上 下
110 / 130
第7話

2・理由

しおりを挟む
 心を射抜くような強い眼差しに、緒形はみっともないほど狼狽えた。
 ああ、気づかれている。先ほどぶつけた言葉が、ただの勢いやなりゆきからではなく、明確な目的をもって発せられたものなのだと、菜穂はおそらく理解している。
 その上で、彼女は「受けて立つ」とばかりに、緒形の手首を掴んだのだ。この寒空の下、煮えるような熱いてのひらで。

「ごめん、悪かった」

 気づけば、するりと謝罪の言葉が滑りでていた。

「ひどいことを言った。本当にごめん」

 菜穂の丸い目に、自分が映っている。情けなくてみっともない、どうしようもない男の顔だ。
 菜穂がなにかを言いかけたところで、車のクラクションが鳴り響いた。そういえば、横断歩道を渡っている途中だったことを、今さらのように思い出す。
 慌てて駆け出し、完全に渡りきったところで、お互いどちらからともなく足を止めた。軽く息を弾ませながら隣を見ると、菜穂もまたうつむき、細い肩を静かに上下させている。
 その肩に、半ば無意識のうちに手を伸ばしかけたところで、菜穂が「じゃあ」と身体を起こした。

「手術の代理人、引き受ける?」
「……いや」
「どうしても?」
「どうして、も」

 歯切れの悪い返答に、緒形自身が驚いた。なにより即答できなかったことに、内心ひそかにうろたえた。
 いったい自分はどうしてしまったのか。この件に関する答えはひとつしかないというのに。
 動揺を誤魔化すかのように、緒形は「いや、それよりさ」と、敢えて朗らかな声をあげた。

「三辺こそ、なんでそんなにこだわんの?」
「……え?」
「俺が立会人を断ったところで、三辺には何の影響もないだろ。なのに、なんでそんなに俺に引き受けさせようとするわけ?」

 菜穂は、考え込むように視線を落とした。飾り気のない彼女のまつげを、緒形はどこかぼんやりと眺めた。
 自分から訊ねておきながら、実は緒形自身はそれほど答えを求めていたわけではない。そもそも、この問いの本当の意図は、菜穂への牽制だ。「無関係な事柄に、なぜ首をつっこむのか」──それを、遠回しに指摘しただけに過ぎない。
 けれど、菜穂は真摯に答えを探そうとしているらしい。やがて、薄い唇がためらうように言葉を発した。

「いいのかなって」
「……え?」
「せっかくお父さんに会える機会なのに、会わなくてもいいのかなって」
「いいに決まってるだろ」

 今度は、緒形も即答した。

「あんなやつの顔、二度と見たくないんだし」
「でも、言いたいことは?」

 汗ばんだてのひらが、再び緒形の左手に触れた。

「会ったら言ってやりたかったこととか、そういうの、あったりしない? これって絶好の機会だよ? 今、再会すれば、中学生だった緒形くんが言えなかったこと、言えるかもしれないんだよ?」
「べつに、そんなもの──」
「私はあったよ、そういうの。だから、高校時代の緒形くんとのこと──実は、すごく後悔してる」

 緒形は、警戒するように顎を引いた。菜穂が何を言おうとしているのか、その意図がまったく見えてこない。

「緒形くんの家に行って、いろいろあって──あのとき、本当は言いたいことがいっぱいあって。『ひどい』とか『どうして』とか、そういうこと、本当は言いたかったのに、それをぶつけるだけの勇気がなくて……結局、ぜんぶ飲み込んだ。だから、10年も引きずったんだと思ってる。あのとき、あの場で、言うべきことを伝えられなかったから」

 菜穂のてのひらに、力が込められた。

「やらなかったことに対する後悔ってずっと残るし、ひどいときは『恨み』とか『憎しみ』になるんだよ。私にとっての緒形くんが、そうだったように」
「……」
「緒形くんはどう? 心当たりはない? 緒形くんが未だにお父さんを許せないのって、やり残したことがあるからじゃないの?」

 緒形は、視線を逸らした。気づけば、口のなかがカラカラに乾いていた。
 菜穂の指摘は、おそらく間違っていない。あの雪の日にぶつけそびれた感情は、今も泥のように緒形の心に沈んでいる。
 それでも、緒形はうなずけない。つまらないプライドのせいか、あるいはくだらない反発心か。
 冷えた沈黙が漂うなか、菜穂は「わかった」とため息を洩らした。

「だったら、私が引き受ける」
「──は?」
「お父さんの手術の立会人、私が引き受けるよ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

長い片思い

詩織
恋愛
大好きな上司が結婚。 もう私の想いは届かない。 だから私は…

ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥ えっちめシーンの話には♥マークを付けています。 ミックスド★バスの第5弾です。

初めてなら、本気で喘がせてあげる

ヘロディア
恋愛
美しい彼女の初めてを奪うことになった主人公。 初めての体験に喘いでいく彼女をみて興奮が抑えられず…

お兄ちゃんが私にぐいぐいエッチな事を迫って来て困るんですけど!?

さいとう みさき
恋愛
私は琴吹(ことぶき)、高校生一年生。 私には再婚して血の繋がらない 二つ年上の兄がいる。 見た目は、まあ正直、好みなんだけど…… 「好きな人が出来た! すまんが琴吹、練習台になってくれ!!」 そう言ってお兄ちゃんは私に協力を要請するのだけど、何処で仕入れた知識だかエッチな事ばかりしてこようとする。 「お兄ちゃんのばかぁっ! 女の子にいきなりそんな事しちゃダメだってばッ!!」 はぁ、見た目は好みなのにこのバカ兄は目的の為に偏った知識で女の子に接して来ようとする。 こんなんじゃ絶対にフラれる! 仕方ない、この私がお兄ちゃんを教育してやろーじゃないの! 実はお兄ちゃん好きな義妹が奮闘する物語です。 

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

最近様子のおかしい夫と女の密会現場をおさえてやった

家紋武範
恋愛
 最近夫の行動が怪しく見える。ひょっとしたら浮気ではないかと、出掛ける後をつけてみると、そこには女がいた──。

処理中です...