぶんと昔に思える。
あれから、三年が過ぎた。私はもう三十になろうとしていて、声もすっかり出るようになった。
「私は彼のことが好きでした。両親を殺してもなお、好きでいてくれた彼が。私の存在を一つ残らず認めてくれたからです。私は、彼を否定してしまったけど」
「監禁だと気づいたのに、それでも、ですか」
「はい。それでも好きでした。好きだからこそ、外に出ようと思いました。彼が私の罪をすべて被るつもりだと、わかったから。それだけは阻止しなければと思いました。これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかなかったので」
今になってようやく、素直に好きと言えるようになった。
彼がいないと、時間が過ぎるのがとても遅く感じる。あの部屋に引きこもっていたときよりも、一日一日が長く感じるのだ。
長い時間を、彼のことを考えて過ごしている。考えているうちに、もう何もかもがどうでもよくなった。彼が好きだと、きっと彼も私が好きだったと、そう思うだけで幸せな気がした。
「私の両親、本当は、死んでなかったんですね。最近になって知りました。お父さんもお母さんも、私が生きているとは思っていなかったそうです。上木さん、お母さんたちに、連絡してくれてたんですよね? 私の身元、調べて。ありがとうございました。おかげで、再会できました。私が娘です、とは名乗れなかったけど」
「……何も、できませんでした」
「いいえ。私は感謝しています。お母さんのことですよね。お母さんは、私のせいで、おかしくなったんです。お母さんの中では、私はずっと十六のままなんです。ずっとあの日のまま、お母さんの時間は止まってるんです。そして、私は死んでいるんです、お母さんの中では」
「良かれと思ってやったことでした。親族を探すのも、必要な事件でしたから。ですが、あの顔を見て……自分のやっていることが、本当に正しいのか、わからなくなりました」
「警察をやめたと聞きました。もし、私の件がきっかけになっていたら、ごめんなさい」
「そういいながら、本当はいい気味だとでも思っているんでしょう?」
「それはもちろん。私、あのとき、本当にあなたのこと、嫌いでしたから」
上木さんは弱々しい笑みを浮かべた。覇気がない。声が出るようになってからずっと、いつか上木さんと言い合いをしようと思っていたのに。これでは張り合いがないじゃないか。
「上木さん、私、今はあなたのことを一番信用しています。全部、わかったんでしょう? 私と彼との間で、何が起きて、どうなったか。警察をやめて、一人でずっと調べてたんでしょう? 松田さんはすぐ諦めたのに」
生真面目そうな顔に反することなく、上木さんはとても真面目だ。一度、私に関わったら、あのことをすべて調べきってしまわないと気が済まなかったんだろう。ちょっと特殊な仕事をしている知り合いに聞いたら、警察をやめてでも、私と彼のことを、本当は何があったかを、調べていたのだという。
それだけ熱心に調べてくれたから、少しくらい優しくしてもいいかなと思った。彼の存在を知っていてくれる人が増えるのはうれしい。きっと上木さんは、本当のことを知ったら、忘れないだろう。
そう思って、隠し切ろうとしたすべてを、話すことにした。
「答え合わせの意味でも、話しました。当たってましたか?」
「細部までは、さすがに。ある程度は当たりましたが」
「そうですか。それならよかったです」
でも、本当の話は、ここから。
女の部屋に男性を不用意に呼ぶのは危険だと、上司に言われたばかりだと思い出した。急に目の前の上木さんがこの部屋にいてはいけない存在に見えてしまう。
軽く首をつねって、集中しなおす。
「ええと、十三年前になりますか。十三年前、私が両親を殺した日、本当は彼が殺しました。私はそれを見て、ろくに確認もせずに、両親は死んだものだと思いました。そして、彼が私のために殺したのだと、すぐに気がつきました。ずっと彼に親の、特にお母さんのことを話していて、彼はすごく同情してくれましたから。だから、きっとそうだと思って、彼を見ました。彼は冷たい顔をしていて、私の手を取って、縄を持たせました。『君が殺したんだよ』と、言われて、そうだと、思い込みました」
真っ直ぐに私を見る上木さんの中に、少しの好奇心を見つけた。
話していいのだと安心して、深く息を吐いた。
「思い込んではいたけど、深いところで、本当のことを忘れたことはなかったと思います。でも、疑うことこそ、彼に申し訳ない気がして。もし、二十六の誕生日に気づいていなかったら、きっと今もあの部屋で、彼と一緒にいたと思います」
きっと、彼か私か、どちらかが死ぬまで、ずっと一緒だった。
それくらい、私は彼がいれば何もかもどうでもいいと思っていた。私の寂しさを埋めてくれたのが彼だった。彼以外、いなかった。だから私の生活に彼以外の他人がいなくても困らなかった。
「もし、あれを監禁と受け入れたとして、きっと今に残るいろんな癖は、あれの後遺症とか、そういうのなのかもしれません。ほら、首。つねったあとがいっぱいあるでしょう。つねるようになったのは出てからですけど、こうしないと集中できなくなってきたんです。正直、この部屋に人を入れるのも、あまり得意じゃありませんでした。今はもう、ほとんど大丈夫ですけど、私の住む空間に彼以外の人がいるっていうのが、すごく気持ち悪くて」
しばらく自分の部屋以外の、人のいないところにいると呼吸がしづらかった。今でもときどき、言いようのない不安に駆られるときがある。
自分がおかしいのはわかっていた。わかっていたからこそ、わからなくなるのが怖い。そう素直に口にする。
ここ最近、たまに、自分が何を言っているのかわからなくなることがある。それがとても怖い。本当に頭のおかしい人は、自分がおかしいという自覚はない、と誰かが言っていた。私はまだ、自分がおかしいことを自覚しているけれど、無意識に口から言葉が飛び出すたびに、いつか、芯までおかしくなってしまうかもしれないと、恐怖した。
「上木さん、私、本当は上木さんに会いたいとは思ってませんでした。ずっと。でも、この間、町で松田さんを見かけちゃって」
「松田さんを」
「はい。そのときの松田さんが、すごく、彼に似ているような気がして。びっくりして、声をかけようかとも思ったんですけど、娘さんみたいな女の子がいたので、やめました。松田さん、ご結婚なさってたんですね」
「……松田さんに連絡を取るために、私を呼んだんですか」
「半分正解ですけど、半分違います。もうすでに、松田さんに連絡する手段は見つけてありますから。私は本当に、ただ、上木さんに話したかっただけですよ。それは本当です。自分がおかしくなるのが怖くて、上木さんなら、止めてくれるかと思って。誰かにこの話をしないといけないかと思って。話せば何か変わるんじゃないかと思いました。でもそう簡単に話せる話でもないから、全部を知っている人に話すしかなくて、それが上木さんだったんです。今、こうして話してるのも、もう何を言っているかわからないんです、ごめんなさい、そうだ、上木さん」
椅子から立ち上がって、カラーボックスの一番下に入った、バスタオルの間に挟んでいた縄を取り出す。
この部屋は、彼が用意してくれた部屋を模して整えていった。外に出た今、上司の部屋なんかを見ると、ここがいかに質素な部屋かよくわかった。
上木さんは私の行動の先が読めず、眉をひそめていた。上木さんの顔でそんな表情をすると、とても不機嫌そうに見える。
まだまだ話したいことはあるけれど、なんとなく、もうどうでもよくなった。
無性に死にたい。もしくは、誰かを殺したい気分になった。
少し前、松田さんを見かけたとき、本当に、彼が生きているかと思ってしまった。
生きているはずがないのに。首を吊った彼が、私が殺したような彼が、生きているはずはない。そうはわかっても、松田さんから目が離せなかった。
思えば三年前から、ちょっと雰囲気は似ていた。まだ彼のことをよく覚えていたから、見間違うことはなかったけれど、今は。
今はもう、彼の顔も、記憶の中の顔をしていたか、あやふやになってしまっている。
情けなくて、悔しくて、彼に申し訳なくて。
残った体中の傷が、両腕に残るリストカットのあとが、じくじくと傷んだ。
今も、彼がそれを責める声が聞こえる気がする。私を責める声が。
自分が何を考えているかわからなかった。ただ混乱した。首をつねっても効果がない。どうしようもなくなった。
何を考えて、何をしているかよくわからないまま、体が勝手に動いた。上木さんに近づく。
とっくに自分がおかしくなっていることはわかっていた。おかしくならないために上木さんに話した、それなのに。
私はいま、とても冷静に、心と頭を分離させてしまった。
ああ、確かに――確かに、私の頭は、自分がおかしいとは思っていない。
「首を絞めるのは、好きですか?」
ぼやけた頭ではしばらく何もわからなくて、ただ白い天井を見上げる。意識と呼べるようなものは、なかったようにも思える。ただ、目を開いているだけ。
やがてそこが病院であると気づき、体を鈍い痛みが襲う。自分の体が、どれだけ傷ついているか。彼は、ここにはいない。それだけ、思い出した。
なんとなく悲しくなって泣いた。少しもうれしくなかった。きっともう、彼には会えないのだと思うと、苦しかった。
声を押し殺して泣き続けた。泣いてどうにかなるわけでも、泣く権利もないとはわかっているのに、止まらない。みっともなく涙は出てきて、このまま死んでしまいたいと思った。
様子を見に来た看護師が、起き上がれないまま手で顔を隠して泣いている私に驚いて、駆け寄ってきた。どうかしましたかと、彼とは違う人の声を聞いた。彼の声とは少しも似ていなくて、体の痛みが増した気がした。
私の意識はとても不安定だった。看護師がナースコールを押し、目が覚めた、医者を呼んでほしい、と言っているのを聞きながら、急に眠たくなってしまった。おとなしくなっていく私にもう一度、彼女がどうかしましたかと問う。答えられず、私はそのまま、眠ってしまった。
それから、目を覚ましてはすぐにまた眠ってしまうような状態が長らく続いた。ある程度、起きていられるようになるまで、それなりの時間が必要だった。
私自身、起きているよりは眠っている方が楽で、逃げてしまっていたのかもしれない。眠っていれば、ここに彼がいないことを、実感せずにいられる。起きていれば、嫌でもそれを感じずにはいられない。たぶん、私は自分で、目覚めきらないことを選んでいた。
それでも、体の回復にともない、起きていられる時間は長くなっていく。
はじめはぼんやりしていた意識も、はっきりしていった。目覚めてすぐは何もわからず、何も覚えておらず、ただ彼がいない、それだけが頭を支配していたけれど、何もかもを思い出してしまった。
「あなたのお名前は?」
今日も、医者が私にそう尋ねた。起きたばかりの頃から毎回かかさずされる質問だ。
私は毎回、それに答えられない。黙って医者の目を見つめるだけ。初老の医者は、五分ほど待ってから、誰かの名前を呼んだ。
「何か喋れますか?」
これもまた、毎回のように言われることだ。そして、私はまた黙ったまま、医者の顔を見る。
頭の中にはたくさんの言葉が浮かんでいるのに、どうしてか、それを声にすることはできなかった。口を開けても、声が出ないのだ。はくはくと開閉を繰り返して、諦める。今日も、私の声は失われたままだ。
医者がまた誰かを呼んだ。私の病室に入ってきたのは背広姿の男性二人で、片方は軽薄な笑みを、もう片方は生真面目そうな顔をしている。
私が目覚めてから、何度か訪ねてきている人たちだ。私と、彼との関係を調べるために。
「こんにちは、今日の調子はどうですか? だいぶ元気そうになってきましたね」
軽薄そうな男性が、へらりと笑ってそう言った。返事ができない代わりに、上体を起こして、会釈をする。
「松田です、こっちは上木。覚えてますか?」
私が控えめに頷くと、軽薄そうな松田さんが満足そうにした。生真面目そうな上木さんは、私を鋭い目で見ている。
きっと一番私の目覚めを待っていた二人は、警察の人だ。あの家にいた、彼と、私について、調べているという。奇妙な事件でした、と言っていた。
まだ力の入りにくい手で、こっそり布団を握りしめる。体力があまりに落ちてしまったから、体を起こしていると少し辛い。顔をしかめた私に、松田さんは慌てて、寝ててください、と言ってくれた。
「くれぐれも無理はしないでください。ゆっくり、楽な体勢で。先生も言っていたでしょう、今は体を休めることが一番重要だって」
そう優しくしてくれるのは、きっとまた眠ってしまったら困るから。私がここに来てから目覚めるまで、ずいぶんと時間がかかったらしい。そのあとも、とても話ができるような状態ではなかった。だから二人は、ちょっとだけ焦っている。
この二人を前にしていると、声が出なくてよかったと思ってしまう。彼のことを頻繁に訊いてくる二人に、いい印象はない。二人とも仕事だから仕方ないのだと思っていても、私を被害者として扱うのなら、その被害者が訊かれたくないことを何度も訊くのは、やめてほしい。
第一、私と彼のこの十年は、事件とは呼んでほしくない。私を被害者として扱うのも、本当は嫌だ。
だって、そうしたら、彼が加害者ということになってしまう。それは間違いで、本当の加害者は私だ。彼が被害者と言ってもいい。
真実を知らない人たちは、好き勝手に推測して、被害者、加害者と札を貼っていく。そこに関係者の気持ちは考えられない。される配慮はむしろ私の心をえぐっていく。正しいのはどれか、わからなくなってしまう。
どろどろした何かがせりあがってきて、首を触った。ここに来て以来、首をつねるのが癖になってしまっている。
松田さんがとりとめもない話をした。この人はたぶん、人と話すのが好きで、コミュニケーション能力も高い。ただ、ちょっと他人の気持ちを考える能力は低いように感じる。私の気持ちを害してばかりだ。
もっとひどいのは、上木さんだ。初めて会ったときからずっと、なんとなく嫌な目を私に向けてくる。鋭くて、私を責めるような目をしている。本人はきっと気づいてなくて、無意識だから余計に悪い。
「今日は、事件の詳細を確認させてもらっていいですか」
「上木! まだそれは」
「もうこんなにはっきり起きてるんです、大丈夫でしょう。そうですよね」
ほとんど睨み付けるように、確認された。逃れられない圧を感じて、首をつねる力を強める。
きっと、この上木さんは、私のことを疑っている。松田さんは私を被害者と決めつけているけれど、上木さんは、私が何かを隠していると疑っているんだろう。
正しい答えを導いてほしいと思っているのに、私はまた、自分が助かることを願ってしまっている。彼が、私を隠したときのように。
「これから、私たちにわかっていることと、私たちの推論を話します。間違いがありましたら言ってください。ああ、手で止めてくだされば」
息が苦しくなる。逃れたい。私の罪を知られたくない。けれど、知ってほしい。暴いてほしい。彼と、私の、この十年を。
すべて私が悪いのだ。彼も悪いことをしたけれど、私の方が悪いことをした。だから私が悪い。
そう自覚しているのに、すべてを彼になすりつけたくなった。きっと彼は、それを望んでいる。
「まず、五か月前。警察に一本の通報がありました。『女の子を監禁している。助けてあげてほしい』。通報した男性は一方的にそういって、住所を伝え、電話を切りました」
何も反応しないように意識して、天井と見つめあう。
上木さんの好きなようにすればいい。私は、ただ、上を向く。
「警官が駆け付けると、玄関先にあなたと――首を吊った男性が。どちらも意識はなく、あなたは病院に運ばれても目を覚まさなかった。体は傷だらけでしたが、それほど致命的なものはなかったというのに」
上木さんは淡々と話す。私が、聞きたくないことも。
この人は私を苦しめたいのだろうかと疑ってしまう。仕事だからとはいえ、私はこの人たちにとって、被害者の立場にあるはずなのに。
罰なのだろうと思った。彼を、死なせてしまった罰。
あの部屋から出て、そこが私の家に組み込まれていると知った。怖くて、外に出なければと走った。逃げたかった。何が起きているのか、理解するのも嫌だった。
そして辿り着いた玄関で――彼が首を吊っていた。
「あの男性が通報したと考えられます。そしてあなたが、監禁されていた女性だということも。あの家の二階は不思議な造りになっていました。あなたは、あの部屋に監禁されていた。そうですね?」
たぶんあれは、監禁ではない。そう思うから、私は否定も肯定もしないでおく。やっぱり、天井を見つめるだけにした。
上木さんを止めるのを諦めて、松田さんも私の様子を注意深く観察している。こうなったら仕方がないとでも思ったんだろう。私の声が出ていたら、この二人を置いて出て行ってしまった医者に泣きついて、精神的ストレスを与えられたと訴えたのに。
「あなたが監禁されたのは、いつ頃からですか。そもそもあなたは――」
なんとなく、次の質問が何かわかった。
私は。
「あなたは、自分から出ようとは、しなかったんですか」
私は、自分から出ようとなんて、思いもしなかった。
出ようとしたのはつい最近のこと。それまで少しも出たいとは思わなかった。
そっちの方が、楽だったから。親を殺した事実から、逃げたかったから。
私が殺したわけではないと気がついても、私が悪いことは変わらない。けれど、彼が。彼が悪いと責められるかもしれない。そう気づいたから、外に出ようとした。
自分から出ようとせず、むしろ協力して隠れていたとなると、発見は難しくなる。彼もそう言っていた。「君が自分から隠れようとしてくれたら、もっと確実に、君を隠せるんだ」と。私はそれを信じて、なるべく外と触れ合わないようにした。
だから十年も見つからなかった。彼もきっと、外で上手く立ち回ってくれていたんだろう。彼にはそれだけの力があった。生まれついた家の仕事をあまりよく思っていなかった彼だけど、私を匿うことになってからは変わったという。笑って、あれほど嫌がっていた家業を継ぐつもりだと、私のためなら構わないと、言ってくれた。
結婚したら、よかったのかもしれない。考えてしまう。彼の願い通りに、結婚したら、私も彼も幸せだったのかもしれない、と。
そう思ったとき、上木さんが、驚くべきことを口にした。
「あなたと共にいた、あなたを監禁していた男性は、あなたの夫で間違いありませんね」
夫。
しばらく言葉の意味がわからなかった。
つまり、私と彼は結婚していたということだろうか。
上木さんは続ける。
入籍は三年前、彼は学生時代の友人に、幸せだともらしていたという。
三年前といえば、彼が私と結婚しようとしていた時期だ。
私が、そんなことは考えられないと返したから、諦めたのだと思っていた。それがプロポーズのようなものだと気づかなかった私が、彼の気持ちを知ったのは今年になってからだけど、知ってからは少し後悔していた。
幸せな想像に、私はいなかった。けれど、そこに私がいてもよかったのだと知ってしまうと、どうしても。
どうしても、後悔してしまう。
彼のことが好きだった。どうしようもなく。私を守ってくれる彼が、私を大切にしてくれる彼が。
ずっと認めないようにしていた。こんな私が、彼を好きでいることは、許されないと思っていた。もしかしたら彼が好きなのも、彼に寄生し、依存しているからなのかもしれない。そんな考えもあって、認めてしまうわけにはいかないと思っていた。
認めてしまえば、彼に甘えてしまう。それはいけない。それだけはあってはならない。
泣いてしまいそうになって、目を閉じた。悲しいのと、うれしいのと。あとは、情けないのとで、目頭が熱い。
いっそ泣いてしまおうかとも思った。そうしたら、上木さんの顔が面白いことになるかもしれない。彼を少し、馬鹿にしているというか、軽蔑しているような上木さんに、ちょっとした仕返しができるかもしれない。
きっと、彼は偽装した。私と、私の了承なく、勝手に結婚した。
それがとてもうれしい。本来なら不気味に思ったり、彼に怒ったりしなければいけないんだろう。でも、とてもうれしくて、彼にそうさせてしまった自分が情けなくて、涙を耐えられそうにない。
そして、現実になり得たはずの幸せな想像が、今、最悪な結末を迎えたことが、とても悲しい。
「……大丈夫ですか」
堪えられず、泣いてしまった私に、上木さんが少し困惑したような声でそう言った。
大丈夫ではないけれど、心配されるほどでもなかった。すべて終わった後に、私が勝手に後悔しているだけ。ただそれだけ、心配されるほどのことではない。
指輪がほしかったな、と思う。
どんな嘘を使ってでも、私に何か、記念になるようなものを残してほしかった。拒絶したのは私なのに、身勝手な願いだということはわかっている。それでも、指輪でも、なんでもいいから、結婚した証になるものがほしかった。
今ここに、彼がいないから。幸せではない。うれしいけれど、幸せではない。
彼がいなければ、私が生きている意味は、ない。
「――以上が、あのことの真実です。私にとっての」
しばらくぶりに会った上木さんは、少し老けたように見える。私の話を、あのときと変わらず生真面目そうな顔で聞いていた。
あの家から、病院に連れていかれて、目を覚まして、上木さんと松田さんと話したのも、もうずいぶんと昔に思える。
あれから、三年が過ぎた。私はもう三十になろうとしていて、声もすっかり出るようになった。
「私は彼のことが好きでした。両親を殺してもなお、好きでいてくれた彼が。私の存在を一つ残らず認めてくれたからです。私は、彼を否定してしまったけど」
「監禁だと気づいたのに、それでも、ですか」
「はい。それでも好きでした。好きだからこそ、外に出ようと思いました。彼が私の罪をすべて被るつもりだと、わかったから。それだけは阻止しなければと思いました。これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかなかったので」
今になってようやく、素直に好きと言えるようになった。
彼がいないと、時間が過ぎるのがとても遅く感じる。あの部屋に引きこもっていたときよりも、一日一日が長く感じるのだ。
長い時間を、彼のことを考えて過ごしている。考えているうちに、もう何もかもがどうでもよくなった。彼が好きだと、きっと彼も私が好きだったと、そう思うだけで幸せな気がした。
「私の両親、本当は、死んでなかったんですね。最近になって知りました。お父さんもお母さんも、私が生きているとは思っていなかったそうです。上木さん、お母さんたちに、連絡してくれてたんですよね? 私の身元、調べて。ありがとうございました。おかげで、再会できました。私が娘です、とは名乗れなかったけど」
「……何も、できませんでした」
「いいえ。私は感謝しています。お母さんのことですよね。お母さんは、私のせいで、おかしくなったんです。お母さんの中では、私はずっと十六のままなんです。ずっとあの日のまま、お母さんの時間は止まってるんです。そして、私は死んでいるんです、お母さんの中では」
「良かれと思ってやったことでした。親族を探すのも、必要な事件でしたから。ですが、あの顔を見て……自分のやっていることが、本当に正しいのか、わからなくなりました」
「警察をやめたと聞きました。もし、私の件がきっかけになっていたら、ごめんなさい」
「そういいながら、本当はいい気味だとでも思っているんでしょう?」
「それはもちろん。私、あのとき、本当にあなたのこと、嫌いでしたから」
上木さんは弱々しい笑みを浮かべた。覇気がない。声が出るようになってからずっと、いつか上木さんと言い合いをしようと思っていたのに。これでは張り合いがないじゃないか。
「上木さん、私、今はあなたのことを一番信用しています。全部、わかったんでしょう? 私と彼との間で、何が起きて、どうなったか。警察をやめて、一人でずっと調べてたんでしょう? 松田さんはすぐ諦めたのに」
生真面目そうな顔に反することなく、上木さんはとても真面目だ。一度、私に関わったら、あのことをすべて調べきってしまわないと気が済まなかったんだろう。ちょっと特殊な仕事をしている知り合いに聞いたら、警察をやめてでも、私と彼のことを、本当は何があったかを、調べていたのだという。
それだけ熱心に調べてくれたから、少しくらい優しくしてもいいかなと思った。彼の存在を知っていてくれる人が増えるのはうれしい。きっと上木さんは、本当のことを知ったら、忘れないだろう。
そう思って、隠し切ろうとしたすべてを、話すことにした。
「答え合わせの意味でも、話しました。当たってましたか?」
「細部までは、さすがに。ある程度は当たりましたが」
「そうですか。それならよかったです」
でも、本当の話は、ここから。
女の部屋に男性を不用意に呼ぶのは危険だと、上司に言われたばかりだと思い出した。急に目の前の上木さんがこの部屋にいてはいけない存在に見えてしまう。
軽く首をつねって、集中しなおす。
「ええと、十三年前になりますか。十三年前、私が両親を殺した日、本当は彼が殺しました。私はそれを見て、ろくに確認もせずに、両親は死んだものだと思いました。そして、彼が私のために殺したのだと、すぐに気がつきました。ずっと彼に親の、特にお母さんのことを話していて、彼はすごく同情してくれましたから。だから、きっとそうだと思って、彼を見ました。彼は冷たい顔をしていて、私の手を取って、縄を持たせました。『君が殺したんだよ』と、言われて、そうだと、思い込みました」
真っ直ぐに私を見る上木さんの中に、少しの好奇心を見つけた。
話していいのだと安心して、深く息を吐いた。
「思い込んではいたけど、深いところで、本当のことを忘れたことはなかったと思います。でも、疑うことこそ、彼に申し訳ない気がして。もし、二十六の誕生日に気づいていなかったら、きっと今もあの部屋で、彼と一緒にいたと思います」
きっと、彼か私か、どちらかが死ぬまで、ずっと一緒だった。
それくらい、私は彼がいれば何もかもどうでもいいと思っていた。私の寂しさを埋めてくれたのが彼だった。彼以外、いなかった。だから私の生活に彼以外の他人がいなくても困らなかった。
「もし、あれを監禁と受け入れたとして、きっと今に残るいろんな癖は、あれの後遺症とか、そういうのなのかもしれません。ほら、首。つねったあとがいっぱいあるでしょう。つねるようになったのは出てからですけど、こうしないと集中できなくなってきたんです。正直、この部屋に人を入れるのも、あまり得意じゃありませんでした。今はもう、ほとんど大丈夫ですけど、私の住む空間に彼以外の人がいるっていうのが、すごく気持ち悪くて」
しばらく自分の部屋以外の、人のいないところにいると呼吸がしづらかった。今でもときどき、言いようのない不安に駆られるときがある。
自分がおかしいのはわかっていた。わかっていたからこそ、わからなくなるのが怖い。そう素直に口にする。
ここ最近、たまに、自分が何を言っているのかわからなくなることがある。それがとても怖い。本当に頭のおかしい人は、自分がおかしいという自覚はない、と誰かが言っていた。私はまだ、自分がおかしいことを自覚しているけれど、無意識に口から言葉が飛び出すたびに、いつか、芯までおかしくなってしまうかもしれないと、恐怖した。
「上木さん、私、本当は上木さんに会いたいとは思ってませんでした。ずっと。でも、この間、町で松田さんを見かけちゃって」
「松田さんを」
「はい。そのときの松田さんが、すごく、彼に似ているような気がして。びっくりして、声をかけようかとも思ったんですけど、娘さんみたいな女の子がいたので、やめました。松田さん、ご結婚なさってたんですね」
「……松田さんに連絡を取るために、私を呼んだんですか」
「半分正解ですけど、半分違います。もうすでに、松田さんに連絡する手段は見つけてありますから。私は本当に、ただ、上木さんに話したかっただけですよ。それは本当です。自分がおかしくなるのが怖くて、上木さんなら、止めてくれるかと思って。誰かにこの話をしないといけないかと思って。話せば何か変わるんじゃないかと思いました。でもそう簡単に話せる話でもないから、全部を知っている人に話すしかなくて、それが上木さんだったんです。今、こうして話してるのも、もう何を言っているかわからないんです、ごめんなさい、そうだ、上木さん」
椅子から立ち上がって、カラーボックスの一番下に入った、バスタオルの間に挟んでいた縄を取り出す。
この部屋は、彼が用意してくれた部屋を模して整えていった。外に出た今、上司の部屋なんかを見ると、ここがいかに質素な部屋かよくわかった。
上木さんは私の行動の先が読めず、眉をひそめていた。上木さんの顔でそんな表情をすると、とても不機嫌そうに見える。
まだまだ話したいことはあるけれど、なんとなく、もうどうでもよくなった。
無性に死にたい。もしくは、誰かを殺したい気分になった。
少し前、松田さんを見かけたとき、本当に、彼が生きているかと思ってしまった。
生きているはずがないのに。首を吊った彼が、私が殺したような彼が、生きているはずはない。そうはわかっても、松田さんから目が離せなかった。
思えば三年前から、ちょっと雰囲気は似ていた。まだ彼のことをよく覚えていたから、見間違うことはなかったけれど、今は。
今はもう、彼の顔も、記憶の中の顔をしていたか、あやふやになってしまっている。
情けなくて、悔しくて、彼に申し訳なくて。
残った体中の傷が、両腕に残るリストカットのあとが、じくじくと傷んだ。
今も、彼がそれを責める声が聞こえる気がする。私を責める声が。
自分が何を考えているかわからなかった。ただ混乱した。首をつねっても効果がない。どうしようもなくなった。
何を考えて、何をしているかよくわからないまま、体が勝手に動いた。上木さんに近づく。
とっくに自分がおかしくなっていることはわかっていた。おかしくならないために上木さんに話した、それなのに。
私はいま、とても冷静に、心と頭を分離させてしまった。
ああ、確かに――確かに、私の頭は、自分がおかしいとは思っていない。
「首を絞めるのは、好きですか?」
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