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第三部 Waiting All Night
93話
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礼はあたりを見回したが、自分がもっている膳を置く人はいない。
「その膳はそこに置いて、お前は酌をして回れ!」
いきなりそのような声が聞こえた。春日王子が杯に口をつけながらそう言い放ったのだ。
礼は末席に膳を置くと、徳利を取って杯を飲み干した者から順に酒を注いで回った。慣れない手つきが気に入らないようで、礼は何度か怒られた。それでも、礼は杯が空だと呼ばわる声が聞こえたら、飛んで行って酌をした。
春日王子の杯に酒を注いでいる朔は、食べる暇もないのか、目の前の膳には全く手をつけていない。礼は、お酌をしながら、または末席に座って朔を盗み見た。
春日王子は杯をぐいぐいと煽って、徳利の中の酒を飲み干していく。徳利の中身が無くなって朔は少し困った顔をしている。礼はそのことにすぐに気づいて、酒の入った徳利を持って上座に向かった。
「どうぞ」
礼から春日王子の手にある杯に徳利を傾けた。
「お前を貴族の妻としては扱わない。こうやって、婢のように働け」
注がれた酒を飲み干して、春日王子は礼を睨みつけて言った。礼は、徳利を朔の膳の上に置くと黙って下座の席に戻って行った。春日王子は空いた杯を朔の前に突き出して、酒を要求した。朔は礼が置いていった徳利を持ち上げてゆっくりと杯に注いだ。
春日王子のために泊まる場所や食料を先に回って段取りしている従者たちは、眼帯をした女は何者だろうかと訝しんだ。春日王子は侍女のように扱っているが、本当はそうではないようにみえるのだ。女は春日王子に敬意を払いつつも、怖がってはおらず、従順にしたがっているが挑戦的な視線を送っている。
礼は席に戻っても、酒がないとわめいている男の元に飛んで行って酌をしたり、無くなった徳利に酒を入れるために台所を往復したりとかいがいしく働いた。
少しばかり欠けている月が高く上がった頃には昼間の疲れが出て皆は飲みつぶれてしまって、ひっくり返ってうとうとし始めている。このままここに置いていてもいけないと春日王子の舎人は促して、まだ意識のある従者也近所から呼び寄せた下男を使って体を起こさせて、肩を貸して部屋から出て行かせた。
一人、一番下の席に座っている礼は動かずにいる。
舎人が礼の前に立って見下ろし、目でお前も下がれと言ってきたのを、礼は右目一つで見返した。「おい」と言って手を出しかけたその時、上座から声が飛んだ。
「いい。そのまま置いておけ。その女には周りのことをやらせるから」
舎人が上座を見ると、春日王子がこちらを睨んで言った。
「しかし」
「よいのだ。お前が傍にいても無粋だ。後のことはその女にさせる。お前は下がれ」
春日王子は下から上に手を振って舎人を追い払う。
舎人は礼を掴もうとした手を拳にしておさめ、落とした腰を上げて部屋を出て行った。
男たちが酔った足で出て行った後の部屋は飲み散らかされて、膳の上の皿はひっくり返り、徳利が倒されたりしている。そんな雑然とした中で、春日王子は隣に座っている朔を抱き寄せた。上座の正面に対するように下座に座っている礼は下を向いて、あえて上座の様子を見ないようにした。
ここで、朔を見守るだけ…と言い聞かせた。
「やっと落ち着いたな。誰もいなくなった。もっと傍に寄って、私を慰めてくれ。少し疲れた」
春日王子は囁いて、抱き寄せてしな垂れかかっただけの朔をさらに引き寄せて抱いた。朔は疲労が色濃く出ている春日王子の顔を心配そうに見上げた。
「日の照りつける中の厳しい進行でしたわ。王子がお疲れなのもわかります」
朔の言葉に春日王子は厳しい表情を崩して、笑った。
「こうして一旦都を離れなければならなくなったが、いつか私に再起する機会が訪れるだろう。その間を、お前とともに過ごせるのはよかった。北へと向かいやがて東の土地に腰を落ち着けようと思う。東国は都とは違って辺鄙なところだ。お前がいなければ退屈で退屈でたまらないだろうよ」
春日王子はぐっと顔を近づけて、朔の目の中を覗いた。そして、朔を抱き寄せた反対の手に持っていた杯を口に近づけた。
「王子、お酒が過ぎますわ。先ほどからお酒ばかり飲まれています」
「いくら飲んでも、飲んでも酔わぬ……」
春日王子は一旦朔から視線を外し、部屋の外に向けた。
「飲めば飲むほど意識は鮮明になり、頭が冴える気がする。なのに、余計なことばかり考えて、心は晴れぬ」
春日王子は呟くと、また朔へと視線を戻した。
「……王子……」
明らかに苦悩している王子に、朔も春日王子の目の中を覗き込んで、二人の顔は近づいた。春日王子は朔の頬を掴むと顔を近づけ、唇を重ねて吸った。激しく。勢いがあって、朔は自分の体を支えることができず横に倒れてしまい、膳にぶつかってカラカラと膳の上の器が飛び散る音がした。
上座の二人を見ないように下を向いていた礼は驚いて、上座に視線をむけると、春日王子が朔を押し倒し覆いかぶさっているところだった。礼は春日王子の色情に任せた艶めかしい姿に礼は目を背けようとしたが、それよりも早く、下座の礼が身じろぎしたのに気付いた春日王子が、朔の口を吸いながら礼を見ている。ゆっくりと朔の唇を吸って離した。それから頬に口づけて朔に触れながらじっと礼を見て、最後に春日王子は嗤った。にやりと、礼の驚いた顔を嘲っているように。そして、もう一度朔の頬に手をやると、じっと見つめてから再び口を吸ってやる。
礼は春日王子と朔の痴情の様から目を逸らして、この刻をやり過ごそうと思ったがまた上座からガラガラと音が鳴った。礼は再び驚いて上座へと目を遣ると、春日王子が朔の裳の中に手を入れて、足を捕えるところだった。猛る欲情に身を任せているのだ。
礼は思わず立ち上がった。その時に、目の前の膳に膝をぶつけて、膳ごとひっくり返してしまった。
下座からの大きな物音に、春日王子は動きを止めてその音の方を見た。
礼が膳を前にひっくり返して四つん這いになってこちらを見ている姿が見えた。
春日王子はその姿が勘に触った。
間抜けな姿の女がこちらを見ている。
自分の思うように物事は進まない。何かが邪魔をする。今も、大きな音を立てて、自分の淫靡な欲望を中断させられた。
春日王子は怒りに任せて立ち上がり、板を踏み鳴らして礼の前まで来た。礼は躓いて四つん這いになった格好をすぐに直して正座した。目の前に立った春日王子の勢いが触れられてもいないのに強い圧力に感じさせて礼は恐怖した。
「お前は、私の邪魔をするな!お前は、お前たちはいつも私の前に現れて邪魔をする。腹立たしい。言っただろう、私はお前をいつでも殺すことができる。今も、お前を殺すことはできるのだぞ」
そう言って礼を威嚇した。
礼は一つだけの目で春日王子を見上げた。それは殺すという言葉に死にたくないという思いが自然にさせたことだが、その目が春日王子には挑戦的に見えて、反射的に振り上げた右手を勢いよく下ろした。
礼の体が横に吹っ飛ぶほどの力で顔を殴り、倒れた礼を再び殴りつけようと一歩踏み込んだ時に、春日王子と礼の間に影が飛び込んだ。
「朔!」
春日王子は礼を背中に庇い、こちらを見上げる朔に思わずその名を呼んだ。
「王子、相手は女人ですわ!このような暴力は嫌です。ましてや、これは私の妹のような者です。私に免じてこれ以上殴るのはおやめください」
朔は小さな声だが、春日王子を見上げて強い口調で言った。
「……わかった……今はお前を悲しませることはしない」
春日王子は怒りで手の震えが治まるのを待って言った。
「下がれ……私の前から今は消えろ。目に見えるところにいたら、何をするかわからん」
春日王子は礼に吐き捨てるように言うと背を向けて、上座の席に戻り膳の上に倒れた杯を持って中に残った酒をあおった。
朔は春日王子を追って上座に向かう前に、礼を振り返って声は出さずに唇だけ動かして、行け、と言った。
礼は朔の背中を見ていたが、やがて下を向いた。このままここにいたらいつ春日王子の逆鱗に触れるかわからない。そうなればせっかくの朔の助け舟も泡となる。
のろのろと緩慢に立ち上がり春日王子と朔の空間から礼は出て行った。
朔は春日王子の傍に座り、その体に寄り添って慰めたが、それは礼が背中を向けてからだった。
「その膳はそこに置いて、お前は酌をして回れ!」
いきなりそのような声が聞こえた。春日王子が杯に口をつけながらそう言い放ったのだ。
礼は末席に膳を置くと、徳利を取って杯を飲み干した者から順に酒を注いで回った。慣れない手つきが気に入らないようで、礼は何度か怒られた。それでも、礼は杯が空だと呼ばわる声が聞こえたら、飛んで行って酌をした。
春日王子の杯に酒を注いでいる朔は、食べる暇もないのか、目の前の膳には全く手をつけていない。礼は、お酌をしながら、または末席に座って朔を盗み見た。
春日王子は杯をぐいぐいと煽って、徳利の中の酒を飲み干していく。徳利の中身が無くなって朔は少し困った顔をしている。礼はそのことにすぐに気づいて、酒の入った徳利を持って上座に向かった。
「どうぞ」
礼から春日王子の手にある杯に徳利を傾けた。
「お前を貴族の妻としては扱わない。こうやって、婢のように働け」
注がれた酒を飲み干して、春日王子は礼を睨みつけて言った。礼は、徳利を朔の膳の上に置くと黙って下座の席に戻って行った。春日王子は空いた杯を朔の前に突き出して、酒を要求した。朔は礼が置いていった徳利を持ち上げてゆっくりと杯に注いだ。
春日王子のために泊まる場所や食料を先に回って段取りしている従者たちは、眼帯をした女は何者だろうかと訝しんだ。春日王子は侍女のように扱っているが、本当はそうではないようにみえるのだ。女は春日王子に敬意を払いつつも、怖がってはおらず、従順にしたがっているが挑戦的な視線を送っている。
礼は席に戻っても、酒がないとわめいている男の元に飛んで行って酌をしたり、無くなった徳利に酒を入れるために台所を往復したりとかいがいしく働いた。
少しばかり欠けている月が高く上がった頃には昼間の疲れが出て皆は飲みつぶれてしまって、ひっくり返ってうとうとし始めている。このままここに置いていてもいけないと春日王子の舎人は促して、まだ意識のある従者也近所から呼び寄せた下男を使って体を起こさせて、肩を貸して部屋から出て行かせた。
一人、一番下の席に座っている礼は動かずにいる。
舎人が礼の前に立って見下ろし、目でお前も下がれと言ってきたのを、礼は右目一つで見返した。「おい」と言って手を出しかけたその時、上座から声が飛んだ。
「いい。そのまま置いておけ。その女には周りのことをやらせるから」
舎人が上座を見ると、春日王子がこちらを睨んで言った。
「しかし」
「よいのだ。お前が傍にいても無粋だ。後のことはその女にさせる。お前は下がれ」
春日王子は下から上に手を振って舎人を追い払う。
舎人は礼を掴もうとした手を拳にしておさめ、落とした腰を上げて部屋を出て行った。
男たちが酔った足で出て行った後の部屋は飲み散らかされて、膳の上の皿はひっくり返り、徳利が倒されたりしている。そんな雑然とした中で、春日王子は隣に座っている朔を抱き寄せた。上座の正面に対するように下座に座っている礼は下を向いて、あえて上座の様子を見ないようにした。
ここで、朔を見守るだけ…と言い聞かせた。
「やっと落ち着いたな。誰もいなくなった。もっと傍に寄って、私を慰めてくれ。少し疲れた」
春日王子は囁いて、抱き寄せてしな垂れかかっただけの朔をさらに引き寄せて抱いた。朔は疲労が色濃く出ている春日王子の顔を心配そうに見上げた。
「日の照りつける中の厳しい進行でしたわ。王子がお疲れなのもわかります」
朔の言葉に春日王子は厳しい表情を崩して、笑った。
「こうして一旦都を離れなければならなくなったが、いつか私に再起する機会が訪れるだろう。その間を、お前とともに過ごせるのはよかった。北へと向かいやがて東の土地に腰を落ち着けようと思う。東国は都とは違って辺鄙なところだ。お前がいなければ退屈で退屈でたまらないだろうよ」
春日王子はぐっと顔を近づけて、朔の目の中を覗いた。そして、朔を抱き寄せた反対の手に持っていた杯を口に近づけた。
「王子、お酒が過ぎますわ。先ほどからお酒ばかり飲まれています」
「いくら飲んでも、飲んでも酔わぬ……」
春日王子は一旦朔から視線を外し、部屋の外に向けた。
「飲めば飲むほど意識は鮮明になり、頭が冴える気がする。なのに、余計なことばかり考えて、心は晴れぬ」
春日王子は呟くと、また朔へと視線を戻した。
「……王子……」
明らかに苦悩している王子に、朔も春日王子の目の中を覗き込んで、二人の顔は近づいた。春日王子は朔の頬を掴むと顔を近づけ、唇を重ねて吸った。激しく。勢いがあって、朔は自分の体を支えることができず横に倒れてしまい、膳にぶつかってカラカラと膳の上の器が飛び散る音がした。
上座の二人を見ないように下を向いていた礼は驚いて、上座に視線をむけると、春日王子が朔を押し倒し覆いかぶさっているところだった。礼は春日王子の色情に任せた艶めかしい姿に礼は目を背けようとしたが、それよりも早く、下座の礼が身じろぎしたのに気付いた春日王子が、朔の口を吸いながら礼を見ている。ゆっくりと朔の唇を吸って離した。それから頬に口づけて朔に触れながらじっと礼を見て、最後に春日王子は嗤った。にやりと、礼の驚いた顔を嘲っているように。そして、もう一度朔の頬に手をやると、じっと見つめてから再び口を吸ってやる。
礼は春日王子と朔の痴情の様から目を逸らして、この刻をやり過ごそうと思ったがまた上座からガラガラと音が鳴った。礼は再び驚いて上座へと目を遣ると、春日王子が朔の裳の中に手を入れて、足を捕えるところだった。猛る欲情に身を任せているのだ。
礼は思わず立ち上がった。その時に、目の前の膳に膝をぶつけて、膳ごとひっくり返してしまった。
下座からの大きな物音に、春日王子は動きを止めてその音の方を見た。
礼が膳を前にひっくり返して四つん這いになってこちらを見ている姿が見えた。
春日王子はその姿が勘に触った。
間抜けな姿の女がこちらを見ている。
自分の思うように物事は進まない。何かが邪魔をする。今も、大きな音を立てて、自分の淫靡な欲望を中断させられた。
春日王子は怒りに任せて立ち上がり、板を踏み鳴らして礼の前まで来た。礼は躓いて四つん這いになった格好をすぐに直して正座した。目の前に立った春日王子の勢いが触れられてもいないのに強い圧力に感じさせて礼は恐怖した。
「お前は、私の邪魔をするな!お前は、お前たちはいつも私の前に現れて邪魔をする。腹立たしい。言っただろう、私はお前をいつでも殺すことができる。今も、お前を殺すことはできるのだぞ」
そう言って礼を威嚇した。
礼は一つだけの目で春日王子を見上げた。それは殺すという言葉に死にたくないという思いが自然にさせたことだが、その目が春日王子には挑戦的に見えて、反射的に振り上げた右手を勢いよく下ろした。
礼の体が横に吹っ飛ぶほどの力で顔を殴り、倒れた礼を再び殴りつけようと一歩踏み込んだ時に、春日王子と礼の間に影が飛び込んだ。
「朔!」
春日王子は礼を背中に庇い、こちらを見上げる朔に思わずその名を呼んだ。
「王子、相手は女人ですわ!このような暴力は嫌です。ましてや、これは私の妹のような者です。私に免じてこれ以上殴るのはおやめください」
朔は小さな声だが、春日王子を見上げて強い口調で言った。
「……わかった……今はお前を悲しませることはしない」
春日王子は怒りで手の震えが治まるのを待って言った。
「下がれ……私の前から今は消えろ。目に見えるところにいたら、何をするかわからん」
春日王子は礼に吐き捨てるように言うと背を向けて、上座の席に戻り膳の上に倒れた杯を持って中に残った酒をあおった。
朔は春日王子を追って上座に向かう前に、礼を振り返って声は出さずに唇だけ動かして、行け、と言った。
礼は朔の背中を見ていたが、やがて下を向いた。このままここにいたらいつ春日王子の逆鱗に触れるかわからない。そうなればせっかくの朔の助け舟も泡となる。
のろのろと緩慢に立ち上がり春日王子と朔の空間から礼は出て行った。
朔は春日王子の傍に座り、その体に寄り添って慰めたが、それは礼が背中を向けてからだった。
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