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6.不条理エロティシズム【side.B】

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 いたずらするつもりじゃなかった。
 ただ彼に何か言ってあげたかったんだ。
 誰よりも朗らかだった彼が、まるで笑わなくなったのが今から一ヶ月くらい前のこと。
 理由は分かっている。彼が付き合っていた女の子が、事故で突然亡くなってしまったからだ。
 彼がどれだけ彼女を大切に想ってきたのか、僕は知っている。
 たぶん、同じクラスの誰よりも。
 だって、僕は彼を見つめてきたから。
 いつだってずっと見つめてきたから。
 最初は、たぶん励ましたかったんだと思う。
 なにか一言、言ってあげたかったんだと思う。
 けれども、僕たちはたいして親しいわけでもなくて、ただ一方的に僕が彼を見つめているだけで──
 だから、以前偶然にも聞き出すことのできた彼の携帯番号に電話をするのは、ものすごく勇気がいった。
 それでも、どうしても何か言ってあげたかったから──僕は思いきって受話器を手に取ったんだ。
 呼び出し音が、鳴り出した。
 高鳴る心臓を押さえつけながら、僕は何度も何度も深呼吸していた。
 それなのに、電話に出た彼は、開口一番こう言ったのだ。

「あゆみ!?」

 どうして彼がそう言ったのか、僕には未だに分からない。
 ただ、その予想外の一言が、それまで伝えようとしていた僕の言葉のすべてを奪ってしまったのは、どうしようもない事実だ。
 結局、僕はそのまま黙り込み、ただ彼の落胆したようなため息を耳にすることしかできなかった。
 いつだってそうだ。
 僕は、意気地がない。
 どうしようもなく意気地がない。

 そのくせ、僕は彼に電話することをやめられなかった。
 早いときは午後6時くらい。
 遅いときでも、午後10時には彼はいったん自分の部屋へと足を踏み入れる。
 どうして分かるかって?
 なんてことはない。僕の家は、彼の家ととても近い距離にあるのだ。

 窓辺に人が立つ。その影を見て、彼かどうかを判断する。
 今日こそは話したい。
 今日こそは声をかけてあげたい。たった一言だけでも。
 ずっとそう思って、そのつもりで受話器を取ってきた。なけなしの勇気を振り絞って、呼び出し音に胸を高鳴らせて。
 でも、やっぱり声は出てこない。
 呼び出し音が途切れ、受話器の向こうから彼のくぐもった「もしもし」という声を聞くたびに、それまで何とか奮い立たせてきた気持ちが、いつも一気に萎んでしまうのだ。
 いっそ電話に出てくれなければ──そう思ったこともある。
 自分からかけておいて、こんなことを言うのも何だけど「いっそ無視してくれればいいのに」と思ったことが何度もあった。
 僕の家の電話は、父の仕事の都合上、非通知設定にされているはずだ。だから、彼のスマホには「ユーザー非通知」の文字が出ているはずなのだ。
 それなのに彼はいつも電話に出る。
 くぐもった「もしもし」という声を、聞かせてくれる。
 でも、それ以上はない。
 僕がいつも何も話せないから、通話はそこで切れてしまうのだ。
 ダメな僕。
 情けない僕。
 それなのに「今日こそは……今日こそは……」と心を奮い立たせているうちに、軟弱な僕の心はいつのまにか丁のいい妥協点を見つけてしまったのだ。

「話せなくても、彼の声が聞ければ、それだけでいい」

 こんな自分を、悲しく思う。
 こんな情けない自分は……彼にとって、おそらく「迷惑」以外の何ものでもない電話をかけ続けている自分は、いつしかそれなりの天罰を食らうのかもしれない。

 それなりの、天罰を──

   ◇◆◇◆◇

 その日、どういうわけか彼は、電話をすぐに切らなかった。
 無言のまま、ずっと回線をつなぎっぱなしにしていたのだ。
 当然のことながら、僕はおおいに戸惑った。
 こんなことをされたのは初めてで、でも自分から切るのは躊躇われて──
(彼は、スマホのそばにいるのだろうか)
 それとも、回線を繋いだまま、そのへんに放置しているだけなのだろうか。
 受話器を握りしめたまま、僕は頭をめぐらせる。
 耳をすませば、彼のちょっとした息づかいが聞こえてくる。
 あるいは、動いたときの物音。何かにぶつかったような音。
 部屋のカーテンをあけて、窓からそれとなく彼の部屋をうかがった。この近辺のマンションは、うちと彼の住んでいるところだけだから、視界を遮る障害物は何もない。
(部屋にいる……)
 大きなサッシ窓に寄りかかる人影──間違いない、あれは「彼」だ。
(じゃあ、やっぱりスマホのそばにいる?)
 と、僕の背後から着信メロディーが鳴り響いた。
 それを契機に『スマホ? 着信?』と再び彼の声が聞こえてきた。
(どうしよう)
 彼が話しかけてきた!
 どうしよう……どうしよう!?
 うろたえているうちに、着信メロディーはプツリと切れた。
 ああ、また返答しそびれた。
 せっかくの機会だったのに。
 今度こそ、彼は通話を切ってしまうに違いない──そう思ったのに、受話器から『なぁ』とまた声が聞こえてきた。
『お前さぁ。好きな子っている?』
 ああ、大好きな、かすれ気味でやや甘めの声。
『その子にさぁ、触ってみたことって、ある? 思いきり抱きしめたりぐちゃぐちゃにしたり、口づけてみたり──そういうの、してみたことある?』

   ◇◆◇◆◇

『俺さぁ、付き合ってる子がいたのよ。ホント、すっげぇ可愛くてさ。肩とか華奢で、髪とかもうサラッサラで。入学したときから、好きだったわけよ。もう、告白すんのに半年かかったくらい』

 ものすごい勢いで話し始めた彼に、僕はただ圧倒されていた。

『でさ、なんかもう、あんまり好きすぎて、どうしていいか分からなかったわけよ。付き合ってからも、キス……くらいはできても、それ以上ってなかなかできなくてさ。ホントはさ、すっげぇ触りたくてさ。もう夢のなかでちょっとおかしくなるくらいいろんなことしてさ』

 その言葉に、胸がチリリと痛む。
 彼の唇の感触を知っている「彼女」に、どうしようもない嫉妬を覚える。

『すっげぇの。もう身体中べたべた触ってるの。首とか鎖骨とか、腹とか太股とか。色とか白くて、すべすべで、何度も脇腹とか、そのへんをこう撫でてんの』

 彼の手を思い出す。
 日に焼けた、大きな手。
 形のいい指の関節。
 そのまま僕は、目を閉じる。
 その手が──自分に触れてくれることを、ただどうしようもなく想像する。

『足とか、もちろん内股とか。胸なんて何回触ったかなぁ……なんか、こうよく分からないんだけど、やわらかいんだろうなぁとか、そういう感覚だけあってさぁ』

 彼の手が、胸に触れてくる。
 優しい動き──熱を帯びたてのひら。

『いろんなとこ、もう探り当てるように触ってさ。耳たぶとかにもキスしてさぁ。ときどき、歯とかたてちゃうの。すごくねぇ?』

 彼のてのひらの感触を想う。
 耳たぶにたてられた歯の硬さを想う。
 吐息を想う。
 密着した、肌の熱さを想う。

 彼──
 誰よりも朗らかで、僕とは違ってみんなに慕われていて、どんな人の輪の中でもまんなかにいて──
 そんな彼。
 焦がれて焦がれて、ただ焦がれるばかりだった彼のその肌の熱さに、僕はどうしようもない目眩を覚える。
(ああ)
 どうすればいいんだろう。
 どうしたらいいんだろう。
 どうしたら、僕は、この熱を──
『でもさぁ』
 ふいに、自嘲まじりの声が届いた。
『現実には何もできねぇの。いざ目の前に立たれると、もうどうしていいか分からないわけよ』
 僕は、ゆっくり目を開けた。
『嫌われたらヤバイだろ、とか。傷つけたらヤバイだろ、とか。つまんねーこと考えるのな、いろいろさ』
 それは、僕の知っている「彼」ではなかった。
 むしろ、まるで意気地なしな「僕」にそっくりだ。
(嘘だ)
 彼が、そんな弱い人間だとは思えない。
 僕とは真逆にいるような彼が、そんなことを思っているなんて信じられない。
 でも、心のどこかで、もう一人の僕が言っている。
(それだけ、彼女のことが好きだったんだ)
 僕が毎日受話器を持ちながら、喉元で言葉をつまらせていたように。
 彼も伸ばしかけていた手をさまよわせるだけで、どうにもできず、そっと引っ込めていたことがあったのだ──と。

分かるか? 分かるか?
それだけ好きだったんだよ、彼女のことが。

 僕は、静かに受話器を置いた。
 そうして、くすぶる熱を全身に抱えたまま、ベッドにもぐりこんで身体を丸めた。
 彼はこれからどうするのだろう。
 僕はどうすればいいのだろう。
 僕や、僕のこの想いは──

   ◇◆◇◆◇

 翌日、学校にいくと彼はいつもどおり友達と雑談をかわしていた。
 昨日と変わったところは特にない。
 そのことに僕は、ホッとしたような、残念なような気持ちになった。
(夢だったのかもしれない)
 ちょっとした夢。
 空想の産物。
 だから僕も、いつもどおりにふるまう。
 自分の座席の周辺の人と少し話しながら、今日最初の授業の教科書が机のなかに入っているかどうかを確かめる。
 耳をすませば、教室のあちらこちらからざわざわと人の話し声が聞こえてきた。
「課題やってきた?」
「いちおうね。でも、分からないところ多くて」
「うち、予備校の試験あってさ」
「テレビみた?」
「あれはマズイでしょ」
「結婚したんだって、あの女優」
「そういえば、昨日さぁ」
「バイト怠いー。いきたくなーい」
「だから、今夜さぁ。ちょっと表参道で集まろうって──」
 ふいに、ロッカーのなかからスマホの着信メロディーが響いてきた。
 和音で流れる、プロコル・ハルムの曲。
 聞き覚えのありすぎるそれに、僕は慌てて立ちあがった。
「ケータイ鳴ってるよー。誰の?」
「ごめん、僕の」
 どうやら、マナーモードに切り替えるのを忘れていたようだ。
 慌ててロッカーに駆けつけたけれど、扉をあけて鞄を取り出したときには、すでに着信メロディーは切れていた。それでも念のために取り出して、誰からの電話なのかを確かめて──
(なんだ、母さんか)
 少しガッカリしたような気持ちになりながら、今度は忘れずにマナーモードへと切り替える。
「それ、聞いたことある。何て曲?」
「『青い影』。プロコル・ハルムの」
「ぷろこる……?」
「洋楽だよ。けっこう古い曲だけど僕は好き」
 訊ねてきた女子に答えていると、右頬のあたりに視線を感じた。

 彼が、じっとこちらを見ていた。

 視線がからみあう。
 数十秒──いや、数秒だったかもしれない。
 明らかに彼は何か言いたげな顔をして──でも、結局は何も言うことなく、ふいと視線を逸らしてしまった。
 だから、僕も歩き出した。
 まるで何事もなかったかのように。
 僕は僕の席へと戻り、彼は彼の席から離れない。
 僕たちが近づくことは、決してない。
 あるはずがないのだ。
「いい曲だよな。サブスク入ってる?」
「どうだろう。僕はCDで持ってるけど」
 隣りの席のヤツに答えながら、僕はコツンと机に額をくっつけた。

 どうしてあの歌「青い影」っていうんだろう。
 そんな、どうでもいいようなことが、脳裏をよぎってすぐに消えていった。
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