上 下
8 / 130
第1話

7・いよいよ

しおりを挟む
 映画は、前評判どおりの素晴らしい内容だった。おかげで、館内が明るくなったあとも、しばらくの間ぼんやりと余韻に浸ってしまったくらいだ。
 けれど、隣からのかすかな笑い声で、さすがの菜穂も我に返った。

「すみません」
「ううん、気持ちはわかるし。いい映画だったよなぁ」

 浜島のその一言で、菜穂もホッと肩の力を抜いた。
 よかった、呆れられたわけじゃない。それに、好きな作品を、同じように「いい」と言ってもらえたことが、単純に嬉しい。
 その気持ちをもっと分かち合いたくて、特に身構えることもなくその後の居酒屋に付き合った。
 程よくアルコールが入ったことで、さらに気分が舞い上がった。頭のなかがフワフワして、映画以外の話題にも菜穂は楽しく耳を傾けることができた。
 コの字に座っていたせいか、気づけば膝頭同士がくっついていた。
 内心ドキリとしたものの、それを悟られるのが恥ずかしくて、必死になんでもないふりを装った。
 店員に「ラストーオーダーです」と告げられたのは、最終電車が出る30分前だ。

「どうする? 追加でデザートでも頼む?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」

 くっついていた膝頭が離れた。
 そのことに少しホッとしながら、菜穂は鞄に手をのばした。
 店を出たとたん、繁華街を走る若い男の子たちと出くわした。「やばいやばい」「マジでギリギリ」などと騒いでいるあたり、彼らも最終電車が近いのだろう。

「元気だなぁ。俺、終電間近でももうあんなふうに走れないよ」
「私もです」
「だよなぁ、ああいうのって若いヤツらの特権だよなぁ」

 で、と浜島は菜穂の顔を覗き込んできた。

「このあとどうする? どこか行く?」

 終電間際なのは、お互いわかっている。しかも、平日──明日は仕事だ。
 菜穂は、逡巡しゅんじゅんした。もし、浜島の問いかけが「もう一軒行く?」だったら、悩むことなく返答できていたかもしれない。
 けれど、現時点で行き先ははっきり告げられていない。
 それをどう受け止めるべきか。「ついに」と思うべきなのか。彼の右腕に手をからめて「行きます」とうなずけばいいのか。

「もぉ、ユキノってばぁ」

 その声は、不意打ちのように菜穂の耳に届いた。

「立ちなよ~、ほらぁ」
「やだぁ……立たないぃ」

 友人同士らしい女性ふたりの、ありふれたやりとり。この時間帯では、決してめずらしくもない光景。
 なのに、菜穂は動けなくなった。「ユキノ」という名前が聞こえただけで。あるいは、彼女たちの他愛のない会話のせいもあったのかもしれない。

「……三辺さん?」

 浜島のうかがうような声音に、菜穂はすぐさま我に返った。
 そうだ、返事をしなければ。昔の、それも二度と思い出したくない出来事に引きずられている場合じゃない。

「すみません、このあとですよね」

 もう少しお付き合いします──そう続けるつもりでいた。少なくとも、ほんの数十秒前までは。
 けれど、心が動かない。駅で待ち合わせをして以来、緩やかに積みあがっていた高揚感が、いつのまにかすっかりさんしてしまっていた。
 やっぱりダメだ。
 こんな気持ちでついていったら、絶対に後悔する。

「やっぱり今日は帰ります。明日も仕事ですし」

 力なく答えた菜穂に、浜島は「そっかぁ」と案外軽く返してきた。

「じゃあ、駅まで急ごうか。地下鉄だっけ?」
「はい。浜島さんは……」
「俺は私鉄。この時間、めちゃくちゃ混むんだよなぁ」

 これまでと変わらない彼の態度に、菜穂はひそかに胸を撫で下ろした。これで、あからさまにがっかりしたような素振りを見せられたら、せっかくの楽しかった時間がすべて台無しになってしまう。
 けれど、そうはならなかった。
 そのことが、どうしようもなく嬉しい。

「あの……よかったら、また一緒に映画観に行ってください」

 別れ際、菜穂は勇気を振り絞ってそう伝えた。
 正直、心臓が暴れ出しそうなほど高鳴っていた。千鶴あたりなら、この程度のことは当たり前のように言えるのかもしれないが、菜穂にとってはけっこうな冒険だ。
 果たして、浜島は「うん」と微笑んだ。

「俺でよかったら、ぜひ」

 これも、ありきたりな返答なのかもしれない。
 それでも、菜穂は舞いあがった。帰りの電車のなかで、浜島とのメッセージアプリのやりとりを何度も読み返すくらいには。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

お見合いすることになりました

詩織
恋愛
34歳で独身!親戚、周りが心配しはじめて、お見合いの話がくる。 既に結婚を諦めてた理沙。 どうせ、いい人でないんでしょ?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

最後の恋って、なに?~Happy wedding?~

氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた――― ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。 それは同棲の話が出ていた矢先だった。 凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。 ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。 実は彼、厄介な事に大の女嫌いで―― 元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――

処理中です...