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第6話
9・ウィンナーコーヒー
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平日の、それも突然の緒形の誘いに、菜穂は少し考えこんだあとで「どこに?」と訊ねてきた。
「ゆっくり話ができる場所ならどこでも。カフェとか?」
「だったら、お店は私が選んでもいい?」
「もちろん」
すぐさまうなずいた緒形に、彼女は「じゃあ、おしゃれなカフェにしようかな」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
けれど、実際に菜穂が選んだのは、裏通り沿いにある営業マン御用達の喫茶店だった。山手線内に多いチェーン店だが、飲み物1杯の値段が高めなこともあって、騒がしい学生たちの出入りが少ない。つまりは、じっくり話をするにはうってつけの店で、緒形もこれまでに何度か利用したことがあった。
「ぜんぜんおしゃれじゃないんだけど」
からかい半分でそう伝えたものの、実はひそかに胸を撫で下ろしてもいた。もし、本当におしゃれなカフェに連れていかれていたら、今頃ソワソワして落ち着かなかったに違いない。
「いいの。私のなかでウィンナーコーヒーのあるお店は『おしゃれ』なの」
「なんだよ、その基準。ていうかウィンナーコーヒーって何?」
「知らない?」
「初耳」
まさか、ソーセージ入りのコーヒーか? いや、さすがにそれはないか、と内心つっこんでいるうちに、注文したものが運ばれてきた。
「ウィンナーコーヒーのお客様は……」
菜穂が「はい」と軽く手をあげる。ことんと置かれたカップの中身はコーヒーで、その上には生クリームがのっていた。
「それがウィンナーコーヒー?」
「そうだよ。ウィーン由来のコーヒーだから『ウィンナーコーヒー』。向こうでは『アインシュペーナー』って呼ばれていて、もっとたっぷり生クリームが入っているの」
菜穂は、生クリームを溶かすことなくマグカップに唇をつける。鼻先につかないのかと気になったが、難なく飲めているあたり、だいぶ飲み慣れているのだろう。
「てっきりソーセージが入ってるのかと思った」
ぼそ、と呟くと、菜穂は「わかる」と朗らかに笑った。
「私も最初はそう思ってた。挿し絵のないシーンだったから、想像するしかなかったし」
「挿し絵?」
「昔、読んだ小説に出てきたの。たしか、主人公がウィンナーコーヒーが好きで、よく飲んでいたんだよね。でも、私にとって『ウィンナー』は『ソーセージ』だったから、勝手に『ソーセージが浮かんでいるコーヒー』を想像しちゃって。それを両親に話したら、大笑いされたっけ」
菜穂は、懐かしむように目を細めた。
「それでね、そのあと両親が、近所の喫茶店につれていってくれたの。私はまだ小学生だったからコーヒーを飲ませてもらえなくて、代わりに母が頼んだのね。そうしたら、生クリームがのったコーヒーが出てきて『ソーセージじゃない!』って、結構ショックだったりして」
へぇ、と洩らしたあいづちが、緒形の口のなかで苦く溶ける。
高校時代と変わらない。あのころから、菜穂が語る家族の話はどれも幸せに満ちたもので、当時の自分にはまぶしく映ると同時に、コンプレックスを抱く原因にもなっていた。
家族の話題がでればでるほど、彼女がまっとうな両親に育てられて、まっとうに愛されてきた人間なのだと痛感した。
それに比べて、自分の家は──そう考えるたびに、容赦なく自尊心を削られ、卑屈になったものだった。そのあたりのことも、もしかしたら緒形が土壇場で彼女を抱けなかった一因だったのかもしれない。
「それで? 話って?」
カップをテーブルに置くと、菜穂はすっと背筋をのばした。その、いかにも生真面目な姿勢もまた、高校時代とまるで変わっていない。
(これでこそ、三辺だよな)
ふ、と笑ったら、肩の力が抜けた。
緒形も同じようにカップを戻したが、そこから重たい口を開くには少しばかり時間がかかった。
「あのさ。俺が自分の名前を嫌いなこと、三辺は知ってるだろ?」
「……うん」
「その理由って、想像つく?」
緒形の問いかけに、菜穂はキュッと唇を引き結んだ。
「なんとなく……でも、間違ってるかも」
「いいよ、言ってみて」
「女性っぽい名前だからかな、って思ってた。子どものころって、そういうことがからかいの対象になるでしょ?」
「ああ……たしかにな」
菜穂が指摘したとおり、緒形も中学生くらいまでは幾度となく「雪野ちゃん」とからかわれたりした。あるいは、名前だけを見て女子だと勘違いした連中に「えっ、男なの?」と露骨にがっかりされたこともある。
「たしかに、中2くらいまではそれが一番の理由だったな」
苦笑いを浮かべる緒形の前で、菜穂は「中2?」と呟いた。
「じゃあ、今は違う理由ってこと?」
「ああ」
「どうして?」
緒形は、膝の上で指を組んだ。
「元父親の、好きな女の名前なんだ。『雪野』って」
「ゆっくり話ができる場所ならどこでも。カフェとか?」
「だったら、お店は私が選んでもいい?」
「もちろん」
すぐさまうなずいた緒形に、彼女は「じゃあ、おしゃれなカフェにしようかな」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
けれど、実際に菜穂が選んだのは、裏通り沿いにある営業マン御用達の喫茶店だった。山手線内に多いチェーン店だが、飲み物1杯の値段が高めなこともあって、騒がしい学生たちの出入りが少ない。つまりは、じっくり話をするにはうってつけの店で、緒形もこれまでに何度か利用したことがあった。
「ぜんぜんおしゃれじゃないんだけど」
からかい半分でそう伝えたものの、実はひそかに胸を撫で下ろしてもいた。もし、本当におしゃれなカフェに連れていかれていたら、今頃ソワソワして落ち着かなかったに違いない。
「いいの。私のなかでウィンナーコーヒーのあるお店は『おしゃれ』なの」
「なんだよ、その基準。ていうかウィンナーコーヒーって何?」
「知らない?」
「初耳」
まさか、ソーセージ入りのコーヒーか? いや、さすがにそれはないか、と内心つっこんでいるうちに、注文したものが運ばれてきた。
「ウィンナーコーヒーのお客様は……」
菜穂が「はい」と軽く手をあげる。ことんと置かれたカップの中身はコーヒーで、その上には生クリームがのっていた。
「それがウィンナーコーヒー?」
「そうだよ。ウィーン由来のコーヒーだから『ウィンナーコーヒー』。向こうでは『アインシュペーナー』って呼ばれていて、もっとたっぷり生クリームが入っているの」
菜穂は、生クリームを溶かすことなくマグカップに唇をつける。鼻先につかないのかと気になったが、難なく飲めているあたり、だいぶ飲み慣れているのだろう。
「てっきりソーセージが入ってるのかと思った」
ぼそ、と呟くと、菜穂は「わかる」と朗らかに笑った。
「私も最初はそう思ってた。挿し絵のないシーンだったから、想像するしかなかったし」
「挿し絵?」
「昔、読んだ小説に出てきたの。たしか、主人公がウィンナーコーヒーが好きで、よく飲んでいたんだよね。でも、私にとって『ウィンナー』は『ソーセージ』だったから、勝手に『ソーセージが浮かんでいるコーヒー』を想像しちゃって。それを両親に話したら、大笑いされたっけ」
菜穂は、懐かしむように目を細めた。
「それでね、そのあと両親が、近所の喫茶店につれていってくれたの。私はまだ小学生だったからコーヒーを飲ませてもらえなくて、代わりに母が頼んだのね。そうしたら、生クリームがのったコーヒーが出てきて『ソーセージじゃない!』って、結構ショックだったりして」
へぇ、と洩らしたあいづちが、緒形の口のなかで苦く溶ける。
高校時代と変わらない。あのころから、菜穂が語る家族の話はどれも幸せに満ちたもので、当時の自分にはまぶしく映ると同時に、コンプレックスを抱く原因にもなっていた。
家族の話題がでればでるほど、彼女がまっとうな両親に育てられて、まっとうに愛されてきた人間なのだと痛感した。
それに比べて、自分の家は──そう考えるたびに、容赦なく自尊心を削られ、卑屈になったものだった。そのあたりのことも、もしかしたら緒形が土壇場で彼女を抱けなかった一因だったのかもしれない。
「それで? 話って?」
カップをテーブルに置くと、菜穂はすっと背筋をのばした。その、いかにも生真面目な姿勢もまた、高校時代とまるで変わっていない。
(これでこそ、三辺だよな)
ふ、と笑ったら、肩の力が抜けた。
緒形も同じようにカップを戻したが、そこから重たい口を開くには少しばかり時間がかかった。
「あのさ。俺が自分の名前を嫌いなこと、三辺は知ってるだろ?」
「……うん」
「その理由って、想像つく?」
緒形の問いかけに、菜穂はキュッと唇を引き結んだ。
「なんとなく……でも、間違ってるかも」
「いいよ、言ってみて」
「女性っぽい名前だからかな、って思ってた。子どものころって、そういうことがからかいの対象になるでしょ?」
「ああ……たしかにな」
菜穂が指摘したとおり、緒形も中学生くらいまでは幾度となく「雪野ちゃん」とからかわれたりした。あるいは、名前だけを見て女子だと勘違いした連中に「えっ、男なの?」と露骨にがっかりされたこともある。
「たしかに、中2くらいまではそれが一番の理由だったな」
苦笑いを浮かべる緒形の前で、菜穂は「中2?」と呟いた。
「じゃあ、今は違う理由ってこと?」
「ああ」
「どうして?」
緒形は、膝の上で指を組んだ。
「元父親の、好きな女の名前なんだ。『雪野』って」
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