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第二部 wildflower
第六十七話
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実言は一人、部屋の中で座っている。礼の机の前で、机の上に乗っている下手な字、いや、文字とも言えないものを見ていた。
妻戸が開く音がして、部屋の中に進む足音。
「実言」
礼が現れた。
「二人ともやっと寝たわ。興奮してしまって、眠いのになかなか寝ようとしなくて。あなたのことが気になって仕方ないみたい」
実津瀬と蓮を寝かしつけてきた礼は、二人の様子を語った。
「これは?」
実言は机の上の紙を取りあげて、少しばかり顔を後ろの礼に向けた。
「それは、蓮が書いたもの。あの子は私の真似事がしたくて、よく筆を持ちたがるの」
「そうか。なんとも言えない味があるね。もう少し大きくなったら立派な書き手になるだろう」
実言は目の高さまで紙をあげて、嬉しそうに見ている。
実言の帰還に湧いた夜だったが、宴も終わった今、静かに更けていく。
「実言」
礼は静かに、実言の後ろに進み寄り、座っている実言の背中にすがりついた。
「あなたは、私がしたことをさぞかし怒っているでしょうね」
実言の背中に額をつけて、言葉を押し出した。しばらく間をおいて。
「そうだな」
と、実言は言った。
「本当に。あの場でお前を見たときは、私は死んだのだと思ったよ。恋しいお前に逢いたくて、私の魂はお前のところに行ったのだとね。しかし、意識がはっきりするにつれて、私は死んではおらず、なぜかお前が私の傍に居る。何が起こっているのか、理解できなかった。耳丸から、お前が私を助けるために、耳丸と共に北方のあの地に来たと教えられたときには、もう腸が煮えくり返って口もきけなかった。本当に、本当に」
実言は、ゆっくりと噛み締めるように言葉を続けた。
「どれほどの危険がお前のそばをかすめて行ったことか。もし、万が一のことがあったときの子供のことを考えたのかい。束蕗原で待っていてくれと言ったのに。私は、お前の言う通り怒りに震えていた」
後ろから実言の胴に回していた礼の手に実言は上から自分の手を重ねる。
「しかし、お前と実津瀬、蓮と対面して、怒りは全て吹き飛んだ。お前が命かけて私を助けにきてくれたのは、今日の日のためだったのだとね。私は身にしみてわかったよ。あの二人と会わずして、彼の地で死んでいたら、と思うと」
実言は礼の手を取って、握った。
「だから。怒りなどは消えて無くなった。今日の日を迎えて、全てがうまく行ったのだから、もう、過去のことなどこだわりはしない。礼に感謝している」
実言は体を反転して、礼に正対した。
「須和の娘の力かな。私の命はもう三度、お前に救われているのだ」
礼は微笑んだ。この人は運命だから、そうなってしまうと思うのだった。
「よく、顔を見せておくれ。彼の地では怒りにまみれてお前をしっかりと見ることができなかった。男の姿にさせてしまって、美しい髪も削ぎ落としていたね。そんな姿にさせてしまったのも、悲しかった」
実言は両手で礼の頬を包むと、自分に近づけるように手を引いた。部屋の明かりに照らされた礼の顔をしっかりと見る。
「ああ、会いたかった」
と万感の思いを込めて言い、礼を腕の中に入れて抱きしめた。
それから礼を横抱きにして立ち上がると、奥の御帳台へと運んだ。礼をその中に入れてそっと下ろす。実言も御帳台に上がって二人は向かい合った。感情がほとばしって、言葉もなくお互いを求めて抱き合った。実言の胸の中にうずめた顔を上げた礼を実言は捕まえて、その唇を吸った。
唇を離したが、礼はずっと目をつむったままでいるのを見て、実言は再びその唇を吸って、その体を押し倒した。礼の唇を貪って、やっと離れると礼もようやく閉じていた右目を開けた。
「よくも、ここまで耐えられたものだ」
実言が囁いた。礼も頷く。
二人はこの三年という月日を、必死に生きてきた。いつか、授かった新しい命ととともに親子が再開することを夢見て。しかし、それは決して易しいものではなく、実言と礼は辛苦を舐め味わった。それだから、今この刹那が愛おしい。
実言は礼を無茶苦茶にしてしまいたい。その体を思うままに愛して、心ゆくまで味わいたいのだった。
礼の腰に結ばれた帯の端を手にとって、実言は引いた。簡単に解けた帯を離すと、礼の身に着けている上着はその前を開いた。桜にはまだ早いこの時期、寒さを防ぐために何枚も重ねた着物の中から礼の裸身をすくいあげて、その腕の中に囲った。
「礼」
実言は、礼に囁いた。礼の体をぴったりと自分の体に沿わせるように引き寄せて。
「私は、変わってしまっただろう」
実言の言葉が何を言い表したいのか計りかねて、礼は、じっとその右目で実言の目を覗き込んだ。
「私は、戦に行く前の私とは変わってしまった。体は痩せて、見劣りする容貌になり、皆が記憶している男ではなくなった」
礼は自嘲するように笑っている男の両頬を両手で包むと、その容貌を見定めるように見つめた。
「……何を言っているの。月日が経てば多くのものが変わるわ」
礼は、実言の面差しを確かめるように両手に包んだ顔の形をそっと、なぞってから、首へそして胸へと実言の体の下に指を這わせた。
「あなたの体や姿が変わろうとも全く気にならないわ」
「それを聞いて、私は勇気づけられるね。この姿が変わろうとも、私にはね、変わらないものがあるよ」
実言は礼の白い裸身に引き寄せられるように、その胸に顔を寄せて囁いた。
「私にもあるわ」
礼は誘われるように囁き返した。
「ああ、お前と我が子への思いだけは変わることのないものだった。この身が滅びようとも、この思いだけは残るものだったよ」
「私も。あなたがいなくて、私はどうして生きていけるか。あなたがいるから、私はこうしていられる。実津瀬と蓮とあなたと……」
礼はゆっくりと、実言の実体を掴むかのようにその胸の上に手を置いた。確かに痩せてしまった胸ではあるが、愛しい体にかわりはなかった。
礼は実言の腰の帯に手をかけて、その端を引いた。右手で衿を掴んで、その上着を実言の肩を越して背中へと落とし、礼はその左半身を裸にした。
「私のあなたへの思いは変わらないわ。どんなことがあっても、あなたが全てよ」
と言って、礼はその左半身の胸に我が身を押し付けて抱き着き、その肩に頭を乗せた。実言はひしと、抱きとめて、その顔を、体をゆっくりと愛しむ。
実言と別れてからの長い年月、毎日と言っていいほどに、夢見ていたことだった。こうして、二人で寝所に入って、睦み合って、やがて心安らぐ深い眠りに落ちて、そして目覚めること。一緒に目覚めて、互いの顔を見合って、微笑んで。この上ない、しかし、日常の幸せだ。
礼は目を覚ました。体を起こして、辺りを見回した。
すぐそこには実言が仰向けで寝ていた。長旅のそれも戦からの帰還なのだから、ゆっくりと眠らせたい。
陽はだいぶ高くなっている。侍女は、気を利かせて部屋に入ってこないが、西側の格子だけは上げてくれている。そこから、陽の光が入ってきて、もうすっかり陽が高くなったことを教えてくれた。
実言は眠りの短い人だった。礼より遅くに眠りにつき、礼が目覚めたときにはもう目を覚ましているのが常だった。
しかし、今こうして眠ったままの姿を見ると、実言の長く苦しい戦いの旅の終わりが、実言を安心させ、ゆっくりと睡眠を貪ることを許しているように思えた。
礼はその寝顔をじっくりと眺めた。わが夫ながら美しい顔立ちである。鼻梁の通った面差しが上を向いて目を閉じている。
しかし、その微動ともしない姿に息をしていないのではないかと、恐ろしくなった。
もしかすると、これは全て幻ではないか。
礼が望む現実を、幻として一夜限りで見せてくれたのではないか、と。
本当は、礼が呼べども叫べども実言は応えることのない、目を覚まさぬ人となってこの都に帰ってきたのではないか。
礼は背筋が凍りつくような恐怖に襲われて、寝ている実言の手を取った。一晩中感じた温かさが、今はまるでない。
「実言……」
礼は、小さくその名を呼んだが、なんの反応もない。おそるおそるその胸に顔を近づけ、心の臓の上に耳を置いて、その鼓動を聴こうとした。
礼は、静寂の中でしっかりとした音を聴いて、自分の悪い想像が嘘だと思いたかった。
そっと、実言の胸に顔を置いて、耳を澄ます。自分の心の臓の音の方が体に響いて、実言のそれが聴こえない。もしかしたら、今まで全て夢か……と礼は絶望的な思いになった。
その時、いきなり、礼は体を掴まれた、かと思うと、次には部屋の天井を仰ぎ見ていた。
「……どうした?礼」
優しい声が問う。
「実言!」
礼は声の方を仰ぎ見た。
実言は礼の体をつかまえると、素早く起き上がって礼を押し倒し、上から見下ろしている。
「……まるで私が死んだかのように、心配している様子だね」
実言は上から目を細めて笑みを浮かべた顔を近づけて、礼に訊いた。
「実言……あなたの心の臓が動いていなかったらと……」
といって、実言を見つめた。次に口を開くと。
「不安で」
「不安で?」
と礼の言葉に実言もついて同じことを一緒に言う。
「あなたが生きて、私のそばにいると確かめたの」
と礼が一息に言った。
「こうして、私は生きて帰った。お前の元に。何も心配することはない」
礼には甘美な囁きだった。実言は、そっと、礼の首筋に唇を寄せて、昨夜の続きとばかりに礼の肌着の中に手を入れた。
そこへ、寝所の東側の廊下を軽い足音が鳴った。それも、二人分である。だいぶ騒がしい。
「これ、お二人とも、お静かに、まだそちらにいってはいけません」
実津瀬と蓮についている侍女が、声をひそめて注意している。
「昨日のおとうさまに会いたい」
「昨日のおとうさまは、今日もおとうさまでいてくれるのかしら」
二人が次々に自分の思いを言っている。
父親を知らない二人は、おとうさまが日替わりのように思っているようだ。
ふふっと、実言は礼の胸の上で笑って、礼の胸から顔を上げた。
「二人に私がこれからずっとお父様だと、教えてやらなくてはいけないね」
実言は起き上がると、そばにあった上着を拾い上げて、寝所を出て行った。
実言が隣の部屋に移ると、すぐに衣擦れの音がして、侍女が現れた。身支度の用意をしてくれと言いつけると、その声が簀子縁に聞こえたのか、簀子縁を戻ろうとしていた足音がまた鳴り響いて、礼たちの部屋の近くまでやってきた。足音は軽やかでそれは、楽しそうである。
「あ!」
「あ!」
二人は声をそろえた。どうやら、昨日のおとうさまを見つけたようである。
実言が何か言っているが、その言葉ははっきりと聞こえない。
「おとうさま。今日もそうなの?」
この声は蓮である。
「明日も?ほんとう?ずっと、そうなの?」
これは実津瀬だ。
それから二人はおとうさまに抱いてもらおうとせがむ声が聞こえる。
親子三人の声が楽しそうに入り混じる。
礼は、実言が出て行った寝所に一人座って、庇の間での三人のやり取りを聞いていた。その様子が細部まで脳裏に浮かび、自然と涙がこぼれた。
この日を、迎えることを夢見てきた。それが現実となったのだ。
礼は、我が試練に勝った、と思った。
「礼」
実言が呼んでいる。
実津瀬と蓮も「おかあさま」と口々に呼ぶ。
礼は、こみ上げる喜びに……すぐには返事ができなかった。
第二部 完
妻戸が開く音がして、部屋の中に進む足音。
「実言」
礼が現れた。
「二人ともやっと寝たわ。興奮してしまって、眠いのになかなか寝ようとしなくて。あなたのことが気になって仕方ないみたい」
実津瀬と蓮を寝かしつけてきた礼は、二人の様子を語った。
「これは?」
実言は机の上の紙を取りあげて、少しばかり顔を後ろの礼に向けた。
「それは、蓮が書いたもの。あの子は私の真似事がしたくて、よく筆を持ちたがるの」
「そうか。なんとも言えない味があるね。もう少し大きくなったら立派な書き手になるだろう」
実言は目の高さまで紙をあげて、嬉しそうに見ている。
実言の帰還に湧いた夜だったが、宴も終わった今、静かに更けていく。
「実言」
礼は静かに、実言の後ろに進み寄り、座っている実言の背中にすがりついた。
「あなたは、私がしたことをさぞかし怒っているでしょうね」
実言の背中に額をつけて、言葉を押し出した。しばらく間をおいて。
「そうだな」
と、実言は言った。
「本当に。あの場でお前を見たときは、私は死んだのだと思ったよ。恋しいお前に逢いたくて、私の魂はお前のところに行ったのだとね。しかし、意識がはっきりするにつれて、私は死んではおらず、なぜかお前が私の傍に居る。何が起こっているのか、理解できなかった。耳丸から、お前が私を助けるために、耳丸と共に北方のあの地に来たと教えられたときには、もう腸が煮えくり返って口もきけなかった。本当に、本当に」
実言は、ゆっくりと噛み締めるように言葉を続けた。
「どれほどの危険がお前のそばをかすめて行ったことか。もし、万が一のことがあったときの子供のことを考えたのかい。束蕗原で待っていてくれと言ったのに。私は、お前の言う通り怒りに震えていた」
後ろから実言の胴に回していた礼の手に実言は上から自分の手を重ねる。
「しかし、お前と実津瀬、蓮と対面して、怒りは全て吹き飛んだ。お前が命かけて私を助けにきてくれたのは、今日の日のためだったのだとね。私は身にしみてわかったよ。あの二人と会わずして、彼の地で死んでいたら、と思うと」
実言は礼の手を取って、握った。
「だから。怒りなどは消えて無くなった。今日の日を迎えて、全てがうまく行ったのだから、もう、過去のことなどこだわりはしない。礼に感謝している」
実言は体を反転して、礼に正対した。
「須和の娘の力かな。私の命はもう三度、お前に救われているのだ」
礼は微笑んだ。この人は運命だから、そうなってしまうと思うのだった。
「よく、顔を見せておくれ。彼の地では怒りにまみれてお前をしっかりと見ることができなかった。男の姿にさせてしまって、美しい髪も削ぎ落としていたね。そんな姿にさせてしまったのも、悲しかった」
実言は両手で礼の頬を包むと、自分に近づけるように手を引いた。部屋の明かりに照らされた礼の顔をしっかりと見る。
「ああ、会いたかった」
と万感の思いを込めて言い、礼を腕の中に入れて抱きしめた。
それから礼を横抱きにして立ち上がると、奥の御帳台へと運んだ。礼をその中に入れてそっと下ろす。実言も御帳台に上がって二人は向かい合った。感情がほとばしって、言葉もなくお互いを求めて抱き合った。実言の胸の中にうずめた顔を上げた礼を実言は捕まえて、その唇を吸った。
唇を離したが、礼はずっと目をつむったままでいるのを見て、実言は再びその唇を吸って、その体を押し倒した。礼の唇を貪って、やっと離れると礼もようやく閉じていた右目を開けた。
「よくも、ここまで耐えられたものだ」
実言が囁いた。礼も頷く。
二人はこの三年という月日を、必死に生きてきた。いつか、授かった新しい命ととともに親子が再開することを夢見て。しかし、それは決して易しいものではなく、実言と礼は辛苦を舐め味わった。それだから、今この刹那が愛おしい。
実言は礼を無茶苦茶にしてしまいたい。その体を思うままに愛して、心ゆくまで味わいたいのだった。
礼の腰に結ばれた帯の端を手にとって、実言は引いた。簡単に解けた帯を離すと、礼の身に着けている上着はその前を開いた。桜にはまだ早いこの時期、寒さを防ぐために何枚も重ねた着物の中から礼の裸身をすくいあげて、その腕の中に囲った。
「礼」
実言は、礼に囁いた。礼の体をぴったりと自分の体に沿わせるように引き寄せて。
「私は、変わってしまっただろう」
実言の言葉が何を言い表したいのか計りかねて、礼は、じっとその右目で実言の目を覗き込んだ。
「私は、戦に行く前の私とは変わってしまった。体は痩せて、見劣りする容貌になり、皆が記憶している男ではなくなった」
礼は自嘲するように笑っている男の両頬を両手で包むと、その容貌を見定めるように見つめた。
「……何を言っているの。月日が経てば多くのものが変わるわ」
礼は、実言の面差しを確かめるように両手に包んだ顔の形をそっと、なぞってから、首へそして胸へと実言の体の下に指を這わせた。
「あなたの体や姿が変わろうとも全く気にならないわ」
「それを聞いて、私は勇気づけられるね。この姿が変わろうとも、私にはね、変わらないものがあるよ」
実言は礼の白い裸身に引き寄せられるように、その胸に顔を寄せて囁いた。
「私にもあるわ」
礼は誘われるように囁き返した。
「ああ、お前と我が子への思いだけは変わることのないものだった。この身が滅びようとも、この思いだけは残るものだったよ」
「私も。あなたがいなくて、私はどうして生きていけるか。あなたがいるから、私はこうしていられる。実津瀬と蓮とあなたと……」
礼はゆっくりと、実言の実体を掴むかのようにその胸の上に手を置いた。確かに痩せてしまった胸ではあるが、愛しい体にかわりはなかった。
礼は実言の腰の帯に手をかけて、その端を引いた。右手で衿を掴んで、その上着を実言の肩を越して背中へと落とし、礼はその左半身を裸にした。
「私のあなたへの思いは変わらないわ。どんなことがあっても、あなたが全てよ」
と言って、礼はその左半身の胸に我が身を押し付けて抱き着き、その肩に頭を乗せた。実言はひしと、抱きとめて、その顔を、体をゆっくりと愛しむ。
実言と別れてからの長い年月、毎日と言っていいほどに、夢見ていたことだった。こうして、二人で寝所に入って、睦み合って、やがて心安らぐ深い眠りに落ちて、そして目覚めること。一緒に目覚めて、互いの顔を見合って、微笑んで。この上ない、しかし、日常の幸せだ。
礼は目を覚ました。体を起こして、辺りを見回した。
すぐそこには実言が仰向けで寝ていた。長旅のそれも戦からの帰還なのだから、ゆっくりと眠らせたい。
陽はだいぶ高くなっている。侍女は、気を利かせて部屋に入ってこないが、西側の格子だけは上げてくれている。そこから、陽の光が入ってきて、もうすっかり陽が高くなったことを教えてくれた。
実言は眠りの短い人だった。礼より遅くに眠りにつき、礼が目覚めたときにはもう目を覚ましているのが常だった。
しかし、今こうして眠ったままの姿を見ると、実言の長く苦しい戦いの旅の終わりが、実言を安心させ、ゆっくりと睡眠を貪ることを許しているように思えた。
礼はその寝顔をじっくりと眺めた。わが夫ながら美しい顔立ちである。鼻梁の通った面差しが上を向いて目を閉じている。
しかし、その微動ともしない姿に息をしていないのではないかと、恐ろしくなった。
もしかすると、これは全て幻ではないか。
礼が望む現実を、幻として一夜限りで見せてくれたのではないか、と。
本当は、礼が呼べども叫べども実言は応えることのない、目を覚まさぬ人となってこの都に帰ってきたのではないか。
礼は背筋が凍りつくような恐怖に襲われて、寝ている実言の手を取った。一晩中感じた温かさが、今はまるでない。
「実言……」
礼は、小さくその名を呼んだが、なんの反応もない。おそるおそるその胸に顔を近づけ、心の臓の上に耳を置いて、その鼓動を聴こうとした。
礼は、静寂の中でしっかりとした音を聴いて、自分の悪い想像が嘘だと思いたかった。
そっと、実言の胸に顔を置いて、耳を澄ます。自分の心の臓の音の方が体に響いて、実言のそれが聴こえない。もしかしたら、今まで全て夢か……と礼は絶望的な思いになった。
その時、いきなり、礼は体を掴まれた、かと思うと、次には部屋の天井を仰ぎ見ていた。
「……どうした?礼」
優しい声が問う。
「実言!」
礼は声の方を仰ぎ見た。
実言は礼の体をつかまえると、素早く起き上がって礼を押し倒し、上から見下ろしている。
「……まるで私が死んだかのように、心配している様子だね」
実言は上から目を細めて笑みを浮かべた顔を近づけて、礼に訊いた。
「実言……あなたの心の臓が動いていなかったらと……」
といって、実言を見つめた。次に口を開くと。
「不安で」
「不安で?」
と礼の言葉に実言もついて同じことを一緒に言う。
「あなたが生きて、私のそばにいると確かめたの」
と礼が一息に言った。
「こうして、私は生きて帰った。お前の元に。何も心配することはない」
礼には甘美な囁きだった。実言は、そっと、礼の首筋に唇を寄せて、昨夜の続きとばかりに礼の肌着の中に手を入れた。
そこへ、寝所の東側の廊下を軽い足音が鳴った。それも、二人分である。だいぶ騒がしい。
「これ、お二人とも、お静かに、まだそちらにいってはいけません」
実津瀬と蓮についている侍女が、声をひそめて注意している。
「昨日のおとうさまに会いたい」
「昨日のおとうさまは、今日もおとうさまでいてくれるのかしら」
二人が次々に自分の思いを言っている。
父親を知らない二人は、おとうさまが日替わりのように思っているようだ。
ふふっと、実言は礼の胸の上で笑って、礼の胸から顔を上げた。
「二人に私がこれからずっとお父様だと、教えてやらなくてはいけないね」
実言は起き上がると、そばにあった上着を拾い上げて、寝所を出て行った。
実言が隣の部屋に移ると、すぐに衣擦れの音がして、侍女が現れた。身支度の用意をしてくれと言いつけると、その声が簀子縁に聞こえたのか、簀子縁を戻ろうとしていた足音がまた鳴り響いて、礼たちの部屋の近くまでやってきた。足音は軽やかでそれは、楽しそうである。
「あ!」
「あ!」
二人は声をそろえた。どうやら、昨日のおとうさまを見つけたようである。
実言が何か言っているが、その言葉ははっきりと聞こえない。
「おとうさま。今日もそうなの?」
この声は蓮である。
「明日も?ほんとう?ずっと、そうなの?」
これは実津瀬だ。
それから二人はおとうさまに抱いてもらおうとせがむ声が聞こえる。
親子三人の声が楽しそうに入り混じる。
礼は、実言が出て行った寝所に一人座って、庇の間での三人のやり取りを聞いていた。その様子が細部まで脳裏に浮かび、自然と涙がこぼれた。
この日を、迎えることを夢見てきた。それが現実となったのだ。
礼は、我が試練に勝った、と思った。
「礼」
実言が呼んでいる。
実津瀬と蓮も「おかあさま」と口々に呼ぶ。
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