Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第二十三話

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 日々は淡々と過ぎて行き、すぐに一月の終わりを迎える。出征の前日、実言はみんなで夕餉を食べることにした。礼はいつもより豪華な食材を取り寄せるように言って、膳にはアワビや川魚などのご馳走が載った。忠道や耳丸、縫に澪たち従者、侍女が同じ膳を囲んで談笑しながら食事をした。
「遠慮はいらない。大いに飲んでくれ」
 実言は言って、皆に用意した酒をふるまい、飲ませた。
 すでに縫と耳丸は礼と一緒に束蕗原に行き、澪と忠道はこの屋敷に残ることが実言から告げられている。皆、明日からの自分の生活に思いをはせて、この無礼講の一夜を楽しんだ。
 宴の終わりに、実言はみなを見回して言った。
「私は戦場に行くが、また皆とここに集える日が来ることを誓う」
 実言の決意を皆が真剣に聞いた。そして実言の言葉を信じるのだった。いつか、またこの離れで実言と礼の子を加えて皆が集い、今の華やかな暮らしが続くことを。
「礼、お前は部屋に戻っておいで。私は父上や兄たちと少し話があるから」
 宴が終わると実言は礼に囁いて、礼を寝所まで連れて行くと、母屋の渡り廊下を渡っていった。
 礼は寝所に入ると褥の上に座って、薬草について記されたものを読もうとした。
 明日の朝には、実言は都を出発して、北方に旅立ってしまう。礼の心は落ち着かず、いくら静めようとしてもいうことをきかない。この度の戦は、最悪のことを覚悟しなければいけない。それは、実言の死である。北方の戦に行った指揮官は誰も生きて帰って来ない。こんなことを侍女たちが話しているのを聞いた。死、しかない戦に、春日王子が実言を推薦したとなれば、あの夜のことが無関係とは思えない。実言をどれだけ追求しても、はっきりとしたことを言わないが、礼は、感じ取っていた。
 私の代わりに実言は自分を差し出したのだ。自分の命を。
 礼は開いた本の次の一枚を繰ることもできずに、肘掛により掛かった。
「どうした。苦しいなら、横になろう」
 母屋から戻って来た実言が音もなく、几帳の陰から現れた。礼は体を起こしかけたが、実言はすぐに礼の傍で寝転がった。
「お前の楽な姿でいればいいのだ。私にとっては今のお前が一番大切なのだからね。もう夜も更けた。寝ようか」
 礼は枕に頭をつけて、横になった。実言は寝転がって、腕を立ててその上に頭を乗せて礼を見ている。
「苦しくないか?」
 礼は小さく首を振った。
「ふふふ。礼は、良からぬこと考えているのだろう。お前は、すぐに自分のせいにして、自分を責めるからな」
 実言は頭を支えている反対の手で、礼の黒髪を撫でた。
「礼が何をしたというのだろう」
「春日王子のことよ。あなたは、私の代わりに……」
「礼は、後悔しているのか?」
 実言は礼の言葉を遮るように言った。
 礼は、実言のいう後悔とは何に対してなのかわからず、首をかしげる。
「お前は、勝手に春日王子とのあの夜のことで自分を責めているのだろう。自分が王子のいうことを聞いていれば、私が戦に行くことはなかったとでも。しかし、それは私が許さないよ。お前が王子の手に落ちたことを考えると、気が狂わんばかりの気持ちだ。あの夜のお前の行動を、私は良かったと思っている。私たちは今こうして一緒にいられるのだから」
「でも、生きて帰ることはないと言われている北方の戦に、あなたは行くことになった」
「礼まで、私は戦場で死ぬというのか。確かに、宮廷で会う人はみな、私を死霊にとりつかれた者を見るような目で見ているが。私は、みなにそう見られてもかまわないが、礼にだけは私は生きて帰ると信じていてほしいと思っているのに」
「私は、そう信じています。あなたが必ず帰ってくると信じているわ。ひどいことを言わないで」
「あはは。すまない、すまない。私はお前と腹の中の子が私を生きて帰ると信じて待っていてくれていればいいのだ」
 実言はおどけた表情で言ったが、最後は真顔になった。
「必ずや、その子と対面する。だから、みなが私は死ぬと思っていても、お前だけは私が帰ってくることを信じていて欲しい」
 そして、最後はまた目を細めた笑い顔になった。
「信じているわ。やめて。恐ろしいことをいうのは」
 礼は、恐ろしいことから逃げるように隣で横になっている実言の胸に寄り添った。
「礼、お前は自分を責めるのはおやめ。あの夜のことや、王子の元に行かなければ良かった、と思うこと。その前の詠妃の元に行ったことや、もっというと、碧のところに行かなければ良かったとかね。お前のことだから、薬草の心得が少しばかりあったために、碧のもとに行くことになったことを悔やんだりするのだろう。そんなことを考えたら、束蕗原で去様に教えていただいことを後悔し、束蕗原に行ったことを悔やむことになるのではないか。私が束蕗原に行けと言ったことを恨んで、そもそも私の許婚になったことを許せなくなったりするのではないだろうか」
 礼は、激しく首を横に振った。
「今はそんなことは思わないか?私と一緒になったことを後悔しているなんて」
 礼の中に、そんな気持ちはない。礼は、右目で実言を見つめた。
「礼。私は何一つ後悔していないのだ。お前が許してくるなら、お前の左目を失わせたことも、私がお前を得るために必要だったとさえ思えるのだ。あの時のことがなければ、私は瀬矢様の思いを深く考えることはなかった。お前を束蕗原に隠したことも、岩城の家を助けてくれている。全てが、私とお前を結びつけて、私に幸運をもたらしてくれた」
 実言は礼の髪を一房手に取って、愛おしそうに何度も撫でた。
「だから、この戦に行くこともきっと私とお前にとっては試練ではあるがそれは乗り越えられることなのだ」
 今度は実言が隣に横になっている礼の右目を覗き込んだ。
「でも、今までにどの将軍も副官さえも生きて戻っていないと聞いているわ。運が良ければその髪の一房でも持って帰ってもらえるくらいだと」
 実言は礼の頬を人差し指の腹でちょちょっとくすぐるように触った。
「私は簡単に死のうなんて思っていない。必ずや北方の夷を打ち倒して帰ってくるつもりだ。そんな私だから、お前だけは、私が無事に帰ってくると胸を張って言ってくれると思っているのに、そんな暗いことばかり言うなんて、悲しくなるね」
「実言!」
 実言の意地の悪い言葉に、礼は声を荒げて名を呼んだ。
「ああ、すまない。お前の心配してくれる不安な気持ちの言葉尻を捉えて意地の悪いことばかり言ってしまった。単なる言葉遊びだ。お前の心はわかっているよ。お前は私が帰ってくることを誰よりも信じて祈ってくれている。私はそれに応えるだけだ」
 実言は礼を自分の胸の中に引き寄せて、強く抱いた。
「私は嬉しいのだ。この役目を受けられるのも、お前がいてくれるからなのだ。そして、お前が私の帰りを待ってくれているから、私は心の平静を保っていられるのだ。わかっておくれ、お前を一人にしてしまうけど、待っていておくれ」
 礼は実言の胸にしがみついて何度も頷いた。
 疑いのない事実に成るまで、礼は祈り続けるのだ。実言が自分の元に帰ってくることを。
「礼。私の戦の道中を聞いておくれ。私がどんなところに行くかお前にだけは話しておこう。私がどんなところを馬に乗って進んでいくか、思い出して私のことを祈っておくれ」
 実言はゆっくりと話し始めた。
 私は都から、将軍である河原様と共に馬に乗って五千の軍勢を引き連れて、北を目指すのだ。都から伊南川柵という砦のある場所まで行く。そこまで二月ほどかかる見込みだ。大王の力は、その柵までは行き届いているのだが、そこから先は流動的に大王と土地の豪族の両勢力に支配されているのだ。今は大王に従っているが、いつ、夷と結託して反旗を翻すかわからない。まず私は、伊南川柵以北の支配する豪族と話し合い、我らを支配下に置く役目があるのだ。そして、そこには前からいる三千の隊と合流し、前線である若田城に進むのだ。猪名川柵から若田城までは一月ほどかかり、一旦若田城に入って、対する夷との平和的な解決のための交渉をする。交渉がうまくいかないなら、そこからは戦だよ。若田城からほどなく行ったところに沢崩というところがあり、そこを中心に五年もの間我々大王の軍勢と夷は戦っているのだよ。若田城は、冬は雪深く夏は暑いところだ。夷は地の利を最大限に利用して戦を仕掛けてきて大王軍は長く負けているのが現状だ。
 しかし、私は負けはしない。これまでの敗因を調べて、何をしなければならないか考えを巡らせ、作戦を立て、勇敢に戦い必ず勝利する。お前は私を待っていてくれればいいのだ。すぐに帰ってくるとは言えないが、必ずや帰ってくる
「私が若田城に着いた頃には、お前は子を産んでいるかな?」
 実言は、胸に抱いた礼の顔を覗き込んで言った。実言は急に礼を抱いた腕を緩めて、体を起こして座った。横で寝ていた礼を横抱きに抱えて自分のあぐらをかいた足の上にあげて抱いた。
「ああ、少し重くなった。少し前のお前はとても軽かったから、心配していたのだ」
「まあ、そんなこと言わないで」
「いいじゃないか。私はお前と腹の中の我が子を抱いているのだ。生まれてきてもしばらくは抱いてやれないから、今お前と一緒に抱いてやるのだ」
 実言はそう言って、礼の上半身を自分の胸に引き寄せてきつく抱いた。
「苦しくないか」
 きつく抱きしめたまま、実言は訊いた。礼は何も言わず、実言の単の襟を掴んで、単の胸の上に頬をつけた。実言の鼓動が聞こえてくる。
「夜明けまで、横になっていよう。お前を休ませなくてはいけないからね」
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