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第二部 wildflower
第二十九話
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翌日、いつもの朝が来た。
去の邸は、夜明けとともに起き出して、畑に出る者、家事をする者とそれぞれ動き出した。耳丸も、厩で馬の世話をして、その後朝餉をとると、邸の男達とともに家の修繕をしていた。
いつもの朝と違ったことは、不意に礼の侍女である縫が邸と薬草を保管する棟をつなぐ回廊を邸の方から来て、耳丸に一番近づく回廊の途中に立ち止まると、大きな声で耳丸を呼び、手招きした。
「耳丸!ちょっと、こちらへ」
耳丸は一緒に作業をしていた老爺につつかれて、顔あげると、縫が手を振っているのが見えた。耳丸は縫のそばに行くと。
「耳丸、去様がお呼びよ。すぐに来てちょうだい」
いつもよりきつい口調に何だろうと思った。縫の顔色は悪く、蒼ざめている。もしや、礼が?昨日の今日に、もう去様に話をしたということだろうか。確かに、去の許しを得たなら、と言ったら即答でわかったと言ったが。
「わかった」
耳丸は答えた。縫は、去の部屋に来てくれといって、先に行ってしまった。耳丸は、老爺に少しこの場を離れると伝えて、井戸に向かうとそこで手と顔を洗い、身なりを整えて、去の部屋へと向かった。
去の侍女に案内されて、部屋の中に入ると、去と礼が睨み合っており、その間でどうしたらいいのかわからず、おろおろとする縫がいた。
「失礼します」
と声をかけると、怒気を含んだ去の声が飛んだ。
「耳丸、そこに座ってちょうだい」
「……はい」
耳丸は礼の斜め後ろに座った。
「先ほどから、礼が聞き分けのないことを言っているのだけど。それには、お前の助けがあるから、大丈夫だと言って私を説得するのだが、私は納得なんかできないよ。はい、そうかい、と言って承知なんかできる話ではない。耳丸は礼になんて言ったんだい。この子を唆しているんじゃないだろうね」
去の剣幕に耳丸は言葉がすぐには出てこなかった。そこに礼が去を凌駕するほどの声量で言葉を発した。
「去様。耳丸が私に言っているのではないわ。私が実言のところに行きたいから、耳丸に一緒に行ってくれと頼んだのです。耳丸は、私に辞めるように言うのを、私が諦めないから、去様のお許しがあるなら同行すると言ってくれたのです。耳丸は何一つ悪くないのです」
「何を言っているの。実言殿のところに行くですって。許すはずないではないですか。耳丸!」
去は耳丸を見た。
「心にもないことを言って、礼をたぶらかすのはやめてちょうだい」
去の厳しい声音に、耳丸は一言も発せられない。
「私が言い出したことです。唆されているのは耳丸の方なのです。それでも、私は実言のところに行きたいの。先ほどもお話した通り、実言は傷ついています。ほっておけば死んでしまう。助けたいの。私にしかできないことと思うから、どうか去様、私を行かせてください」
「実言殿がなぜ傷ついているとわかるの?」
「それは……」
「確かに、お前は、人よりも目や耳がいいのでしょう。だから、実言殿を二度も救うことができたのだと思うわ。でも、今の実言殿は遠い北方の空の下にいるのです。お前が勝手に思い込んでいるだけではないの」
礼は何も言い返せず、ぐっと口を噤んでいる。
「それに、双子はどうするの?あの子たちを置いてお前は実言殿のところに行くというのですか。あの子たちはまだ小さな赤子ですよ。お前なしで生きていけると思うのですか。実言殿はお前にくれぐれも子供のことを頼むと言い置いて行かれたでしょう。お前は、実言殿の言いつけを守るべきなのですよ」
礼は返す言葉がなく、下を向いた。子供は去に見て欲しいというのは、虫のいいお願いなのだ。こんな強硬な去に、子供を託して、私は実言の元に行きたいと言える状況ではない。
「確かに、実言殿のことは心配でしょう。この一年、何の消息もないままですものね。お前が気に病むのもわかるわ。しかし、お前が行って、その道中でもしものことがあったらどうするのですか。お前はそれでもいいの?お前は、実言殿にも子供達にも会えないのですよ。冷静に考えてごらんなさい。一番の得策はここで子供とともに待つことよ。必ず実言殿は帰ってきてくれるわ」
道中でもしものことがあったら、と去が礼に問うた。礼は何も言わない。耳丸も同じことを訊いて、礼は、それも覚悟の上だと言ったが、去にはそれは言えなかった。言ってしまったら、今以上に叱られて、否定されてしまう。
去は、うなだれる礼から目を離し、耳丸を見た。
「耳丸。私の答えは、実言殿の所に行くなんて、とんでもないことです。許すことはなりません。礼の思いを真っ向から否定できないからと言って、私に矛先を向けさせてもだめよ。お前がその道中の難しいことを一番わかっているだろうに。礼を諭してくれなくては困ります」
去は、厳しい声音で耳丸に言った。そして、膝で進んで礼に近づき、その手を取った。
「礼。お前にもう一度言うよ。実言殿は私に、ご自身が帰ってくるまでお前と子供を頼むと言い置いて行かれたわ。私は実言殿の期待を裏切ることはできない。それにここで実言殿を待つのは、お前にとって一番いいことだと思う。だから、お前はここで待っておいで」
礼は握られた手を揺さぶられて、去に諭される。礼は、明確に返事をせず、それまで堪えていた涙が右目から一筋こぼれた。
「もう、子供のところへ行っておやり。乳母がいるからといって、子供は母親を求めているものよ。それが二人もいるのだから、お前はどこかに行っている場合じゃないわ」
とどめのように言われて、礼は袖で涙をぬぐった。
去は縫を見て、目で合図する。
「礼様、お部屋に戻りましょう。さあ」
礼は縫に支えられてふらつく体を立ち上がらせて、子供部屋へと連れられて行く。自分の足で歩いているが、もう縫の支えがなくてはその場に倒れてしまうような心許ない姿だ。耳丸も一緒に退出して、礼の後を歩いた。
礼は離れの部屋に入る前に、もう一度涙をぬぐい、深く息を吸って吐いた。部屋の中では、乳母に遊びの相手をしてもらっていた双子が目を上げて母親を見た。礼は二人の前に座ると、二人が競うように這ってきて、礼の膝の上にいち早く登ろうとする。礼は一人ずつ膝の上に上げて、そして抱きしめた。柔らかく温かで愛おしい大切な子を。
礼にとっては実言も子供たちも誰も大切で失いたくない人なのだ。優劣などない。だから、自分が助けられる者から助けたい。自分が犠牲になることに、何の斟酌もない。誰かを悲しませるかもしれないが、礼は後悔しない。
耳丸は簀子縁から部屋の様子を伺った。礼の後ろ姿が見える。二人の子供を両手に抱いている姿。子供たちは母親の抱擁に泣き声のような笑い声のような声をあげている。礼にはやはりこの子供たちを置いてはいけないだろう。
耳丸はそう見届けて、その場を去った。
去の邸は、夜明けとともに起き出して、畑に出る者、家事をする者とそれぞれ動き出した。耳丸も、厩で馬の世話をして、その後朝餉をとると、邸の男達とともに家の修繕をしていた。
いつもの朝と違ったことは、不意に礼の侍女である縫が邸と薬草を保管する棟をつなぐ回廊を邸の方から来て、耳丸に一番近づく回廊の途中に立ち止まると、大きな声で耳丸を呼び、手招きした。
「耳丸!ちょっと、こちらへ」
耳丸は一緒に作業をしていた老爺につつかれて、顔あげると、縫が手を振っているのが見えた。耳丸は縫のそばに行くと。
「耳丸、去様がお呼びよ。すぐに来てちょうだい」
いつもよりきつい口調に何だろうと思った。縫の顔色は悪く、蒼ざめている。もしや、礼が?昨日の今日に、もう去様に話をしたということだろうか。確かに、去の許しを得たなら、と言ったら即答でわかったと言ったが。
「わかった」
耳丸は答えた。縫は、去の部屋に来てくれといって、先に行ってしまった。耳丸は、老爺に少しこの場を離れると伝えて、井戸に向かうとそこで手と顔を洗い、身なりを整えて、去の部屋へと向かった。
去の侍女に案内されて、部屋の中に入ると、去と礼が睨み合っており、その間でどうしたらいいのかわからず、おろおろとする縫がいた。
「失礼します」
と声をかけると、怒気を含んだ去の声が飛んだ。
「耳丸、そこに座ってちょうだい」
「……はい」
耳丸は礼の斜め後ろに座った。
「先ほどから、礼が聞き分けのないことを言っているのだけど。それには、お前の助けがあるから、大丈夫だと言って私を説得するのだが、私は納得なんかできないよ。はい、そうかい、と言って承知なんかできる話ではない。耳丸は礼になんて言ったんだい。この子を唆しているんじゃないだろうね」
去の剣幕に耳丸は言葉がすぐには出てこなかった。そこに礼が去を凌駕するほどの声量で言葉を発した。
「去様。耳丸が私に言っているのではないわ。私が実言のところに行きたいから、耳丸に一緒に行ってくれと頼んだのです。耳丸は、私に辞めるように言うのを、私が諦めないから、去様のお許しがあるなら同行すると言ってくれたのです。耳丸は何一つ悪くないのです」
「何を言っているの。実言殿のところに行くですって。許すはずないではないですか。耳丸!」
去は耳丸を見た。
「心にもないことを言って、礼をたぶらかすのはやめてちょうだい」
去の厳しい声音に、耳丸は一言も発せられない。
「私が言い出したことです。唆されているのは耳丸の方なのです。それでも、私は実言のところに行きたいの。先ほどもお話した通り、実言は傷ついています。ほっておけば死んでしまう。助けたいの。私にしかできないことと思うから、どうか去様、私を行かせてください」
「実言殿がなぜ傷ついているとわかるの?」
「それは……」
「確かに、お前は、人よりも目や耳がいいのでしょう。だから、実言殿を二度も救うことができたのだと思うわ。でも、今の実言殿は遠い北方の空の下にいるのです。お前が勝手に思い込んでいるだけではないの」
礼は何も言い返せず、ぐっと口を噤んでいる。
「それに、双子はどうするの?あの子たちを置いてお前は実言殿のところに行くというのですか。あの子たちはまだ小さな赤子ですよ。お前なしで生きていけると思うのですか。実言殿はお前にくれぐれも子供のことを頼むと言い置いて行かれたでしょう。お前は、実言殿の言いつけを守るべきなのですよ」
礼は返す言葉がなく、下を向いた。子供は去に見て欲しいというのは、虫のいいお願いなのだ。こんな強硬な去に、子供を託して、私は実言の元に行きたいと言える状況ではない。
「確かに、実言殿のことは心配でしょう。この一年、何の消息もないままですものね。お前が気に病むのもわかるわ。しかし、お前が行って、その道中でもしものことがあったらどうするのですか。お前はそれでもいいの?お前は、実言殿にも子供達にも会えないのですよ。冷静に考えてごらんなさい。一番の得策はここで子供とともに待つことよ。必ず実言殿は帰ってきてくれるわ」
道中でもしものことがあったら、と去が礼に問うた。礼は何も言わない。耳丸も同じことを訊いて、礼は、それも覚悟の上だと言ったが、去にはそれは言えなかった。言ってしまったら、今以上に叱られて、否定されてしまう。
去は、うなだれる礼から目を離し、耳丸を見た。
「耳丸。私の答えは、実言殿の所に行くなんて、とんでもないことです。許すことはなりません。礼の思いを真っ向から否定できないからと言って、私に矛先を向けさせてもだめよ。お前がその道中の難しいことを一番わかっているだろうに。礼を諭してくれなくては困ります」
去は、厳しい声音で耳丸に言った。そして、膝で進んで礼に近づき、その手を取った。
「礼。お前にもう一度言うよ。実言殿は私に、ご自身が帰ってくるまでお前と子供を頼むと言い置いて行かれたわ。私は実言殿の期待を裏切ることはできない。それにここで実言殿を待つのは、お前にとって一番いいことだと思う。だから、お前はここで待っておいで」
礼は握られた手を揺さぶられて、去に諭される。礼は、明確に返事をせず、それまで堪えていた涙が右目から一筋こぼれた。
「もう、子供のところへ行っておやり。乳母がいるからといって、子供は母親を求めているものよ。それが二人もいるのだから、お前はどこかに行っている場合じゃないわ」
とどめのように言われて、礼は袖で涙をぬぐった。
去は縫を見て、目で合図する。
「礼様、お部屋に戻りましょう。さあ」
礼は縫に支えられてふらつく体を立ち上がらせて、子供部屋へと連れられて行く。自分の足で歩いているが、もう縫の支えがなくてはその場に倒れてしまうような心許ない姿だ。耳丸も一緒に退出して、礼の後を歩いた。
礼は離れの部屋に入る前に、もう一度涙をぬぐい、深く息を吸って吐いた。部屋の中では、乳母に遊びの相手をしてもらっていた双子が目を上げて母親を見た。礼は二人の前に座ると、二人が競うように這ってきて、礼の膝の上にいち早く登ろうとする。礼は一人ずつ膝の上に上げて、そして抱きしめた。柔らかく温かで愛おしい大切な子を。
礼にとっては実言も子供たちも誰も大切で失いたくない人なのだ。優劣などない。だから、自分が助けられる者から助けたい。自分が犠牲になることに、何の斟酌もない。誰かを悲しませるかもしれないが、礼は後悔しない。
耳丸は簀子縁から部屋の様子を伺った。礼の後ろ姿が見える。二人の子供を両手に抱いている姿。子供たちは母親の抱擁に泣き声のような笑い声のような声をあげている。礼にはやはりこの子供たちを置いてはいけないだろう。
耳丸はそう見届けて、その場を去った。
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