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第六章

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 誰かが私の手を取ってくれた?
 寒くて手足の感覚ないから、よくわからない。
 蓮……って呼んでくれている?
 私を知っている人かしら……。
 ……諦めるな。……諦めるなよ、蓮……。
 ……はい……諦めない……諦めないわ……
 蓮は誰かに体を受け止められたような気がしたが、意識は遠くなっていった。
 どれくらい時間が経ったのか、蓮は誰かに話し掛けられていると気づいた。
 誰だろう……涙声……目覚めてって言っている。目を覚ましたい……私も目を覚ましたい。目を覚ましたいの……。
 蓮は自分を呼ぶ人の声に応えたいと思う。しかし、体は冷たく、重くて目を開けることができない。
 目を開けなくては……そう思うけど、目を開けられず、逆に気が遠くなった。
 蓮……蓮……
 また私を呼んでいる人がいる。
 あなたは小さな頃から文字を書くのが大好きだった。筆を持って、書き損じた紙に見よう見まねで筆を動かして文字を書いていたわね。最初は子供の落書きと思っていたけど、日に日に文字はうまく、美しくなっていったわね。あなたが写した本はみんなに喜ばれて、たくさんの本を写してくれるようにお願いしたわ。私もあなたの写本でたくさんの知識を得たわ。あなたはみんなに必要とされている人なの。だから、目覚めて、あなたはこれからも人のために尽くさなければならないのよ!
 私のことを……褒めてくれているのね……
 私の写本は読みやすくてよい……去様にもお母さまにも……そして伊緒理にも……そう言ってもらえた。
 写本は嫌いではないからもっともっとやりたいの。みんなに喜ばれるから、なおさら。
 目を覚まさなくちゃ。
 私は寝ていてはだめ。起きなくちゃ。起きなくちゃ……。
 蓮は意識の中であがいた。
 しかし、体は冷たく、重く、手も足も瞼さえも動かすことができなかった。
 次に蓮が意識を取り戻した時は女二人が話している声が聞こえて来た。
「はい……。蓮……重湯を少し食べようね」
「あら、重湯を食べている。今まではそんなに食べてくれなかったのよ」
「そうなのですか。蓮、食べられるようになったのね……あなたはよくなっているのよ」
 とても懐かしい声。とても聞きたかった声……。
 起き上がって、その声と話をしたい。
 だけど、まだ、まだ体が動かない……。
 蓮は手や足に力を入れたが、動かすことができなかった。
「……蓮……目覚めるの?」
「どうしたんだい?」
「なんだか、蓮が目覚めそうなのです」
「……そうかい。いつ目覚めてもいいのにね……」
 それは湖の水の中で、自分は底に近いところで揺蕩っている。水の中だと苦しいはずなのに、苦しくない。それはそのような苦しみを感じないところにいるからかしら……。
 蓮は思った。
 いや、だめよ……。苦しくないからと言ってここにいてはいけない。痛みや苦しみがあっても、あの頭上の明るいところへ向かわないと。このまま、水の底に留まっていてはいけない。
 蓮はそこではっきりと自分が何をしなければいけないかがわかった。
 この水の中から出るのよ、浮かび上がって息を吸わなくちゃ!それがどんな痛みを伴っても。
 蓮は手をかいて上へと浮上し始めた。
 水面近くになると、上から手を引っ張ってくれているような気がした。
 誰かが、助けてくれている。
 私が水から上がることは正しいことなのよ。
 もう少しで指先が水面から出ると思ったところで、体が止まった。なぜ、と思ったら足に水草が絡まって、それ以上は行けなくなっていた。
「蓮!」
 名前を呼ばれた。蓮ははっきりとその声の人が誰かわかった。
 その声に呼ばれたら、行かなくてはいかない。大切な人が呼んでいる。
 蓮は足を上げてまとわりつく水草を引きちぎり、自由になった体を一気に浮上させた。

「蓮!」
 名前を呼んでいる人は誰か……。
 蓮は予想が当たっているか確かめるために目を開けた。
 しかし、眩しくて、半分も開けられない。それに、頭が割れそうに痛い。
 痛みを我慢して、目に見えたのは、顔の左側を布で隠した女人だった。
 その顔から蓮の顔にぽたぽたと温かいものが落ちてくる。
「蓮!目覚めてくれたのね」
「……お……おか……さま……」
 蓮は自分の名を呼んでくれていた人に自分も呼びかけた。
「蓮……よかった……よかった」
 母である礼が自分の両頬に手を置いて、ぐいぐいと押してくる。母は顔を蓮の胸に突っ伏してむせび泣いている。
「蓮、よかった」
 次に目に映ったのは、去だった。
「さ……り……さま」
 去は蓮の額に手を置き、その手を後ろに動かして何度も蓮の頭を撫ぜた。
 どうして二人がそろっているのだろう……
 蓮はすぐに自分の今の状況を把握できなかった。しばらくして、束蕗原に雨が降り続き、川が氾濫したことを思い出した。村人たちが館のある丘に逃げて来て……裏道から逃げてくる人がいないかを見に行って……。
 その時のことを思い出そうと思うが、うまく思い出せない。
 ……束蕗原が水に浸かって大きな川の下になってしまった。その流れを見ていたら、水の中に落ちてしまったんだ。
 なんてへまなことをしたのかしら……。
「蓮……よかった。本当に、よかった」
 母が泣きながら私が目覚めたことを喜んでくれている。
 お母さまを泣かせるなんて、悪いことをした。
 蓮は母に近い右手を上げようとした。
うまく声が出せないから、この申し訳ない気持ちを伝えるために体を触りたかったが、手は上がらない。
「蓮……どうしたの?手がどうしたの?痛いの?」
 手首を上げようとする蓮の手を両手で握って、母の礼は言った。
「かあ……さま……」
 礼の右目から大粒の涙が落ちている。
「なあに、蓮。無理しなくていいのよ。目覚めてくれただけで嬉しいの」
 母は娘に頬を寄せて、反対側の頬を撫で続けた。
「蓮が目を覚ましたって!蓮!蓮!」
 急に男の声が近づいて来た。
 母屋につながる簀子縁をこちらに向かって走って来る足音。その人が蓮の名を連呼している。
 この人も束蕗原にいるなんて……。
 足音と声が部屋に入って来ると母の礼は起き上がった。その後ろからひょっこりと顔がのぞいた。
「……み……」
 蓮はその顔を見て思わず声が出た。
 礼の隣に座って。
「本当だ。曜が教えに来てくれて、飛んできたよ。よく目覚めてくれたね」
 蓮の右手を握って、実津瀬は言った。
「蓮……水を飲むかい?体を起こしてあげよう」
 実津瀬は足元を回って、反対側に行き、蓮の背中に腕を入れて抱き起こしてくれた。胸で蓮の背中を支えて、礼が匙で掬った水を口の中に入れた。
 蓮の下唇にのった匙は少し傾けられ、水が口の中へ喉の奥へと入っていった。
 それを三度繰り返した時に、蓮は自分を後ろから支えてくれている実津瀬を振り向こうとした。しかし、首を少し動かすだけでそれ以上は後ろを向けなかった。
「ん?蓮……どうして私が束蕗原にいるのかって。聞きたいの?それはね……」
 やっぱり実津瀬は私の心が読めるのね!と蓮は思った。
 蓮は何度も頷いた、つもりだったが、実際には少し顔が上下に動いただけだった。
「束蕗原からの使者が五条に着いたのは、子刻をまわった頃だった。離れの私たちの部屋の前で私を呼ぶ声がする。何事だろうと起きて行くと、父上に仕えている者が母屋に来てほしいと言ったんだ。何事かと、後ろをついて話を聞くと、束蕗原が洪水に遭い、蓮は溢れかえった水の中に落ちてしまって行方不明だと言う。私は驚いて、夜が明けたら束蕗原に行かなければと思ったよ。そして、父上母上の部屋に着いたら、父上が母上を羽交い絞めにしていたんだ。これにも驚いたよ。父上が、おい、実津瀬、お母さまの体を押さえろ、と。今から馬で束蕗原に向かって出発しようとしているんだ、と言ったんだ。父上の力でも押さえられないほど、強い力でお母さまは抵抗して、すぐにでも蓮を探しに束蕗原に行こうとしたんだよ。それが判って、私もお母さまの手を取って、夜明けまで待ちましょうと説得したんだ。こんな真っ暗闇の中、洪水のあった道を進むのは危険です。夜が明けたら私も一緒に行きます、と言って。それで。お母さまは夜明けまで待つと言ってくれたけど、蓮のことが心配だ、心配だと言って、泣かれてね。父上が抱いて慰めておられた。束蕗原に着いたら、蓮が見つかったと聞いてひとまず安心したよ。それから、熱にうなされる蓮をずっとお母さまはこの部屋で看ていたんだ。私たちが束蕗原に来てから、今日で三日が経った。いつ目を覚ますだろうと待っていたんだ。目が覚めてよかった。私は今日、都に一旦帰らなければならなくて、準備をしていたところだったんだ。蓮が目覚めたと聞かされて、飛んできたというわけさ。よかったよ。父上に良い知らせを持って帰られる。父上は父上で心配していたし、榧も宗清も珊も、みんなが蓮の無事を祈っていたんだよ」
 蓮は実津瀬の話を聞いていたら、いつの間にか涙を流していた。
「お前が泣くことはないんだ」
 蓮の涙に気づいた実津瀬はそう言って、手で頬を拭ってくれたが、実津瀬の声も濡れているように聞こえた。
 目の前の母はさっきからよかったよかったと言って泣いている。母の隣に座った去も声もなく泣いている。
 部屋にいる者は皆、うれし涙を流した。
 実津瀬は蓮の手を離すのを惜しんだが、母の礼に「お父さまに蓮が見つかり、回復に向かっている」と伝えてと言われて、渋々立ち上がった。
「蓮、また近いうちに来るからね。その時は、もっと元気な姿でいておくれ」
 蓮は右手を上げたつもりだったが、実際は指が少し動いただけだった。
 実津瀬は蓮に笑顔を見せて、都へと帰って行った。
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