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第7話

5・困惑(その1)

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 右のてのひらに伝わってくる、ナツさんの鼓動。ドクドクドクドクと速いそれに連動するかのように、俺の鼓動まで次第に速くなってゆく。
 なんだ、これは。なんで俺までドキドキしているんだ?
 これじゃ、まるで俺もナツさんのこと──

(いや、それはない)

 振り切るように、手を引いた。さっきまでナツさんの左胸に触れていたてのひらは、またもや汗でじっとりと湿っていた。

「とりあえず『吊り橋効果』ではない、という可能性は高い、という気がする、ということは理解しました」
「……ん? なになに、今のもう一回言って?」
「ですから、ナツさんのそれは吊り橋効果ではない、らしい、ということはわかった、ということです」

 ああ、我ながらまどろっこしい。
 当然、ナツさんも怪訝そうに首を傾げている。この表情から察するに「結局、青野は何を言いたいわけ?」といったところか。
 それでも、どうしても「それは恋ですね」と言いきりたくなかった。理由は──俺自身にもよくわからない。
 夕闇のなかで涼しげな風が吹き、ナツさんがぶるりと身体を震わせた。いい加減、屋内に入ったほうが良さそうだ。

「ナツさん、そろそろ戻りましょう。勉強の続きもしたいですし」
「え、まだ勉強するの?」
「しますよ。するでしょう、そのためにここに来たんですから」

 俺が立ち上がると、ナツさんも渋々といった様子で腰を上げた。

「やっぱりわかんないなー。そんなに勉強して何かいいことあるの?」
「そのあたりは人それぞれですが、とりあえず補習は免れますよね」
「それ! それって意味あるの?」

 ナツさんのまなじりが、キュッとつりあがった。

「補習しないためだけに勉強するの? 一番を目指すためじゃないの?」
「もちろん一番を目指す人もいるでしょうけど、俺は『補習しない』──というか『及第点をとる』ためにやっていますね」
「及第点って?」
「試験に合格するための最低限の点数のことです」

 そう答えた俺に、ナツさんは「つまんねーやつ」と舌を出した。

「オレ、そーゆー中途半端なのは嫌! やるからには一番になりたい!」
「じゃあ、がんばって一番を目指して勉強してください」
「やだ、一番とか絶対ムリ! だから、オレは最初から勉強なんてしないの!」

 また小学生のような言い訳を。
 無意識のうちに、ため息がこぼれた。

「そのあたり、ナツさんは夏樹さんと正反対ですね」

 あれは、俺と星井と夏樹さんの3人で勉強していたときのこと。「こんなに勉強してもさー、結局はそこそこの成績しかとれないんだよねー」そうボヤいた星井に、夏樹さんが苦笑いしながら言ったんだ。「成績上位にはなれなくても、努力する過程で学べることもあるんじゃねーの」と。
 あの言葉は、今でも俺の御守りだ。
 たとえ一番望んでいる結果を出せなくても、それまでの過程に意味がある──つまりは、俺の夏樹さんへの恋が成就しなくても、努力を重ねた過程には十分意味があるわけで──

「それ、本当?」

 ナツさんの髪の毛が、さらりと頬にかかった。

「本当に、こっちの『星井夏樹』は一番じゃなくてもいいって言ったの?」
「まあ、厳密には少し違いますけど、おおむねそのようなニュアンスのことを言いましたね」

 たぶん──記憶違いでなければ。言い訳めいたようにそう付け加えたのは、ナツさんの様子が少しおかしかったからだ。
 なんだろう……今の彼が、どこか苦しそうに見えるのは気のせいだろうか。

「オレは、一番がいいな」

 館内に入る手前で、ナツさんはぽつんとこぼした。

「勉強するなら一番じゃないと嫌だし、好きな人の、一番になりたい」

 これは──どう答えればいいのだろう。
 どんなに切なそうな顔をされても、俺の一番は「夏樹さん」だ。それは決して揺らがない。

「じゃあ……向こうの世界に戻ればいいんじゃないですか?」

 ようやく絞り出したのは、これまた「心ない」と叱られそうな言葉だ。

「向こうの世界に戻れば、ナツさんのことを一番好きな『青野行春』に会えるでしょう」

 俺のことを「本気で好きになった」とは言っていたけれど、気の多いこの人のことだ、向こうの青野のこともおそらくまだ好きなはずだ。
 となると、やっぱりふたりが再び入れ替わるのが、一番いいんじゃないだろうか。
 なのに、ナツさんから返ってきたのは、意外な言葉だった。

「わかんないよ」

 ──うん?

「俺が、あっちの青野の一番かどうか、そんなのわかんない」
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