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第6話

13・「雪野」という名前(その4)

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 ぎしり、と軋んだ古びたソファに、緒形は居心地の悪さを覚えた。それでもこの場にとどまることを決めたのは、この時点ではまだ「父親」という存在に少なからぬ期待があったからだ。

『じゃあ……コーラで』

 以前連れてきてもらったときと同じものを選ぶと、父親はちょうど通りかかった店員に「コーラひとつ追加で」と伝えた。
 緒形は、ちらりと視線をあげた。父親は、紙袋を覗き込み「これこれ」と満足そうに目を細めている。
 そのマフラー、そんなに気に入っていたのか……と内心意外に思いながらも、緒形は父の出方を待った。敢えて自分からあれこれ訊ねなかったのは、そんなことをしなくても何らかの説明があるだろうと信じていたからだった。
 けれど、父親が緒形に話しかけようとする気配はまるでない。それどころか「存在を忘れているのでは?」と疑いたくなるほどの無関心ぶりだ。
 やがて、グラスにカットレモンが添えられたコーラーが運ばれてきた。
 一口口にしたところで、緒形はついに耐えきれなくなって自ら口を開いた。

『あのさ──雪山どうなるの?』

 息子からの問いかけに、父親は「えっ」と目をみひらいた。

『なんだ、雪山って』
『いや、約束してたじゃん! 年末年始はスノボをしに雪山に行くって!』

 緒形が前のめり気味に説明すると、父親はようやく「ああ……」と間の抜けた声を洩らした。

『いや、行くわけないだろ。あの宿、江利子の会社の福利厚生でとってるし』

 江利子、という呼び方に、緒形はどきりとした。ついこの間まで、父は母のことを「母さん」と呼んでいたはずだ。

『なんで』

 ようやく絞り出した声は、無様なほどかすれていた。それでも、緒形は直接確かめずにはいられなかった。

『なんで、母さんの会社でとった宿だとダメなの?』
『そんなの、離婚するからに決まってるだろ』

 薄々予想していたとおりの答えだった。それでも、こうしてぶつけられると、喉のあたりがギュッと苦しくなる。

『……え、まさか江利子から聞いてないのか?』
『聞いてない。母さん、今それどころじゃないし』
『うん? どういうこと?』

 緒形は、父親が帰ってこなくなってからの我が家の惨状を、できるだけ細かく説明した。母親の様子、食生活、部屋の散らかり具合──今はとにかく知ってほしかった。いかに自分が大変なことになっているのか、なんとしても父親に理解してもらいたかったのだ。
 けれど、息子の説明を聞き終わった父親からの最初の一言は「へぇ」だった。その、いかにも「退屈な話でした」と言わんばかりの態度に、緒形はカッとなってソファから立ち上がった。

『いや、「へぇ」じゃなくて! 本当にうち、今、大変なんだけど!』
『でも、俺はもう部外者だからなぁ』

 どこまでも他人事のようなその態度に、緒形は自分の耳を疑った。

『なんだよ、それ……違うだろ、「部外者」って』
『それが違わないんだよなぁ。俺のこと、もう家族じゃないって言ったの、江利子だし』
『……は?』

 母さんが? どうしてそんなことを?
 混乱する息子の前で、父親は足を組んだまま「まあ、仕方ないよなぁ」と大きく伸びをした。

『結局さぁ、俺が本気で愛せるのはユキノだけなんだよ』

 ユキノ──雪野? つまり俺だけってこと?

『これでもさぁ、いちおう江利子には悪かったとは思ってるんだよ。あいつとなら、なーんかうまいこと家族になれるかなぁって思ってたしさぁ。ユキノのことも忘れられるかなって』

 え、忘れる? 俺のことを? どうして?

『けど、やっぱりダメだわ。ユキノは俺がいいって言うし、俺もユキノがいい。っていうか、ユキノしか無理。それくらいのこと、お前が生まれたときに気づけば良かったんだけど』

 どこか懐かしむように、父は目を細める。
 緒形の全身に、ぞわりと鳥肌がたった。
 ──ダメだ、聞くな。これ以上は、絶対に聞いたらダメだ。 
 本能が強く警告してきたにも関わらず、緒形はほぼノーガードのまま決定打となる言葉で殴られた。

『でもさぁ、ロマンティックだろ。最愛の女の名前を、自分の子どもにつけるのって。江利子は「一生許さない」ってキレてたけどさぁ』

 ああ──ああ、どうして聞いてしまったんだろう。
 そんなこと知りたくなかった。一生、知らずにいたかった。
 大雪の日に生まれたから「雪野」──そう信じていたかった。
 膝の上で組んでいた手が、小さく震えている。それが怒りゆえか、嫌悪感からなのか、緒形自身にもよくわからない。
 それなのに、目の前の男は、あははと楽しそうに笑っている。

(ロマンティック? なんだ、それ)

 おぞましい。気持ちが悪い。
 思春期まっさかりの緒形にとって、目の前の男はもはや得体の知れない化け物のようだった。
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