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第五章
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月の宴の前日。
宴で舞うことが決まってから、あっという間に八月になった気がする。
実津瀬は、感慨深く前日の夜を過ごしていた。
昼間は宴の会場である大王の離宮、翔丘殿の舞台で雅楽寮の関係者たちと最後の確認をして邸に戻って来た。夜は離れの庭の篝火の中で舞のおさらいをした。
ここ数日は、夜になると離れの庭に篝火を用意し、その中で月の宴さながらに自分の舞を練習するのが日課になっていた。そして、舞った後は、夏の夜の蒸し暑さで、流れ落ちる汗を拭いて、清潔な服に着替える。その手伝いを妻の芹がしてくれた。
いつ終わるとも決めていない、庭での舞の練習に芹を付き合わせられないと思って先に休むように言ったが、いつの間にか階の上に座っていて、実津瀬が気の済むまで舞うのを見守っていた。
今も、実津瀬が舞い終わるのを階の上に座って待っていた。
実津瀬はもうこれで十分だ、という気持ちになったところで、階へと向かった。
芹は侍女の編や槻に、井戸から汲み上げた水を入れた盥を三つと、水に浸けて絞った白布をいくつか用意してもらった。準備が整うと、編と槻は下がって行った。庇の間まで上がって来た実津瀬は裸になり、芹は流れる汗を拭いた。左手の指四本がないために白布を盥に浸けた後、絞れないときは実津瀬が芹の手を取って一緒に絞った。
芹は改めてこの二人の時間が好きだと思った。結婚した時から変わらない実津瀬の優しさに包まれるのを感じるのだった。
できることをする。できないことは手伝ってもらってやればいいといって、助けてくれる実津瀬。
頑なに一人で生きることを選ぼうとしていた自分に、実津瀬は一緒になろうと言ってくれた。独りぼっちで生きることは自分の本心ではなかったが、幸せになってはいけないと思っていた。実津瀬の言葉に素直になれて本当に良かった。
芹は汗を拭った実津瀬に着替えの袴と上着を身につけさせると、次に夕餉の準備をした。
「今日はお母さまがいろいろと献立を考えてくださったのよ」
たくさんの皿に様々な料理が載っていて、ちょっとした祝いのような膳だ。
母の礼が明日のために、息子に精気をつけさせいようと食材を取り寄せて料理させたのだった。
月の宴の舞は、岩城実津瀬と雅楽寮に所属する舞手の朱鷺世の二人が見せ場の一人舞いで対決し、大王がその優劣を決めることが発表されると、すぐに都の話題になった。実津瀬は勤める中務省の上司、同僚たちからたくさんの応援をもらった。岩城本家からも、稲生や鷹野に励ましや期待の言葉をもらった。
桂が言ったように、自分の舞に打ち込める時間が取れたのは大きな喜びだったが、ともすれば孤独に陥った。一人、答えのないものを追い求めることが苦しくて、やめてしまいたいと思う時があった。しかし、多くの人から宴の舞へ期待の言葉を掛けられると、再びやってやろうという闘志が湧いてきた。
しかし、孤独に陥ったと言っても、一人、その檻にはまったわけではなかった。今、隣でこまごまと世話をしてくれている芹が心の支えだった。
梅雨の時期。
曇天の今にも雨粒が落ちて来そうな空の下、実津瀬は自分一人の舞を練習するため庭に下りた。
先ほどまで宮廷の稽古場で朱鷺世と二人で舞っていた。
実津瀬の代役で去年の月の宴の舞台で舞って、桂姫に認められた男は、それでも実津瀬と比べると力の差は歴然であったはずが、今さっき並んで舞ってみると、先を行かれているような気になった。
朱鷺世は雅楽寮に所属する舞手である。舞を舞うのが仕事であるから、練習の時間はたくさんある。そして、趣味で舞っている男に負けるわけにはいかない。雅楽寮の威信にかけて、長官である麻奈見が朱鷺世を育てている。若く伸び盛りの男はぐんと技術を吸収していた。
実津瀬の心には焦りが生まれた。懼れていたことが現実になっているのだ。
自分の舞に絶対的自信を持っていたわけでも、胡坐をかいていたわけでもない。朱鷺世の成長が著しいのだ。
自分の一人舞を日々試行錯誤している中、ふと、自分のやっていることがとんでもなく間違った方向へと向かっているのではないか、と不安になった。長官である麻奈見は父実言の友人であり、実津瀬の師匠だから相談すればいつでも快く相談に乗ってくれるはずだが、今は朱鷺世の指導者でもある。中立の立場を守るだろうが、実津瀬は簡単に自分の舞について相談する気になれなかった。
どんな舞が人々の目に新鮮に映るのだろうか。大王や桂姫に認められる舞はどんなものだろうか。
考えれば考えるほど、悩みは深くなっていく。
昨日まで自分が考えていた舞に疑いを持ち、だからと言って一から考え始めてもまとまりを得ない。
実津瀬の心を写したかのような曇天の下、何か新しい発想が浮かばないかと、それまでに舞って来た型を一心不乱に舞っていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。しかし、実津瀬はその雨に打たれることも気にならず、舞い続けていた。
「実津瀬!」
自分の名を呼ぶ悲鳴で我に返った。
声の方に顔を向けると、簀子縁に芹が立っていた。すぐに階を駆け下りて来て、実津瀬の前まで来て、止まることなくその胴に抱きついた。
「こんなに雨に濡れて。風邪でも引いたら大変よ」
体から湯気を出している実津瀬に芹は言った。
「部屋の中に入りましょう」
手を引かれて階を上がっている時に、実津瀬は我に返った。
「早く来ているものを脱いで。日中は温かいといっても、雨に打たれれば体が冷えるわ」
芹が実津瀬の着ている上着の胸の前の結び目を解いて、胸をはだけさせた。
「今、槻にお湯を持って来るように言いました」
白布を持った芹が実津瀬の胸に手を置いた。
自分の額から雨水が顔に伝わって来て、実津瀬は自分の顔を拭った。芹も白布を実津瀬の顔を当てた。芹の心配した顔を見て申し訳ない気持ちになって実津瀬は抱き寄せた。
「実津瀬……」
芹も実津瀬を抱き返した。
濡れた服を脱いだ実津瀬は芹に体を拭いてもらったが、途中で芹の体が震えているのに気づいて、奥の部屋の寝室に上がって、芹の服を脱がせて抱いた。
「……お湯より、風呂に入ろう。芹の体も冷えているじゃないか」
実津瀬は侍女の編に言って、風呂の用意をさせた。
「寒いか?」
そう訊ねられて顔を左右に振ったが、震えは止まらない。
「裸で抱き合えば寒くない」
実津瀬は芹の肌着も脱がせた。実津瀬に抱かれた芹は実津瀬の体は思ったほどに冷たくなく、むしろ熱いと思った。
「不思議ね。あなたが雨に濡れたのに、私の方が寒がっている」
実津瀬は声なく笑って、芹を抱き直した。
「芹が来てくれて私は我に返ったのだよ。そうでなければ、あのまま雨に打たれて風邪を引いていたかもしれない。助かった」
風呂の準備ができたと呼びに来るまで、二人は抱き合ってお互いを温め合った。
「実津瀬様、芹様、お風呂の用意ができました」
槻が簀子縁から声を掛けた。
実津瀬に助けられて、芹は立ち上がり、二人は風呂場に行った。
束蕗原の温泉を知っているから、蒸気に当たるより、お湯に浸かる方が好きな実津瀬の好みをわかっていて、大きな盥の中にお湯がはられて、その中に二人は浸かった。
芹は顔を上げて実津瀬と視線を合わせた。
「雨に打たれていることが気にならないほど、あなたは月の宴の舞を考えていたのですか」
「……そうだ。……今更ながら、私は大それたことをしようとしているのではないかと思ってね……。うまく舞えなくて……途方に暮れていたのだ」
「……そんな時は体を温めて、温かい食事を摂って、ぐっすり眠りましょう。そうしたら、力が湧いてくるはずです。あなたにしか舞えないものが見えてくるはずです」
体が温まったら実津瀬の背中を流して、二人は風呂から上がって、食事を摂った。
魚を煮た汁が温かくて、二人の体をより温めた。
「お酒も召し上がって。少しならいいでしょう」
酒は嫌いではないし、芹の言う通り少しであれば明日に支障をきたすことはないだろうと、実津瀬は杯を持ち上げた。
杯を二回飲み干したら、実津瀬は横になりたくて、芹の手を引いて奥の寝室へと向かい、褥に上がった。
宴で舞うことが決まってから、あっという間に八月になった気がする。
実津瀬は、感慨深く前日の夜を過ごしていた。
昼間は宴の会場である大王の離宮、翔丘殿の舞台で雅楽寮の関係者たちと最後の確認をして邸に戻って来た。夜は離れの庭の篝火の中で舞のおさらいをした。
ここ数日は、夜になると離れの庭に篝火を用意し、その中で月の宴さながらに自分の舞を練習するのが日課になっていた。そして、舞った後は、夏の夜の蒸し暑さで、流れ落ちる汗を拭いて、清潔な服に着替える。その手伝いを妻の芹がしてくれた。
いつ終わるとも決めていない、庭での舞の練習に芹を付き合わせられないと思って先に休むように言ったが、いつの間にか階の上に座っていて、実津瀬が気の済むまで舞うのを見守っていた。
今も、実津瀬が舞い終わるのを階の上に座って待っていた。
実津瀬はもうこれで十分だ、という気持ちになったところで、階へと向かった。
芹は侍女の編や槻に、井戸から汲み上げた水を入れた盥を三つと、水に浸けて絞った白布をいくつか用意してもらった。準備が整うと、編と槻は下がって行った。庇の間まで上がって来た実津瀬は裸になり、芹は流れる汗を拭いた。左手の指四本がないために白布を盥に浸けた後、絞れないときは実津瀬が芹の手を取って一緒に絞った。
芹は改めてこの二人の時間が好きだと思った。結婚した時から変わらない実津瀬の優しさに包まれるのを感じるのだった。
できることをする。できないことは手伝ってもらってやればいいといって、助けてくれる実津瀬。
頑なに一人で生きることを選ぼうとしていた自分に、実津瀬は一緒になろうと言ってくれた。独りぼっちで生きることは自分の本心ではなかったが、幸せになってはいけないと思っていた。実津瀬の言葉に素直になれて本当に良かった。
芹は汗を拭った実津瀬に着替えの袴と上着を身につけさせると、次に夕餉の準備をした。
「今日はお母さまがいろいろと献立を考えてくださったのよ」
たくさんの皿に様々な料理が載っていて、ちょっとした祝いのような膳だ。
母の礼が明日のために、息子に精気をつけさせいようと食材を取り寄せて料理させたのだった。
月の宴の舞は、岩城実津瀬と雅楽寮に所属する舞手の朱鷺世の二人が見せ場の一人舞いで対決し、大王がその優劣を決めることが発表されると、すぐに都の話題になった。実津瀬は勤める中務省の上司、同僚たちからたくさんの応援をもらった。岩城本家からも、稲生や鷹野に励ましや期待の言葉をもらった。
桂が言ったように、自分の舞に打ち込める時間が取れたのは大きな喜びだったが、ともすれば孤独に陥った。一人、答えのないものを追い求めることが苦しくて、やめてしまいたいと思う時があった。しかし、多くの人から宴の舞へ期待の言葉を掛けられると、再びやってやろうという闘志が湧いてきた。
しかし、孤独に陥ったと言っても、一人、その檻にはまったわけではなかった。今、隣でこまごまと世話をしてくれている芹が心の支えだった。
梅雨の時期。
曇天の今にも雨粒が落ちて来そうな空の下、実津瀬は自分一人の舞を練習するため庭に下りた。
先ほどまで宮廷の稽古場で朱鷺世と二人で舞っていた。
実津瀬の代役で去年の月の宴の舞台で舞って、桂姫に認められた男は、それでも実津瀬と比べると力の差は歴然であったはずが、今さっき並んで舞ってみると、先を行かれているような気になった。
朱鷺世は雅楽寮に所属する舞手である。舞を舞うのが仕事であるから、練習の時間はたくさんある。そして、趣味で舞っている男に負けるわけにはいかない。雅楽寮の威信にかけて、長官である麻奈見が朱鷺世を育てている。若く伸び盛りの男はぐんと技術を吸収していた。
実津瀬の心には焦りが生まれた。懼れていたことが現実になっているのだ。
自分の舞に絶対的自信を持っていたわけでも、胡坐をかいていたわけでもない。朱鷺世の成長が著しいのだ。
自分の一人舞を日々試行錯誤している中、ふと、自分のやっていることがとんでもなく間違った方向へと向かっているのではないか、と不安になった。長官である麻奈見は父実言の友人であり、実津瀬の師匠だから相談すればいつでも快く相談に乗ってくれるはずだが、今は朱鷺世の指導者でもある。中立の立場を守るだろうが、実津瀬は簡単に自分の舞について相談する気になれなかった。
どんな舞が人々の目に新鮮に映るのだろうか。大王や桂姫に認められる舞はどんなものだろうか。
考えれば考えるほど、悩みは深くなっていく。
昨日まで自分が考えていた舞に疑いを持ち、だからと言って一から考え始めてもまとまりを得ない。
実津瀬の心を写したかのような曇天の下、何か新しい発想が浮かばないかと、それまでに舞って来た型を一心不乱に舞っていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。しかし、実津瀬はその雨に打たれることも気にならず、舞い続けていた。
「実津瀬!」
自分の名を呼ぶ悲鳴で我に返った。
声の方に顔を向けると、簀子縁に芹が立っていた。すぐに階を駆け下りて来て、実津瀬の前まで来て、止まることなくその胴に抱きついた。
「こんなに雨に濡れて。風邪でも引いたら大変よ」
体から湯気を出している実津瀬に芹は言った。
「部屋の中に入りましょう」
手を引かれて階を上がっている時に、実津瀬は我に返った。
「早く来ているものを脱いで。日中は温かいといっても、雨に打たれれば体が冷えるわ」
芹が実津瀬の着ている上着の胸の前の結び目を解いて、胸をはだけさせた。
「今、槻にお湯を持って来るように言いました」
白布を持った芹が実津瀬の胸に手を置いた。
自分の額から雨水が顔に伝わって来て、実津瀬は自分の顔を拭った。芹も白布を実津瀬の顔を当てた。芹の心配した顔を見て申し訳ない気持ちになって実津瀬は抱き寄せた。
「実津瀬……」
芹も実津瀬を抱き返した。
濡れた服を脱いだ実津瀬は芹に体を拭いてもらったが、途中で芹の体が震えているのに気づいて、奥の部屋の寝室に上がって、芹の服を脱がせて抱いた。
「……お湯より、風呂に入ろう。芹の体も冷えているじゃないか」
実津瀬は侍女の編に言って、風呂の用意をさせた。
「寒いか?」
そう訊ねられて顔を左右に振ったが、震えは止まらない。
「裸で抱き合えば寒くない」
実津瀬は芹の肌着も脱がせた。実津瀬に抱かれた芹は実津瀬の体は思ったほどに冷たくなく、むしろ熱いと思った。
「不思議ね。あなたが雨に濡れたのに、私の方が寒がっている」
実津瀬は声なく笑って、芹を抱き直した。
「芹が来てくれて私は我に返ったのだよ。そうでなければ、あのまま雨に打たれて風邪を引いていたかもしれない。助かった」
風呂の準備ができたと呼びに来るまで、二人は抱き合ってお互いを温め合った。
「実津瀬様、芹様、お風呂の用意ができました」
槻が簀子縁から声を掛けた。
実津瀬に助けられて、芹は立ち上がり、二人は風呂場に行った。
束蕗原の温泉を知っているから、蒸気に当たるより、お湯に浸かる方が好きな実津瀬の好みをわかっていて、大きな盥の中にお湯がはられて、その中に二人は浸かった。
芹は顔を上げて実津瀬と視線を合わせた。
「雨に打たれていることが気にならないほど、あなたは月の宴の舞を考えていたのですか」
「……そうだ。……今更ながら、私は大それたことをしようとしているのではないかと思ってね……。うまく舞えなくて……途方に暮れていたのだ」
「……そんな時は体を温めて、温かい食事を摂って、ぐっすり眠りましょう。そうしたら、力が湧いてくるはずです。あなたにしか舞えないものが見えてくるはずです」
体が温まったら実津瀬の背中を流して、二人は風呂から上がって、食事を摂った。
魚を煮た汁が温かくて、二人の体をより温めた。
「お酒も召し上がって。少しならいいでしょう」
酒は嫌いではないし、芹の言う通り少しであれば明日に支障をきたすことはないだろうと、実津瀬は杯を持ち上げた。
杯を二回飲み干したら、実津瀬は横になりたくて、芹の手を引いて奥の寝室へと向かい、褥に上がった。
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