103 / 130
第6話
13・「雪野」という名前(その4)
しおりを挟む
ぎしり、と軋んだ古びたソファに、緒形は居心地の悪さを覚えた。それでもこの場にとどまることを決めたのは、この時点ではまだ「父親」という存在に少なからぬ期待があったからだ。
『じゃあ……コーラで』
以前連れてきてもらったときと同じものを選ぶと、父親はちょうど通りかかった店員に「コーラひとつ追加で」と伝えた。
緒形は、ちらりと視線をあげた。父親は、紙袋を覗き込み「これこれ」と満足そうに目を細めている。
そのマフラー、そんなに気に入っていたのか……と内心意外に思いながらも、緒形は父の出方を待った。敢えて自分からあれこれ訊ねなかったのは、そんなことをしなくても何らかの説明があるだろうと信じていたからだった。
けれど、父親が緒形に話しかけようとする気配はまるでない。それどころか「存在を忘れているのでは?」と疑いたくなるほどの無関心ぶりだ。
やがて、グラスにカットレモンが添えられたコーラーが運ばれてきた。
一口口にしたところで、緒形はついに耐えきれなくなって自ら口を開いた。
『あのさ──雪山どうなるの?』
息子からの問いかけに、父親は「えっ」と目をみひらいた。
『なんだ、雪山って』
『いや、約束してたじゃん! 年末年始はスノボをしに雪山に行くって!』
緒形が前のめり気味に説明すると、父親はようやく「ああ……」と間の抜けた声を洩らした。
『いや、行くわけないだろ。あの宿、江利子の会社の福利厚生でとってるし』
江利子、という呼び方に、緒形はどきりとした。ついこの間まで、父は母のことを「母さん」と呼んでいたはずだ。
『なんで』
ようやく絞り出した声は、無様なほどかすれていた。それでも、緒形は直接確かめずにはいられなかった。
『なんで、母さんの会社でとった宿だとダメなの?』
『そんなの、離婚するからに決まってるだろ』
薄々予想していたとおりの答えだった。それでも、こうしてぶつけられると、喉のあたりがギュッと苦しくなる。
『……え、まさか江利子から聞いてないのか?』
『聞いてない。母さん、今それどころじゃないし』
『うん? どういうこと?』
緒形は、父親が帰ってこなくなってからの我が家の惨状を、できるだけ細かく説明した。母親の様子、食生活、部屋の散らかり具合──今はとにかく知ってほしかった。いかに自分が大変なことになっているのか、なんとしても父親に理解してもらいたかったのだ。
けれど、息子の説明を聞き終わった父親からの最初の一言は「へぇ」だった。その、いかにも「退屈な話でした」と言わんばかりの態度に、緒形はカッとなってソファから立ち上がった。
『いや、「へぇ」じゃなくて! 本当にうち、今、大変なんだけど!』
『でも、俺はもう部外者だからなぁ』
どこまでも他人事のようなその態度に、緒形は自分の耳を疑った。
『なんだよ、それ……違うだろ、「部外者」って』
『それが違わないんだよなぁ。俺のこと、もう家族じゃないって言ったの、江利子だし』
『……は?』
母さんが? どうしてそんなことを?
混乱する息子の前で、父親は足を組んだまま「まあ、仕方ないよなぁ」と大きく伸びをした。
『結局さぁ、俺が本気で愛せるのはユキノだけなんだよ』
ユキノ──雪野? つまり俺だけってこと?
『これでもさぁ、いちおう江利子には悪かったとは思ってるんだよ。あいつとなら、なーんかうまいこと家族になれるかなぁって思ってたしさぁ。ユキノのことも忘れられるかなって』
え、忘れる? 俺のことを? どうして?
『けど、やっぱりダメだわ。ユキノは俺がいいって言うし、俺もユキノがいい。っていうか、ユキノしか無理。それくらいのこと、お前が生まれたときに気づけば良かったんだけど』
どこか懐かしむように、父は目を細める。
緒形の全身に、ぞわりと鳥肌がたった。
──ダメだ、聞くな。これ以上は、絶対に聞いたらダメだ。
本能が強く警告してきたにも関わらず、緒形はほぼノーガードのまま決定打となる言葉で殴られた。
『でもさぁ、ロマンティックだろ。最愛の女の名前を、自分の子どもにつけるのって。江利子は「一生許さない」ってキレてたけどさぁ』
ああ──ああ、どうして聞いてしまったんだろう。
そんなこと知りたくなかった。一生、知らずにいたかった。
大雪の日に生まれたから「雪野」──そう信じていたかった。
膝の上で組んでいた手が、小さく震えている。それが怒りゆえか、嫌悪感からなのか、緒形自身にもよくわからない。
それなのに、目の前の男は、あははと楽しそうに笑っている。
(ロマンティック? なんだ、それ)
おぞましい。気持ちが悪い。
思春期まっさかりの緒形にとって、目の前の男はもはや得体の知れない化け物のようだった。
『じゃあ……コーラで』
以前連れてきてもらったときと同じものを選ぶと、父親はちょうど通りかかった店員に「コーラひとつ追加で」と伝えた。
緒形は、ちらりと視線をあげた。父親は、紙袋を覗き込み「これこれ」と満足そうに目を細めている。
そのマフラー、そんなに気に入っていたのか……と内心意外に思いながらも、緒形は父の出方を待った。敢えて自分からあれこれ訊ねなかったのは、そんなことをしなくても何らかの説明があるだろうと信じていたからだった。
けれど、父親が緒形に話しかけようとする気配はまるでない。それどころか「存在を忘れているのでは?」と疑いたくなるほどの無関心ぶりだ。
やがて、グラスにカットレモンが添えられたコーラーが運ばれてきた。
一口口にしたところで、緒形はついに耐えきれなくなって自ら口を開いた。
『あのさ──雪山どうなるの?』
息子からの問いかけに、父親は「えっ」と目をみひらいた。
『なんだ、雪山って』
『いや、約束してたじゃん! 年末年始はスノボをしに雪山に行くって!』
緒形が前のめり気味に説明すると、父親はようやく「ああ……」と間の抜けた声を洩らした。
『いや、行くわけないだろ。あの宿、江利子の会社の福利厚生でとってるし』
江利子、という呼び方に、緒形はどきりとした。ついこの間まで、父は母のことを「母さん」と呼んでいたはずだ。
『なんで』
ようやく絞り出した声は、無様なほどかすれていた。それでも、緒形は直接確かめずにはいられなかった。
『なんで、母さんの会社でとった宿だとダメなの?』
『そんなの、離婚するからに決まってるだろ』
薄々予想していたとおりの答えだった。それでも、こうしてぶつけられると、喉のあたりがギュッと苦しくなる。
『……え、まさか江利子から聞いてないのか?』
『聞いてない。母さん、今それどころじゃないし』
『うん? どういうこと?』
緒形は、父親が帰ってこなくなってからの我が家の惨状を、できるだけ細かく説明した。母親の様子、食生活、部屋の散らかり具合──今はとにかく知ってほしかった。いかに自分が大変なことになっているのか、なんとしても父親に理解してもらいたかったのだ。
けれど、息子の説明を聞き終わった父親からの最初の一言は「へぇ」だった。その、いかにも「退屈な話でした」と言わんばかりの態度に、緒形はカッとなってソファから立ち上がった。
『いや、「へぇ」じゃなくて! 本当にうち、今、大変なんだけど!』
『でも、俺はもう部外者だからなぁ』
どこまでも他人事のようなその態度に、緒形は自分の耳を疑った。
『なんだよ、それ……違うだろ、「部外者」って』
『それが違わないんだよなぁ。俺のこと、もう家族じゃないって言ったの、江利子だし』
『……は?』
母さんが? どうしてそんなことを?
混乱する息子の前で、父親は足を組んだまま「まあ、仕方ないよなぁ」と大きく伸びをした。
『結局さぁ、俺が本気で愛せるのはユキノだけなんだよ』
ユキノ──雪野? つまり俺だけってこと?
『これでもさぁ、いちおう江利子には悪かったとは思ってるんだよ。あいつとなら、なーんかうまいこと家族になれるかなぁって思ってたしさぁ。ユキノのことも忘れられるかなって』
え、忘れる? 俺のことを? どうして?
『けど、やっぱりダメだわ。ユキノは俺がいいって言うし、俺もユキノがいい。っていうか、ユキノしか無理。それくらいのこと、お前が生まれたときに気づけば良かったんだけど』
どこか懐かしむように、父は目を細める。
緒形の全身に、ぞわりと鳥肌がたった。
──ダメだ、聞くな。これ以上は、絶対に聞いたらダメだ。
本能が強く警告してきたにも関わらず、緒形はほぼノーガードのまま決定打となる言葉で殴られた。
『でもさぁ、ロマンティックだろ。最愛の女の名前を、自分の子どもにつけるのって。江利子は「一生許さない」ってキレてたけどさぁ』
ああ──ああ、どうして聞いてしまったんだろう。
そんなこと知りたくなかった。一生、知らずにいたかった。
大雪の日に生まれたから「雪野」──そう信じていたかった。
膝の上で組んでいた手が、小さく震えている。それが怒りゆえか、嫌悪感からなのか、緒形自身にもよくわからない。
それなのに、目の前の男は、あははと楽しそうに笑っている。
(ロマンティック? なんだ、それ)
おぞましい。気持ちが悪い。
思春期まっさかりの緒形にとって、目の前の男はもはや得体の知れない化け物のようだった。
0
お気に入りに追加
53
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~
taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。
お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥
えっちめシーンの話には♥マークを付けています。
ミックスド★バスの第5弾です。
社長の奴隷
星野しずく
恋愛
セクシー系の商品を販売するネットショップを経営する若手イケメン社長、茂手木寛成のもとで、大のイケメン好き藤巻美緒は仕事と称して、毎日エッチな人体実験をされていた。そんな二人だけの空間にある日、こちらもイケメン大学生である信楽誠之助がアルバイトとして入社する。ただでさえ異常な空間だった社内は、信楽が入ったことでさらに混乱を極めていくことに・・・。(途中、ごくごく軽いBL要素が入ります。念のため)
お兄ちゃんが私にぐいぐいエッチな事を迫って来て困るんですけど!?
さいとう みさき
恋愛
私は琴吹(ことぶき)、高校生一年生。
私には再婚して血の繋がらない 二つ年上の兄がいる。
見た目は、まあ正直、好みなんだけど……
「好きな人が出来た! すまんが琴吹、練習台になってくれ!!」
そう言ってお兄ちゃんは私に協力を要請するのだけど、何処で仕入れた知識だかエッチな事ばかりしてこようとする。
「お兄ちゃんのばかぁっ! 女の子にいきなりそんな事しちゃダメだってばッ!!」
はぁ、見た目は好みなのにこのバカ兄は目的の為に偏った知識で女の子に接して来ようとする。
こんなんじゃ絶対にフラれる!
仕方ない、この私がお兄ちゃんを教育してやろーじゃないの!
実はお兄ちゃん好きな義妹が奮闘する物語です。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる