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第三部 Waiting All Night
72話
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実言は哀羅王子の後ろについて、帰りの車の用意でざわめいている車宿の中へ突入した。大勢の人が右往左往していて、牛や馬も入り乱れている。追手は人や馬に行く手を阻まれながら、実言の背中に手を伸ばす。実言は振り向き、手に取った剣の柄で一人の手を払い、すぐさま下におろして鞘に入った剣身で後ろから来たもう一人の足をかけた。二人は不意打ちを食らって重なるように倒れた。
馬の列を抜けると、そこに耳丸が馬の手綱を持って待っていた。
「耳丸、門の外まで誘導してくれ」
実言は哀羅王子の背中を抱くようにして、馬を連れた耳丸の後ろをついて行き、人馬でごった返している門を突っ切った。門の外では自分の邸に帰る王族、貴族の車や馬が左右に分かれて渋滞している。
実言が先に馬に乗った。耳丸に助けられて哀羅王子が馬の背に飛び乗ると、実言は耳丸に言った。
「耳丸、あとは礼を見てくれ。礼を邸へと連れ帰る算段をしたら、例の場所へ来い」
終わると間髪入れずに馬の腹を蹴って走らせた。
「実言、どこへ!」
実言の胴につかまって哀羅王子が問うた。
「秘密の隠れ家です。私たちを追う者があれば皆断つように言ってありますが、相手も必死でしょう。どこまで防げるか」
実言は慎重に人通りのない道に馬を走らせて、都の南へと進路を取った。そこで、ごおぉっと大きな風の音が迫ってくると思ったら、実言と哀羅王子の横を矢が突っ切って行った。
「王子、しっかりとつかまって」
追手は弓を射ってきた。一矢で終わることはなく、次々と放たれる。二人の体の遠くへ逸れていくものもあれば、近くを通過する矢もある。
実言は、我が家来がきっと春日王子の追手を仕留めてくれると信じて、後ろを見向きもせず馬を走らせた。飛んでくる矢の量が少なくなって苦戦しながらも相手を食い止めているのだと感じたが、まだしつこく矢は飛んでくる。矢が飛んでくる間隔から、矢を射っているのはもう一人だけだと想像できた。これをかわしたら、どうにか逃げ切れたはずだ。
風を切る強い音が後ろから、真っすぐにこちらに迫ってきた。実言は馬の腹を蹴ってより速足にしたが、風の音が通り抜けるのと同時に、哀羅王子が呻いた。
「王子!」
「……大丈夫だ。そのまま走れ、そのまま走ってくれ」
「どこです?矢はどこに当たったのですか!」
「腕だよ。たいしたことはない。かすっただけだ」
王子は馬から振り落とされまいと、実言の胴に巻く腕に力を込めた。実言は少し馬の速度を落として、四条西の外れにある岩城園栄の別邸へと向かった。そこは園栄の持ち物であるが、公に知られておらず隠れるにはもってこいの邸だった。
「王子、もう少しのご辛抱を」
邸に入ればどうとでもなる。実言は王子を心配しながらも心を鬼にして馬を走らせた。
哀羅王子は、額を実言の背中につけて乗るように呟く。
「止まってはいけない。今こそ私は自分の歩くはずの道に戻るのだ。どんなことがあっても、たどり着く。実言、お前は私をそこへ連れて行く役目なんだ。どうか、頼む」
それは誰に聞かせ伝えようというものではなく、己に言い聞かせているのだった。哀羅王子の心の声が言葉になり口から出たのだ。
いつもなら閑静な都の外れであるこの邸の前に、松明が何本もゆらめいて右に左に動いている。実言が邸に待たせていた家来たちが心配して何人かが外に出ていたのだった。
「実言様」
一人の男があたりを憚りながら実言の名を呼んで、男が二人走ってきた。実言は勢い余って男たちを通り過ぎて、門の前でやっと馬を止めた。男たちは息を切らして戻ってくると馬の口を取って、馬を鎮めた。実言は体をひねって哀羅王子の体を支えるとすぐに下に待機している者に哀羅王子を受け取るように指示した。門の中から他にも二人出てきて、半ばずり落ちるように馬の背から下りる哀羅王子を受け止めた。実言もすぐに馬から降りて、哀羅王子の傍について。
「王子!王子!」
目を瞑っている王子に、実言はもっと大きな声で王子を呼ぼうとしたところで、王子が目を開いた。
「大丈夫だ。馬に乗ってこんなに早く走ったり、体に矢を受けたりしたことがないから、体がついていけてないだけさ」
哀羅王子は安心させようと思ったのか、おどけたことを言って笑っているが、王子の体はだいぶ参っているようだ。王子は腕に痛みが走って目をつむり歯を食いしばって、顔を歪めた。
「すぐに手当てをしなければ」
実言は哀羅王子の横について、邸の中に運んだ。
実言は嫌な予感がした。もしかしたら、矢の先に毒が塗ってあったかもしれない。もしそうであれば、痩せた王子の体力がどこまで持つか。最悪のことを想像すると、実言は膝に置いた拳を握り締めた。
哀羅王子を安心して任せられる、信頼できる医者を呼び寄せて見せなくては。手遅れになってはいけない。
信頼できる医者……そう考えた時、実言にはその医者の顔しか浮かばなかった。
「伊笹宇(いささう)!」
この隠れ邸のことを任せてる男の名を呼んだ。静かだが早い足の運びで部屋に入ってきて、実言の後ろにしゃがんだ。
「妻の礼をここに連れてきてくれ。耳丸を迎えに行かせたから、邸に帰ったはずだ。矢の傷を負った方に手当が必要だから来てほしいと伝えてくれ。矢には毒が塗ってあったかもしれない。それらに効く薬と一緒に一刻も早くここへ連れてきてくれ」
実言には信頼できる医者は誰かと考えた時、妻の顔しか浮かばなかった。よくよく知識のある腕のいい医者だ。
どこまでもいっても、私を助けてくれる守り神だと、実言は心の中で微笑した。礼が来れば、哀羅王子は助かる気がした。
やれるだけのことするのだ。十五年前に助けられなかった王子を再び助けられないなんてことでは自分が許せない。
実言は礼のことを思って綻んだ心をもう一度引き締めて、寝ている王子を見つめた。
「こっちだ。ほら……足は痛くない?……頭は重くない?」
月夜の小道に二つの影が動いている。前を行く影は、後ろをついてくる影をいたわりながら、ゆっくりとした足取りである。影の縁は途切れていないから、二人は手を繋いで歩いてる。
誰もいない静かな道に小声がぼそぼそと響くのだった。
「大丈夫よ。歩くのは慣れているから。もっと早く歩いても平気よ。それよりも、麻奈見に悪いわ。こんなふうに邸まで送ってもらうなんて」
後ろを歩いていた影❘礼は申し訳なさそうに言う。
「何を言うの?こんな心細い夜道を礼一人で歩かせられるわけない。ましてや、礼の知らない人物が礼を探しているんだ。捕まったらどんなことになるかわからない。一人にしておけないよ。万が一礼に何かあったとしたら、私は実言に会わせる顔がないよ」
礼はそれ以上は言わずに、麻奈見に手を引かれて歩いた。麻奈見が面はしておけ、というので面をつけたままである。
岩城本家の邸に着いたが、その塀は切れ目なくどこまでも続く。長く続く塀に沿って歩きながら、麻奈見は礼が誰かに攫われそうになっているというのに、この状況を密かに楽しく思った。こうして夜道を礼の手を握って歩くのは心躍る出来事だった。人の妻になっても、麻奈見の初恋の相手である礼への思慕は変わらなかった。子供の頃から知っている優しい少女は美しい女人となり、権力者の妻になっても変わりなく昔のままである。こうして、手を握ることを許し、麻奈見のことを心配して申し訳なさそうに労わりの言葉を言っていくれる。麻奈見にとって、それはそれは嬉しい言葉だった。
「ああ、もうすぐ門にたどり着くわ」
岩城本家の邸をめぐる塀には正門の他にも、いくつか門がある。どの門にも番人がついていて、門を叩けば内側から番人が応対するようになっていた。礼はそれをわかっていて、門が見えたところでそう声を掛けた。
麻奈見にとっては礼とのつかの間の恋人気分が終わることを告げていた。
麻奈見は立ち止まり、後ろを歩く礼に振り向いた。
「麻奈見?」
礼は不意の麻奈見の行動に少し驚いた。麻奈見はゆっくりと礼を抱き寄せたのだ。
「礼、あなたに何もなくてよかった」
麻奈見は礼の耳に口を寄せて言った。礼は、その言葉に今夜の変な出来事を改めて思い返して、麻奈見がいてくれなかったらどんなことになっていたかと不安を覚えて、感謝の気持ちが沸き上がった。
礼は麻奈見の腕の中でじっとしていた。舞の衣装に焚きこんだ香りと、少しの汗の匂いがする。
麻奈見は礼から体を離して、礼の顔に被せたままだった面を取った。面で覆われていた礼の肌に夜のひんやりとした空気が触れた。
「礼……相手を欺くために私たちはひと時でも恋人になった。もう少しだけ、秘密の逢瀬を味わせて。少しばかりの戯れに付き合ってくれない」
麻奈見は礼の右目を見つめて言った。しばらくすると、礼は恥ずかしそうに麻奈見を見上げて微笑んだ。
麻奈見にとっては礼の笑顔は他にもなく美しく思えて、それを捕まえたくて手に持っていた面を自分が被って礼を抱きしめたい気持ちを我慢した。
「麻奈見?」
礼は驚いて麻奈見に問いかけたが、麻奈見はそのまま礼の手を握って歩き出した。門の手前まで来たら、面を外して礼を振り向いた。
「あなたが可愛らしいから邪な気持ちが起こる」
小さな声で言ったので、礼には麻奈見は何と言ったのかわからなかった。小首を傾げて麻奈見を見上げている。そんな礼の様子を見て、麻奈見は聞こえていないのだとわかった。しかし、こんな一方的な気持ちを礼が知っても、それは礼を戸惑わせ苦しませるだけだ。
麻奈見は門を叩いて内側にいる門番を起こした。すぐに門は少しばかり開いて、外の様子を窺った。
「私は麻奈見という宮廷楽団の一員です。実言様の奥様をお連れしました」
麻奈見の背中に隠れていた礼が姿を現すと、門番は目を凝らして麻奈見という男の後ろに立つ女を見た。
左目を隠した小柄な女人が立っている。
門の内側では、邸の他の従者も集まってきた。
「どうした?」
「実言様の奥様を連れて来たという者がいまして」
「何?」
邸から出て来た男は少し開けた門の隙間から外を窺った。その隙間から左目に眼帯をした女人を見た。
「これは、実言様の奥様だ。早く開けろ!」
実言の妻を見たことがあるその男は慌てて指示をし、門は開かれた。
「奥様!」
礼は呼びかけられ、門の中へと入れられた。
「月の宴で、誰かにつけ狙われていて、この宮廷楽団の麻奈見殿に助けられてここまで身を隠して逃げて来たの。園栄お父様はもうお帰りになったかしら。そうであれば少しお話したいから、どうか取次をお願いします」
そういうと、男は門番たちに指示をして、邸に走らせた。
礼は、後ろにいる麻奈見に振り返って言った。
「麻奈見、時間が許すなら邸で休んで行って」
麻奈見は首を横に振り、一歩礼近づいた。
「私の役目はここまでだ。帰るよ。あなたと秘密の逢瀬ができて楽しかった」
冗談交じりのように笑って麻奈見はあとずさった。
邸のものに素早く説明するその姿に麻奈見は何度ももう子供の頃の礼でないのだと言い聞かせた。それは、権力者の夫人であった。
「麻奈見、気を付けて。実言にも今日のことを話すわ。どんなにあなたに感謝することか」
麻奈見は何度も頷いてから門の外へと出て行った。そうすると重い門は閉まって、外からの侵入を拒んだ。
礼の元に年配の侍女が走り寄ってきた。前に礼の傍について後宮の碧妃の元に言っていた淑であった。
「礼様」
「淑!あなたなの」
「今、五条の邸から使いが来ています。礼様が翔丘殿にもおらず、五条の邸にも帰ってきていないと言って」
礼はここで、五条の者と落ち合えてよかったと、安堵した。
通された部屋で礼が人心地ついていると、園栄が自ら入ってきた。
「お父さま、お帰りでしたか……」
「今日の昼間の出来事は聞いているよ。ここまで供も付けずに来たのはどのようないきさつなのか。お前の行方が知れないと五条から慌てて人が来たよ」
「何者かが私を探しているとわかって、宮廷楽団の麻奈見が私をうまい具合に逃がしてくれました。帰りの車を待っていては捕まってしまうので、こうして翔丘殿から近い本家に連れてきてもらったのです」
「そうか。お前が無事でよかった。お前をどうやって探そうかと考えていたところだったよ」
礼は、本家にたどり着けたことがこの場合、事態を悪くしない最善であったことを知った。
「礼、お前にとっては大変な一日だっただろう。束蕗原の去様からお預かりしている娘が命を落としたそうだな。去様に、申し訳ないことをした」
礼は園栄のその言葉を聞いて、記憶の奥に押し込めようとしていた昼間の出来事を思い出した。
「お父さま……」
礼はそう呟いて、顔を両手で覆った。ほっておくと涙がこぼれそうになるからだった。
「……礼、お前は心身共に疲れ切っているところに、追い打ちをかけるようなことをお願いするが、怪我人がいるのだ。その手当に行ってくれないか」
「……怪我人?……まさか、実言様が!」
「違う、実言ではない」
一瞬にして青ざめた礼に、園栄はすぐに否定をしてやった。
「実言が私の別邸にお連れした方だ。そこに実言が待っている。早く行っておくれ。これを頼める信頼できる医者はお前しかいないのだよ」
聞けば五条の邸から薬草などを持った侍女が別邸に向かっているということで、礼も息をつく暇もなく本家に来ていた耳丸ともう一人の男に付き添われて馬に乗って岩城家の別邸へと向かった。
馬の列を抜けると、そこに耳丸が馬の手綱を持って待っていた。
「耳丸、門の外まで誘導してくれ」
実言は哀羅王子の背中を抱くようにして、馬を連れた耳丸の後ろをついて行き、人馬でごった返している門を突っ切った。門の外では自分の邸に帰る王族、貴族の車や馬が左右に分かれて渋滞している。
実言が先に馬に乗った。耳丸に助けられて哀羅王子が馬の背に飛び乗ると、実言は耳丸に言った。
「耳丸、あとは礼を見てくれ。礼を邸へと連れ帰る算段をしたら、例の場所へ来い」
終わると間髪入れずに馬の腹を蹴って走らせた。
「実言、どこへ!」
実言の胴につかまって哀羅王子が問うた。
「秘密の隠れ家です。私たちを追う者があれば皆断つように言ってありますが、相手も必死でしょう。どこまで防げるか」
実言は慎重に人通りのない道に馬を走らせて、都の南へと進路を取った。そこで、ごおぉっと大きな風の音が迫ってくると思ったら、実言と哀羅王子の横を矢が突っ切って行った。
「王子、しっかりとつかまって」
追手は弓を射ってきた。一矢で終わることはなく、次々と放たれる。二人の体の遠くへ逸れていくものもあれば、近くを通過する矢もある。
実言は、我が家来がきっと春日王子の追手を仕留めてくれると信じて、後ろを見向きもせず馬を走らせた。飛んでくる矢の量が少なくなって苦戦しながらも相手を食い止めているのだと感じたが、まだしつこく矢は飛んでくる。矢が飛んでくる間隔から、矢を射っているのはもう一人だけだと想像できた。これをかわしたら、どうにか逃げ切れたはずだ。
風を切る強い音が後ろから、真っすぐにこちらに迫ってきた。実言は馬の腹を蹴ってより速足にしたが、風の音が通り抜けるのと同時に、哀羅王子が呻いた。
「王子!」
「……大丈夫だ。そのまま走れ、そのまま走ってくれ」
「どこです?矢はどこに当たったのですか!」
「腕だよ。たいしたことはない。かすっただけだ」
王子は馬から振り落とされまいと、実言の胴に巻く腕に力を込めた。実言は少し馬の速度を落として、四条西の外れにある岩城園栄の別邸へと向かった。そこは園栄の持ち物であるが、公に知られておらず隠れるにはもってこいの邸だった。
「王子、もう少しのご辛抱を」
邸に入ればどうとでもなる。実言は王子を心配しながらも心を鬼にして馬を走らせた。
哀羅王子は、額を実言の背中につけて乗るように呟く。
「止まってはいけない。今こそ私は自分の歩くはずの道に戻るのだ。どんなことがあっても、たどり着く。実言、お前は私をそこへ連れて行く役目なんだ。どうか、頼む」
それは誰に聞かせ伝えようというものではなく、己に言い聞かせているのだった。哀羅王子の心の声が言葉になり口から出たのだ。
いつもなら閑静な都の外れであるこの邸の前に、松明が何本もゆらめいて右に左に動いている。実言が邸に待たせていた家来たちが心配して何人かが外に出ていたのだった。
「実言様」
一人の男があたりを憚りながら実言の名を呼んで、男が二人走ってきた。実言は勢い余って男たちを通り過ぎて、門の前でやっと馬を止めた。男たちは息を切らして戻ってくると馬の口を取って、馬を鎮めた。実言は体をひねって哀羅王子の体を支えるとすぐに下に待機している者に哀羅王子を受け取るように指示した。門の中から他にも二人出てきて、半ばずり落ちるように馬の背から下りる哀羅王子を受け止めた。実言もすぐに馬から降りて、哀羅王子の傍について。
「王子!王子!」
目を瞑っている王子に、実言はもっと大きな声で王子を呼ぼうとしたところで、王子が目を開いた。
「大丈夫だ。馬に乗ってこんなに早く走ったり、体に矢を受けたりしたことがないから、体がついていけてないだけさ」
哀羅王子は安心させようと思ったのか、おどけたことを言って笑っているが、王子の体はだいぶ参っているようだ。王子は腕に痛みが走って目をつむり歯を食いしばって、顔を歪めた。
「すぐに手当てをしなければ」
実言は哀羅王子の横について、邸の中に運んだ。
実言は嫌な予感がした。もしかしたら、矢の先に毒が塗ってあったかもしれない。もしそうであれば、痩せた王子の体力がどこまで持つか。最悪のことを想像すると、実言は膝に置いた拳を握り締めた。
哀羅王子を安心して任せられる、信頼できる医者を呼び寄せて見せなくては。手遅れになってはいけない。
信頼できる医者……そう考えた時、実言にはその医者の顔しか浮かばなかった。
「伊笹宇(いささう)!」
この隠れ邸のことを任せてる男の名を呼んだ。静かだが早い足の運びで部屋に入ってきて、実言の後ろにしゃがんだ。
「妻の礼をここに連れてきてくれ。耳丸を迎えに行かせたから、邸に帰ったはずだ。矢の傷を負った方に手当が必要だから来てほしいと伝えてくれ。矢には毒が塗ってあったかもしれない。それらに効く薬と一緒に一刻も早くここへ連れてきてくれ」
実言には信頼できる医者は誰かと考えた時、妻の顔しか浮かばなかった。よくよく知識のある腕のいい医者だ。
どこまでもいっても、私を助けてくれる守り神だと、実言は心の中で微笑した。礼が来れば、哀羅王子は助かる気がした。
やれるだけのことするのだ。十五年前に助けられなかった王子を再び助けられないなんてことでは自分が許せない。
実言は礼のことを思って綻んだ心をもう一度引き締めて、寝ている王子を見つめた。
「こっちだ。ほら……足は痛くない?……頭は重くない?」
月夜の小道に二つの影が動いている。前を行く影は、後ろをついてくる影をいたわりながら、ゆっくりとした足取りである。影の縁は途切れていないから、二人は手を繋いで歩いてる。
誰もいない静かな道に小声がぼそぼそと響くのだった。
「大丈夫よ。歩くのは慣れているから。もっと早く歩いても平気よ。それよりも、麻奈見に悪いわ。こんなふうに邸まで送ってもらうなんて」
後ろを歩いていた影❘礼は申し訳なさそうに言う。
「何を言うの?こんな心細い夜道を礼一人で歩かせられるわけない。ましてや、礼の知らない人物が礼を探しているんだ。捕まったらどんなことになるかわからない。一人にしておけないよ。万が一礼に何かあったとしたら、私は実言に会わせる顔がないよ」
礼はそれ以上は言わずに、麻奈見に手を引かれて歩いた。麻奈見が面はしておけ、というので面をつけたままである。
岩城本家の邸に着いたが、その塀は切れ目なくどこまでも続く。長く続く塀に沿って歩きながら、麻奈見は礼が誰かに攫われそうになっているというのに、この状況を密かに楽しく思った。こうして夜道を礼の手を握って歩くのは心躍る出来事だった。人の妻になっても、麻奈見の初恋の相手である礼への思慕は変わらなかった。子供の頃から知っている優しい少女は美しい女人となり、権力者の妻になっても変わりなく昔のままである。こうして、手を握ることを許し、麻奈見のことを心配して申し訳なさそうに労わりの言葉を言っていくれる。麻奈見にとって、それはそれは嬉しい言葉だった。
「ああ、もうすぐ門にたどり着くわ」
岩城本家の邸をめぐる塀には正門の他にも、いくつか門がある。どの門にも番人がついていて、門を叩けば内側から番人が応対するようになっていた。礼はそれをわかっていて、門が見えたところでそう声を掛けた。
麻奈見にとっては礼とのつかの間の恋人気分が終わることを告げていた。
麻奈見は立ち止まり、後ろを歩く礼に振り向いた。
「麻奈見?」
礼は不意の麻奈見の行動に少し驚いた。麻奈見はゆっくりと礼を抱き寄せたのだ。
「礼、あなたに何もなくてよかった」
麻奈見は礼の耳に口を寄せて言った。礼は、その言葉に今夜の変な出来事を改めて思い返して、麻奈見がいてくれなかったらどんなことになっていたかと不安を覚えて、感謝の気持ちが沸き上がった。
礼は麻奈見の腕の中でじっとしていた。舞の衣装に焚きこんだ香りと、少しの汗の匂いがする。
麻奈見は礼から体を離して、礼の顔に被せたままだった面を取った。面で覆われていた礼の肌に夜のひんやりとした空気が触れた。
「礼……相手を欺くために私たちはひと時でも恋人になった。もう少しだけ、秘密の逢瀬を味わせて。少しばかりの戯れに付き合ってくれない」
麻奈見は礼の右目を見つめて言った。しばらくすると、礼は恥ずかしそうに麻奈見を見上げて微笑んだ。
麻奈見にとっては礼の笑顔は他にもなく美しく思えて、それを捕まえたくて手に持っていた面を自分が被って礼を抱きしめたい気持ちを我慢した。
「麻奈見?」
礼は驚いて麻奈見に問いかけたが、麻奈見はそのまま礼の手を握って歩き出した。門の手前まで来たら、面を外して礼を振り向いた。
「あなたが可愛らしいから邪な気持ちが起こる」
小さな声で言ったので、礼には麻奈見は何と言ったのかわからなかった。小首を傾げて麻奈見を見上げている。そんな礼の様子を見て、麻奈見は聞こえていないのだとわかった。しかし、こんな一方的な気持ちを礼が知っても、それは礼を戸惑わせ苦しませるだけだ。
麻奈見は門を叩いて内側にいる門番を起こした。すぐに門は少しばかり開いて、外の様子を窺った。
「私は麻奈見という宮廷楽団の一員です。実言様の奥様をお連れしました」
麻奈見の背中に隠れていた礼が姿を現すと、門番は目を凝らして麻奈見という男の後ろに立つ女を見た。
左目を隠した小柄な女人が立っている。
門の内側では、邸の他の従者も集まってきた。
「どうした?」
「実言様の奥様を連れて来たという者がいまして」
「何?」
邸から出て来た男は少し開けた門の隙間から外を窺った。その隙間から左目に眼帯をした女人を見た。
「これは、実言様の奥様だ。早く開けろ!」
実言の妻を見たことがあるその男は慌てて指示をし、門は開かれた。
「奥様!」
礼は呼びかけられ、門の中へと入れられた。
「月の宴で、誰かにつけ狙われていて、この宮廷楽団の麻奈見殿に助けられてここまで身を隠して逃げて来たの。園栄お父様はもうお帰りになったかしら。そうであれば少しお話したいから、どうか取次をお願いします」
そういうと、男は門番たちに指示をして、邸に走らせた。
礼は、後ろにいる麻奈見に振り返って言った。
「麻奈見、時間が許すなら邸で休んで行って」
麻奈見は首を横に振り、一歩礼近づいた。
「私の役目はここまでだ。帰るよ。あなたと秘密の逢瀬ができて楽しかった」
冗談交じりのように笑って麻奈見はあとずさった。
邸のものに素早く説明するその姿に麻奈見は何度ももう子供の頃の礼でないのだと言い聞かせた。それは、権力者の夫人であった。
「麻奈見、気を付けて。実言にも今日のことを話すわ。どんなにあなたに感謝することか」
麻奈見は何度も頷いてから門の外へと出て行った。そうすると重い門は閉まって、外からの侵入を拒んだ。
礼の元に年配の侍女が走り寄ってきた。前に礼の傍について後宮の碧妃の元に言っていた淑であった。
「礼様」
「淑!あなたなの」
「今、五条の邸から使いが来ています。礼様が翔丘殿にもおらず、五条の邸にも帰ってきていないと言って」
礼はここで、五条の者と落ち合えてよかったと、安堵した。
通された部屋で礼が人心地ついていると、園栄が自ら入ってきた。
「お父さま、お帰りでしたか……」
「今日の昼間の出来事は聞いているよ。ここまで供も付けずに来たのはどのようないきさつなのか。お前の行方が知れないと五条から慌てて人が来たよ」
「何者かが私を探しているとわかって、宮廷楽団の麻奈見が私をうまい具合に逃がしてくれました。帰りの車を待っていては捕まってしまうので、こうして翔丘殿から近い本家に連れてきてもらったのです」
「そうか。お前が無事でよかった。お前をどうやって探そうかと考えていたところだったよ」
礼は、本家にたどり着けたことがこの場合、事態を悪くしない最善であったことを知った。
「礼、お前にとっては大変な一日だっただろう。束蕗原の去様からお預かりしている娘が命を落としたそうだな。去様に、申し訳ないことをした」
礼は園栄のその言葉を聞いて、記憶の奥に押し込めようとしていた昼間の出来事を思い出した。
「お父さま……」
礼はそう呟いて、顔を両手で覆った。ほっておくと涙がこぼれそうになるからだった。
「……礼、お前は心身共に疲れ切っているところに、追い打ちをかけるようなことをお願いするが、怪我人がいるのだ。その手当に行ってくれないか」
「……怪我人?……まさか、実言様が!」
「違う、実言ではない」
一瞬にして青ざめた礼に、園栄はすぐに否定をしてやった。
「実言が私の別邸にお連れした方だ。そこに実言が待っている。早く行っておくれ。これを頼める信頼できる医者はお前しかいないのだよ」
聞けば五条の邸から薬草などを持った侍女が別邸に向かっているということで、礼も息をつく暇もなく本家に来ていた耳丸ともう一人の男に付き添われて馬に乗って岩城家の別邸へと向かった。
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