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「僕の父親には、母親とは違う、一番好きな女性がいたんだ。母親にも、父親とは違う、一番好きな男性がいた。
お互い、それを承知で一緒にいた。不倫ではなかった。そもそもその想いが報われることは、一度もなかったらしいからね。
一言で表すなら、妥協。僕の父親と母親は、他に良い人がいなかったから結婚したんだ。だから、他に一番ができるのは、当然の流れでもあった。
愛情と呼べるほどのあたたかいものはなかったけど、お互い、そこそこ相手を思いやれて、家族として機能することはできた。結婚して一年で僕ができたくらいには、お互い嫌いでもなかったんだ。僕の記憶の中にも、あたたかくはなかったけど、冷たかった記憶はないよ。うん、それなりに、家族と呼べた。あれは家族だった。
両親は僕を大切にしてくれた。お互いに興味はなかったけど、お互いの関係の結果として生まれた僕のことは、しっかり育てようとしてくれたんだ。彼らは悪い人たちではなかったからね。むしろ、根っからの善人だった。反社会的な職に就いているのにね。
僕も二人のことは大好きだった。他の家庭に比べたら足りないものは多かったけど、僕にとっては大切だったから。
それが変わったのが、僕が八歳くらいのときかな。両親に、それぞれ好きな人ができたんだ。
特に大きく何かが変わったわけじゃなかった。相変わらずあたたかくなかった。でも、両親がお互いの好きな人の話をするようになったんだ。
おかしいこと、なのかもしれないね。でも僕は変には思わなかったよ。僕ですら、両親は好き合っていないってわかってたから。むしろ嬉しかった。どうであれ、以前より両親は仲良くなったんだ。
妥協の末の結婚は、とても合理的な仕組みになっていた。婚前の取り決めの中の、『嘘は吐かず、家庭に影響を与えるようなことは必ず話す』という項目に逆らわず、彼らはお互いに好きな人ができたことを話した。
他に話せる人はいないからね。外に話したとたん、不倫に発展するのではと指摘されてしまう可能性がある。離婚するつもりはなかったから、それは不都合だったんだ。
会話が増えたことで、比べられないほどにお互いへの愛情は深まった。それは恋愛とはいかないけど、家族への愛情そのものだった。
それだけでも僕は嬉しかった。でも、本当の幸せは、この一年後に訪れた。
父親の一番好きな女性と、母親の一番好きな男性が結婚したんだ。
当然、二人は悲しんだ。悲しんで悲しんで悲しんで――好きでもない相手と結婚したことを初めて後悔した。
父親は悲しみを忘れるために仕事に打ち込んで、なかなか家に帰ってこなくなった。母親は逃げるところもなくて、ずうっとぼんやり壁を見つめてたなあ。懐かしいな、あれは最早、地獄だった。それくらい、家の中に絶望が満ちていた。
でもね、それでも家族の形は保っていたんだよ。どうしたって僕がいる限り、あの二人は家族でいるしかないからね。逃げられないんだ。僕がいるから。
子どもは手械足枷に他ならないと思うよ。僕という子どもがいたから、二人は家族で居続けるしかなかった。ひどい失恋をしたのに、どうしようもなく善人だったから、僕の両親は離婚を選ばなかった。
幸いだったのは、二人とも善人だった、ということ。
しばらくして、相手を思いやれるくらい立ち直った頃に、二人はまた仲良くなった。お互い、順位もつけられないくらいに気持ちがなかったのに、お互いが二番目に好きな人になった。
それはもう、仲睦まじい夫婦になった。だって、同じ境遇になったんだ。気持ちが一番わかるのは、お互いだった。わかりあえたら、歩み寄ることもできるでしょう? そこから関係が発展していくことも、ありえないことじゃない。
僕は幸せだった。これで本当に幸せな家族になれたと思った。
でも――でも、もし、これが『一番好きな人との家族』だったら?
父親が一番好きな女性と結婚していて、母親が一番好きな男性と結婚していたら、そこに僕はいなかったとしても、二人はもっともっと、今より何倍も幸せだったんじゃないか?」
頭の中で彼の声が響いている。
その声が引き起こした鈍痛で目を覚ました。ずっと、何か彼の話を聞いていたような気がしたけど、部屋に彼の姿はない。
とにかく水が飲みたくて、立ち上がろうとして、気付く。私はいつの間に、床の上で寝ていたんだろう。
ベッドから転げ落ちたのかもしれないと思ったけど、すぐに違うとわかった。
そもそも、ベッドがなくなっていた。
いつの間に。どうして。
頭に冷水をかけられたみたいだった。息が苦しくなる。
よく部屋を見回してみたら、折り畳みの机もなくなっている。本棚も。
それだけじゃない。食器棚もなかった。コップが一つだけ、シンクの上に置かれている。コンロも取り外されている。
冷蔵庫も、レンジも、トースターも、調理器具に至るまで、部屋の中のほとんどの物がなくなっていた。
残っているのは、壁掛け時計と、あるべきではないあのカーテンレールだけ。
どうしてなくなっているのかは、見当もつかない。私が気を失って、目を覚ますまでの間に、何があったんだろう。
持ち去るとしたら、彼。彼以外にはありえない。でも、どうして。
物のなくなってしまった部屋の中で、何も考えられなくなる。
ふと、体中が痛みはじめた。鈍い、耐えられないほどではない痛み。どこかにぶつけてしまったあとのような痛みに、切り傷を作ってしまったときの痛み、皮膚が何かにこすれてしまったときの痛みも。とにかくいろんな痛みが私を襲った。
あわてて両手を見てみると、手首にたくさんの切り傷があった。昔、どこかで見た、リストカットのあとに似ている。それそのものと断定すらできるそれは、治りかけているけれど、グロテスクで、気持ち悪い。
体を見れば、たくさんの傷があった。強くぶつけたようなものから、手首のように切りつけたあとまで。紫に変色した肌に、流れた血が固まっている。
数日はお風呂に入っていないような汚れ具合に驚いた。洗面台の鏡を覗けば、首にはいくつか絞めたあとがあったし、顔もはれている。右目なんか特にはれていて、ああ、だからちょっと視界が狭い気がしたんだなと、のんきに思ってしまった。
「はは……なんだこれ」
出した声もひどくかすれていて、なんだか笑えてきた。喉痛いな、でも笑いが止まらない。声にならない、息を吐いているだけの笑い声。それがまたおかしくて、笑った。
私の知らないところで何かが起きている。それは何か。わからないけど、よくないことだということだけはわかった。
このままだと、きっと。きっと私は、死んでしまう。
「出たい……」
外に出たい。声に出したら、それは急激に大きく膨らんで、それ以外のことは考えられなくなる。
出たい。ここから出たい。この部屋から逃げ出したい。
でも、出たら? 出たらどうする。どこに行けばいい。私の家はもうどこにもない。ここが私の場所で、ここから出てしまえば、私の帰る場所なんてない。だけど、それでも。
それでも、ここから出よう。
ここはおかしい。私は、ここにいては、いけない。
そう信じた。信じなければ勇気が出なかった。私はここにいてはいけない。ここにいてはいけない人間で、外にきっと、私を必要としてくれる場所がある。――彼のそばでなくとも、きっと。
「だいじょうぶ、出られる。外に、いける」
声がからっぽな部屋に響いて、私の耳に戻ってくる。ここに私がいるということを、確かめる。
正しいか間違っているかもわからない。玄関に、ゆっくりと近づく。十年も引きこもっていたんだから、頭がおかしくなっていても仕方がない。鍵をあけて、深く息を吸う。だから、大丈夫。ドアノブに手をかける。
私はきっと、間違ってない。だって、もともと間違っていたから。
――ドアを、押す。
結果から言えば、外には出られなかった。
そのときちょうど、外から彼がドアを開けようとしていたのだ。私がドアを押すのと、彼が引くのとは同時だった。
「今日は、出ようとしたの?」
向かい合って座る。いつもと違って、テーブルも座布団もなく、私は足をのばして座った。膝を折り曲げるのは、ちょっと痛い。
前回と比べればとても穏やかな様子で、どちらかというとあきらめたような声で彼が聞く。私は少し安心して、素直に頷いた。
「そっか。それは、困っちゃうなぁ……」
彼も疲れた顔をしている。頬には絆創膏が貼られていて、腕にも、なかなか大きなガーゼが固定されている。
声すら力が入っていなくて、心配になった。どうしてかはわからないけど、私も彼も、傷だらけだ。
さっきまでの異常な高揚感はとっくになくなっていた。出られるとか出られないとか、そんなことは頭からすっぽり抜けてしまって、ただ体が重たい。マラソンを全力で走り切ったあとみたいに、体がだるくて、地面にのめりこみそうなくらいに重たくて、口の中が血の味で満たされている。そういえば、マラソンのあとの、あの血の味は一体なんだろう。この部屋で十年を過ごさず、普通に教育を受けて生きていたら、その正体がわかったんだろうか。
「君はね、僕の一番好きな人なんだ」
「いちばん、すきなひと」
「そう。世界で一番好きな人」
君を守りたかっただけ、だったのにな。
そう言った彼は疲れ切っていた。今すぐにでも空気に溶けて消えてしまいそうだった。思わず彼の手を握る。ひんやり冷たくて、私の熱を分け与えたくなる。両手でぎゅっと握る。
でも、私と彼との間には、何かへだたりがあるようで、あたたまることはなかった。彼は冷え切っていた。
「一番好きな人と、一番幸せになるつもりだった、それだけなのに、ね」
冷やしたのは私だ。彼は私を匿って、守ろうとしてくれた。それなのに、私がそれを受け取れるだけ受け取って、見返りを渡すことなく勝手に出ていこうとした。
十年前と同じ。結局、私が悪いのだ。私が、自分勝手な被害妄想で、ひとの善意を踏みにじったから。
「自覚はね、あったよ。酷いよね、君のためだって言っておいて、結局は自分のためだったんだ」
ああ、ひどい。ひどいな。私が。
私が一番ひどい。私が、私の愚かさが、一番ひどい。
もう自分が何を考えているかわからなくなっていた。とにかく自分が悪いのだと思う。きっとそうだ。
私が悪い。私がいなければ。その二つが、頭の中を埋め尽くす。その二つに納得させられる。だから、やっぱり――やっぱり私は、死んだ方がよかったんだ。十年前の、あの日に。
お互い、それを承知で一緒にいた。不倫ではなかった。そもそもその想いが報われることは、一度もなかったらしいからね。
一言で表すなら、妥協。僕の父親と母親は、他に良い人がいなかったから結婚したんだ。だから、他に一番ができるのは、当然の流れでもあった。
愛情と呼べるほどのあたたかいものはなかったけど、お互い、そこそこ相手を思いやれて、家族として機能することはできた。結婚して一年で僕ができたくらいには、お互い嫌いでもなかったんだ。僕の記憶の中にも、あたたかくはなかったけど、冷たかった記憶はないよ。うん、それなりに、家族と呼べた。あれは家族だった。
両親は僕を大切にしてくれた。お互いに興味はなかったけど、お互いの関係の結果として生まれた僕のことは、しっかり育てようとしてくれたんだ。彼らは悪い人たちではなかったからね。むしろ、根っからの善人だった。反社会的な職に就いているのにね。
僕も二人のことは大好きだった。他の家庭に比べたら足りないものは多かったけど、僕にとっては大切だったから。
それが変わったのが、僕が八歳くらいのときかな。両親に、それぞれ好きな人ができたんだ。
特に大きく何かが変わったわけじゃなかった。相変わらずあたたかくなかった。でも、両親がお互いの好きな人の話をするようになったんだ。
おかしいこと、なのかもしれないね。でも僕は変には思わなかったよ。僕ですら、両親は好き合っていないってわかってたから。むしろ嬉しかった。どうであれ、以前より両親は仲良くなったんだ。
妥協の末の結婚は、とても合理的な仕組みになっていた。婚前の取り決めの中の、『嘘は吐かず、家庭に影響を与えるようなことは必ず話す』という項目に逆らわず、彼らはお互いに好きな人ができたことを話した。
他に話せる人はいないからね。外に話したとたん、不倫に発展するのではと指摘されてしまう可能性がある。離婚するつもりはなかったから、それは不都合だったんだ。
会話が増えたことで、比べられないほどにお互いへの愛情は深まった。それは恋愛とはいかないけど、家族への愛情そのものだった。
それだけでも僕は嬉しかった。でも、本当の幸せは、この一年後に訪れた。
父親の一番好きな女性と、母親の一番好きな男性が結婚したんだ。
当然、二人は悲しんだ。悲しんで悲しんで悲しんで――好きでもない相手と結婚したことを初めて後悔した。
父親は悲しみを忘れるために仕事に打ち込んで、なかなか家に帰ってこなくなった。母親は逃げるところもなくて、ずうっとぼんやり壁を見つめてたなあ。懐かしいな、あれは最早、地獄だった。それくらい、家の中に絶望が満ちていた。
でもね、それでも家族の形は保っていたんだよ。どうしたって僕がいる限り、あの二人は家族でいるしかないからね。逃げられないんだ。僕がいるから。
子どもは手械足枷に他ならないと思うよ。僕という子どもがいたから、二人は家族で居続けるしかなかった。ひどい失恋をしたのに、どうしようもなく善人だったから、僕の両親は離婚を選ばなかった。
幸いだったのは、二人とも善人だった、ということ。
しばらくして、相手を思いやれるくらい立ち直った頃に、二人はまた仲良くなった。お互い、順位もつけられないくらいに気持ちがなかったのに、お互いが二番目に好きな人になった。
それはもう、仲睦まじい夫婦になった。だって、同じ境遇になったんだ。気持ちが一番わかるのは、お互いだった。わかりあえたら、歩み寄ることもできるでしょう? そこから関係が発展していくことも、ありえないことじゃない。
僕は幸せだった。これで本当に幸せな家族になれたと思った。
でも――でも、もし、これが『一番好きな人との家族』だったら?
父親が一番好きな女性と結婚していて、母親が一番好きな男性と結婚していたら、そこに僕はいなかったとしても、二人はもっともっと、今より何倍も幸せだったんじゃないか?」
頭の中で彼の声が響いている。
その声が引き起こした鈍痛で目を覚ました。ずっと、何か彼の話を聞いていたような気がしたけど、部屋に彼の姿はない。
とにかく水が飲みたくて、立ち上がろうとして、気付く。私はいつの間に、床の上で寝ていたんだろう。
ベッドから転げ落ちたのかもしれないと思ったけど、すぐに違うとわかった。
そもそも、ベッドがなくなっていた。
いつの間に。どうして。
頭に冷水をかけられたみたいだった。息が苦しくなる。
よく部屋を見回してみたら、折り畳みの机もなくなっている。本棚も。
それだけじゃない。食器棚もなかった。コップが一つだけ、シンクの上に置かれている。コンロも取り外されている。
冷蔵庫も、レンジも、トースターも、調理器具に至るまで、部屋の中のほとんどの物がなくなっていた。
残っているのは、壁掛け時計と、あるべきではないあのカーテンレールだけ。
どうしてなくなっているのかは、見当もつかない。私が気を失って、目を覚ますまでの間に、何があったんだろう。
持ち去るとしたら、彼。彼以外にはありえない。でも、どうして。
物のなくなってしまった部屋の中で、何も考えられなくなる。
ふと、体中が痛みはじめた。鈍い、耐えられないほどではない痛み。どこかにぶつけてしまったあとのような痛みに、切り傷を作ってしまったときの痛み、皮膚が何かにこすれてしまったときの痛みも。とにかくいろんな痛みが私を襲った。
あわてて両手を見てみると、手首にたくさんの切り傷があった。昔、どこかで見た、リストカットのあとに似ている。それそのものと断定すらできるそれは、治りかけているけれど、グロテスクで、気持ち悪い。
体を見れば、たくさんの傷があった。強くぶつけたようなものから、手首のように切りつけたあとまで。紫に変色した肌に、流れた血が固まっている。
数日はお風呂に入っていないような汚れ具合に驚いた。洗面台の鏡を覗けば、首にはいくつか絞めたあとがあったし、顔もはれている。右目なんか特にはれていて、ああ、だからちょっと視界が狭い気がしたんだなと、のんきに思ってしまった。
「はは……なんだこれ」
出した声もひどくかすれていて、なんだか笑えてきた。喉痛いな、でも笑いが止まらない。声にならない、息を吐いているだけの笑い声。それがまたおかしくて、笑った。
私の知らないところで何かが起きている。それは何か。わからないけど、よくないことだということだけはわかった。
このままだと、きっと。きっと私は、死んでしまう。
「出たい……」
外に出たい。声に出したら、それは急激に大きく膨らんで、それ以外のことは考えられなくなる。
出たい。ここから出たい。この部屋から逃げ出したい。
でも、出たら? 出たらどうする。どこに行けばいい。私の家はもうどこにもない。ここが私の場所で、ここから出てしまえば、私の帰る場所なんてない。だけど、それでも。
それでも、ここから出よう。
ここはおかしい。私は、ここにいては、いけない。
そう信じた。信じなければ勇気が出なかった。私はここにいてはいけない。ここにいてはいけない人間で、外にきっと、私を必要としてくれる場所がある。――彼のそばでなくとも、きっと。
「だいじょうぶ、出られる。外に、いける」
声がからっぽな部屋に響いて、私の耳に戻ってくる。ここに私がいるということを、確かめる。
正しいか間違っているかもわからない。玄関に、ゆっくりと近づく。十年も引きこもっていたんだから、頭がおかしくなっていても仕方がない。鍵をあけて、深く息を吸う。だから、大丈夫。ドアノブに手をかける。
私はきっと、間違ってない。だって、もともと間違っていたから。
――ドアを、押す。
結果から言えば、外には出られなかった。
そのときちょうど、外から彼がドアを開けようとしていたのだ。私がドアを押すのと、彼が引くのとは同時だった。
「今日は、出ようとしたの?」
向かい合って座る。いつもと違って、テーブルも座布団もなく、私は足をのばして座った。膝を折り曲げるのは、ちょっと痛い。
前回と比べればとても穏やかな様子で、どちらかというとあきらめたような声で彼が聞く。私は少し安心して、素直に頷いた。
「そっか。それは、困っちゃうなぁ……」
彼も疲れた顔をしている。頬には絆創膏が貼られていて、腕にも、なかなか大きなガーゼが固定されている。
声すら力が入っていなくて、心配になった。どうしてかはわからないけど、私も彼も、傷だらけだ。
さっきまでの異常な高揚感はとっくになくなっていた。出られるとか出られないとか、そんなことは頭からすっぽり抜けてしまって、ただ体が重たい。マラソンを全力で走り切ったあとみたいに、体がだるくて、地面にのめりこみそうなくらいに重たくて、口の中が血の味で満たされている。そういえば、マラソンのあとの、あの血の味は一体なんだろう。この部屋で十年を過ごさず、普通に教育を受けて生きていたら、その正体がわかったんだろうか。
「君はね、僕の一番好きな人なんだ」
「いちばん、すきなひと」
「そう。世界で一番好きな人」
君を守りたかっただけ、だったのにな。
そう言った彼は疲れ切っていた。今すぐにでも空気に溶けて消えてしまいそうだった。思わず彼の手を握る。ひんやり冷たくて、私の熱を分け与えたくなる。両手でぎゅっと握る。
でも、私と彼との間には、何かへだたりがあるようで、あたたまることはなかった。彼は冷え切っていた。
「一番好きな人と、一番幸せになるつもりだった、それだけなのに、ね」
冷やしたのは私だ。彼は私を匿って、守ろうとしてくれた。それなのに、私がそれを受け取れるだけ受け取って、見返りを渡すことなく勝手に出ていこうとした。
十年前と同じ。結局、私が悪いのだ。私が、自分勝手な被害妄想で、ひとの善意を踏みにじったから。
「自覚はね、あったよ。酷いよね、君のためだって言っておいて、結局は自分のためだったんだ」
ああ、ひどい。ひどいな。私が。
私が一番ひどい。私が、私の愚かさが、一番ひどい。
もう自分が何を考えているかわからなくなっていた。とにかく自分が悪いのだと思う。きっとそうだ。
私が悪い。私がいなければ。その二つが、頭の中を埋め尽くす。その二つに納得させられる。だから、やっぱり――やっぱり私は、死んだ方がよかったんだ。十年前の、あの日に。
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