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第7話

9・父と息子(その2)

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 緒形は、得体の知れないものに出くわしたような気持ちで、元父親を見た。
 まず、ぶつけられた言葉を理解するのに時間を要したし、初対面の菜穂を「菜穂ちゃん」と呼ぶ図々しさにも辟易した。
 そもそも──そもそも、だ。
 緒形は、菜穂を名前で呼んだことがない。10年前の交際中のときですら、お互いの呼び方は「三辺」「緒形くん」のままだった。緒形としては名前で呼んでみたい気持ちは多分にあったのだが、どうしても本人を前にするとうまく口にできなかったのだ。
 それなのに、目の前の男はメールのみのやりとりの時点で彼女を名前で呼び、いざこうして顔をあわせたあとも、当たり前のように「菜穂ちゃん」と口にする。

(ほんと、ふざけすぎだろ)

 ちゃんと「三辺さん」って呼べよ──そう言ってやりたかったが、口にしたが最後、間違いなく厄介なことになる。なにせ相手は、自分が三辺菜穂とよりを戻すつもりでいると決めつけているのだ。

(まあ、当たらずとも遠からずだけど)

 実はすでに断られていることなど、目の前の男に話すつもりはない。
 よって、緒形は口をつぐむことを選んだ。このまま沈黙を貫いて、答える気がないのだと察してくれることを期待した。
 けれど、自分とこの男はよほど相性が悪いらしい。

「なるほど……フラれたのか」
「……は?」
「なにも答えないってことは、そういうことだろう?」

 ふざけるな。勝手に決めつけるな。そう吐き捨ててやりたいのに、なまじ当たっているからこそ、言い返せない。
 それでも、せめてもの反抗とばかりに、緒形はぷいと顔を背けた。

「あんたに話すつもりはない」
「じゃあ、江利子には?」
「なんで母さんと恋バナしないといけないんだよ」
「たしかにな」

 何が面白いのか、元父親はカラカラと笑った。

「まあ、恋愛のことなんて親子で話さないか。俺も興味ないし」
「だったら訊くなよ」
「そのとおりなんだけど、せっかくこんなとこまで来てくれたわけだろ? だったら、父親っぽいことでもしてみようと思ったんだよ」

 我ながらびっくりなんだけど──病衣に包まれた足を揺らしながら、目の前の男はそう付け加えた。
 そのとたん、全身がぞわと粟立った。
 なぜ、今さら父親面をするのか。緒形はどうしようもない嫌悪感に包まれる。
 だからこそ、動揺していることを悟られたくなかった。
 緒形は、敢えてうっすらと笑ってみせた。

「『父親らしいこと』が『恋バナ』かよ」

 バカなんじゃねぇの、と言外に匂わせたつもりだったが、元父親はまったく動じない。それどころか「だって大事なことだろう?」と器用に片眉をあげてみせた。

「恋は人生を左右するからなぁ。げんに、俺の人生、ユキノに振りまわされてばっかりだし」

 その「ユキノ」が「雪野」でないことは、元父親の表情を見れば明らかだ。
 緒形の喉が、ぐっと震えた。もし、目の前の男が手術を控えた病人でさえなければ、間違いなく掴みかかっていたに違いない。

「だったら結婚するなよ」
「うん?」
「好きでもない女と結婚しないで、その女を想い続けて、独身を貫けば良かっただろ」

 かろうじて吐き出した緒形の恨み言に、どこまでも身勝手な男は「んー」と首を傾げた。

「そんなの寂しすぎるだろ」
「――は?」
「考えてもみろよ。長い人生ずーっと独りぼっちって、虚しくて寂しくてやりきれないだろう」
「けど……っ」
「それに、いちおう期待はしてたんだよ。江利子なら、ユキノのことを忘れさせてくれるかもしれないって。──まあ、無理だったわけだけど」

 つるりと言い放ったその声に、ためらいの色は一切ない。
 そうだ、こういう男だ。こういうろくでなしだったじゃないか、自分の父親は。
 そう認識したとたん、緒形の心はすっと落ち着いた。胸にくすぶっていたはずの怒りは消え、代わりに別の感情がふわりと浮上した。

(ああ、これはおそらく――) 

 胸の内でそう呟きかけたところで、ベッドを囲んでいたカーテンが控えめにめくられた。顔を出したのは、飲み物を買いにいっていたはずの菜穂だ。

「そろそろ時間だそうです」
「えっ、もう? 1時間くらい遅れるかもって話だったのに」

 それじゃ、いってくるか、と元父親は立ちあがった。
 そのあまりにも軽い様子に、緒形はやはり得体の知れないものを見ているような気持ちになった。
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