Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

122話

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 両手を赤く染めて戻ってきた礼に、付き添いの者が待機する部屋から出て来た澪は血相を変えて駆け寄ってきた。
「礼様!どうなさったのです!どこを怪我されたの?手の平?それとも、腹ですか?どうしてこんなことに!」
 礼の顔は真っ青だが、飛んだ血が頬について赤い。放心した顔がやっと澪の目と合った。
「……私は大丈夫よ。……これは実言の血……実言が切られたの……」
「実言様?……実言様が!……どこにいらっしゃるのです?」
「……王宮に行かなければならないと言って、他の方たちともに王宮に行ったわ」
 澪はそこで、右目から大粒の涙をこぼす礼に近づき、自分の袖で礼の頬を拭いた。
「あなた様にはお怪我はございませんのね?」
 ゆっくりと優しい声音で訊いて、礼はこくり、と頷いた。
「……邸に戻って……実津瀬と蓮と待っていてくれと……言うの……」
「だんな様は礼様に邸で待っていろとおっしゃったのですね。……ならば、帰りましょう。だんな様の言いつけを守りましょう」
 澪は宮廷の侍女達が詰めている部屋に行って、井戸を借りることを断り、礼を伴って井戸に行って桶に水を汲み上げて手を洗わせた。
「酷い出血だったわ……動くのも大変だと思うのに、あの人は手当てもそこそこに行ってしまった」
 澪は礼の手を拭いてやりながら言った。
「邸に戻って待つしかありませんわ。実言様は邸に戻るとおっしゃったのでしょう?」
 礼はまたもこくりと首を縦に振って、涙を右目から二粒三粒と落とした。
「……邸で子供達と待っていてくれと言うの」
 澪は礼の手を拭き終わると、声音を強くして言った。
「ならば、迷うことなどありませんわね。もう、そのように涙をこぼすのは我慢なさいませ。実言様を信じて、邸で実津瀬様や蓮様とお待ちするだけですわ。あなた様が不安そうにしていたら、実津瀬様も蓮様もすぐに何かあったと気付いて心配されます。そんな思いにさせてはいけませんでしょう?どうか、ここから邸に着くまでに気持ちを切り替えて、邸についたら優しいお母さまの顔にならないといけませんわ」
 澪に諭されるように言われて、礼は何度も頷いたがそのたびに右目からは涙が落ちた。澪に手を引かれて、車の乗り口まで来て、押し込められるように乗った。妊娠しているのは礼と侍女の澪、縫の三人の秘密である。澪は今日、後宮への付き添いを願い出て、車に乗り込む時には厚い綿を入れた袋を胸に抱いていた。
「これにお座りくださいな。揺れがひどい時もありますから。お体に障っては大変ですわ」
 その澪の心遣いに感謝した。今も、帰りの車の中で、礼はふかふかの綿の袋の上に座って、澪に支えられている。
 澪に何度も頬を拭われて、礼は邸に着くころには何とか平静を装えた。車を降りると、すぐに子供達の部屋へと向かった。邸を出る時にもその顔を見て行ったが、戻ってきたらすぐに見たい顔だった。礼の足音を聞きつけて、二人は我慢できずに簀子縁に飛び出してきた。
「お母さま!」
 春日王子と行動を共にした朔を追った礼を子供達は恨み、戻ってきた礼を避けていた時期を乗り越えて、以前と同じように仲睦まじい親子に戻って、子供達は屈託のない笑顔で礼に飛びついてきた。
「まあ、二人とも、元気ね。出迎えてくれて嬉しいわ」
「お母さまに会いたかったの!」
「お母さまとお話ししたかった」
 二人は口々に話しながら礼に飛びついてきた。礼は二人の手を握って庇の間から奥に入った。
「二人とも、仲良くしていたの?」
 実津瀬も蓮も頷いて、それぞれが話したいことを声にした。二人が同時に話すので、礼は目の高さに座って聞き分けようとしたが、どうも二人の声が重なって聞き分けられない。いつもならそれぞれが言うことを聞き分けられるのに、今日はどうしても、できないみたいだ……。礼はいつもと違うと違和感を持って二人を見ていた。
「礼様!」
 礼の後ろにいた澪が叫んだ。
 どうしたのだろう、と礼は思った。気づけば、子供達の顔が上に見える。二人が目を見開いて自分を見ている。
「しっかりなさいませ!」
 悲鳴のような澪の声がどんどん遠くなる。子供達と一緒に実言を待つというのに、なぜか体が言うことを聞かない。
礼の意識は遠くなっていった。
 礼は目を覚ますと、目の前に縫の顔があった。
「……縫……実言は?……」
「……無理ばかりなさるからよ。あなた様の体はあなた様だけのものではないとお分かりでしょうに」
 と目覚めてすぐに怒られた。
「実言様は、まだお帰りではありませんわ。……渡道殿が本家に行っていますがまだ帰ってきていません」
「……そう。……体のことは……ごめんなさい……」
 礼は縫の剣幕から、自分の体に何かあったのかと、一瞬恐れた。
「少し出血がありました」
 礼は反射的に衾の上からお腹へと手を置いた。
「もう、絶対安静にしてくださいまし。そうでなければ、あなた様もお腹の子も万が一のことがあります」
 きつく言われて、礼は頷いた。
 自分が死ねばお腹の子も死ぬ。二人であれば黄泉の国への道すがらも寂しくないと思ったが、実言が身代わりになってしまった。もう、誰かが身代わりになればよいというものではない。皆が生きて、顔を見合わせて笑っていられるようにしなければ。それには、礼のお腹の中にいるこの子も例外ではない。無事に産み、実言や実津瀬、蓮と対面させてやりたい。
「……実津瀬と蓮は……どうしてるかしら」
「もう、あなた様が倒れたのを目の当たりにして、本当にびっくりされて、あなた様に取り付いてお母さまお母さまと涙を流しながら呼びかけておられましたよ」
 それから礼は縫の助けを借りて起き上がり、椀に入った水を飲んだ。
「大丈夫ですか?」
 礼は頷いて、もう一杯水を飲んだ。
「会いたいわ……起きているかしら」
 礼は言った。あたりは暗く、部屋の灯台に火をつけているので夜も深くなっていると分かった。
「まだ、あなた様の体が心配ですわ……」
「少しだけ、手を握るだけでいいから、起きていたらここに連れてきてちょうだい。少しだけ顔をみたら、すぐに返すから。実言がいつ帰るかわからないから、安心させてやりたいの」
 礼の言うことを無碍にもできず、縫は黙って部屋を出て行った。
 暫くすると、簀子縁に板を踏み鳴らす元気な足音が聞こえてきた。二人が何やら話しながらやってくるので賑やかである。やがて小さな二人は庇の間に飛び込んできた。
「お母さま!」
 二人が来るので、寝室を囲う御簾はあげていて、庇の間に入るとその奥の真正面に礼が見えた。二人はわれ先にと駆け寄ってきた。
「お母さま、眠たかったの?」
「お腹がすいたの?」
 二人は思いつく限りの母親が寝ている理由を考えて口々に言った。
「二人とも驚かせてしまったわね。お母さまは眠たかったみたい。お腹も空いていたのね。お出かけから戻ってきて、二人をみたら安心して眠ってしまったわ」
「お母さまが眠ってしまって、びっくりした」
「お母さま、もう起きてもいいの?」
「よく眠ったわ。もう、起きていいのよ」
 礼の左右に座って、身を乗り出して二人は話しを聞いている。礼は二人の手を握ったり、頬を撫でたりして話した。
「はいはい、お二人はもう寝る時間ですわ」
 部屋の隅に座っていた澪が、声を上げた。実津瀬と蓮は振り返って、頬を膨らませて不満を言った。
「ここで一緒にお母さまと寝たい」
「ねえ、いいでしょう?」
「だめですわ。お二人はご自分の部屋で寝るのです」
 澪は強い口調で二人を遮り、子守の侍女も二人を立たせて、手を繋いで庇の間まで下がって行った。
「お母さま、また明日!明日は、もっとたくさんお話聞いてね」
「明日は私の書いた手紙を見てね」
 と言って、名残惜しそうに何度も礼を振り返りながら、簀子縁を戻って行った。
「礼様、何か召し上がりませんと。今から食事を持ってきますわ」
 澪は粥と果物を持ってきた。薄い粥は今の礼のお腹に優しかった。礼はゆっくりとだが、入っている粥は全部食べた。子供達も、お腹が空いたから倒れたのかと、問いかけて来た。かわいらしいことを言ってくるものだと思ったが、確かにお腹が空いていたのだ。
「こちらも召し上がってくださいな。井戸で冷やしていた桃ですわ」
 澪は食べやすいように切った桃を礼の前に差し出した。
 礼はよく冷えた桃を口に入れた。少しばかりの甘みが口の中に広がって心が落ち着く気がした。
「食べたら横になってくださいましね。あなた様は自分を過信していますわ。本当に私たちを心配させて」
 と辛辣な怒りをぶつけてきたが、礼の手から桃の載っていた皿を受け取って、礼の手を拭くそのしぐさは優しく、礼は本当に心配されていることを感じるのだった。
「澪、ありがとう。もう、もう、みんなの言うことを聞くわ。このお腹の子のためにもね」
 礼は澪の手を借りて横になろうとしたときに縫が飛び込んできた。
「礼様、岩城本家から渡道殿が戻ってきましたわ。それで、礼様に報告したいとおっしゃいますが、どうされますか?」
 礼は明日まで待てるはずがなかった。褥の上の見苦しい姿であるが、すぐに渡道を呼んでくれと言った。
 渡道は、実言が留守の時の家政を取り仕切っている者で、実言も礼も全幅の信頼を置いている男だ。
 渡道は一人で部屋の中に入って来た。礼の隣には澪と縫が控えている。
「礼様、後宮から戻られてお加減が悪いとお聞きしました。今はいかがでございますか」
「心配かけてすみません。疲れが溜まっていたようで、今もこうして褥の上で話を聞かせてもらいます」
 渡道はそのようなことは気に掛けることなく、頷くと話し始めた。
「実言様は王宮の一室で肩の傷の手当てを受けておられますが、意識が戻らないとのことです。本家から園栄様が王宮へ向かわれて、実言様を見守っていらっしゃいます。まずは意識が戻られるまで王宮で手当てを受けるとの連絡がありました」
 礼は渡道が話す言葉を頷きながら聞いた。王宮で手当てを受けているのであれば、医者は大王の医者であろう。最先端の医術を持った者から手当てを受けているのだから、いずれ実言は目覚めるはずである。
「王宮の医師や助手の方が手当てしてくださっているのだから、実言はきっと大丈夫でしょう。お父さまが王宮へ行ってくれたのですね。ありがたいこと。私は王宮に行くことはできないわ……もうここで実言が帰ってくるのを待つしかないわ」
 礼の言葉を受けて、渡道は深々と頭を下げて。
「はい、園栄様からも、礼様には必ず実言様をこの邸に帰すから、それまで苦しい思いもあるだろうが、耐えて待っていて欲しいと伝言を預かっております」
 と言った。
「お父さまがいてくださってとても心強いことだわ。私は体調も思わしくなくて、邸でただ待つしかないけれども、全てお父さまのご判断に従うと伝えてちょうだい。実言が不在のこの邸はあなたの采配に任せます。よろしく頼むわ」
 礼が言うと渡道は「承知いたしました」と言って部屋を辞した。無駄のないことで、礼はすぐに体を横たえられた。
 実言は意識不明の状態だという。本当なら王宮に飛んで行って大王の医師たちと共に実言の看病がしたい。しかし、もう一つ守るべき命があるからその願いは我慢するしかない。
 礼はただ祈るばかりだった。
 あなたが言った言霊は実現されるはずだと。実現するために私も、そして傷つき意識なく横たわるあなたも努力する必要があるのだと。
 礼は天高くその念を飛ばして、王宮のどこかの部屋で横たわる実言へと送った。
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