Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第四十二話

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 戸を開ける音で、中にいる人物の身じろぎする様子がうかがえた。
「失礼しますよ」
 妙に遠慮して、若見は声をかけながら入って行く。
 部屋の中に入ると、隻眼の医師、耳丸さんはなんといって言っていたっけ、れ……せ、瀬矢、という人。片膝を立てて楽な格好で座っているが、若見が戻ってきて少し緊張した顔を見せている。
「あれ、耳丸さんはまだ?」
 部屋の中を見回したが、瀬矢しかいなかった。瀬矢は首を縦に振った。
「これをどうぞ」
 こくっと、瀬矢は頷いたのを見て、若見は床を滑らせて食事を載せた盆を部屋の中央に押し出した。
「耳丸さんは馬の世話に時間がかかっているようですね」
 若見が独り言のように言った。瀬矢は、微笑してこちらを見ている。
 そうだ、この人は怪我で声が出せないといっていたっけ。
「汁も冷めるし、先に頂いたら?」
 こちらの声は聞こえているようだけど、声が出せないからどう意思表示しているのかわからない。耳丸なら何を思っているのかわかるのかもしれないけど。食事を前に、箸をとるでもなく、じっとしている。
 これ以上何か言っても、返って来る言葉はないので、若見は黙った。
 細っそりとした体つきに、もう夏になるというのに、きっちりと衣装を着込んでいる。左目を隠す眼帯や、喉に巻いた布が暑苦しい感じだ。女のようなたおやかさを見せる、少年のような男に若見は興味を持っている。医者と警護の男の関係だけとは思えない。ただならぬ関係と思っている。
「耳丸さんとは、都から二人で旅してきたの?」
 言葉は帰ってこないと分かっていても、この静寂に耐えられなくて若見は話しかけてしまった。瀬矢が何かしら体や表情で気持ちを表す前に、部屋の入り口の戸が揺れた。
「馬の世話に手間取ってしまって、遅くなってしまった。お待たせしたかな?」
 耳丸が現れた。鋭い視線を若見に送った。
「食事をお持ちしたところです。瀬矢さんがお待ちですよ」
 若見は上がり框に腰を下ろしたまま、戸口に現れた耳丸に話した。
「私は、食堂に行ってきますから、お二人でどうぞ」
 若見はそう言って、自分の部屋から出て行く。
「申し訳ない」
 耳丸は戸口ですれ違う若見に頭を下げた。戸を内側から立てかけて、板間に上がった。
「若見と何か話したのか?」
 礼は首を横に振った。そして、耳丸の分の食事の盆を前に押し出した。食事しようという意思表示らしい。
「そうだな。食べよう」
 二人は静かに食事した。
「礼」
 耳丸は食事が終わると、言った。礼は、顔を上げて手を上げた。「待て」ということらしい。礼は声を出さずに、口を大きく動かしている。何をしているのだろうと思ったが、口の形で「せ、や」と言っている。
「瀬矢様」
 気づいて、言い直した。礼は、そうだ、というふうに頷いた。
「実言様は、生きています。実言様が率いた軍団のうちの一人が、敵のいる中をかいくぐってこの若田城に戻ってきて、伝えたところによると、実言様は怪我をしていて動けないようです。瀬矢様が行かなくてはいけない状況と思われます。ここにいる役人は将軍の指揮命令下にいて、自由には動けませんので、私たちが行くこと進言しています。岩城の家の方、高峰様とおっしゃる、私もお屋敷でお見かけしたことがある方が協力するといってくださったので、早ければ明日、明後日には現地に向かって発てると思います」
 礼は頷いて、目を伏せた。
 耳丸は礼に体を近づけて、また顔と顔を寄せた。
「すぐに発てるように準備する。早く実言の元に行こう。そうすれば、あんたも安心できるだろう」
 耳丸は礼に囁いた。
「あ……」
 耳丸の背中に、間の悪さを詫びるような感嘆の声が掛けられた。耳丸は振り向き、礼はそちらに視線を向けた。戸口に食事を終えた若見が立っていた。
「すみません。お取込み中に」
 と意味深なことをいった。
 耳丸は礼を男といっているのに、親しげに顔を近づけて話していたので、礼が男なのかと疑われるのではないか、女だと知れるのではないかと警戒した。
「高峰様がお越しになります」
 若見は言って、戸口で待った。
 やはり、二人の近さは医者とそれを護衛する従者とは思えない。ただならぬ関係に思えてならない。女のように見える少年のような男と通じる無骨な大男に思えて、興味が尽きないのだ。
 気配をさせず高峰という岩城に仕える男が、若見の部屋の入り口に現れた。
「失礼」
 高峰はすぐに部屋の中に上がってきた。若見は内側から戸を立てて、部屋を閉じる。
「隣の部屋も岩城の家の者だったかな」
 静かに若見に聞いた。若見は頷く。
「しかし、声を荒げて話すこともあるまいよ。手短に話そう」
 と言った。
「あなたが、医師の方か」
 部屋の真ん中に座った高峰は、耳丸を超えて、部屋の隅に佇む礼を見た。こくりと礼は頷く。礼の風貌に少し意表をつかれたような様子だ。
「お若い方だ」
 我慢できずに、感想が口をついて出た。
「岩城家ゆかりのお医者の家に早くから住み込まれて学ばれております。実言様も御存じの医師でございますので」
 耳丸は礼の風貌を弁解するように言った。
「目や喉を怪我しておりまして、言葉も発せないですが、腕は確かですので、選びました」
「そうか。どうか、実言様を救ってください。戻ってきた者のいうことでは、お怪我をされてその傷が深く動けなくなっているとのことでした」
 礼は深く頷いた。
「では、実言殿のことをお話しましょう」
 高峰は耳丸を向いて、話し始めた。
 実言の一団に所属する若い男は、皆に希望を託されて、逃げ込んだ場所を脱出し若田城を目指した。どうか、敵の入り混じる森、野原を超えて、我が仲間の守る若田城へとたどり着き、我々の窮状を伝えて欲しいと、皆は男の背中を見送った。
 実言たち一団は敵を追い込んだが、形勢が逆転し退却しようとすると、不自然に断ち切られた退路。実言の一団は孤立し、なんとか夷に支配されていない地へと逃れ、助けを乞うた。その土地の者達は、大王の支配下の元、この北の地に入植した者たちで、なんとか説き伏せて、匿ってもらっているというのだ。そして、多くの兵士の命を失い、生き残った者達は、なんとか慈悲を施されて生き延びているのだった。その中でも実言は先頭に立って戦い、大きな怪我を負ってしまって、身動きのできない状況だというのだ。
 若い男は、若田城を目指して歩き、駆け抜けた。途中、敵の夷が警戒する地域を、心を冷やしながら突破し、命からがら逃げてきた。その道のりは五日かかった。昼も夜もなく、敵を見たら道を変えてきたので自分がどこを通って帰ってきたのかわからず、礼と耳丸の行程の参考にはならない。
「馬で、行けるところまで行きましょう。そこからは徒歩です。二日三日歩けばその村に行けるはずですが、今話した通りその場所ははっきりとわかっていないのです。近くまで行けるでしょうけど、そこからたどり着けるかはあなた方の運次第ということになります。全くもって頼りないことですが」
 と高峰は頼りなさを詫びた。
「馬で行けるところまでは、この若見が案内します。表立って動くわけにもいきませんので、明日の日暮れに移動しましょう。必要な物があれば言ってください。用意させます」
 高峰は言うことだけ言って、去った。若見は食器を食堂に返すのに、一旦出て行った。
 礼も耳丸もここでは、高峰や若見に頼るしかないため、先ほど言われたことに従うしかない。若見がいないからといって、親しげに話して先ほどのように間の悪い見られ方をしてはいけないので、黙ってじっとしている。
 若見は部屋に入るのをためらった。部屋にあのふたりがいるので気を使った。わざと大きな足音をさせながら戸口を開けると、二人とも黙って座っている。
「お疲れでしょう。休みますか」
 若見は戸を閉じて、板間の上に上がると言った。
 部屋の隅に置いている筵を若見は勧めたが、耳丸が断った。
 入り口近くに若見が筵を引いて寝た。次に耳丸、奥が礼だ。
 耳丸は堤になって、礼を守るつもりだ。礼は荷物を枕に、横になって目を閉じている。耳丸は礼の方を向いてじっと闇の中を伺った。背中では、若見がときおり寝返りを打ったり、咳払いしたりする。不意に現れた旅人を急遽泊めることになったのは、嫌なものだろう。礼は、耳丸の方に顔を向けたまま動かない。そのまま眠りに吸いこまれていったようだ。熱くるしい夜で、耳丸や若見は胸をはだけて寝ているが、礼はきっちりと上着を着込み、喉元を見られないように首巻きまでしている。暑苦しいだろうが、疲れが勝って眠ってしまったのだ。女人らしい可憐で穏やかな表情で寝息を立てている。耳丸はそっとその顔を見守った。そして、自分もゆっくりと眠りに落ちていった。
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