Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第四十九話

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 この村に入ってから三十六日目。耳丸と医者の瀬矢はこの村を発つ。
 発つ前に、最後に実言の左腿の傷を見る。傷口は肉がついてほぼ塞がっている。あとは安静にして少しずつ足を動かして慣らしていくしかなかった。瀬矢医師はこのあと実言の世話をする三佐古に塗り薬や薬草を渡してその役目を引き継いだ。
「実言様、我々は若田城へと戻ります。また、お会いする日を心待ちにしています」
 実言は上半身を起こして、すぐ横にいる耳丸の言葉を聞いて、頷いた。
「どうか、道中に気をつけて。二人ともが無事に戻ってくれ。耳丸、よろしく頼む」
 耳丸は何度も頷いて、実言の言わんとすることを読み取った。実言は二人がというが、耳丸に礼をよろしく頼むと言っているのだ。
「お前が頼りだよ」
 実言は同じことをもう一度言った。
 そして、耳丸の後ろで実言の言うことを聞いていた瀬矢医師に一瞥して。
「医師殿。ここまでご足労いただき、ありがとう。あなたのおかげで私は命を繋いだようだ。都までの帰路をどうか無事にお帰りください」
 と、つぶやくように言った。礼は、返事することはできないため、大きく頷いた。
 村の女たちから、数日の食料である固い粟の握り飯や、木の実の蒸したもの。まだ青い時期にとった果物などをもらった。礼は何度もお辞儀をして、別れを偲んだ。
 耳丸に促されて礼は振り返ることをやめて、この村にきた道を逆に歩き出した。道なき道である。夷が通る可能性のある対岸の道を避けて、あえて人が通らない藪の中を歩く。
 十日あまり前に二人の兵士が、若田城に救援を求めに向かって歩き、耳丸も同行した道である。すでに三人が歩いた痕跡は掻き消されていて、礼の膝上まである草や、伸びた木の枝をかき分けながら前と進んだ。
 行きは早く実言の元にたどり着きたくて、どんなに苦しいことも、後に思えばそうだったというだけで、困難を困難とは思わなかった。そして、帰りは、実言の命をより強くしたという達成感で嬉しくて足取りも軽い。礼は飛び跳ねるようにどんどんと進んでいるような気持ちだった。
 耳丸は帰る時も、道の端はしに目印をさりげなく残して、救援者たちの道標を作っている。
「瀬矢様、どこでこの川を渡ろうか」
 来た時と同じように、どこかで川を一旦渡らなければならない。
 耳丸は振り向いて、礼に聞いた。二人きりになっても、礼が瀬矢という医師という役が抜けきらず、そう言った。しかしながら二人きりなので砕けた言葉遣いになる。
「もう少し先でもいいかもしれない」
 耳丸はいずれここを通ってあの村にたどり着く若田城から出発する救援隊のために、多くの目印を残しておこうと考えている。耳丸の作業のたびに礼は立ち止まり、水筒の水を口に含みながら、耳丸を見守る。
 ここ数日、雨が降らないので、川の水量が随分と少なくなっている。適当なところで、耳丸は川を渡ることに決めた。川幅の中心に凝縮したように流れる川の水の中を礼の手を取って、一緒に渡った。礼にできるだけ石の上歩かせて、耳丸は川の中を歩いた。渡りきると、水筒に水を入れたり、手ぬぐいを水につけて湿らせたもので首筋を拭いたりした。
 それから、岸に向かって歩き、崖にぴったりと体をつけて休んだ。川の中にいては警戒中の夷に見つかる危険があるかもしれないからだった。
 礼は、歩き通しで疲れたのか、腰を下ろしてじっとしている。
 帰りの道程は、順調にいってもこれから四日はかかる。来た時と同じように夷に気をつけながらこの山を抜けて、大王の支配する安全な地域にたどり着かなくてはならない。耳丸は再び川で水筒に水を汲んで、山道に入るために礼に低い崖を登らせた。
 耳丸は、前からも後ろからも、いつ夷と出くわすのか、と警戒した。礼を自分の前を歩かせたり、後ろに回したり、気の休まることはない。
 その時、自分の前を礼に歩かせていると、礼がひたっと立ち止まる。耳丸は、礼の動きに気づいてぶつかりそうになりながら、急停止した。そして、礼が振り返ると耳丸の顔に近づいた。
「大勢が来る」
 と、囁いた。耳丸は、すぐに礼の腕を引っ張って、道を逸れて、クマ笹とシダが生い茂る林の中に入り、山の上へと進んだ。
 随分と道から離れたところで、耳丸は立ち止まり、礼と並んで下を通る道の方を見た。
 夷たちだったら、じっと我慢してやり過ごさなければならない。しかし、もしかしたら、と耳丸は思った。
 若田城から来た救援隊なのかも知れない。
 それを見極めるためにも、その気配に五感を凝らした。
 それは行きに遭遇した夷たちののんびりとした足取りではない。多くの人数が一斉に勢いよくこちらに向かってくる。
 耳丸と礼はもう一度身を低くして、下を見た。
 あの村と唯一繋がる道を勇ましい足音が近づいてきた。私語もなく、ザッザッと土を踏みならしていく音がだんだんと大きくなり、礼たちの前を通り過ぎ、遠ざかっていく。耳丸は遠ざかっていく足音で距離を測って、クマ笹からゆっくりと頭を出した。目の位置を林の高さから少し出して、後ろ姿を見送る。ざっと見たところ、隊列を作って歩いている者は八人ほどで、皆が揃いの鎧をつけており、鎧を留めている緒は紅であることから、大王軍であることを確認した。
 やはり、救援隊だったのだ。
 十日ほど前に送り出した二人の兵士は無事に若田城にたどり着き、高峰と会うことができたのだ。
 耳丸たちの気配などいっそ気づかずに通り過ぎていく一団を林から完全にその身を露わにして、見送る耳丸に習って礼も立ち上がり、辛うじて二列になって歩く兵士の最後の後ろ姿を礼も見ることができた。
「あれは、大王軍の兵士だ。もう、大丈夫だ」
 耳丸が囁くと礼は頷いた。二人は、道へと下りていき、軽やかに歩き出した。
 一度あるいた道を耳丸はよく覚えている。夷を用心してか、時折道を外れても、いつの間にか元の道に戻っているし、安全な寝る場所を見つけるのに山奥に入っても迷うことなく元に戻れるのだった。
 山の中で一夜を過ごして、昼には若田城で出会い途中まで同行してくれた若見と別れた山の麓にたどり着いた。行きは馬に乗ってきたので、若田城から二日で来られたが、帰りは徒歩である。少なくとも三日はかかる。
 礼と耳丸は陽に照りつけられる中を歩く。しかし、その暑苦しさやひっきりなしに流れ落ちる汗の煩わしさも苦にならなかった。
 遠くに集落の屋根が見えると、そこを目指した。家の主人に頼んで小屋の軒下を借りて夜を過ごし、夜明けとともに起き上がって再び歩き、もう一泊は野宿をした。
 そして、礼と耳丸は若田城まで戻った。
 若田城に戻ると、耳丸はすぐに若見が住んでいる官舎の長屋に向かった。入り口に立て掛けている戸を拳で叩くが、中から返事はない。耳丸は、戸を外して中を覗くと、誰もいなかった。陽は傾き始めているが、彼はまだ仕事をしているらしい。
 耳丸は構わず中に入っていった。礼も恐る恐る中へと入り、休ませてもらうことにした。
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