Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

126話

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 礼は目覚めた。目を開けたら、天井が見えた。白々とした明かりが梁の線を鮮明に見せていた。隣をみると、真っすぐに上を向いて寝ている夫がいた。それは、昨夜多くの人の手を借りて、王宮から連れ帰った夫であるが、寝返りを打つこともなく礼が添い寝をする直前の姿と何一つ変わらなかった。
 治療のために上半身は脱いだままで、左肩には白布を何重にも巻いた、痛々しい姿であった。
 本当に生きているのかしら?
礼はゆっくりと裸の夫の胸に耳をつけた。体の内側から生きている証が聞きたかったが、礼はどんなに耳を澄ましても聞こえない。
 縫が几帳の外からこちらを窺っているのが分かって、礼は声を掛けた。
「起きたわ……入ってちょうだい」
 縫が昨夜礼に被せた衾とは対照的に、実言の衾には何の乱れもなった。
「実言様……」
 縫も礼の隣に座って、旦那様の端正な、しかし生気のない白い顔を見つめた。明るく楽しくそして万端の信頼を置いている旦那様が物も言わずただ寝ている姿は、恐ろしいことだった。
「水を持って来てちょうだい。飲むためのものと、あと顔を拭いてあげたいわ。盥に入れてきて」
 縫は澪と共に、水差しや盥をもって現れた。
「まずはあなた様がお飲みなさいまし」
 と澪から椀を手渡された。薬湯を冷ましたもので、礼は喉が乾いていたのですぐに飲みほした。
 それから礼は実言の頭を膝に載せて、ゆっくりと口の中に水を注いだ。実言の乾いた唇に水滴がついて暫くとどまり口の内側へと入って行く。
 次に、盥に白布を浸して固く絞り、撫でるように顔を拭いた。残暑の暑さで、嫌でも汗をかく。それでも少し汚れた顔は実言が生きていることのあらわれのように思えて、礼は少しばかり嬉しくなるのだった。実言は生きているのだと感じた。
 体を拭き終わると、隣の部屋で朝餉を食べた。几帳を隔てた隣でいつものように礼と侍女達がわいわいとおしゃべりしているところに、隣から実言が現れて、「賑やかだね。何の話?」と言ってくるのではないかと期待した。
 しかし、礼や縫たちは声を潜めて会話し、笑い声を上げるようなことはない。当然、実言からの問いかけもない。 
 静かな朝餉が終わる頃、簀子縁に毬が現れた。
「お母様」
 礼は立ち上がり、迎えに行こうとしたが毬が手で止めて、部屋の中に入って来た。
「実言はどうだい?園栄様からは、肩の傷は酷いがそれ以外に傷はなく、ただ眠っているだけと聞いていたけど」
「はい。少し、おやつれですが、私たちの知っている実言様です。どうぞ、こちらへ」
 礼は毬を伴って几帳の中へと入って行った。そこには、実言が乱れなく一人寝ている。
 毬は実言の右側にぺたりと座り込み、その顔をじっと見つめた。そして、手を伸ばしてその頬を撫でて。
「髭が伸びている……こんな顔見るのは初めてかもしれないね……」
 と言った。
「……でも、生きている証です。嬉しいこと……」
「いつまで、寝ている気だろうね……」
 少しばかり、気の強い乱暴な言い方をするが、毬は毬で心配している。悲しそうな表情で実言を見つめて何度も何度も息子の痩せた頬を撫でている。
 そこへ、簀子縁から大勢の足音と話声が聞こえて来た。
 多良医師とその弟子、本家の従者たちが部屋へと入って来た。
 礼は実言の傷口のある左側を多良医師に譲り、その隣に座った。
「変わりはないかね?」
 左隣にいる礼を向いて、多良医師は言った。
「はい……」
 良くも悪くも昨夜と同じである。
「そうか……今から傷口を診るが、あなたも見るかね?」
 多良医師は礼が薬の勉強をしており、実際、邸の隣に診療所を作っているのを知っているので訊いた。礼は躊躇することなく「はい」と返事をすると、後ろに控えていた澪と縫が色めき立った。
「礼様!ここは多良様にお任せした方がよいです」
 たまらず後ろから声を上げた。
 傷口をみて礼が刺激を受けてお腹の子に障ってはいけないと心配しているのだ。
「いいの。先生がいらっしゃらないときは私が診ますから、今どのような状態か教えてください」
 礼は多良医師にそう告げて、左肩の白布を外すことを促した。誰も何も言わないので、多良医師は頷いて、白布に手を掛けた。助手が布を解きやすいように実言の体の下に手を入れて少しばかり浮かした。一巻きしていた布は解けて、傷口を覆う何重にも重ねた厚みのある白布があらわれた。それを取り覗くと、裂けた皮膚から赤い身が見えた。
「少し膿んでいるが、それほど悪くない」
 礼はその傷口を覗き込んだ。反対側に座っている毬は怖いものを見るように顔をしかめて目をそらした。他の侍女たちも几帳の後ろに隠れてみようとはしない。
 あの時、柱の陰から飛び出して振り上げた男の剣を実言は短剣で受けたが、力いっぱい振り下ろされたものを止めきれなかった。食い込んだ剣は、こうして実言を大きく傷つけ、意識のない状態へとしてしまった。
 助手は清潔な布を盥に浸して濡らし、固く絞ったもので傷口を拭いた。傷に当たって痛いだろうに、実言の顔は変わらない。うめき声でも上げてくれれば、まだ気持ちも上向くものを、死人のような姿に心が痛むのだった。
「これを見なさい」
 多良医師は小さな壺を取り出した。
「大后の計らいで、傷に効くという塗り薬を分けていただいた。異国からもたらされた貴重なものだ」
 と言って、粘り気のある液体を匙でかいて取り出し、それを傷口の近くに落とした。後は手で塗り込み、柿の葉で傷口を覆うとまた厚く積み重ねた白布を置いて、助手が再び実言の背中に手を入れて浮かせて布を通して巻き付けた。体が少し浮き上がっても、実言はされるがままで何の反応も見せない。
「この薬を一日一回塗りなさい。水もしっかりと飲ませて。体にいい薬草のことは、あなたの方がよくわかっているかもしない。薬湯などもあげて様子を見るしかない。待つしかないよ」
 多良医師の言葉に礼は頷いた。
「多良様がいらっしゃるから心強いですわ。何かあればすぐに遣いを向かわせますから、どうか、お力をお貸しくださいませ」
 多良医師が帰っていくと、毬は再び息子と向かい合ってその顔を指の背で撫ぜながら、呟いた。
「園栄様や一族にとって、この子が成したことは大きなことなのでしょうね。一族がこれからも繁栄していくことは喜ばしいことだけど、私にとっては、この子はたった一人の男。この子がいなくなっては、まるでこの世の終わりのような気持ちよ。ねえ、礼」
 あなたならわかるでしょ、と言いたげに毬は礼に相槌を求めた。そして、また明日来るわねと言って、自分の部屋へと帰って行った。
 礼は再び実言に水を飲ませていると、澪が近づいて来て言った。
「実津瀬様と蓮様が、お母さまに会いたいと言っているようですわ」
 礼ははっと気づかされる。
 これだからいけない。一つのことが気になると他のことが見えなくなる。
 昨夜は実言を迎えるのに、騒がしいと気になって眠れなくなるだろうから、子供達をこの邸から離れている毬のところに預かってもらった。毬へのお礼も言いそびれている。何よりも子供達のことを忘れていた。本当にあの二人に憎まれても仕方ない母親だと思った。
「子供達のところに行くわ」
 礼は診療所から一人、人を来させて実言を見てもらった。
 子供部屋の庇の間に入ると、二人はお人形遊びをしていた。実津瀬が蓮につき合ってやっている格好だ。
「お母さま!」
 礼に気付いた蓮が手を止めて立ち上がり走り寄ってきた。
「もう眠たくないの?」
 追ってきた実津瀬も心配そうな顔を向けてきいてきた。
「起きていてもいいの?」
「もう起きていてもいいのよ。たっぷり眠ったわ」
 礼は二人の手を握って笑いかけた。
「二人は何をして遊んでいたの?お人形?」
 実津瀬が握ってきた人形を手に取った。
「蓮が好きなの、お人形」
 実津瀬はいつも蓮の言うことを優先してやる妹思いの兄である。
「そう?よかったわね、蓮」
 蓮は頷くと、急に部屋の奥に走って行ってまた戻ってきた。手には一枚の紙を持っている。
「見て、お母さま!」
 差し出したのは見事な透かしの入った紙に、書き連ねた文字だった。
「まあ、どうしたのこの紙は?」
「おばあさまがくれたの。昨日、書いたの。上手だって褒めてもらった」
 嬉しそうに蓮が言う。
「まあ、本当に上手ね」
 と言って、滑らかな髪を撫でた。すると、実津瀬が身を乗り出して、突然。
「お母さま、お父さまは?お父さまに会いたい」
 と言ってきた。
「そうだ!お父さまは?お会いしていない」
 蓮も急に思い出して言った。
「そうね、明日はお父さまに会えるかしら」
 礼はそう言ってはぐらかした。
「二人ともお父さまに会いたい?」
 礼は二人を両脇に引き寄せて抱いた。
「うん、会いたい」
 真っ先に実津瀬が答えた。
「お父さまとお話ししたい」
「そう?何をお話しするの?」
 と聞くと、実津瀬はにっこりと笑って。
「お父さまの前で踊りを踊って、褒めて欲しいの。踊りを習ってうまく踊れるようになったことをお話ししたい」
 と恥ずかしそうに小声で囁くように言った。
「そうね、お父さまは実津瀬が踊るのを楽しそうに見ていたから、きっと踊ってくれたら嬉しいはずよ。楽しみね」
 実津瀬は大きく頷き、嬉しそうな顔を蓮にも向けた。
 明日の実言はどうだかわからない。今日と同じであったら、二人はどんなふうに思うだろうか。物言わぬ父親をみて、どうして、なぜ、と戸惑い、怖いと思うかも。
しかし、子供達の声が実言を目覚めさせるかもしれない。だから、明日、子供達を実言に会わせようと思った。
 礼は夕餉を一緒に食べるまで子供達の部屋で過ごし、それから実言の部屋へと戻った。
「何か変化はあったかしら?」
 礼が訊くと、実言を見ていた診療所の医師は首を振った。
「そう。後は私が診ます。あなたは休んでおくれ」
 礼は言って、実言の左側に座ってその顔を見降ろした。
 そして、傷ついた左側の手を握って囁いた。
「ねえ、実言。いつまで寝ているの?もう目を覚ましてもいいのよ。みんな待っているのだから」
 そう言った後に、義母の毬と同じようなことを言っていると思った。
 いつまで寝ているの?
 それは、実言への叱咤激励であった。
 あなたは、このままで終わる人ではないでしょう?
 毬は自分にとってたった一人の男だと言ったけど、礼にとっても実言は唯一無二の男である。
 目を覚まして、実言!
 礼は長いこと手を握ってそう祈った。
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