Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

22話

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 しかし、事は岩城家の思惑通りにはいかない。
 碧は体調不良を理由に実家に下がらせていただきたいと大王に申し出た。同時期に岩城家からも、碧妃の体調がよくないため、実家にて静養させたいと申し出た。大王は急な申し出に、すぐに館を自ら訪ねられて直に碧妃に訊いた。季節の変わり目に体調を崩しているとの碧妃の言葉に、大王は首を縦に振ってはくださらない。大王の医者を寄こすから様子を見ようとおっしゃった。どうも、有馬王子を連れて実家に帰ることを気にされているようだ。大王は碧妃と幹妃が産んだ王子と王女をこれが最後の子とかわいがっておいでだ。特に、幼い有馬王子はかわいい盛りの上に愛嬌が溢れ出ていて、殊更にかわいがっておられる。それだから碧妃の館にそのまま泊まることや、その逆のこともあり、このたびの懐妊につながったのだ。言葉を変えて大王を説得したが、大王にとってはそれくらいのことで碧妃が実家に帰りたがる理由がますますわからず、変に勘ぐっておられる。まだ真実を明かしたくない碧妃は下手に嘘をつくこともできず、言葉を引っ込めてそのまま後宮で過ごした。
 その代わり、碧妃は礼にたびたび館に来るように言った。碧妃の体や精神状態を思うと、礼も碧妃のことが心配で、自ら行くと言った。実言も礼に頭を下げて頼んだ。
「後宮は何が起こるかわからないから、本当は行かせたくない。しかし、碧のことを考えると、お前に頼るしかないのだろう。すまない」
 寝所の中で、実言は礼を抱いて言った。礼も後宮での春日王子との出来事の恐怖が消えたわけではないが、それを凌駕するほどに碧妃のことが心配でならなかった。
 つわりの症状が出て、館に仕える侍女たちも碧妃の体の不調は、懐妊のためと勘づき始めた。
「礼、館の者たちが噂し合っているわ。これ以上、大王にも、侍女たちにも隠しておくことはできない」
 碧妃は黒い瞳を濡らして、礼に訴えた。人払いして礼と話している最中にも、気分が悪くなり、盥を引き寄せてその細い体を震わせながら嘔吐した。
 岩城家では、これ以上黙っておくこともできないと考え、碧妃が懐妊したようだと大王に正式にお伝えした。
 岩城家から伝達したその日に、少しばかり早く碧妃も大王の部屋を訪ねて打ち明けた。
 大王は齢四十で、子供を授かるとは想像もされておられなかったご様子で、たいそう喜ばれた。碧妃もその喜ばれようは嬉しくもあったが、これが広く宮廷内に広まれば、どのような嫌がらせを受けるだろうかと胸が苦しくなった。碧妃の不安そうな様子を目の当たりにした大王は、碧妃を引き寄せて腕の内に抱いて、案ずることはないとおっしゃった。碧は心強くもあったが、苦しいことは大王の見えないところで起こるので、頼みにできるのはやはり実家であった。
 碧妃はより一層、礼を必要とした。後宮に泊まれと頼んだり、碧妃が実家に帰るまでの一時を後宮に住むようにすすめたりした。これは、実言が許さなかったが、そのかわり礼とともに後宮に来ていた淑を碧妃の傍に派遣した。そして、礼は一日おきに後宮を訪れることになった。
 碧妃はつわりの症状がつらく、有馬王子の相手もできぬほどで、一日寝て過ごされることもあった。そのため、食事は喉を通らず、痩せてゆくばかり。周りの者は心配して粥を食べてくださいとお願いした。
 碧妃は、ならば毒見をしてくれと、配膳した侍女に食べさせたら、一刻も経たないうちにその侍女が腹を下した。侍女は命にかかわるほどのことではなかったが、もし碧妃が食べていたことを想像すると、おなかの御子にもしものことがあってからでは遅い。碧妃はさらに恐怖を覚えて、益々食べなくなった。それを聞いて、礼は自ら作ったものを持参して碧の前に差し出して、一口でも食べさせた。
 碧妃の気分が良い時は有馬王子が訪れた。碧妃は褥の上に上がらせ、抱き寄せて頬ずりし、寂しい思いをさせているのを謝った。
「……れい」
 横に座っている礼を母君がいつも頼りにされている姿を見てか、有馬王子は礼の名を覚えて、名を呟いて小さな手を礼に差し出したりする。
「有馬様」
 礼は微笑んで、有馬王子の手を握った。
 その日は、有馬皇子が眠たそうにしたのを潮に王子を部屋に戻し、碧妃を横に寝かせた。そうすると碧妃もうとうとと午睡に入られたので礼は辞去することにした。
 礼は、淑の姪に当たる女人を供に連れてきていて、別室で淑から普段の碧妃の様子を聞いたあと、淑と姪で少し話をさせた。
 礼は、少し席を外して、椎葉家から後宮に入った幹妃の庭の見える簀子縁に出た。礼にとっては姉と慕う従姉妹の朔と再会した場所だった。また、会えるとは思っていないが、朔を思う気持ちがその場所に向かわせた。よく手入れされた庭は、その趣味の良さを感じさせる。秋から冬に移行する今の時期でも、花を絶やさない。なでしこなどの花が足元にかわいらしく咲いている。
「あら、そなた見たことがある……そう、前にここで会うた。……はて、他に誰かいたと思ったが」
 礼は、いきなりの声で驚いた。簀子縁の欄干に寄り掛かるように立っていては、身を隠すこともできず、その声に恐る恐る振り向くしかなかった。
 声の主は礼をここで見たことことがあると、記憶をたどるような言葉で考え込んでいるが、礼はその声が誰のものであるかすぐに分かった。実言が親愛している哀羅王子の声である。実言が後宮に来た礼を迎えにここまで来た時に、ちょうど哀羅王子が渡殿を渡っておられたのだ。その時の声をよく覚えている。
 振り向いた礼の隻眼の顔を見て、哀羅王子は頷いた。
「ああ、岩城実言と一緒にいた」
 その容姿を覚えていると言いたげであった。
「妻の……」
「礼でございます」
 礼は前に進み出て頭を下げた。
 王子は手に持った扇で口元を隠して、礼を見下ろしている。
「ここには何用でいるのだ」
「お妃様の碧様のところに参っていました」
「ああ、ご懐妊されたと聞いたな。実言はそなたをよくここに遣わせるのだな」
「はい」
「では、また会おう」
 そう言って、奥の館に架かっている渡殿の方に進んで行かれた。
 また、会おうとは?礼は、胸の中がざわざわと騒いだ。そこへ、淑の姪が現れた。
「お待たせしてすみません」
 淑の姉が体を壊しているので、その様子を話していて時間を取ったのだと礼はわかっているから、礼は頷いて後宮を後にした。
 最近の宮廷は何かと騒がしく、実言は実家の邸に詰めている。そのまま、泊まることもあれば、深夜に帰宅することもある。
 その日、灯りを消して礼は寝室で横になっていると、実言が静かに入ってきて礼の後ろで横になった。礼が実言の方へ寝返りを打って、お帰りなさいと囁くと、礼が起きていることが分かって、実言は碧妃の様子を訊いてきた。
「今日はご気分もよくて、有馬王子をお抱きになって相手をされたりしました」
「そう。早く本家に下がらせてもらえるようにお願いしているが、大王も今までと同じ時期でいいのではとおっしゃって、なかなか許可してくださらない」
「お付きの侍女が腹を下したことが、よほど恐ろしかったのでしょう。食事は毒見をさせた後に、少量しか口にされませんから、体は痩せていくばかりだわ。有馬王子も幼いながら、母君のお顔がやせていくのを心配されているのか、碧様の頬を何度も撫でておいででした」
「心配だな。早く本家に下がらせてもらえるようにお願いしよう」
 そう言って、実言は礼を抱き寄せて目を瞑った。
 礼はその日に哀羅王子と会ったことを実言に話さなかった。会ってはいけない人に会ってしまったように思えたのだ。それを実言に話すのは心苦しかった。どう思うだろうか。一人でいたことを叱られるかもしれない。
 翌日、礼は椎葉家別宅へと向かった。碧妃の不安を和らげるために、一日おきに後宮に通っているが、椎葉家の荒益の母君の診察と息子の伊緒理に薬草の手ほどきをすることも続けている。
 伊緒理は賢く、勉強熱心である。孫の勤勉な姿が嬉しいのか、礼が伊緒理の部屋に行くと、おばあさまから贈られた分厚い薬草の写本を伊緒理が持っていた。
「おばあさまが取り寄せてくださいました。私にはまだ早いのはわかっていらっしゃるのに、いつか必要になるだろうとおっしゃって」
「まあ、それは、あなたがとても熱心に勉強しているからよ。大事にして、今後に役立てなさい」
 礼はその日も、伊緒理に自分の邸の薬草園から持ってきた植物を見せながら、どのような効能があるかを教えたあと、伊緒理が訊いてきた。
「礼様、お時間はありますか?おばあさまがこの邸の庭に小さな薬草園を作ってくださったのでご案内したいのです」
「まあ、ぜひ案内してほしいわ」
礼と伊緒理は連れだって、近くの階を降りた。伊緒理が先に立ち、邸の裏へと進んだ。垣根で区切られた場所には、植えたばかりの小さな芽が生えている。
「ここで、おばあさまに煎じて差し上げる薬草を育てようと思います」
「あばあさまも、伊緒理の作ったお薬を望まれているでしょう。頼もしいことだわ」
「はい」
 礼は伊緒理と一緒に薬草園の中を見て回った。見て回りながら、礼はまた伊緒理と薬草の講義をして、薬草園の中に植えてあるトチノキの下に腰を下ろした。幹に寄り掛かり、秋の深まりを感じていると。
「礼様」
 伊緒理の告白は突然だった。
「私は苦しいです」
「……どうしたの?」
 最近は丈夫になって、熱も出さなくなったといっても伊緒理は病弱な子だ。まだたまに寝込むこともあると聞いている。
「今日は日差しがあるけど、少し寒いかしら。邸の中に戻りましょう」
 礼は腰を浮かせて、伊緒理に立ち上がることを促した。
「いいえ、違います。……先日、父上と庭を見て回られたでしょう」
 膝立ちになった礼に向かい合うように伊緒理も膝立ちして、礼をまっすぐ見た。
「礼様は父上と小さいころからの知り合いと聞きました。そうだから、庭を一緒に歩かれている父上の姿はとても楽しそうでした。子供の頃を懐かしんでおられたのかもしれない。よく笑っておいでで、嬉しそうで……でも、私は心が苦しくなったのです。父上が礼様と親しくされる姿をみるのが、礼様が父上と一緒に居られるのが、苦しくて、寂しくて……。礼様は私と一緒にいてほしいのに」
「伊緒理」
 それは、嫉妬が抑えられないと言う恋の告白のようだ。
 しかし、病弱のため母からの愛情を十分に受けられなかった幼い伊緒理がその代替として無意識に礼を求めていると思えた。
「父上は、四阿(あずまや)の中で礼様に跪いておられた」
 四阿でのことを伊緒理は盗み見ていたのだ。礼は少し驚いた。
「その姿に私はもっと、苦しくなって、それはいけないことだと思うのに、考えれば考えるほど私は礼様と一緒にいたくて」
 向かい合って、真っすぐに礼を見上げている伊緒理を抱きしめた。それは恋ではなくて、母の愛情を欲している無垢な少年の気持ちなのだ。
「私はいけない子供ですか」
「……伊緒理と私は、先生と生徒よ。あなたが私を慕ってくれるのは嬉しいわ」
 礼は腕を放して、伊緒理とともに立ち上がった。気持ちが高ぶった伊緒理は礼に抱かれて、背中をさすってもらって少し落ち着いたようだった。
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