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第三部 Waiting All Night
17話
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男の後ろについて庇の間に入ると、別の侍女が現れて男の腰に下がった刀を受け取った。身軽になった男は部屋の奥に進んで、几帳の中に入って真ん中に座った。
「そなたもここへ座れ」
男の傍の円座を示されて、朔はおどおどと部屋の中に入ってそこに腰を下ろした。
気配もなく几帳の陰から侍女二人が現れて、男と朔の前に杯と料理を乗せた膳を置いた。男が膳の上から杯を取り上げると、別に銚子をもった侍女が現れてその杯に酒を注いだ。礼の横にも座って、杯を取れと目を見合わせてきたが、朔は気後れして膳の上に手が伸びなかった。侍女は呆れたのか、膳に乗ったままの杯に酒を注ぐと、銚子を置いて去って行った。
男は一気に杯の酒をあおった。
「そなたも飲め」
横目に俯いている朔を見て、酒を進めたが、やはり朔は膳の上の杯には手が伸びなかった。
「ならば、酌をしておくれ」
男は飲み干した杯を朔の方へ突き出した。朔は仕方なく、侍女が置いて行った銚子を取り上げると、男ににじり寄って酌をした。男は、すぐさま杯に口をつけて飲み干す。朔は男の様子を見ながら二回ほど杯に酒を注いだ。
「心地よい間合いだな」
と独り言のように男は言った。
「……はい……?」
朔は何と言ったものか、返事をするだけで精一杯だった。
「そなたは私が誰か、気にならぬのか」
そう問われて、朔は顔をさらに下に向けた。
怖かった。後宮の奥に館を持ち、着ているものから身に着けている太刀などの装身具のすべてが極上の品である。当然、臣下ではない。そうなれば答えはおのずと導かれる。この方は王族なのだ。それも大王にとても近い方なのだと推察できた。
「私は春日というのだ。大王の弟だよ。今日は、誰もが美しいという私の館の庭の花よりも美しいそなたを見て、心奪われてしまった。黙って手折って、活けたい気持ちを抑えられずに、こうしてそなたをここへ連れてきた」
朔が注いだ三杯目の酒をあおって、春日王子は自分の座る場所から朔の方へと身を乗り出し、銚子を持っていない朔の手を引いた。
朔は驚いてその身を引こうとしたが、逃げられるものではなかった。銚子を胸に抱き、小さくなると、春日王子の両腕が朔の体を囲い込み、朔の正面をとらえて見つめている。朔は視線をそらせて、絶え絶えに言った。
「お花を見せてくださるとおっしゃったではありませんか」
美しい花を見せてやると確かに春日王子は言ったが、それを言葉通りに取る者は誰もいない。春日王子も、そして朔もそうである。なのに、朔はそう言って春日王子をかわそうとした。
「言ったことは嘘ではない。花はいつでもみせてあげるよ。しかし、そなたのような艶やかな花にはそう巡り合えるものでもない。機を失して二度と会えぬのは口惜しいからね。まずは、そなたが先だよ」
そう言って、春日王子は朔の頬に自分の手を伸ばした。
「お止めください」
「止めぬ」
春日王子は朔の頬に触れて、親指をその唇へと向けた。
「私には夫がいます」
朔はとっさに言った。しかし、春日王子は動じることなく。
「そなたは椎葉家の嫡男の妻であろう」
と言った。朔は返す言葉もなく、わらう春日王子を見た。
「そなたに夫がいようとかまわない。私は美しいものが好きなのだ」
春日王子はその放逸さを隠さない物言いをする。
春日王子の両手が朔の両頬を包み込んだ。朔は恐怖し、震えた。
「本当に美しい。大王の妃に推挙されてもおかしくないであろうに」
春日王子は嘆息して呟いた。
朔の父親はまだ言葉もたどたどしい幼い娘の生まれ持った美貌を見抜いて、いずれ成長したあかつきには大王の妃するため教育してきた。
周りからもどれほど言われたことだろう。大王の妃にと……。
じっと朔の瞳の中をのぞくように見詰める春日王子に朔は抗うことができず、金縛りにあったように抵抗できなかった。ただ意思に反して恐怖に支配された体は小刻みに震えた。
春日王子は朔の畏れを嗤うように、愛しむように顔を近づけて、そして朔の唇に口づけた。朔は避けることもできずに、体の中心から伝わる上下の震えを抑えるために唇を引き結んだ。
春日王子は朔の頬に手を添えて、その震えを静めるように強く吸った。それでも、春日王子の唇を避けるように朔の唇は上下に揺れている。
春日王子は一旦、離すと。
「もう逃れられるものではない」
と囁いた。
「恐れずに気を楽にせよ。そなたには何も罪のないこと。精一杯に抗ったのだ。この私が、そなたをまやかして誘い込んだのだ。美しいものが好きな私の過ちだ」
春日王子は離した朔の唇に自分の唇を寄せて、息のかかる距離で言った。
「たとえ、二度目があったとしても、それも私のせいだ。美しいものを手に入れたいと思う私の好き心がさせたこと」
見つめ合うのに耐えられなくなった朔が目を閉じたと同時に、王子は再び朔に口づけた。朔の唇から伝わる震えをその熱い接吻がゆっくりと静めていく。
それが、朔が春日王子と初めて会った時のことだった。それから、もう二年も経つ。
春日王子との出会いを思い出していた朔は現実に立ち返ると起き上がって、すぐに傍に脱ぎ捨てた薄い麻の単を身にまとった。春日王子の館に長居している場合ではない。
横に寝ている春日王子も起き上がり、朔は立ち上がろうとするのを朔が羽織った単を掴んで春日王子が邪魔した。
「王子……」
春日王子は無言で、伸ばした手を単の襟首を掴んで下に向かって下ろして、朔の白い背中を晒した。
「お止めになって」
素早く後ろから腰に回された春日王子の手を掴んで囁いた。春日王子が朔の背中に強く唇を押しあてて吸うのを、朔は諫めた。
「なぜ?見えるところでもないし、ここに触れるのは私くらいなものであろう」
見透かしたように言う春日王子に、春日王子を振りほどくようにして朔は立ち上がった。
体に残る不貞の跡をつけられるのを嫌がった朔に、誰がその跡を探し出そうとするのかというのだ。
朔は無言で袍と裳を身に着ける。
初めてこの館に来た時の続きだ。震える唇は、春日王子の染み入るような接吻に静められたが、王子の手は止まることがなかった。朔のきつく締めた帯を王子は苦にすることなく解いて、裸にした朔を愛した。春日王子の腕から解放されると、今の自分の身に起こったことを畏れ、受け入れられないまま、朔はゆっくりと身を起こし、着ていたものを再び身に着けた。
「異なことだな」
春日王子は自分に背中を向けて衣服を身に着ける朔に向かって言った。
「そなたの体はまるで、男を知らぬふうであった。久しく夫には愛されておらぬのだろう。こうも美しく、二つとない花であるのに、ほおっておくとはな」
朔は悲しみの感情から体の内側が熱くなり、自然と涙がこぼれた。
夫の荒益との性愛はとうに絶えてしまった。互いに、顔を合わせるのは儀礼的なことと、子供のことだけである。夫は夜を他の妻の部屋で過ごしているのだ。朔は一人寝の毎日であった。
「私であったら、一日たりともほおっては置けない。誰かにかすめ取られるのではないかと心配でたまらぬ」
将来は大王の妃に推挙確実と言われたほどの美貌で誰しもにうらやまれていた自分が、夫に蔑ろにされて、一人寂しくしていることを知られて、朔は耐えらなかった。
「なぜ泣くのだ。私はこの出会いが嬉しくてたまらないのに。一度の過ちなんて気取ったことを言ってしまったが、どんなにさげずまれようとも再び会いたい。また私と会っておくれ」
ここに来た時と同じように、きっちりと着つけた姿の朔と向かい合った春日王子は朔の右手を取って、その手の甲に口づけた。
朔は春日王子の問いかけに、返事できない。王子に握られた反対の手で口元を覆い、俯いている。そうしているうちに館の侍女が現れて、この部屋を出ることができた。渡殿の前に、別れた自分の侍女が待っていて、一緒に帰ったのだった。
夫の荒益が自分以外の妻を迎えたことが、二人の関係を冷え込ませて、形ばかりの夫婦にさせた。だからといって、荒益を裏切るようなことをしてしまったことに、深い罪を感じる。なんてことをしてしまったのだろう。これが荒益に知れてしまったら、荒益はどう思うだろうか。
朔は春日王子との秘密を持ったことを恐れたが、同じように荒益に知れることも怖かった。しかし、後宮奥の館に仕える女人たちはこのことを皆は知っているが、外に広まりましなかった。女ばかりの噂話にとどまって後宮の中から出ることはなかったのだ。自分のことで精一杯の幹妃も侍女たちも春日王子の愛人の話などには関心がなかった。そして、朔が幼い時から仕えている実家から連れてきた侍女は口堅く、朔の秘密の逢瀬を見守ったのだ。
「そなたもここへ座れ」
男の傍の円座を示されて、朔はおどおどと部屋の中に入ってそこに腰を下ろした。
気配もなく几帳の陰から侍女二人が現れて、男と朔の前に杯と料理を乗せた膳を置いた。男が膳の上から杯を取り上げると、別に銚子をもった侍女が現れてその杯に酒を注いだ。礼の横にも座って、杯を取れと目を見合わせてきたが、朔は気後れして膳の上に手が伸びなかった。侍女は呆れたのか、膳に乗ったままの杯に酒を注ぐと、銚子を置いて去って行った。
男は一気に杯の酒をあおった。
「そなたも飲め」
横目に俯いている朔を見て、酒を進めたが、やはり朔は膳の上の杯には手が伸びなかった。
「ならば、酌をしておくれ」
男は飲み干した杯を朔の方へ突き出した。朔は仕方なく、侍女が置いて行った銚子を取り上げると、男ににじり寄って酌をした。男は、すぐさま杯に口をつけて飲み干す。朔は男の様子を見ながら二回ほど杯に酒を注いだ。
「心地よい間合いだな」
と独り言のように男は言った。
「……はい……?」
朔は何と言ったものか、返事をするだけで精一杯だった。
「そなたは私が誰か、気にならぬのか」
そう問われて、朔は顔をさらに下に向けた。
怖かった。後宮の奥に館を持ち、着ているものから身に着けている太刀などの装身具のすべてが極上の品である。当然、臣下ではない。そうなれば答えはおのずと導かれる。この方は王族なのだ。それも大王にとても近い方なのだと推察できた。
「私は春日というのだ。大王の弟だよ。今日は、誰もが美しいという私の館の庭の花よりも美しいそなたを見て、心奪われてしまった。黙って手折って、活けたい気持ちを抑えられずに、こうしてそなたをここへ連れてきた」
朔が注いだ三杯目の酒をあおって、春日王子は自分の座る場所から朔の方へと身を乗り出し、銚子を持っていない朔の手を引いた。
朔は驚いてその身を引こうとしたが、逃げられるものではなかった。銚子を胸に抱き、小さくなると、春日王子の両腕が朔の体を囲い込み、朔の正面をとらえて見つめている。朔は視線をそらせて、絶え絶えに言った。
「お花を見せてくださるとおっしゃったではありませんか」
美しい花を見せてやると確かに春日王子は言ったが、それを言葉通りに取る者は誰もいない。春日王子も、そして朔もそうである。なのに、朔はそう言って春日王子をかわそうとした。
「言ったことは嘘ではない。花はいつでもみせてあげるよ。しかし、そなたのような艶やかな花にはそう巡り合えるものでもない。機を失して二度と会えぬのは口惜しいからね。まずは、そなたが先だよ」
そう言って、春日王子は朔の頬に自分の手を伸ばした。
「お止めください」
「止めぬ」
春日王子は朔の頬に触れて、親指をその唇へと向けた。
「私には夫がいます」
朔はとっさに言った。しかし、春日王子は動じることなく。
「そなたは椎葉家の嫡男の妻であろう」
と言った。朔は返す言葉もなく、わらう春日王子を見た。
「そなたに夫がいようとかまわない。私は美しいものが好きなのだ」
春日王子はその放逸さを隠さない物言いをする。
春日王子の両手が朔の両頬を包み込んだ。朔は恐怖し、震えた。
「本当に美しい。大王の妃に推挙されてもおかしくないであろうに」
春日王子は嘆息して呟いた。
朔の父親はまだ言葉もたどたどしい幼い娘の生まれ持った美貌を見抜いて、いずれ成長したあかつきには大王の妃するため教育してきた。
周りからもどれほど言われたことだろう。大王の妃にと……。
じっと朔の瞳の中をのぞくように見詰める春日王子に朔は抗うことができず、金縛りにあったように抵抗できなかった。ただ意思に反して恐怖に支配された体は小刻みに震えた。
春日王子は朔の畏れを嗤うように、愛しむように顔を近づけて、そして朔の唇に口づけた。朔は避けることもできずに、体の中心から伝わる上下の震えを抑えるために唇を引き結んだ。
春日王子は朔の頬に手を添えて、その震えを静めるように強く吸った。それでも、春日王子の唇を避けるように朔の唇は上下に揺れている。
春日王子は一旦、離すと。
「もう逃れられるものではない」
と囁いた。
「恐れずに気を楽にせよ。そなたには何も罪のないこと。精一杯に抗ったのだ。この私が、そなたをまやかして誘い込んだのだ。美しいものが好きな私の過ちだ」
春日王子は離した朔の唇に自分の唇を寄せて、息のかかる距離で言った。
「たとえ、二度目があったとしても、それも私のせいだ。美しいものを手に入れたいと思う私の好き心がさせたこと」
見つめ合うのに耐えられなくなった朔が目を閉じたと同時に、王子は再び朔に口づけた。朔の唇から伝わる震えをその熱い接吻がゆっくりと静めていく。
それが、朔が春日王子と初めて会った時のことだった。それから、もう二年も経つ。
春日王子との出会いを思い出していた朔は現実に立ち返ると起き上がって、すぐに傍に脱ぎ捨てた薄い麻の単を身にまとった。春日王子の館に長居している場合ではない。
横に寝ている春日王子も起き上がり、朔は立ち上がろうとするのを朔が羽織った単を掴んで春日王子が邪魔した。
「王子……」
春日王子は無言で、伸ばした手を単の襟首を掴んで下に向かって下ろして、朔の白い背中を晒した。
「お止めになって」
素早く後ろから腰に回された春日王子の手を掴んで囁いた。春日王子が朔の背中に強く唇を押しあてて吸うのを、朔は諫めた。
「なぜ?見えるところでもないし、ここに触れるのは私くらいなものであろう」
見透かしたように言う春日王子に、春日王子を振りほどくようにして朔は立ち上がった。
体に残る不貞の跡をつけられるのを嫌がった朔に、誰がその跡を探し出そうとするのかというのだ。
朔は無言で袍と裳を身に着ける。
初めてこの館に来た時の続きだ。震える唇は、春日王子の染み入るような接吻に静められたが、王子の手は止まることがなかった。朔のきつく締めた帯を王子は苦にすることなく解いて、裸にした朔を愛した。春日王子の腕から解放されると、今の自分の身に起こったことを畏れ、受け入れられないまま、朔はゆっくりと身を起こし、着ていたものを再び身に着けた。
「異なことだな」
春日王子は自分に背中を向けて衣服を身に着ける朔に向かって言った。
「そなたの体はまるで、男を知らぬふうであった。久しく夫には愛されておらぬのだろう。こうも美しく、二つとない花であるのに、ほおっておくとはな」
朔は悲しみの感情から体の内側が熱くなり、自然と涙がこぼれた。
夫の荒益との性愛はとうに絶えてしまった。互いに、顔を合わせるのは儀礼的なことと、子供のことだけである。夫は夜を他の妻の部屋で過ごしているのだ。朔は一人寝の毎日であった。
「私であったら、一日たりともほおっては置けない。誰かにかすめ取られるのではないかと心配でたまらぬ」
将来は大王の妃に推挙確実と言われたほどの美貌で誰しもにうらやまれていた自分が、夫に蔑ろにされて、一人寂しくしていることを知られて、朔は耐えらなかった。
「なぜ泣くのだ。私はこの出会いが嬉しくてたまらないのに。一度の過ちなんて気取ったことを言ってしまったが、どんなにさげずまれようとも再び会いたい。また私と会っておくれ」
ここに来た時と同じように、きっちりと着つけた姿の朔と向かい合った春日王子は朔の右手を取って、その手の甲に口づけた。
朔は春日王子の問いかけに、返事できない。王子に握られた反対の手で口元を覆い、俯いている。そうしているうちに館の侍女が現れて、この部屋を出ることができた。渡殿の前に、別れた自分の侍女が待っていて、一緒に帰ったのだった。
夫の荒益が自分以外の妻を迎えたことが、二人の関係を冷え込ませて、形ばかりの夫婦にさせた。だからといって、荒益を裏切るようなことをしてしまったことに、深い罪を感じる。なんてことをしてしまったのだろう。これが荒益に知れてしまったら、荒益はどう思うだろうか。
朔は春日王子との秘密を持ったことを恐れたが、同じように荒益に知れることも怖かった。しかし、後宮奥の館に仕える女人たちはこのことを皆は知っているが、外に広まりましなかった。女ばかりの噂話にとどまって後宮の中から出ることはなかったのだ。自分のことで精一杯の幹妃も侍女たちも春日王子の愛人の話などには関心がなかった。そして、朔が幼い時から仕えている実家から連れてきた侍女は口堅く、朔の秘密の逢瀬を見守ったのだ。
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