Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

71話

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 兄である大王が大后とともに部屋を下がって王宮へ戻る輿に乗る頃、春日王子の後ろにそっと影が忍び寄り、その耳に囁いた。
 春日王子の顔はみるみる怒りの形相に変わり、冠の中にきれいに収まっている髪は見えないが逆立っているように思えた。無言のまま、憤怒の顔は右に連なる王族がならぶ席を睨んだ。春日王子に改まって挨拶をしようと近づいた者が、その顔を窺うと驚いて身を引くほどに、恐ろしい表情だった。
 春日王子の目は一人の男を探していた。王族の座る席に座っているであろう男の姿を。
「……哀羅ぁ!」
 春日王子は哀羅王子の姿が見えると、自然と声が出ていた。それは、今の表情をそのまま声にしたような低く恐ろしい声だった。
 春日王子に忍び寄って耳打ちした間者は哀羅王子を見張っていた者からの報告を伝えた。哀羅王子に仕える老爺が大田輪王の邸を経由して、岩城実言の邸に入った。事前の情報で何か託された物が運び込まれるということはわかっていた。だから岩城邸に入れていた間者によって託された物を奪ったが、その細い箱を開けてみると誰が歌ったのかわからない歌が書かれた巻物が入っていた。これを見て、この箱は囮であるとわかった。本当に持ち込みたかった物はどこへ……。
 それを聞いた春日王子は、直観が走った。
 あれだ!
 聞いた瞬間、春日王子は哀羅王子が何を岩城に差し出したかわかった。自分に返却することを渋った、春日王子に忠誠を誓うと仲間たちが署名した連判状であると。
 庇の間から簀子縁を歩く知り合いを見つけて声を掛けようと飛び出したところに、春日王子が歩き出した前を横切ろうものなら、王子は邪魔だとばかりその者を押しのけて、男は庇の間に転がった。
 春日王子の唸るような声が近づいてきたことに気付いた哀羅王子はその方へ顔を向けた。全身から放たれる怒りの感情剥き出しの春日王子が見えた。
 自分の方を向いた哀羅王子を見て、春日王子はもう一度哀羅王子の名を呼んだ。
「哀羅!お前!」
 哀羅王子は春日王子が自分が第一にやり遂げたことを知ったのだと分かった。自分の所業が春日王子の知るところになれば、どのような報復を受けるか覚悟していたが、実際に怒髪衝天の春日王子がこちらに向かってくるのを見ると足がすくむ思いだった。
 春日王子は、ただ哀羅王子だけを見つめてその姿へと近づいて行った。哀羅王子を捕まえて己が何をしたのか、命を持って教えてやろうと思った。
 春日王子の哀羅王子だけを映す視界に、横から影が入った。その影は、春日王子の方を向いて、背中で哀羅王子を隠した。
 春日王子は儀式などに着用する武官のきらびやかな衣装がいきなり横から入って来たことに驚き、顔を上げた。
「……岩城……」
 春日王子は自分の前に立ちはだかった男の名を呟いた。一瞬、春日王子は岩城実言と視線を合わせた。不敵な視線が交錯したかと思ったら、岩城実言は翻って春日王子に背中を見せて、哀羅王子の方に走った。
哀羅王子は突然自分の前に立ちはだかった実言に驚いた。そして、実言が近づいてきて、「さあ、行きましょう」と声をかけられると、すくんだ足が素直に前に出た。
「実言!」
「哀羅様。私は誓ったはずです。私はあなたを守ると。あなたが私に託してくれた物をしっかりと受け取りました。後は我々が逃げ切るだけです」
 哀羅王子は実言の言葉を聞いて、不安と安堵のない交ぜの思いで実言に支えられながら走り出した。

 春日王子は、哀羅王子と岩城実言が背を向けて走り出したのを追った。このまま逃げられては、あちらに有利な物的証拠を渡したままになる。自分の後ろにぴたりと付き従っている間者に振り返った。
「岩城実言の妻がこの宴に出席しているはずだ。その女を捕まえろ。左目に眼帯をしている女だからすぐにわかる」
 岩城にとっての弱みは妻だ。あの女を捕まえて、殺すとでも脅せばあの男も考えるだろう。 

 礼は、碧妃を見送った後、自分の帰る車の用意ができるまで控えの部屋に座っていた。部屋の中は他にも車の用意ができるのを待っている人とその付き人とでざわめいている。礼は、ひょっこりと実言が現れはしないかと、人の往来があるたびに顔を上げては、下を向いた。その時、簀子縁から庇の間に人が入ってきた。例によって礼は顔を上げた。
 そこで、声を上げた・
「……麻奈見!」
 部屋に入ってきたのは、身分は違えども幼馴染である宮廷楽団を率いる麻奈見だった。麻奈見は笑顔で礼のところにやってきた。
「やあ、礼。実言はこちらに来る予定かな」
 礼の前に膝をつくと聞いた。
「いいえ。そんな約束にはなっていないわ」
 麻奈見は宴の最期を飾った舞の衣装のままである。
「来てくれたらうれしいけども。……あなたの舞を見たわ。いつものことながらあなたの舞は素晴らしいわ。今日も息をするのも忘れるほどに見入ってしまった。大王も心を動かされたご様子だった」
「とても栄誉なことだよ。私も嬉しかった」
 麻奈見は目尻を下げた。
「実言に何かご用があったの?」
「いいや、こんな時しかゆっくりと話をすることができないから探していた。礼を迎えにこちらに来ているかと思ったよ」 
「本当に、子供の頃のように話せないわね。気安くうちに来てほしいけど、あなたも実言も忙しくしているから時間がないわね」
「実言が忙しいのさ。……礼は変わりないね」
 麻奈見は心のなかで、可愛らしいままだ、と呟く。
 礼は久しぶりの麻奈見と対面が楽しいはずなのに、落ち着かない心が表情を曇らせる。
 簀子縁を足早に歩く男が庇の間に顔を突っ込んで部屋の中を見回している。探している人が見つからないのか、一旦簀子縁に出た。飲み食いした後の膳を運ぶ女官に話しかけた。
「片目の女を知らないか?もう帰ったか?」
 話しかけられた女官は首を振ってわからないと言った。
 その会話を麻奈見の耳は捉えていた。片目の女とは、自分の目の前で物静かに話す礼のことではないか。礼を探さしているとはどういうことだろう。片目の女と言っているのは、敬意も何もあったものでない。礼を知らない者が何かの目的で探しているのだ。
 麻奈見は悪い予感がした。
「礼、少し庭でも見ようか」
 礼は唐突な麻奈見の申し出に面食らったが、すぐに麻奈見が礼の膝の上の手を取って自ら立ち上がったので、礼も自動的に立ち上がらずをえなかった。
「麻奈見?」
「月はまだ上がっている。この宮殿の池に映る姿を見せたい。ほら、こっちだ」
 強引な麻奈見の行動に戸惑いながら礼は簀子縁に出た。
 麻奈見は先ほど片目の女を探していた男が向かって行ったのとは反対側を歩いた。
「この宮殿は、池の中に浮かんでいる風流なものだよ。車の用意ができるまで、少しその景色を楽しもう」
 麻奈見に誘われるままに礼は従った。麻奈見は礼の左側に立ち、左目の眼帯を隠すように体を寄せた。
「その昔、この池が映す月を見ながら私は実言とあなたに笛の演奏を聞かせたね。懐かしい思い出だよ」
 礼は実津瀬と蓮が生まれる前の記憶を思い出していた。確かに翔丘殿で実言と二人で麻奈見の笛の音を聴いた。
「懐かしい思い出…」
 二人は池の中に建つ二階建ての建物の一階に来ていた。
 礼は池の中に張り出した踊り場に出て、西に沈もうとする月を見上げた。
 月読が今夜は満月であると計算しているだけあって、まん丸い月が西に見えた。
 麻奈見は、礼と一緒に月を見上げていると、無粋な足音が簀子縁に響いた。数人の男たちが走り回っている。
「女を見なかったか?左目に眼帯をした女だ!」
 宴の片づけをしている下男下女に片っ端から訊いている。麻奈見は背中に背負っていた舞に使う仮面を背中から外して持った。
「礼、少しばかり顔を隠しておくれ」
 そういうと同時に麻奈見は礼に面をかぶせた。鼻の高い、奇人の男の面を被せて麻奈見はその前に立った。
 どたどたと足音を踏み鳴らして男が三人ほど、礼達のいる建物へと入ってきた。すれ違う人の顔を一人ひとり見て、眼帯をしていないか確かめている。麻奈見は誰かわからないが確実に礼を探しているとわかって戦慄した。礼が一体何をしたというのだろう。
 男たちは面をつけた礼と覆いかぶさるように立つ麻奈見に近づいてきた。
「おい、女を見なかったか。左目に眼帯をした女だ」
 麻奈見の背中に一人の男が問いかけた。麻奈見は振り返って、首を振った。
「いいえ、見ておりません」
 男はその返答に納得したが、後ろから来た別の男は、麻奈見の前に立つ面をつけた人物を見咎めた。
「おい、仮面を外せ」
 鋭い声に、面をつけて麻奈見の受け答えを聞いていた礼は驚いた。左目に眼帯をした女とは自分のことである。なぜ探されているのか。
「この宴でしか会えない仲でございます。どうか、ご容赦を。この逢瀬が主人の知れるところとなれば二人とも叱責され、二度と会えなくなります」
 咄嗟に麻奈見はそう言って、懇願した。礼も腰を折って容赦してほしいことを現した。
「お前は、王宮楽団の舞手の……」
 男は麻奈見が最後の舞を見せた楽団の一員であると知った。麻奈見はそこに付け入った。
「どうか、お許しを。この女人はあなた方が探している左目のない女人ではありません。私たちはこの宴でしか会えない、秘匿しなければならない仲でございます。どうか、お許しください」
 麻奈見は深く頭を下げて懇願した。
 男たちは顔を見合わせてしばらく考えた。宮廷楽団の舞の名手の色恋の相手を暴いても仕方ないと思った。宮廷楽団の男も、恋のためにいろいろ大変だと嘲笑って、その表情を隠さない。
 麻奈見も、ばつが悪そうに、しかし殊勝に身を縮こまらせて平伏している。
 行こう、と最初に声をかけた男が言うと、後から声をかけた男もしぶしぶといった感じで立ち去って行った。
 麻奈見は二人が見えなくなるまでじっとその背中を見送った。簀子縁の角を曲がってしばらくたってから、麻奈見はふんわりと手を開いて礼を抱きしめた。
「……よかった。私の恋人よ。この危機は何とかしのげたよ」
 礼も仮面をつけたまま、麻奈見の腕の中でじっとしていた。
「…どうして、私を探しているのかしら」
「わからない。……しかし、こんな時はよいことで探されているわけではないことがお決まりだよ。車はきっと見張られているだろう。このまま、宮殿を出よう。……ああ、実言の邸はここから遠いね」
「本家の邸が近いわ。そこへ行きます」
「そうだね。それがいい。そこまで一緒に行こう」
「麻奈見!あなたにはまだお仕事があるでしょう」
「何を言っているの?礼と私は世を憚って会っている恋人だよ。……嘘とはいえ、最後までその気分でいさせて」
 おどけて言って見せたが、誰かが礼を狙っているのだ。一人にできるわけがなかった。
 麻奈見は仮面を外さないように言って、礼の手を取って、広い宮殿の裏門からそっと通りに出た。
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