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第三部 Waiting All Night
110話
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礼は朔の手を握ってじっとその顔を見ている。
朔は息苦しそうにしていて、予断を許さない状況だ。
その日の陽が沈んだころ、礼と朔がいる邸に実言の使いで高瀬が、山での出来事を伝えに来た。礼はその時ばかりは朔の手を放し、邸の外で春日王子の最期を聞いた。
夫と春日王子の決闘を大まかに聞き、夫が無事であることの悦びと、春日王子の凄まじい最後に言葉もなく、知らずのうちに涙がこぼれた。
「……夫には帰らないと言って。あの人はこれから、都に戻って大王への報告や、部隊の解隊など忙しいでしょう。それなのに、邸を空けて、子供達も放ったまま、申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、今は朔の傍にいたいの」
高瀬は頷いて。
「実言様から、警護の兵士を置くように言われております。また、私が都に戻りましたら、別の者に薬などを持ってこちらに向かわせるように言われております」
実言は礼の気持ちを見通しているかのように、礼の不安と期待に応えてみせた。
礼は、目頭にたまる涙を拭って、夫に感謝した。
「実言に……実言に……伝えてちょうだい。私のこの我儘を通させてくれること、感謝していると」
高瀬は再び頷いて、馬に跨ると去って行った。
礼は庭にうずくまったり、横になっている兵士に水を飲ませ、怪我を下兵士の傷口を拭いて白布を巻いたりして部屋に戻った。
暗い部屋の中に小さな灯りを点けると、朔の寝ている姿がぼわっと浮かぶ。
「朔」
礼は名を呼んで傍に座ると、手を離したままの状態でそこにある手を再び握った。すると、朔がぎゅっときつく礼の手を握った。
「一人にさせてごめんなさい。私はずっとそばにいるよ。あなたの傍にいる。子供の頃、朔が私の傍にいてくれたように」
礼は反対の手で朔の手の甲を包んで撫でた。
「朔……眠ろう。一緒に…子供の頃のように。私の大好きな姉様」
朔は目を瞑ったままだが、礼には微かに首を縦に振ったように見えた。仰向けの朔の寝顔を横になって見つめる。
額から鼻梁にかけてすっきりとして美しい曲線を描く高い鼻。口は小さくて紅い。麗しい顔。その顔にいつも見とれていた。今、本人は苦しんでいるというのにその顔でも見とれてしまう。
少しでも長く、子供の頃のように褥の上で抱き合って一緒にいよう。
朝日の差し込みに、自然と礼は目を覚ました。礼はすぐに体を起こし、辺りを見回した。周りには誰もいない。すぐに隣を見ると、朔が寝る前と同じ姿勢で、目を瞑っていた。すぐに礼は朔に近寄った。小さな寝息が聞こえてきて、礼は胸を撫で下ろした。
起き上がって台所に向かう。板間の上に、この邸に通い出来ているという婢の女が体を丸めて寝ていた。
礼は甕から柄杓で水を掬って口に含んだ。夏の夜はいくら水を飲んでも砂に沁み込むように吸収して、それでもなお体は求めている。礼はもう一度水を汲んで、喉を鳴らすほどに飲んだ。水の滴る音に、腕枕で寝ていた女は目を覚まして、寝ぼけ眼で起き上がった。
礼は持っていた竹筒に柄杓で水を入れながら、女にお願いした。
「粥でも炊いてもらえないだろうか。私が世話をしている怪我人と外にいる兵士たちに食べさせたい」
女は目を擦ったあと、頷いて立ち上がった。
「私も後で手伝うから」
礼が立ち去ると、女はかまどに火をつけた。
礼は朔の元に戻ると、真っ白な顔の朔をじっと見ていた。しばらくすると、朔の瞼が小刻みに震えた。
「朔?……目が覚めた?」
礼は声をかけて、朔の手を握った。ずっと朔の顔を見ている礼は、朔の唇が微かに動くのを見た。れい、と礼の名を言いたそうに見えた。
「喉が渇いたでしょう。水よ、飲んで」
礼は朔の頭を少し起こし、竹筒の水を三回に分けてゆっくりと飲ませた。
「喉が渇くわね。今朝も暑いもの」
礼は明るく朔に話しかけた。朔は目を瞑ったまま水を飲んだ。
礼は朔を寝かせるとこの邸の婢を手伝って粥を作った。朔の元に戻り、食べるように言ったが朔は嫌がった。泣きそうな声で礼は訴える。
「だめよ。これだけは食べてもらわないと。私は涙が出てしまう」
それが聞こえたのか、食べるのを嫌がっていた朔も差し出された実のない汁がのった匙をゆっくりと口の中に入れて嚥下した。もうひと匙、口に入れたところで朔はもう口を開かない。
「二口も食べてくれた。嬉しい」
礼は言って、朔を見つめた。朔は腹痛が続いているのか、眉根を寄せて苦しそうな表情をする。だが、痛いと言うことも、うめき声を出すこともない。奥歯を噛みしめて耐えている。痛みをかわすためか、目を閉じていてそのまま眠りに落ちて行った。
礼は朔が眠ったのを確認すると、その場を離れて外の兵士たちに水や粥を与え、傷口を洗うと今できる手当をした。
陽が暮れる前にこの邸の中を探し回って見つけた箱を開けて行った。女物の衣を三枚見つけた。お湯を沸かして、婢にお願いして一緒に朔の衣装を着替えさせた。
夏だから、単衣一枚でも寒くない。礼は上等な朔の衣装を脱がせた。裳は血に染まり、固まっている。腰に巻いたものを取り払い、お湯に浸した白布を熱くない程度に冷まして、血に汚れた朔の足を拭いた。腹や股のあたりは痛みがあるだろうと、礼は丁寧に優しく拭いた。
朔は目を覚ましていたが、何も言わず礼にされるがままに体を拭いてもらい、さっぱりと乾いた衣に体を包んだ。全て汚れたものを取り替えて朔を清潔な褥に寝かせた。
朔の体を動かせば体に負担をかけて、命を縮めてしまうと礼は細心の注意を払って朔の体を扱った。
陽が暮れたら、篝火を炊いて兵士たちに夜の食事を配った。傷の軽い兵士は、重傷な者を助けた。
夜に礼は朔の頭を起こして、粥の汁を吸わせた。
「無理はしなくてもいいの。でも、もう少しね……朔……啜るだけでいいから」
礼は何度も匙を朔の口元に運び、粥の汁を飲ませた。朔の嫌がる表情を見極めて匙を置いた。
今日も蒸し暑い日で、使い古した薄い衾を朔の体にかけて礼は、その夜をやり過ごそうと思っていたら、急に外が騒がしくなった。
礼は何事かと思ったが、朔を不安がらせてはいけないと思ってゆっくりと朔の手を離した。
「水を汲んでくるからね」
朔は眠たそうな様子で、礼の声が聞こえているかわからなかった。
礼が外に出ると、そこにはちょうどいま馬から下りた一行がいた。
「礼様?……私は岩城家の間々代(まましろ)です。薬をもってやって参りました」
間々代と名乗った男に、礼は手に持っていた松明を高く上げてその顔を見た。
その男は本家で見たことのある男だった。
「明日にでも都から兵士を手当てするための部隊が到着するでしょう」
「あなたたちは早く来れたのね」
「ええ、私たちは夜通し、馬を替えながらやってきましたので」
礼は、間々代が「私たち」というので、他の岩城の者たちと来てくれたのかと思った。都は謀反人の仲間を捕らえるために好きに移動はできないはずだが、危険を冒して来てくれた。労いの言葉を掛けようと、間々代の後ろに立つ者を覗き込んだ。壮年の男性の姿の前に、小さな影が見えた。その少し視線を下げなければならない人影に、礼は驚き、穴のあくほどに見つめた。
そこには、伊緒理が立っていたのだから。
「伊緒理!」
この場におおよそ似つかわしくない少年……伊緒理の名を礼は思わず叫んだ。
「礼様!」
一歩前に進んで、礼を見上げた。
「お母さまは?お母さまはどこですか?早くお会いしたい」
見上げる目は必死に礼に訴えている。
礼は伊緒理の言葉を聞いて、この子は母に会いに遠い都から、川を渡り山を越えてここまで来たのだと分かった。顔を上げて伊緒理の後ろの男を見た。すると、男が説明した。
「都に戻った荒益様が別邸に参られまして、伊緒理様にお母さまのことをお話しされました。もう、母と呼べる者はいないと。なぜ、と伊緒理様が尋ねますと、お母さまは知らぬ土地で、人知れず死ぬのだと話されました。伊緒理様はすぐに、お母様の傍に行きたいと訴えられた。荒益様はいや、母はもう死んだかもしれないとおっしゃられます。それでも伊緒理様は、お母様に会いたいと訴えられて、荒益様は承諾されました」
そこから、伊緒理を連れて静かに徒歩で都を脱出した。都を出たところで岩城家の間々代と出会い、その後は馬に乗って、その馬が疲れたら別の馬を調達してここまで来たとのことだった。
「礼様!」
礼は下から突き上げるように発せられた伊緒理の声に、はっとなる。
「こっちよ、いらっしゃい」
礼は伊緒理に手を差し出し、伊緒理はその手につかまった。
邸に上がる前に礼は伊緒理の足を諫めるように、一度立ち止まりゆっくりと階を上がらせた。
「お母様は寝ておられるかもしれないから、静かにね」
伊緒理は繋いでいる礼の手をきつく握ると、深く頷いた。そろそろと礼と伊緒理は足音を忍ばせて衝立の向こうを覗いた。
朔は顔を上に向けて目を瞑っていた。
礼は伊緒理の手を引いて、衝立の陰から出た。
「朔!起きている?」
礼は自然と明るい声になって、朔に問いかけた。朔の顔には変化は見られなかったが、礼は続けた。
「朔……伊緒理よ」
礼は自分の後ろから伊緒理を登場させ隣に座らせた。背中に当てた手から伊緒理の緊張が伝わってくる。ぴんっと強く張った背中は、すぐに母に声を掛けたいだろうに、声を出そうとするとつっかえるを数度繰り返した。礼は固くなっている伊緒理の背中をなでてやり、その顔を覗き込み微笑んだ。
伊緒理は礼の顔を見上げて、自らも口の端を上げた。そうしたら、自然と笑い顔になって目の前に静かに寝ている母に向かって、今度こそ呼びかけた。
「お母様、伊緒理です」
上ずった声に、伊緒理は照れたように首をすくめ、じっと母の顔を見つめた。しかし、朔の瞼は動かなかった。
「伊緒理、お母様の手を握って。先ほどまで私と手を繋いでいたのよ。温かいでしょう?」
礼は左手で朔の手を取り、右手を伊緒理に差し伸べてその手を取った。礼は伊緒理を引き寄せて、その小さな手を朔の手の甲へとのせた。伊緒理はおずおずと差し出した手は母に触れると力を込めた。
「ね」
礼はにこやかに伊緒理の顔を覗き込んだ。
礼が温かいでしょう、と言った母の手は、とても冷たかった。
びっくりした伊緒理は、さらにぎゅっと母の手を握った。
「お母様……」
伊緒理は言って、両手で朔の手を握った。礼は伊緒理に譲って隣で見守った。
暫くすると、伊緒理の体は傾き礼に寄り掛かった。礼が伊緒理の顔を覗き込むと、眠っていた。
やっと会った安堵からか、眠気が襲ったようだ。
礼は体が弱いために、母親と離れて都の外れに祖母と静かに住んでいた少年が、瀕死の母に会うために馬の背に一日中夜通し揺られて、都からこんなに遠い山奥まで来たことに驚いた。自分の気持ちに従うのに、こんな危険を冒してまでここに来たこの子の強い気持ちを思った。母に会いたいと、もう死んでしまう母に、死んだ姿でもいいから会いたいと、いう伊緒理の思いを。
礼は涙が滲むのを堪えて、伊緒理を寝かせるために体を抱えようとしたが、両手は母の手を離さない。仕方ないから、朔の隣で伊緒理を横にさせた。上から衾をかけてやり、久しぶりに母子で一緒に寝るのだった。
朔は息苦しそうにしていて、予断を許さない状況だ。
その日の陽が沈んだころ、礼と朔がいる邸に実言の使いで高瀬が、山での出来事を伝えに来た。礼はその時ばかりは朔の手を放し、邸の外で春日王子の最期を聞いた。
夫と春日王子の決闘を大まかに聞き、夫が無事であることの悦びと、春日王子の凄まじい最後に言葉もなく、知らずのうちに涙がこぼれた。
「……夫には帰らないと言って。あの人はこれから、都に戻って大王への報告や、部隊の解隊など忙しいでしょう。それなのに、邸を空けて、子供達も放ったまま、申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、今は朔の傍にいたいの」
高瀬は頷いて。
「実言様から、警護の兵士を置くように言われております。また、私が都に戻りましたら、別の者に薬などを持ってこちらに向かわせるように言われております」
実言は礼の気持ちを見通しているかのように、礼の不安と期待に応えてみせた。
礼は、目頭にたまる涙を拭って、夫に感謝した。
「実言に……実言に……伝えてちょうだい。私のこの我儘を通させてくれること、感謝していると」
高瀬は再び頷いて、馬に跨ると去って行った。
礼は庭にうずくまったり、横になっている兵士に水を飲ませ、怪我を下兵士の傷口を拭いて白布を巻いたりして部屋に戻った。
暗い部屋の中に小さな灯りを点けると、朔の寝ている姿がぼわっと浮かぶ。
「朔」
礼は名を呼んで傍に座ると、手を離したままの状態でそこにある手を再び握った。すると、朔がぎゅっときつく礼の手を握った。
「一人にさせてごめんなさい。私はずっとそばにいるよ。あなたの傍にいる。子供の頃、朔が私の傍にいてくれたように」
礼は反対の手で朔の手の甲を包んで撫でた。
「朔……眠ろう。一緒に…子供の頃のように。私の大好きな姉様」
朔は目を瞑ったままだが、礼には微かに首を縦に振ったように見えた。仰向けの朔の寝顔を横になって見つめる。
額から鼻梁にかけてすっきりとして美しい曲線を描く高い鼻。口は小さくて紅い。麗しい顔。その顔にいつも見とれていた。今、本人は苦しんでいるというのにその顔でも見とれてしまう。
少しでも長く、子供の頃のように褥の上で抱き合って一緒にいよう。
朝日の差し込みに、自然と礼は目を覚ました。礼はすぐに体を起こし、辺りを見回した。周りには誰もいない。すぐに隣を見ると、朔が寝る前と同じ姿勢で、目を瞑っていた。すぐに礼は朔に近寄った。小さな寝息が聞こえてきて、礼は胸を撫で下ろした。
起き上がって台所に向かう。板間の上に、この邸に通い出来ているという婢の女が体を丸めて寝ていた。
礼は甕から柄杓で水を掬って口に含んだ。夏の夜はいくら水を飲んでも砂に沁み込むように吸収して、それでもなお体は求めている。礼はもう一度水を汲んで、喉を鳴らすほどに飲んだ。水の滴る音に、腕枕で寝ていた女は目を覚まして、寝ぼけ眼で起き上がった。
礼は持っていた竹筒に柄杓で水を入れながら、女にお願いした。
「粥でも炊いてもらえないだろうか。私が世話をしている怪我人と外にいる兵士たちに食べさせたい」
女は目を擦ったあと、頷いて立ち上がった。
「私も後で手伝うから」
礼が立ち去ると、女はかまどに火をつけた。
礼は朔の元に戻ると、真っ白な顔の朔をじっと見ていた。しばらくすると、朔の瞼が小刻みに震えた。
「朔?……目が覚めた?」
礼は声をかけて、朔の手を握った。ずっと朔の顔を見ている礼は、朔の唇が微かに動くのを見た。れい、と礼の名を言いたそうに見えた。
「喉が渇いたでしょう。水よ、飲んで」
礼は朔の頭を少し起こし、竹筒の水を三回に分けてゆっくりと飲ませた。
「喉が渇くわね。今朝も暑いもの」
礼は明るく朔に話しかけた。朔は目を瞑ったまま水を飲んだ。
礼は朔を寝かせるとこの邸の婢を手伝って粥を作った。朔の元に戻り、食べるように言ったが朔は嫌がった。泣きそうな声で礼は訴える。
「だめよ。これだけは食べてもらわないと。私は涙が出てしまう」
それが聞こえたのか、食べるのを嫌がっていた朔も差し出された実のない汁がのった匙をゆっくりと口の中に入れて嚥下した。もうひと匙、口に入れたところで朔はもう口を開かない。
「二口も食べてくれた。嬉しい」
礼は言って、朔を見つめた。朔は腹痛が続いているのか、眉根を寄せて苦しそうな表情をする。だが、痛いと言うことも、うめき声を出すこともない。奥歯を噛みしめて耐えている。痛みをかわすためか、目を閉じていてそのまま眠りに落ちて行った。
礼は朔が眠ったのを確認すると、その場を離れて外の兵士たちに水や粥を与え、傷口を洗うと今できる手当をした。
陽が暮れる前にこの邸の中を探し回って見つけた箱を開けて行った。女物の衣を三枚見つけた。お湯を沸かして、婢にお願いして一緒に朔の衣装を着替えさせた。
夏だから、単衣一枚でも寒くない。礼は上等な朔の衣装を脱がせた。裳は血に染まり、固まっている。腰に巻いたものを取り払い、お湯に浸した白布を熱くない程度に冷まして、血に汚れた朔の足を拭いた。腹や股のあたりは痛みがあるだろうと、礼は丁寧に優しく拭いた。
朔は目を覚ましていたが、何も言わず礼にされるがままに体を拭いてもらい、さっぱりと乾いた衣に体を包んだ。全て汚れたものを取り替えて朔を清潔な褥に寝かせた。
朔の体を動かせば体に負担をかけて、命を縮めてしまうと礼は細心の注意を払って朔の体を扱った。
陽が暮れたら、篝火を炊いて兵士たちに夜の食事を配った。傷の軽い兵士は、重傷な者を助けた。
夜に礼は朔の頭を起こして、粥の汁を吸わせた。
「無理はしなくてもいいの。でも、もう少しね……朔……啜るだけでいいから」
礼は何度も匙を朔の口元に運び、粥の汁を飲ませた。朔の嫌がる表情を見極めて匙を置いた。
今日も蒸し暑い日で、使い古した薄い衾を朔の体にかけて礼は、その夜をやり過ごそうと思っていたら、急に外が騒がしくなった。
礼は何事かと思ったが、朔を不安がらせてはいけないと思ってゆっくりと朔の手を離した。
「水を汲んでくるからね」
朔は眠たそうな様子で、礼の声が聞こえているかわからなかった。
礼が外に出ると、そこにはちょうどいま馬から下りた一行がいた。
「礼様?……私は岩城家の間々代(まましろ)です。薬をもってやって参りました」
間々代と名乗った男に、礼は手に持っていた松明を高く上げてその顔を見た。
その男は本家で見たことのある男だった。
「明日にでも都から兵士を手当てするための部隊が到着するでしょう」
「あなたたちは早く来れたのね」
「ええ、私たちは夜通し、馬を替えながらやってきましたので」
礼は、間々代が「私たち」というので、他の岩城の者たちと来てくれたのかと思った。都は謀反人の仲間を捕らえるために好きに移動はできないはずだが、危険を冒して来てくれた。労いの言葉を掛けようと、間々代の後ろに立つ者を覗き込んだ。壮年の男性の姿の前に、小さな影が見えた。その少し視線を下げなければならない人影に、礼は驚き、穴のあくほどに見つめた。
そこには、伊緒理が立っていたのだから。
「伊緒理!」
この場におおよそ似つかわしくない少年……伊緒理の名を礼は思わず叫んだ。
「礼様!」
一歩前に進んで、礼を見上げた。
「お母さまは?お母さまはどこですか?早くお会いしたい」
見上げる目は必死に礼に訴えている。
礼は伊緒理の言葉を聞いて、この子は母に会いに遠い都から、川を渡り山を越えてここまで来たのだと分かった。顔を上げて伊緒理の後ろの男を見た。すると、男が説明した。
「都に戻った荒益様が別邸に参られまして、伊緒理様にお母さまのことをお話しされました。もう、母と呼べる者はいないと。なぜ、と伊緒理様が尋ねますと、お母さまは知らぬ土地で、人知れず死ぬのだと話されました。伊緒理様はすぐに、お母様の傍に行きたいと訴えられた。荒益様はいや、母はもう死んだかもしれないとおっしゃられます。それでも伊緒理様は、お母様に会いたいと訴えられて、荒益様は承諾されました」
そこから、伊緒理を連れて静かに徒歩で都を脱出した。都を出たところで岩城家の間々代と出会い、その後は馬に乗って、その馬が疲れたら別の馬を調達してここまで来たとのことだった。
「礼様!」
礼は下から突き上げるように発せられた伊緒理の声に、はっとなる。
「こっちよ、いらっしゃい」
礼は伊緒理に手を差し出し、伊緒理はその手につかまった。
邸に上がる前に礼は伊緒理の足を諫めるように、一度立ち止まりゆっくりと階を上がらせた。
「お母様は寝ておられるかもしれないから、静かにね」
伊緒理は繋いでいる礼の手をきつく握ると、深く頷いた。そろそろと礼と伊緒理は足音を忍ばせて衝立の向こうを覗いた。
朔は顔を上に向けて目を瞑っていた。
礼は伊緒理の手を引いて、衝立の陰から出た。
「朔!起きている?」
礼は自然と明るい声になって、朔に問いかけた。朔の顔には変化は見られなかったが、礼は続けた。
「朔……伊緒理よ」
礼は自分の後ろから伊緒理を登場させ隣に座らせた。背中に当てた手から伊緒理の緊張が伝わってくる。ぴんっと強く張った背中は、すぐに母に声を掛けたいだろうに、声を出そうとするとつっかえるを数度繰り返した。礼は固くなっている伊緒理の背中をなでてやり、その顔を覗き込み微笑んだ。
伊緒理は礼の顔を見上げて、自らも口の端を上げた。そうしたら、自然と笑い顔になって目の前に静かに寝ている母に向かって、今度こそ呼びかけた。
「お母様、伊緒理です」
上ずった声に、伊緒理は照れたように首をすくめ、じっと母の顔を見つめた。しかし、朔の瞼は動かなかった。
「伊緒理、お母様の手を握って。先ほどまで私と手を繋いでいたのよ。温かいでしょう?」
礼は左手で朔の手を取り、右手を伊緒理に差し伸べてその手を取った。礼は伊緒理を引き寄せて、その小さな手を朔の手の甲へとのせた。伊緒理はおずおずと差し出した手は母に触れると力を込めた。
「ね」
礼はにこやかに伊緒理の顔を覗き込んだ。
礼が温かいでしょう、と言った母の手は、とても冷たかった。
びっくりした伊緒理は、さらにぎゅっと母の手を握った。
「お母様……」
伊緒理は言って、両手で朔の手を握った。礼は伊緒理に譲って隣で見守った。
暫くすると、伊緒理の体は傾き礼に寄り掛かった。礼が伊緒理の顔を覗き込むと、眠っていた。
やっと会った安堵からか、眠気が襲ったようだ。
礼は体が弱いために、母親と離れて都の外れに祖母と静かに住んでいた少年が、瀕死の母に会うために馬の背に一日中夜通し揺られて、都からこんなに遠い山奥まで来たことに驚いた。自分の気持ちに従うのに、こんな危険を冒してまでここに来たこの子の強い気持ちを思った。母に会いたいと、もう死んでしまう母に、死んだ姿でもいいから会いたいと、いう伊緒理の思いを。
礼は涙が滲むのを堪えて、伊緒理を寝かせるために体を抱えようとしたが、両手は母の手を離さない。仕方ないから、朔の隣で伊緒理を横にさせた。上から衾をかけてやり、久しぶりに母子で一緒に寝るのだった。
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