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第三部 Waiting All Night
40話
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朝餉を摂った大王が急に気分がすぐれないと言われた後、倒れられた。表立って騒ぎはせず、ひそかに弟である春日王子に連絡が入った。ちょうど佐保藁の邸で朝餉を摂っていた春日王子は、それを中断してすぐさま王宮に向かった。急なことで馬に鞍を載せている時間ももったいなく、轡に手綱をつけた馬に飛び乗って春日王子は王宮へと向かった。
春日王子を待っていた大王の側近の舎人はすぐさま大王の寝所に案内する。
「一体どうされたというのだ。お体はすっかり良くなったはずであろう」
「朝餉を召し上がってしばらくすると胸が苦しいと、お苦しみになり始めて。すぐに医者を呼びました。横になって、医者の作った薬湯を飲むと落ち着かれました。今は、安静にして眠っておられます。眠られる前に春日王子を呼んでほしいとおっしゃられましたので」
春日王子は御簾越しに大王が眠っている様子を窺った。
「お目覚めになったら呼んでくれ。自分の館にいるから」
と言って、王宮内の自分の館に向かった。途中で後宮の詠妃の館から侍女が出て来るのが見えた。春日王子は人の少なくなった詠妃の館に誘われるように向かった。
「お久しぶりですわね」
部屋に入ると、大王の第三妃である詠妃が部屋の中心に座っていた。
「まったくだ」
春日王子は詠妃の前の円座に座った。
侍女達が部屋から引いていくのを待って、詠妃は口を開いた。
「私のことはお忘れになって」
と、いきなり恨み節を言った。
「忘れるなんて、あんまりなことを言わないでくれ。あなたを忘れることなんてないよ」
と返した。
「王宮にいらしても、ここを訪ねてくださらないわ」
「最近は花の宴の準備で忙しかった。その前は、大王のご健康がすぐれず、その名代をしていたからこちらにもなかなか顔を出せなかった」
春日王子は言い訳めいたことを言った。
「あなたは、大王の妃なのだから。葛城王子の母でもある。あなたの役目をしっかりと果さないと」
詠妃を励ますように春日王子は言った。
「ええ、王子を……葛城のために私は生きます。しかし、あの子は……」
と伏せていた視線をゆっくりと上げて、潤んだ目を春日王子に向けた。春日王子もその瞳をまっすぐ見返したまま。
「その可能性を否定はせぬ」
と返事した。
「春日様のお力が必要ですわ。私の実家は政が下手で、葛城王子の後ろ盾になれるほどの力はありませぬ。春日様の力添えがなければ、将来が不安でございます」
「私もできるだけのことはしよう。そんなに不安がることはない」
と春日王子は請け合った。
「ええ。あなた様にそう言っていただけると、安心でございます」
そう言って、詠妃は袂で目元を抑えた。
昔の恋人。いや、今も愛しい人である。だから、古くからの愛人。
と春日王子は可憐な妃を見つめた。
若い自分は、兄の妻たちの美しさに目を見張り興味を持った。我が娘を大王の妃にと多くの臣下が自慢の娘を後宮に入れようとする中、美貌を買われて一番に後宮に入ったのがこの詠であった。十三の娘が、慣れない後宮で暮らす姿に、春日王子は同情して庭から話しかけたりしたものだ。
そうすると、いつも寂し気な顔が、微笑みで綻ぶのであった。そうしているうちに、二人の距離は縮まり、いつしか人の目を忍ぶ仲になった。
詠は大王の愛情を受けながら、同時に春日王子の愛を秘めた。その内身籠ったのが葛城王子である。
詠妃は御子を身籠ったことを春日王子に打ち明けた時、春日王子は、否定はしなかったが。
「本当のことは誰がわかることだろう。あなたは知っているの。真実がわかるのはまだ先伸ばししてもいいのではないか」
と言って、
「私はあなたの味方だよ」
と、詠妃を抱き寄せた。
若い詠妃はその言葉にすがって、黙った。
あれから十六年が経った。
寂しそうにしている人を見ると放っておけない。それは春日王子の性分である。
特に美しい女人が寂しそうな顔をしていると春日王子はその腕の中に掻き入れたくなるのだ。
「花の宴には、あなたも葛城王子もいなかった」
「ええ、葛城が少し体調を崩したのです」
「王子が!どうされたの?」
「季節の変わり目で、少し寝付かれたのです。今はもう元気になられました」
「そう。大王の王子たちは皆少しお体が弱い。それが心配だ」
「葛城は、最近は、武術を習って健康には人一倍務めております」
「よいことだ。王族の繁栄のためにも、葛城王子は必要な人物になるだろう」
「はい」
袂で覆っていた顔を上げて詠は頷いた。
囲われた几帳の中にいる二人は、侍女達も遠慮して誰もいないことをいいことにお互いが近寄り、抱き合った。こうなれば、かわいらしい人と春日王子は抱く腕に力を込めた。
「ああ、いつまでもこうしていたい。しかし、私は大王に呼ばれるのを待っているのだ。いつ、呼ばれるかわからない。もう行くよ」
詠妃の方から春日王子の腰に回した腕をもう一度、強く締めた。
「お慕いしています」
と、春日王子の耳元で囁いた。春日王子は目を細めて笑って、やんわりと詠妃の手をとって自分の体から離すと、立ち上がった。
「また暇を見つけて、こちらにお邪魔するよ」
そう言うと、詠妃の館を後にした。
大王が今、どのような状態か……原因不明の体調不良で起き上がるのも厳しいことは、一握りの舎人と春日王子しか知らない。妃にしても皇后しか知らないことで、詠妃などは何が起こっているのか知る由もない。のんきに、古い恋人を思ってくれている。春日王子は、哀れにも滑稽にも思えた。
大王の命は医者でも、大王自身でもないこの自分に操られているというのに。
五条にある実言が建てた邸は多くの人が仕えていて、賑やかな邸である。道を挟んだ反対側には礼が病人や怪我人を診る診療所がある。近隣の住人の評判は良く、それが都の住人からの岩城家の評価を上げている。
実言が邸の門の中に入ろうとすると、礼に助けられた都の住人が門の近くで待っていて、感謝を伝えにくるのだった。実言は馬から降りて、感謝すべきはそなたたちを直接助けてくれる者たちだと説く。直接助ける者たち……礼や束蕗原から来ている礼の叔母である去の弟子たちのことだが、束蕗原からは逆のこと言われているようで、こうして活動できるのも岩城実言様のお陰と言われているらしい。こそばゆさを感じながら、実言は邸の中へと入って行った。
母親の礼に遊びの相手をしてもらっていた双子は、父親が帰ってきたと先ぶれをしに来た侍女の言葉を聞くと立ち上がって足を踏み鳴らして喜んだ。礼は、目を細めて二人の喜びようを眺めた。簀子縁を歩く物静かな足音に子供達の緊張は高まり、我慢ができずに走り出て行った。
「ああ、二人とも楽しく過ごしていたかい。いつぶりだろうかね」
二人と手をつないで話しながら実言は庇の間に入ってきた。
最近の実言は本家のある三条の邸に泊まったり、宮廷に詰めたりと忙しく、子供達に会うことがなかった。二人は、部屋の真ん中に座った父親にまとわりついてその膝の上を取り合っている。数日前に実津瀬は外を走り回っていて転び、手の平に傷を負ってしまった。手に巻いた白い布が邪魔で手を動かしにくそうにしているのを、実言は、痛くないの?と話しかけている。父親に相手をしてもらった後は、二人はいつものように眠ってしまった。
実言は奥の部屋に入って礼と向かい合った。
「今日も門の前でお礼を言われたよ。なんでも、子供の病気を治してもらったとか。礼のお陰で私の株も上がるというものだ」
「まあ、そんなことはないわ。ただで治療ができるのも、薬を上げられるのも、孤児に食事を与えられるのも岩城の、あなたのお陰ですもの。それは、診療所に来る者たちもわかっているのよ。あなたがいなければたちまちなくなってしまうと」
実言は微笑んで、ごろりと横になると礼の膝を枕にした。
「そうかね?……ああ、最近は夜も遅いし、泊まりも多かった。昼間は礼が邸にいないし、すれ違ってばかりだった。もう今はこうしてお前といるよ。何もしたくない」
と言って、目を瞑ったが口は動かした。
「どこか、景色の美しい静かなところ、束蕗原でもいいな。そこへ引っ込んで過ごしたい。礼が傍にいれば何もいらない。のんびりと……」
「それでは、暮しが立ち行かなくなるでしょう?」
「贅沢なんていらないよ。必要なものだけあればいい。住むところ、一日の食物、着る物があれば」
「そんなこと、誰も許さないわ。あなたはこの五条の邸の主ですもの」
「厳しいね、礼は。将来、子どもたちが成長したらこの邸を譲って、私は早々に隠居するよ。その時、礼は私と一緒にあばら家のような粗末な邸でもついてきてくれるかな」
「あなたと一緒ならどこへでも」
礼がにっこりと笑って答えた。
「その時が楽しみだな」
本気の願いではないことはわかってる。
最近も、岩城一族のために奔走しているのだ。実言は礼に語らないから、何が起こっているのか知る由もないが、その忙しさからの息抜きをしたくて、ないものねだりをしているのだろう。しばらくして、実言は静かに寝息をたて始めた。
春日王子を待っていた大王の側近の舎人はすぐさま大王の寝所に案内する。
「一体どうされたというのだ。お体はすっかり良くなったはずであろう」
「朝餉を召し上がってしばらくすると胸が苦しいと、お苦しみになり始めて。すぐに医者を呼びました。横になって、医者の作った薬湯を飲むと落ち着かれました。今は、安静にして眠っておられます。眠られる前に春日王子を呼んでほしいとおっしゃられましたので」
春日王子は御簾越しに大王が眠っている様子を窺った。
「お目覚めになったら呼んでくれ。自分の館にいるから」
と言って、王宮内の自分の館に向かった。途中で後宮の詠妃の館から侍女が出て来るのが見えた。春日王子は人の少なくなった詠妃の館に誘われるように向かった。
「お久しぶりですわね」
部屋に入ると、大王の第三妃である詠妃が部屋の中心に座っていた。
「まったくだ」
春日王子は詠妃の前の円座に座った。
侍女達が部屋から引いていくのを待って、詠妃は口を開いた。
「私のことはお忘れになって」
と、いきなり恨み節を言った。
「忘れるなんて、あんまりなことを言わないでくれ。あなたを忘れることなんてないよ」
と返した。
「王宮にいらしても、ここを訪ねてくださらないわ」
「最近は花の宴の準備で忙しかった。その前は、大王のご健康がすぐれず、その名代をしていたからこちらにもなかなか顔を出せなかった」
春日王子は言い訳めいたことを言った。
「あなたは、大王の妃なのだから。葛城王子の母でもある。あなたの役目をしっかりと果さないと」
詠妃を励ますように春日王子は言った。
「ええ、王子を……葛城のために私は生きます。しかし、あの子は……」
と伏せていた視線をゆっくりと上げて、潤んだ目を春日王子に向けた。春日王子もその瞳をまっすぐ見返したまま。
「その可能性を否定はせぬ」
と返事した。
「春日様のお力が必要ですわ。私の実家は政が下手で、葛城王子の後ろ盾になれるほどの力はありませぬ。春日様の力添えがなければ、将来が不安でございます」
「私もできるだけのことはしよう。そんなに不安がることはない」
と春日王子は請け合った。
「ええ。あなた様にそう言っていただけると、安心でございます」
そう言って、詠妃は袂で目元を抑えた。
昔の恋人。いや、今も愛しい人である。だから、古くからの愛人。
と春日王子は可憐な妃を見つめた。
若い自分は、兄の妻たちの美しさに目を見張り興味を持った。我が娘を大王の妃にと多くの臣下が自慢の娘を後宮に入れようとする中、美貌を買われて一番に後宮に入ったのがこの詠であった。十三の娘が、慣れない後宮で暮らす姿に、春日王子は同情して庭から話しかけたりしたものだ。
そうすると、いつも寂し気な顔が、微笑みで綻ぶのであった。そうしているうちに、二人の距離は縮まり、いつしか人の目を忍ぶ仲になった。
詠は大王の愛情を受けながら、同時に春日王子の愛を秘めた。その内身籠ったのが葛城王子である。
詠妃は御子を身籠ったことを春日王子に打ち明けた時、春日王子は、否定はしなかったが。
「本当のことは誰がわかることだろう。あなたは知っているの。真実がわかるのはまだ先伸ばししてもいいのではないか」
と言って、
「私はあなたの味方だよ」
と、詠妃を抱き寄せた。
若い詠妃はその言葉にすがって、黙った。
あれから十六年が経った。
寂しそうにしている人を見ると放っておけない。それは春日王子の性分である。
特に美しい女人が寂しそうな顔をしていると春日王子はその腕の中に掻き入れたくなるのだ。
「花の宴には、あなたも葛城王子もいなかった」
「ええ、葛城が少し体調を崩したのです」
「王子が!どうされたの?」
「季節の変わり目で、少し寝付かれたのです。今はもう元気になられました」
「そう。大王の王子たちは皆少しお体が弱い。それが心配だ」
「葛城は、最近は、武術を習って健康には人一倍務めております」
「よいことだ。王族の繁栄のためにも、葛城王子は必要な人物になるだろう」
「はい」
袂で覆っていた顔を上げて詠は頷いた。
囲われた几帳の中にいる二人は、侍女達も遠慮して誰もいないことをいいことにお互いが近寄り、抱き合った。こうなれば、かわいらしい人と春日王子は抱く腕に力を込めた。
「ああ、いつまでもこうしていたい。しかし、私は大王に呼ばれるのを待っているのだ。いつ、呼ばれるかわからない。もう行くよ」
詠妃の方から春日王子の腰に回した腕をもう一度、強く締めた。
「お慕いしています」
と、春日王子の耳元で囁いた。春日王子は目を細めて笑って、やんわりと詠妃の手をとって自分の体から離すと、立ち上がった。
「また暇を見つけて、こちらにお邪魔するよ」
そう言うと、詠妃の館を後にした。
大王が今、どのような状態か……原因不明の体調不良で起き上がるのも厳しいことは、一握りの舎人と春日王子しか知らない。妃にしても皇后しか知らないことで、詠妃などは何が起こっているのか知る由もない。のんきに、古い恋人を思ってくれている。春日王子は、哀れにも滑稽にも思えた。
大王の命は医者でも、大王自身でもないこの自分に操られているというのに。
五条にある実言が建てた邸は多くの人が仕えていて、賑やかな邸である。道を挟んだ反対側には礼が病人や怪我人を診る診療所がある。近隣の住人の評判は良く、それが都の住人からの岩城家の評価を上げている。
実言が邸の門の中に入ろうとすると、礼に助けられた都の住人が門の近くで待っていて、感謝を伝えにくるのだった。実言は馬から降りて、感謝すべきはそなたたちを直接助けてくれる者たちだと説く。直接助ける者たち……礼や束蕗原から来ている礼の叔母である去の弟子たちのことだが、束蕗原からは逆のこと言われているようで、こうして活動できるのも岩城実言様のお陰と言われているらしい。こそばゆさを感じながら、実言は邸の中へと入って行った。
母親の礼に遊びの相手をしてもらっていた双子は、父親が帰ってきたと先ぶれをしに来た侍女の言葉を聞くと立ち上がって足を踏み鳴らして喜んだ。礼は、目を細めて二人の喜びようを眺めた。簀子縁を歩く物静かな足音に子供達の緊張は高まり、我慢ができずに走り出て行った。
「ああ、二人とも楽しく過ごしていたかい。いつぶりだろうかね」
二人と手をつないで話しながら実言は庇の間に入ってきた。
最近の実言は本家のある三条の邸に泊まったり、宮廷に詰めたりと忙しく、子供達に会うことがなかった。二人は、部屋の真ん中に座った父親にまとわりついてその膝の上を取り合っている。数日前に実津瀬は外を走り回っていて転び、手の平に傷を負ってしまった。手に巻いた白い布が邪魔で手を動かしにくそうにしているのを、実言は、痛くないの?と話しかけている。父親に相手をしてもらった後は、二人はいつものように眠ってしまった。
実言は奥の部屋に入って礼と向かい合った。
「今日も門の前でお礼を言われたよ。なんでも、子供の病気を治してもらったとか。礼のお陰で私の株も上がるというものだ」
「まあ、そんなことはないわ。ただで治療ができるのも、薬を上げられるのも、孤児に食事を与えられるのも岩城の、あなたのお陰ですもの。それは、診療所に来る者たちもわかっているのよ。あなたがいなければたちまちなくなってしまうと」
実言は微笑んで、ごろりと横になると礼の膝を枕にした。
「そうかね?……ああ、最近は夜も遅いし、泊まりも多かった。昼間は礼が邸にいないし、すれ違ってばかりだった。もう今はこうしてお前といるよ。何もしたくない」
と言って、目を瞑ったが口は動かした。
「どこか、景色の美しい静かなところ、束蕗原でもいいな。そこへ引っ込んで過ごしたい。礼が傍にいれば何もいらない。のんびりと……」
「それでは、暮しが立ち行かなくなるでしょう?」
「贅沢なんていらないよ。必要なものだけあればいい。住むところ、一日の食物、着る物があれば」
「そんなこと、誰も許さないわ。あなたはこの五条の邸の主ですもの」
「厳しいね、礼は。将来、子どもたちが成長したらこの邸を譲って、私は早々に隠居するよ。その時、礼は私と一緒にあばら家のような粗末な邸でもついてきてくれるかな」
「あなたと一緒ならどこへでも」
礼がにっこりと笑って答えた。
「その時が楽しみだな」
本気の願いではないことはわかってる。
最近も、岩城一族のために奔走しているのだ。実言は礼に語らないから、何が起こっているのか知る由もないが、その忙しさからの息抜きをしたくて、ないものねだりをしているのだろう。しばらくして、実言は静かに寝息をたて始めた。
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