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第3話
15・「雪野」という名前
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緒形は、ビールジョッキをテーブルに戻した。
その間も今も菜穂から視線を外さなかったのは、様々な思いが脳裏をかけめぐっていたからだ。
今のどういう意味? なんでそのことを知ってる? いつから? まさか高校時代から?
(──そうだ、思い出した)
たしか、彼女は自分で気づいたのだ。緒形が、自分の「雪野」という名前を毛嫌いしていることを。
「三辺、記憶力がいいなぁ」
敢えて朗らかな笑顔を浮かべたにも関わらず、菜穂は気まずそうに身じろぎした。
「なんとなく……そうじゃなかったかなって」
ぽつんと答える目の前の菜穂が、高校時代の彼女と重なる。おかげで、当時の菜穂とのやりとりも、うっすらとだが思い出すことができた。
そう、あのとき、自分は──
「しょっちゅう女と間違えられるからなぁ、俺の名前」
こんなことを口にしたはずだ。
それに対して、彼女の反応は──
「でも、きれいな名前だよね。まるで情景が浮かぶみたい」
お世辞ではない、おそらく心からそう思っているのだろう。
加えて、高校時代の彼女は「生まれた日に雪が降っていたとか? それとも病院から真っ白な野原が見えたのかな」など、いろいろ推察してくれたものだった。
(ぜんぜん、そんなんじゃないんだけどな)
あいにく、この名前はそのような美しい理由でつけられたものではない。
そのことに緒形は10代のころから気づいていたが、これまで誰にも伝えたことがなかった。それこそ、菜穂にすらも。
だから、今回も本音を隠すように、さらに朗らかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからは名前で呼んでみる?」
答えは「イエス」でも「ノー」でも良かった。
なにせ、もういい大人だ。「名前が嫌い」などという子どもじみた理由で、恋人の要望を拒絶するつもりはない。
なのに、菜穂は怯んだような顔つきになった。
その理由を図りかねているうちに、彼女は「そうだね、考えておく」と早口で答え、通りがかった店員を呼び止めた。
「すみません、注文いいですか?」
カプレーゼ、キャロットラペ、シーザーサラダ──「ああ、女ってこういうメニュー好きだよな」というものを、菜穂は次々とオーダーしていく。
「あと『塩唐揚げ』と『マグロのカルパッチョ』と……」
「あ、これも。『枝豆のガーリック炒め』」
ふと目についたメニューを追加で頼むと、菜穂は何か言いたげにこちらを見た。
「──え、ダメ?」
「そんなことは……ないけど」
黒々とした目が、困惑したように泳ぐ。どう考えても「そんなことはない」という表情ではない。
緒形はため息を飲み込むと、店員に笑顔を向けた。
「すみません、やっぱりキャンセルで──」
「あ、いいの! いいです、そのままで」
店員が去り、再びふたりきりになったところで、緒形は「どういうこと?」と訊いてみた。
菜穂の視線が、再び泳いだ。おそらく答えたくないのだろう。それでも辛抱強く無言を貫くと、やがて観念したようなため息が届いた。
「こういうとき、男の人はにんにくとか平気なんだなって」
「えっ、だってうまいし。そりゃ、仕事中ならさすがに控えるけど」
今はプライベートだし──そう続けようとしたところで、緒形は口をつぐんだ。
いつのまにか、菜穂の表情がひどく硬いものになっていた。
「あの、忘れてないよね」
それは、蚊の鳴くような小さな声だった。
「このあと──してくれるんだよね?」
その間も今も菜穂から視線を外さなかったのは、様々な思いが脳裏をかけめぐっていたからだ。
今のどういう意味? なんでそのことを知ってる? いつから? まさか高校時代から?
(──そうだ、思い出した)
たしか、彼女は自分で気づいたのだ。緒形が、自分の「雪野」という名前を毛嫌いしていることを。
「三辺、記憶力がいいなぁ」
敢えて朗らかな笑顔を浮かべたにも関わらず、菜穂は気まずそうに身じろぎした。
「なんとなく……そうじゃなかったかなって」
ぽつんと答える目の前の菜穂が、高校時代の彼女と重なる。おかげで、当時の菜穂とのやりとりも、うっすらとだが思い出すことができた。
そう、あのとき、自分は──
「しょっちゅう女と間違えられるからなぁ、俺の名前」
こんなことを口にしたはずだ。
それに対して、彼女の反応は──
「でも、きれいな名前だよね。まるで情景が浮かぶみたい」
お世辞ではない、おそらく心からそう思っているのだろう。
加えて、高校時代の彼女は「生まれた日に雪が降っていたとか? それとも病院から真っ白な野原が見えたのかな」など、いろいろ推察してくれたものだった。
(ぜんぜん、そんなんじゃないんだけどな)
あいにく、この名前はそのような美しい理由でつけられたものではない。
そのことに緒形は10代のころから気づいていたが、これまで誰にも伝えたことがなかった。それこそ、菜穂にすらも。
だから、今回も本音を隠すように、さらに朗らかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからは名前で呼んでみる?」
答えは「イエス」でも「ノー」でも良かった。
なにせ、もういい大人だ。「名前が嫌い」などという子どもじみた理由で、恋人の要望を拒絶するつもりはない。
なのに、菜穂は怯んだような顔つきになった。
その理由を図りかねているうちに、彼女は「そうだね、考えておく」と早口で答え、通りがかった店員を呼び止めた。
「すみません、注文いいですか?」
カプレーゼ、キャロットラペ、シーザーサラダ──「ああ、女ってこういうメニュー好きだよな」というものを、菜穂は次々とオーダーしていく。
「あと『塩唐揚げ』と『マグロのカルパッチョ』と……」
「あ、これも。『枝豆のガーリック炒め』」
ふと目についたメニューを追加で頼むと、菜穂は何か言いたげにこちらを見た。
「──え、ダメ?」
「そんなことは……ないけど」
黒々とした目が、困惑したように泳ぐ。どう考えても「そんなことはない」という表情ではない。
緒形はため息を飲み込むと、店員に笑顔を向けた。
「すみません、やっぱりキャンセルで──」
「あ、いいの! いいです、そのままで」
店員が去り、再びふたりきりになったところで、緒形は「どういうこと?」と訊いてみた。
菜穂の視線が、再び泳いだ。おそらく答えたくないのだろう。それでも辛抱強く無言を貫くと、やがて観念したようなため息が届いた。
「こういうとき、男の人はにんにくとか平気なんだなって」
「えっ、だってうまいし。そりゃ、仕事中ならさすがに控えるけど」
今はプライベートだし──そう続けようとしたところで、緒形は口をつぐんだ。
いつのまにか、菜穂の表情がひどく硬いものになっていた。
「あの、忘れてないよね」
それは、蚊の鳴くような小さな声だった。
「このあと──してくれるんだよね?」
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