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第1話
7・いよいよ
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映画は、前評判どおりの素晴らしい内容だった。おかげで、館内が明るくなったあとも、しばらくの間ぼんやりと余韻に浸ってしまったくらいだ。
けれど、隣からのかすかな笑い声で、さすがの菜穂も我に返った。
「すみません」
「ううん、気持ちはわかるし。いい映画だったよなぁ」
浜島のその一言で、菜穂もホッと肩の力を抜いた。
よかった、呆れられたわけじゃない。それに、好きな作品を、同じように「いい」と言ってもらえたことが、単純に嬉しい。
その気持ちをもっと分かち合いたくて、特に身構えることもなくその後の居酒屋に付き合った。
程よくアルコールが入ったことで、さらに気分が舞い上がった。頭のなかがフワフワして、映画以外の話題にも菜穂は楽しく耳を傾けることができた。
コの字に座っていたせいか、気づけば膝頭同士がくっついていた。
内心ドキリとしたものの、それを悟られるのが恥ずかしくて、必死になんでもないふりを装った。
店員に「ラストーオーダーです」と告げられたのは、最終電車が出る30分前だ。
「どうする? 追加でデザートでも頼む?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
くっついていた膝頭が離れた。
そのことに少しホッとしながら、菜穂は鞄に手をのばした。
店を出たとたん、繁華街を走る若い男の子たちと出くわした。「やばいやばい」「マジでギリギリ」などと騒いでいるあたり、彼らも最終電車が近いのだろう。
「元気だなぁ。俺、終電間近でももうあんなふうに走れないよ」
「私もです」
「だよなぁ、ああいうのって若いヤツらの特権だよなぁ」
で、と浜島は菜穂の顔を覗き込んできた。
「このあとどうする? どこか行く?」
終電間際なのは、お互いわかっている。しかも、平日──明日は仕事だ。
菜穂は、逡巡した。もし、浜島の問いかけが「もう一軒行く?」だったら、悩むことなく返答できていたかもしれない。
けれど、現時点で行き先ははっきり告げられていない。
それをどう受け止めるべきか。「ついに」と思うべきなのか。彼の右腕に手をからめて「行きます」とうなずけばいいのか。
「もぉ、ユキノってばぁ」
その声は、不意打ちのように菜穂の耳に届いた。
「立ちなよ~、ほらぁ」
「やだぁ……立たないぃ」
友人同士らしい女性ふたりの、ありふれたやりとり。この時間帯では、決してめずらしくもない光景。
なのに、菜穂は動けなくなった。「ユキノ」という名前が聞こえただけで。あるいは、彼女たちの他愛のない会話のせいもあったのかもしれない。
「……三辺さん?」
浜島のうかがうような声音に、菜穂はすぐさま我に返った。
そうだ、返事をしなければ。昔の、それも二度と思い出したくない出来事に引きずられている場合じゃない。
「すみません、このあとですよね」
もう少しお付き合いします──そう続けるつもりでいた。少なくとも、ほんの数十秒前までは。
けれど、心が動かない。駅で待ち合わせをして以来、緩やかに積みあがっていた高揚感が、いつのまにかすっかり霧散してしまっていた。
やっぱりダメだ。
こんな気持ちでついていったら、絶対に後悔する。
「やっぱり今日は帰ります。明日も仕事ですし」
力なく答えた菜穂に、浜島は「そっかぁ」と案外軽く返してきた。
「じゃあ、駅まで急ごうか。地下鉄だっけ?」
「はい。浜島さんは……」
「俺は私鉄。この時間、めちゃくちゃ混むんだよなぁ」
これまでと変わらない彼の態度に、菜穂はひそかに胸を撫で下ろした。これで、あからさまにがっかりしたような素振りを見せられたら、せっかくの楽しかった時間がすべて台無しになってしまう。
けれど、そうはならなかった。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
「あの……よかったら、また一緒に映画観に行ってください」
別れ際、菜穂は勇気を振り絞ってそう伝えた。
正直、心臓が暴れ出しそうなほど高鳴っていた。千鶴あたりなら、この程度のことは当たり前のように言えるのかもしれないが、菜穂にとってはけっこうな冒険だ。
果たして、浜島は「うん」と微笑んだ。
「俺でよかったら、ぜひ」
これも、ありきたりな返答なのかもしれない。
それでも、菜穂は舞いあがった。帰りの電車のなかで、浜島とのメッセージアプリのやりとりを何度も読み返すくらいには。
けれど、隣からのかすかな笑い声で、さすがの菜穂も我に返った。
「すみません」
「ううん、気持ちはわかるし。いい映画だったよなぁ」
浜島のその一言で、菜穂もホッと肩の力を抜いた。
よかった、呆れられたわけじゃない。それに、好きな作品を、同じように「いい」と言ってもらえたことが、単純に嬉しい。
その気持ちをもっと分かち合いたくて、特に身構えることもなくその後の居酒屋に付き合った。
程よくアルコールが入ったことで、さらに気分が舞い上がった。頭のなかがフワフワして、映画以外の話題にも菜穂は楽しく耳を傾けることができた。
コの字に座っていたせいか、気づけば膝頭同士がくっついていた。
内心ドキリとしたものの、それを悟られるのが恥ずかしくて、必死になんでもないふりを装った。
店員に「ラストーオーダーです」と告げられたのは、最終電車が出る30分前だ。
「どうする? 追加でデザートでも頼む?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
くっついていた膝頭が離れた。
そのことに少しホッとしながら、菜穂は鞄に手をのばした。
店を出たとたん、繁華街を走る若い男の子たちと出くわした。「やばいやばい」「マジでギリギリ」などと騒いでいるあたり、彼らも最終電車が近いのだろう。
「元気だなぁ。俺、終電間近でももうあんなふうに走れないよ」
「私もです」
「だよなぁ、ああいうのって若いヤツらの特権だよなぁ」
で、と浜島は菜穂の顔を覗き込んできた。
「このあとどうする? どこか行く?」
終電間際なのは、お互いわかっている。しかも、平日──明日は仕事だ。
菜穂は、逡巡した。もし、浜島の問いかけが「もう一軒行く?」だったら、悩むことなく返答できていたかもしれない。
けれど、現時点で行き先ははっきり告げられていない。
それをどう受け止めるべきか。「ついに」と思うべきなのか。彼の右腕に手をからめて「行きます」とうなずけばいいのか。
「もぉ、ユキノってばぁ」
その声は、不意打ちのように菜穂の耳に届いた。
「立ちなよ~、ほらぁ」
「やだぁ……立たないぃ」
友人同士らしい女性ふたりの、ありふれたやりとり。この時間帯では、決してめずらしくもない光景。
なのに、菜穂は動けなくなった。「ユキノ」という名前が聞こえただけで。あるいは、彼女たちの他愛のない会話のせいもあったのかもしれない。
「……三辺さん?」
浜島のうかがうような声音に、菜穂はすぐさま我に返った。
そうだ、返事をしなければ。昔の、それも二度と思い出したくない出来事に引きずられている場合じゃない。
「すみません、このあとですよね」
もう少しお付き合いします──そう続けるつもりでいた。少なくとも、ほんの数十秒前までは。
けれど、心が動かない。駅で待ち合わせをして以来、緩やかに積みあがっていた高揚感が、いつのまにかすっかり霧散してしまっていた。
やっぱりダメだ。
こんな気持ちでついていったら、絶対に後悔する。
「やっぱり今日は帰ります。明日も仕事ですし」
力なく答えた菜穂に、浜島は「そっかぁ」と案外軽く返してきた。
「じゃあ、駅まで急ごうか。地下鉄だっけ?」
「はい。浜島さんは……」
「俺は私鉄。この時間、めちゃくちゃ混むんだよなぁ」
これまでと変わらない彼の態度に、菜穂はひそかに胸を撫で下ろした。これで、あからさまにがっかりしたような素振りを見せられたら、せっかくの楽しかった時間がすべて台無しになってしまう。
けれど、そうはならなかった。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
「あの……よかったら、また一緒に映画観に行ってください」
別れ際、菜穂は勇気を振り絞ってそう伝えた。
正直、心臓が暴れ出しそうなほど高鳴っていた。千鶴あたりなら、この程度のことは当たり前のように言えるのかもしれないが、菜穂にとってはけっこうな冒険だ。
果たして、浜島は「うん」と微笑んだ。
「俺でよかったら、ぜひ」
これも、ありきたりな返答なのかもしれない。
それでも、菜穂は舞いあがった。帰りの電車のなかで、浜島とのメッセージアプリのやりとりを何度も読み返すくらいには。
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