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第1話

14・土曜日、ハチ公前(その3)

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 頭のなかが真っ白になった。
 なぜ、こんな場所で、自分は恋人でもない男性にキスをされているのだろう。
 しかも──
 
(緒形くん、に)

 その名前を意識した瞬間、菜穂のなかにはっきりとした羞恥しゅうちと憤りが沸き起こった。
 すぐさま緒形を突き飛ばし、その頬を容赦ようしゃなく平手で叩く。
 弾けるような音が響き、緒形は短く呻き声を洩らした。かけていたメガネも無様にズレて、周囲から「うわ」とざわめきがあがる。
 それでも、菜穂の怒りはおさまらない。
 ひどい、最低、あんまりだ──そんな言葉を繰り返しながら、菜穂は何度も緒形の胸を叩いた。

「ちょっ……落ち着けって! 三辺!」

 ようやく我に返ったのは、彼の口から普段どおりの呼び名が聞こえたときだ。
 周囲には、人だかりができつつある。このままここにいれば、さらに人が集まってくるだろう。

「来て」
「えっ」
「早く! こっち!」

 緒形は、菜穂の左手を掴んで歩きだす。慌てて振りかえったその先に、すでに浜島の姿はなかった。
 スクランブル交差点を突っ切り、どこかの路地に入ったところで、ようやく緒形は足を止めた。

「焦ったぁ」

 身体の熱を逃がすように、シャツの胸元を引っ張っている。こめかみにはうっすらと汗が滲んでいたが、決して暑苦しく見えないのは彼の整った容姿のたまものだろうか。

「やば……喉渇いた。なんか飲む?」
「結構です」
「なんで敬語?」

 あまりにも気安いその口調に、菜穂は「そっちこそ」と声を荒げた。

「さっきの、あれは何? どうして?」

 なぜ、公衆の──それも、今日デートするはずだった男性の目の前で、あんな仕打ちをされなければいけないのだ。

「もしかして嫌がらせ? 私、緒形くんを怒らせるようなことをした?」
「いや、ぜんぜん」
「じゃあ、どうしてあんなひどいことを!? 説明してよ!」

 なじればなじるほど、感情が高ぶり涙がにじんでくる。
 それなのに、緒形は「うーん」と頭を掻くだけだ。

「まあ、なんとなく? たまたま三辺を見かけたから、ちょっとからかおうかなって」

 もしも今、菜穂が少しでも冷静だったなら、緒形の言い分がいろいろおかしいことに気づいたかもしれない。
 けれど、今の彼女にそんな余裕はなかった。喉元までこみあげている怒りを、なんとか飲み込むだけで精一杯だ。
 そんな菜穂の心情に気づいているのかいないのか、緒形は「そこまで怒らなくても」と肩をすくめて見せた。

「べつにどうってことないだろ、たかがキスくらい」

 菜穂は、打たれたように目の前の男を見た。

(たかがキス……「たかが」?)

 なるほど、彼は噂どおりよほど女性経験がお有りのようだ。
 だが、菜穂は違う。最後にキスをしたのは10年前──それこそ、高校時代の「目の前の男」とだ。
 あれ以来、誰ともキスをしたことはない。当然だ。誰とも遊ばず、深い関係にもならずにきたのだから。

(なのに、こんな……)

 まさか10年後、同じ男性と、こんなひどい形で再びキスをすることになるなんて。

(最悪、だ)

 悔しくてみじめで、気持ちが治まらない。
 けれども、それ以上にやりきれないのは、菜穂にこんな思いをさせた張本人に、この憤りがまるで伝わっていないことだ。

「わかった。もういいです」

 菜穂は、ようやくポケットからハンカチを取りだした。

「もういいから……二度と声をかけてこないで」
「それは無理だろ、同じ会社に勤めているのに……」
「無理じゃない。すれ違っても無視すればいいだけだもの。私はそれで問題ない」

 そもそも10年前に交際していたこと自体、ほうむり去りたい過去だったのだ。
 再会は「なかったこと」にしてしまおう。今日の出来事も、記憶の片隅に追いやって、二度と思い出さないよう封じ込めてしまおう。
 堅く決意をして、菜穂はその場を離れようとした。

「いやいや、待てって」

 なぜか、緒形が目の前に立ちふさがった。

「わかった、謝る! 謝るから!」
「謝らなくてもけっこうです」
「そうはいかないだろ、三辺めちゃくちゃ怒ってるじゃん」

 緒形は真顔でそう言い募ると、やがて「わかった」と息を吐いた。

「じゃあ、責任をとるよ」

 彼の大きな手が、菜穂の両手を捕まえた。

「三辺、俺と付き合って」
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